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「白崎 思織の揺らぎ」

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放課後を私は自分の部屋に帰るために歩いていると教室の入り口で士友と平坂先生が話しているのが分かった。授業が終わった後の教室で湧き上がる喧騒に阻まれて二人が何を話しているのかよく分からない。だけど口の開き具合からするに会話の主導権を握っているのは士友のようだ。

何を話しているのか分からないが、平坂先生の担当である歴史のことではないことは確かだった。士友は何か知りたいときがあるとまず本で調べる。人に聞くといったことはそれしか手段がない場合以外には選ばない。

だとすると士友が何を話しているのかさっぱり検討に付かない。二人ともにこやかに対話している。士友がそういう作った微笑みを振りまいているのも相手から何かを聞きだしたいからであるのはよく知っていた。

会話の内容を知りたいのなら大胆に会話の輪に入ってしまおう。遠慮なく振る舞うのは私の得意技だった。声をかけようとして、二人に近づいて、しかしその口が広がらない。背中に毛虫でも入れられたかのようで全身に電流が走って身体が思うように動かせなくなる。

そして平坂先生と士友の会話が終わり平坂先生がいなくなる。曲がり角で消えるまで私は金縛りにかかったままでそれどころか息苦しさまで感じるようになっていた。なぜそのように平坂先生に嫌悪感を感じてしまうのだろう。別に何かをされたとか、何かを言われたとかいうような覚えはない。せいぜい私のあどけなさを悪くからかうだけだ。

私のことなのに平坂先生にそのような気持ちを抱いてしまうことに対するきっかけが少しも見出せなかった。きりのない不安が体の底から立ちこめ軽いめまいが私を襲う。まっすぐな廊下がぐにゃりと歪む。それでも視界が閉ざされそうになるのをぎりぎりでこらえて私は正常を取り戻した。

士友はその場で立ちどまり、自分の鞄をあさっている。私はさりげなく士友のところまで近寄ると上目遣いで士友を覗き込む。私のことを無視しているのかと思ってしまったが、どうやら本当に気づいていなかったようだ。

士友と私が眼を合った瞬間に私はにかりと笑った。私の白い歯を士友に思う存分見せ付ける。士友は少し身を引いたが表情に変化は見られなかった。私をあたりを飛び交っている虫のように見えているのか手で私を払うと鞄を肩にかけた。

「士友は先生と何を話していたの?」
「別に……恋愛についてご教授お願いしてもらっていたのさ」
「嘘ばっかり」

嘘をつくのならもう少し分かりにくい嘘をついてもらいたかった。自分がからかわれているというよりも軽くあしらわれているのが少し癪に障る。士友はいつもこのような調子なので私のほうが慣れてしまっているが。

士友は私が嘘を見破ったことが面白かったのか口を閉じたまま息をもらすように笑う。私の中でどうつながったのか放課後にあの場所にいる香矢のことが目の前をよぎった。そして士友の姿にもう一度刺激された。

「士友はそういえば香と付き合っていたじゃない」
「まぁね」

士友に香のことを話の種にすることに一さじほどの後悔が身体に注がれたが士友はそれほど嫌な顔をしていなかったので香りのことを取り消すことはしなかった。寧ろ士友は何か得意げな顔をしている。

香はどこかツンとした態度が距離のある男子たちをデレデレさせていてそれなりに人気があった。だが香矢がいたことと本人の社交性が皆無だったので香の存在はほとんど高嶺の花だった。それを獲得した人間が今私の目の前にいて、本人は鼻を鳴らしている。

だけど私にしてはそれがわざとらしく振舞っているように思えてやっぱりほんの少しの悔恨が私の中でじっくりと意味を持ち始めていた。

「そう。じゃあ聞くけど、どっちから告白してきたの?」
「香からだけどそれがどうかしたのか」

士友は当たり前のように答え、私の中に昔そのようなことを聞いた思い出が蘇ってきた。そういえば士友と香が付き合い始めたときにそれを茶化すように香に同じ質問をしたはずだ。頬ぐらい染めて女の子らしい仕草をすると思っていたのにやけに淡白な反応が返ってきて面食らったのはこっちのほうだった。

香がいなくなって気を落としているのは香矢だけではない。私だっていろいろと心に思うところはある。そして士友は多分計り知れないだろう。それなのに……。今だ行方が知れない香のことをまるで気にしていないような言い方だった。もう士友は香のことを諦めているのだろうか?

考えれば考えるほど士友という人間が分からなくなってきた。

「いや。別に……」

私は髪の毛をかき回してその場の雰囲気を入れ替えようとする。士友はまた何事もなかったのように鞄の中に手を入れている。まだその場を離れたくなかったけど、士友とは何を話そうか思いつかない。

「お前の口からそのようなことを聞くなんて思わなかったよ。昔のことでも思い出しているのか」

鞄の止め具を止めようとしてる士友はこちらを見ないまま聞いてくる。いつの間にか廊下には人間がまばらになっていて、その分士友が接近しているように見えた。私は士友が顔を上げるまで待って首を縦に振る。

「なんというか最近香矢が変わっているからさ。なんか見せ付けられると昔を思い出しちゃうじゃない」
「なんだ?香矢とよりを戻したいのか?」

私は即座に首を横に振る。

「そういうわけではない。私も変わりたいと感化されてきたわけ」

それで士友は納得していた。私は少し目の前にノイズが走ったような感覚に陥っていた。視界に砂嵐が入る。自分で発言したことに動揺していた。

確か前にもこのような決心をしたような気がする。それをしたのは近くない昔のはずだった。だけどそれを思い出すことはできなかった。士友はいつの間にか消えていた。廊下の窓から差し込む錆色の夕日が私の不安をあおっていく。

私も早く帰ろう。七子が待っている。七子のことを考えたときにずきりと胸が痛んで、手でそれを押さえる。
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部屋のベットで寝ていると退屈だけど心が安らぐ。かりかりという七子が鉛筆を動かす音が七子よりも、私よりも雄弁だった。密室されたこの部屋で何もかもが停滞しているような錯覚を覚えていた。

小さくうずくまりながらページを捲る手をそっと止める。手に持っていた「鳩笛草」を読み進める気をなくしてぱたりとそれを閉じる。倦怠感がゆらりと体の中で揺れて眠気がまぶたを重くしていく。

小さい体の奥から際限なくあふれてくる欠伸をそっと手で押さえて身体をベットの上に転がる。このところ身体の疲れが取れない。睡眠時間は十分確保しているはずで、三食きっちり食べているのに立ち上がるとめまいがして、走るとすぐに息切れする。

なんとういか、自分の体力をどこかから掠め取られているようだ。もう一度欠伸をしてぼんやりとにじむ視界を目にしてゆっくりと上体を起こす。顔でも洗ってこよう。眠たいけど今眠ったら夜に眠れないかもしれない。ベットから降りてドアへと進む。

「ねぇ思織」

今までずっと小説を書くのに夢中だと思っていた七子が私に声をかけてきた。机の表面から顔を離していない。射るような鋭い視線は原稿用紙ではなく自分自身を見つめているのかもしれない。

ドアノブに手をつけたまま私は固まる。七子は一瞬だけ私が止まっていたのを確認すると重たい首を持て余すように傾けている。絹糸のように細い七子の髪の毛がふわりと揺れて巻き上がる。

「今日は夜に出かけるの?」

私の返事を少しだけ伺うように高い声を押し止めているような複雑な声で私に聞いてきた。私は考え込む。疲れているのなら早く眠りたい。だけどしばらく天体観測を続けていないのでたまにはストレスのはけ口を見つけたいとも思っていた。

相反する二つの思いが私の中で拮抗する。それは激しくぶつかり合う。だけどほんの少しだけ天体観測をしたいという欲求が強かった。私はそっと目線をそらし、ぎこちない動作で首を縦に振る。

「うん」

七子は何度か頷くと短く息を漏らすように「そう」と呟いてまた鉛筆を動かしている。俊敏に動く鉛筆とそれを掴む七子の指が私と七子を隔てているように感じていた。引き止めてもいいではないかと私は思ったけど私は何も言わなかった。

ーーーーーーー

水場には葵さんがいた。若草色のワンピースを着ている彼女を見るのは初めてだったがそれは彼女の身体によく似合っていた。水場でやることはいろいろと予想付いているが葵さんは水場の淵に手を当ててゆるい呼吸を繰り返しているだけだった。

葵さんはまだ私が後ろにいることに気づいていない。ただ水場で佇んでいるだけなのにその表情や近寄り難い雰囲気が私に彼女が一生懸命というか、一心不乱な様子であるということを伝えていた。私は声をかけづらくなり葵さんの後ろで音もなく立っているしかなかった。

葵さんはため息を何度もつきながら私と出会ったときの姿勢を崩さなかった。だけど鏡に映っている私の姿に気づいたらしく小さく口を開くと振り返った。

「こんにちは。白崎先輩」

水場で物憂げな顔を見せていたときと振り返って私に見せた営業スマイルの差がありすぎだった。私はあえて葵さんが何をしていたのかには言及せず、葵さんの隣で蛇口を捻る。葵さんはまだ違う動作を見せないけど私の方を一度か二度見ていた。

「最近眠れないのか疲れているの」

葵さんはそうなんですかと口をくぐもらせながら苦虫を噛み潰しても無理やり笑っているようだ。

私はそれが葵さんが何を言おうか困っている顔だということを読み取った。そしてそれで私の中で意地悪な気持ちが芽をだす。葵さんのそのような顔をもっと長く見てみたいと思った。

「香矢とは上手くいってる?」

葵さんは思ったとおりの反応を返してくれる。顔が沸騰しているように赤くなり俯き加減になっていた。私のいたずら心はとどまるところを知らずにたにたと笑いながら葵さんのわき腹をつつく。

葵さんは抵抗するそぶりを見せずにぎこちなく蛇口を捻ると手を洗い始めた。水が叩きつけられる音と共に葵さんはさりげなく話し始める。

「今日も私の部屋に来ています。先輩もご一緒にどうですか?」

葵さんは口を手に当てて尋ねる。水気を帯びた葵さんの手とは違って乾いている葵さんの瞳が私を誘っているようだった。その円い瞳に私は一瞬惑わされたような錯覚を受けた。

「まさか。遠慮しとくわ」

私がそういうのを知っているくせに。軽く舌を出して私は子供っぽい仕草をする。子ども扱いされるのは気に入らないけど葵さんの前でならいいだろう。葵さんは蛇口を閉めて濡れた手を拭いていた。

そして形容できないような自然な笑みを私に見せてくれた。葵さんの中心から温かい波紋が広がっていくようだった。

私は葵さんがそのような笑顔を作れるとは思っていなく、不意打ちのそれに私は逆に硬直させている。にこやかで、白い歯は簡素な水場の明かりを反射してまぶしく光っている。その笑顔がとてもまぶしい。

葵さんはそこで適当に挨拶して私の元を離れた。若草色をしているワンピースがなびき、肩が小刻みに揺れている。

いつのまにか拳を握り締めているのに気づいていた。私の行為に一番驚いたのは私だった。握り締めたままの拳を広げることをせずにそれを見つめる。否定したくても歯軋りをしていることにも否定できなかった。

まさか……私葵さんに嫉妬している?いやだ。私何を考えているのだろう。だけど、口では否定しているはずなのにある感情が暴れ周り、むかむかと胸の中がただれていくように感じていた。

薄暗い廊下の真ん中で葵さんと私は離れていく。葵さんはこれからも香矢と出会うのだろうか。香矢と二人でいる葵さんを浮べ、私は頭の片隅が痛くなった。葵さんは私に向かって同じような微笑を香矢にも向けているのだろうか。それが目の前をよぎったとき、私の目の前が真っ暗になった。

「ばかみたい」

私は何に絶望しているのだろう。自分のことなのにその理由が説明できない。行方のない怒りが私の身体をずたずたに引き裂いていく。私はどうして葵さんをうらやましがっているのだろう。

もう香矢との仲は終わっているはずなのに。そう思い続け、葵さんの背中をずっと眺めていた。蛇口から水が流れている音が私を刺激する。私の胸の中は煮えきっていた。それなのに鉄仮面を被っているように顔は表情を動かせなかった。

私は流れる水に頭を入れる。純粋な冷たさに叫びたくなるが私は眼をつぶって耐えていた。まぶたに焼きついた葵さんの笑顔を見続けながら。
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天体望遠鏡を入れた鞄を持って私は屋上で立っていた。何も考えなければ目の前にある事実を認めることをしなくてもいいのではと考えていたけどそれは大きな間違いだった。手から力が抜けて鞄が落ちる。

呆然と立っている私の頭上では何も輝いていない。浮んでいるはずの星も、月も何もかもが私には見えなかった。存在をアピールするように周りの森林は自身を揺らしている。葉と葉がこすれあう音が私の不安をなぞっていく。

私は座るということをせずにずっと立っていた。孤独感に打ちひしがれて脱力していた。孤独感を感じるのは私にとって錯覚であるのだろう。一時でもそのようなことを考えている自分が情けなくなりその場にうずくまる。

体育すわりをして入り口近くの壁に寄りかかっていると胸の中がずきずきと痛んでくる。沈む自分の心を引き上げるように叫びたくなった。だけどそれを行う気力もない。錯覚でもなんでもない。私は今一人ぼっちなのを寂しがっている。

香もいない。香矢もいない。そして香矢は葵さんの所にいるのだろう。香矢の前で私に見せたときと同じような微笑を見せているのだろうか。

無理やり笑う。何度も否定しているのに葵さんと香矢がいつまでも私に付きまとう。でもそれが私の本音なのかもしれない。香矢は変わろうとしている。以前失ったものを取り戻している。でも私は?私には何もない。

もういやだ。私は変わろうとしているのにどうして他人のことを考えてしまうの?

「思織。どうして泣いているの」

見上げると七子が立っていた。まだセーラー服姿の七子は月明かりのない屋上ではっきりと姿を現していた。私は頬を手に当てる。透明な液体が掌でふるふると揺れている。私はそのときに自分が泣いているのを知覚した。

それでも私の中でもやもやとした戸惑いを拭い去ることはできなかった。私が戸惑いを感じているのは私が泣いていることに気づかなかっただけだろう。でも私が泣いている理由が分からない。

「分からないよ」
「何が分からないの」

七子は私を覗き込むような目で私を見つめてくる。子供を慰めている親のようだった。私はそのような優しさを知らない。私の親はそのようなことをしてくれなかった。いつも私のことをほったらかしにしていた。

だから七子のまなざしは私が感じたことのない本の中でしか知ることができなかったことだった。私の苦しみを全て理解してくれる自愛を秘めたその瞳を私に向けてくれた。

だけどその瞳はそれ以上のことを訴えようとしていた。

七子は私をそっと抱きしめる。夏みかんのような匂いが私の鼻を付いて、頬には柔らかい感触が伝わってきた。私は気恥ずかしくて離れたかったけど七子の力がそれを邪魔している。

でもそれだけではない。七子が私をがっちりと掴んで話さない。非力な七子の腕に絡みとられて私は彼女の強い意志を際限なく感じ取っていた。私は何も見えない。今の私には七子しか目に入らなかった。

やがて七子は私にだけ聞こえるように呟く。

「思織を捨てたりはしない。私は絶対に思織をひとりぼっちにはさせない」
「なんでそこまで私にかまうの」
「私は七子が好きなの」

静に、泰然としたあくまでも七子らしい言い方で七子は言った。七子は自分をなじるように唇をかみ締めている。あれほどゆれていた木々がぴたりと動きを止めて私は時間が泊まっているかのような錯覚を受けていた。

七子は目を潤ませている。目の端から落ちた七子の雫が私の手の甲に落ちた。温度を感じなかったのに私の身体は冷えていく。七子も顔面蒼白で手はがたがたと震えていた。それでも七子は鼻をすすりながらまっすぐとしたまなざしを保っている。

「初めて出会ったときから友達として以上に恋しいと思った。その身体も、心も、何もかも私が独り占めしたいと思った」
「どうか、私のことを好きになって欲しい」

七子の言葉以外何も聞こえなかった。私は七子の顔を見続けるとどこか背中が痒くなるようで七子を振り払って離れてたいと思った。だけど七子の真剣な瞳に魅了されていた。七子のまなざしから、七子の両手から七子の気持ちがとめどなく伝わってくる。

七子は少し疲れたように肩を落とす。薄く開いている彼女の目はずっと私を見ていた。私はまだ何も言えなかった。七子を拒むことはできなかった。今は私は誰でもいいから何かにすがりたかった。

だから私は逃げなかった。それに私もまんざらではなかったのだろう。七子と数回口ではいえない恥ずかしいことをしてきた。それを嫌だと思ったことは一度もなかったのだから。

七子の顔が近づいてくる。形のいい唇が私にゆっくりと迫ってくる。私はそれを拒むことはできなかった。私は眼を閉じる。七子の唇と私の唇が重なったとき、私の中に巣くっていた孤独感は全て消え去った。

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■スクラップ

○いつかの思織と香矢

「香矢は結構漫画持っているのね。羊の唄は私の中でなかなかのヒットだったわ」
「まぁな。でもほとんどは香の好みだ」
「そういえば香が士友と付き合い始めたらしいね」

「らしいな」
「なんかちょっと前に香のことをつけまわしていた奴でしょ。大丈夫なの?」
「香のことではなく、正確には魔女のことを追い回していたらしいぞ。呆れた知識欲だぜ」

「同じことじゃない」
「そうか。まぁ俺には関係ない」
「味気ない反応ね。香の眼中にあるのは香矢だけだった。それが士友が現れたことで危ぶまれているというのに。慕われていたのなら少しは悔しがりなさいよ」

「そうしたほうがいいか」
「さあね。でも香のこと好きなのでしょ」
「それは違うな。というか思織の前で認められるわけないだろ」

「というか誰の前でも認めないでよね」
「分かっている。前にも後にもそういう関係を香と作る気はない」
「どっちでもいいわよ。今の香矢が私を見てくれるのなら」
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