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Blooms in summer sunset

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「じゃあ、気をつけて」
 玄関先でそう言われ、靴を履き立ち上がった僕は深々と頭を下げた。
「失礼します。ありがとうございました」
「康弘君、麻奈の事よろしくね」
「あ、はい。分かってます」
「お母さん、そんな何回も言わないでよ。じゃあお父さん行ってくるね」
 バッグを背に担ぎ、僕を押しやるようにして二人で外へと出る。
 僕はようやく緊張から解き放たれ、安堵の溜め息を吐いた。
 ふと見上げた空は延々と青い空が広がり、遠出をするには最適の天気だ。
「あー。緊張した」
「……私も」
「麻奈は緊張する必要ないだろ」
「だって今まで親に男の子紹介なんてする事なかったし」
「まぁ、お父さんがいい人そうでよかったよ」
 そう。僕はいきなりなにも言わず家をしばらく開ける事は出来ないという、麻奈の至極真っ当な意見によって彼女の両親へ麻奈を僕の地元へと連れていく事を説明し了承をもらうために、対面をしていたのだ。今まで会った事がなかった彼女の父親を前に僕は情けなくもかちこちに緊張してしまっていた。なんせ、ここ最近麻奈を自分の家にも泊めさせたりしていたのだから、なにか言われないだろうかとか、連れて行く事を反対されないだろうか、などと不安に思っていたのだが、そういう愚痴の類は殆ど言われる事はなかった。多少心配そうな面持ちではあったものの話した内容の半分ほどは世間話のようなものになり、菓子折りなど頂いたりもしたがそれはそれで僕の恐縮は逆に膨れ上がりもした。
「康弘君の事面白い子だね、ってさっき言ってたよ。挨拶の時の『柳康弘と申します』がうけてたみたい。申しますって中々言わないだろう、って笑ってた」
「……しょうがないだろ。自分でもなに言ってたのか分かってなかったんだから」
「でもよかった。反対もされなかったし、康弘君の事そうやっていいように思ってもらえて」
「ま、そだな。じゃあ、そろそろ行くか」
 そう言うと麻奈が頷き、僕達は少し離れた場所においてあった原付に跨った。麻奈が腰に手を回し大丈夫かを確認して僕はエンジンをかける。


 原付は僕達と荷物の重量に文句でも言いたいらしく、低い唸りのような音を響かせるがそれにも構わず僕はアクセルを回した。小さな段差に上下すると、原付に初めて乗ったらしい麻奈は小さく悲鳴を上げて、僕の腰へと回している手に力を込める。僕は少しそれに反省してスピードを緩めた。僕は昨日ガソリンを入れるついでに立ち寄った本屋から地図を一冊頂いて、ある程度決めていた道筋に従いしばらく走ったところで国道へと出たのだが、やってきた僕が見たのはまるで盆休みと正月が一緒になってやってきたのかと錯覚しそうになるほどの渋滞だった。
「すごいな、これ」
 皆、僕と同じように離れた場所にいる大切な人のところへと向かっているのだろうか。往路復路と共にひしめき合っている車のどこかから苛立ちのこもったクラクションが絶えず鳴り響いている。その隙間を縫うように僕は原付を走らせるのだが、それでも混雑したこの場所をすぐに抜け出すのは容易ではないようだった。
「これ、いつまで続くんかなぁ」
「車かバイクしかもう移動手段がないもんね」
「麻奈、暑いだろ? 大丈夫?」
 前に進めなくなり立ち止まったところで空を仰いだ。見事に晴れ渡っている空は外出にはうってつけだとも言えるが、長時間それを浴びる事を思うと少々憂鬱で僕は半袖の裾を思い切り捲り上げた。それでも既に少し汗ばんできている。ふと車に乗っている人達が羨ましいと思えたが、向こうからすれば一向に動かない自分のすぐ隣を駆け抜けていくバイクの姿を羨んでいたかもしれない。
 ふとガラス越しに一人でハンドルを握っている男を見かけた。やはり苛々しているようではっきりと苦渋を浮かべているその表情を見て、きっとそれは僕と同じ感情なのだと思う。
 こんな状況になってやっと、離れたまま終わる事を受け入れることを出来ない存在がいると言う事に気がつく自分の愚かさに怒っていたのだ。そして今までそうと気付かず過ごしていた今までの自分に呆れている。もし、こんな事にならなかったとしても、一度くらいは地元に帰っていたかもしれない。だけどその時自分は自分の本当の感情に気がつくことが出来ただろうか。
「康弘君」
「え?」
「大丈夫だよ。ゆっくりでもいつかはちゃんと着くから」
 僕の心を読んだのだろうか、彼女にそう言われ僕は「そだよな」と後ろを見て笑う。穏やかな表情の彼女を見て、あまり深く考えない方がいいのかもしれない、と思う。
 残ろうとしていた自分の判断が間違っていた、なんて思ってもしょうがないじゃないか。だって、残る事で得られる幸せもあったのだし、それを望んでいたのは他ならない僕なのだから。
「あ、前開いたよ」
 彼女が嬉しそうに前を指差した。僕はその言葉に従い速度を上げる。ヘルメットが一つしかなく彼女に被らせたためノーヘルのままの僕の髪が風に煽られてなびいた。そうやってようやく涼しげな風に暑さをほんの少し忘れさせて貰いながら僕は僕の両親に彼女をどう紹介しようか、なんて事を考える。
 きっと彼女は緊張するだろうから、僕がうまくリードしてあげなきゃな。つっても僕も自分の彼女を紹介する事なんて初めてだし上手く出来ないかもしれない。まぁ、案ずるより生むが易しさ。
「ちゃんと無事に帰ってきなさいよ」
 ふと学校から旅立とうとしている見送られた時の事を思い出す。そう言っていたのは真尋だ。
「あんたはどうでもいいけど」
「お前な、しばらく会わなくなるのに最後までそれか」
「はいはい、じゃああんたも気をつけてね」
 僕の不満げな表情をあっさり無視する真尋は、麻奈の方へと向き直り僕はやれやれと肩をすくめた。あれでも一応心配はしてくれているようだが、中々素直になれない性格さえ正せばなと「あいつ、本当意地っ張りだよな。なぁ、智史」と同意を求めると「まぁ、真尋らしいよ。それに、ああやって場を明るくしようとしてるんじゃないかな」と苦笑していた。
「お前も、元気出せよ」
「分かってる。それに真尋も結構へこんでるんだよ。なんだかんでやる前は色々言われたけど、やる事になってからは本当よく手伝ってくれたんだ。あんな形になって悪い事したな、って感じになっちゃったけど」
「そんな事言うなよ。しょうがねえじゃねえか。誰もお前を恨んでねーよ。晶だってさ」
「うん」
 少し寂しそうにそう呟く。ここにいない晶をそれでも探すようにぐるりと智史が辺りを見回した。
 昨日の停電の日、居た堪れなくなったのか「俺、家帰る」と姿を消し、そのまま今日になってもまだ姿を現していなかった。僕も智史も電話やメールをしてみたのだがどちらも反応がなく、家に行くのも望まれていないような気がして結局そのままだった。帰ってきた時にはまた以前のように三人でバカなやり取りをする事が出来るだろうか、智史がそのように心配げに言ったが「大丈夫だって。誰だって一人になりたいときあんだろ」と肩を叩く。隣で紅と蒼も「元気出して」と言うように彼の隣で跳ねていた。
 僕はそうしている紅に、小笠原の事を申し訳ないな、と思いながらも責める素振りもせず「行ってらっしゃいです」と言ってくれた事に申し訳なさと感謝を半分ずつ覚えながら「じゃあ、紅しばらく頼むな」と伝える。
 それで全てを理解したのか、小さい体ながら、それでも全てを包み込むように「うん」と微笑んだ。


「どれくらいで着くかな」
「このペースだと二日ってとこかなぁ。とりあえず夜はどっか適当な場所で寝るけどいい?」
 結局予定を変更し国道から裏道へと入ると渋滞はかなり改善された。
 先程の遅れを取り戻そうと少し急ごうかと思ったが、少々なら大して差はないだろうとしばらくして気がつき、麻奈と会話をするのにさして苦労しない程度の速度で走り出すと、同時に風景を見るような余裕も出来、僕はこうやって彼女と二人で遠出する事なんてなかったな、なんて事を思い返す。
「適当な場所って?」
「うーん。ファミレスとか、カラオケとか、あとラブホとか?」
「……ラブホって」
「いや、ごめん、嘘。いや、まぁ、ベッドとかあるしいいかな、とかちょっと思ったけど、ごめん、嘘」
 背中の視線を痛く感じ慌てて誤魔化す。
「まぁ、あとは漫画喫茶とかかな」
「漫画喫茶いいね。そう言えばもうあのマンガの最終回見られないなぁ」
「なんの漫画?」
 そう尋ねるものの、僕が聞いたことないタイトルに首を捻ると少女漫画だからしょうがないかも。でも読んでみたら面白いから、絶対、と言われじゃあ読んでみるか、といつの間にか漫画喫茶に行く事に殆ど決まってしまっていた。
 僕は少女漫画の一体どこら辺が面白いのだろうか、前なんとなくクラスの女子が持って来ていたのを見た時、少女と名乗る割には、随分あっさりとセックスするんだなぁ、とか何の変哲もない女の子がいきなりアイドルになってしかもあっさり人気者になってしまう、なんて随分ぶっとんだ内容だと思ったが、やはり女の子と言うのは漫画にも甘ったるい夢を見るのかもしれない。それに最終的には殆どの作品が愛しの彼と一緒にいられて幸せと言う終わりかただし。
 僕はふとDVDも見られるなと思い映画でも見ようかと思う。
 なにを見ようかと考えて、前から気になっていた映画のタイトルを思い出した。内容はうろ覚えだったが、確か増えすぎた地球の人口を間引きしている存在と人間が戦うという内容だった。
 少し傾斜のきつい坂道を登りきり、眼下に無数に立ち並ぶビルや、空と陸を分断するように果てなく続いている高速道路が見えるその光景は、なんだかポストカードから切り抜いたような光景だった。元々田舎で育った僕はそうやって天高くそびえるビルを見る度にあんな細長い場所に大勢の人が集中しているのだと言う事に違和感を覚えてしまう。
 お前達は地球を食いつぶす気か。
 CMで悪役がそんな台詞を言っていた。確かにそうなのかもしれない。右手に見えるもう長い間改修もされてないらしく売りに出されているものの一向に買い手がつく予定もないまるで廃墟のようなくすんだ色のビルはきっとこのまま壊される予定もなくいつまでも必要とされることなどないまま、それでもこの場所にいつまでも鎮座しているのだろう。
 しょうがないんだよ。
 人は取捨選択をする生き物なんだよ。その選択はいつも人間のためだけで、更に言えば自分のためだけであって、足りなくなった居場所を、いとも簡単にポンポンと作っては、買い物に不便だから嫌だとか、日当たりが悪いから嫌だとか、作りが趣味に合わないから嫌だとか、そんな適当な理由を作っては、作ったつもりが本当は他の何かを壊してでも手に入れたものの癖に、それでもあっさり見捨てられるような冷たい性質を持っているんだよ。そしてそれでもまだなにかが足りないと平然と叫べるんだ。
「俺の地元とか本当なにもないからさ。麻奈とか退屈かもしれないな」
「そんな事ないよ。それに私のお父さんの実家も田舎のほうにあるし、私そういうの嫌いじゃないもん」
「そっかぁ? 俺帰るたびにやっぱ寂れてんなー、とか思っちゃうんだよな」
「うーん、元々住んでるからそう思うんじゃないかなぁ」
 そうやって話しながらひたすら硬いコンクリートの上を走り続け、何県か通り過ぎた。
 途中観光名所として有名な場所を通ったりもしたが、実際のところ景観がよっぽどいいと言われるような場所でもない限り、人が全くいなくなってしまったその場所はむしろ侘しさを感じさせ、僕の立ち寄ってみようと言う気を一瞬で萎えさせてしまった。華やかに作られている街並みは無人となってしまうと、まるで出来の悪い御伽の国の中のゴーストタウンのようであり、そこに脚を踏み入れるのはよっぽどの物好きに思える。なので僕達は一直線に地元へと駆け抜けていく。
「ちょっと休憩しようか」
「そうだね」
 渋滞は最初よりは随分マシになってきていた。この辺りはどうやらそれほど移動がないようであまり通りがなく僕は適当な場所に原付を止めると、歩道に立てられたガードレールに腰掛けジュースを飲みながら煙草を咥える。
 時計を見ると間もなく夕方にさしかかろうとしていた。中々順調に来ているようで明日の夜には辿り着けるかもしれない。
「康弘君、バイク運転出来たんだね。上手いからびっくりした」
「あぁ、一応免許も取ってたんだよな。去年地元帰った時にあったほうが便利かなって思ってたんだけど、あんまこっちいるとやっぱいらねーなーって思ってバイク買ってなかったけど」
「一応校則ではダメって事になってるもんね」
「遥それで昔停学一回くらったって言ってたな」
「一人で県外に出てきた時寂しくなかった? 私なんか誰もいないところに行くのって想像出来ないな」
「うーん、どうだろうな。ちょっと不安だったかな、そう言われたら。まぁ、なんとかなるもんだよ。どこでも友達とか自然と出来るもんだしな」
 そう言って、僕は中学生の頃のクラスメイトを思い出す。冬休みに一度帰った時は昔と印象がガラリと変わってしまった者もいたりして驚いたりしてしまう。高校生なんてなにかの影響でガラリと考え方など変わってしまうものだ。
 僕は幼馴染みの事を思い出す。元気してるかな。
 とそう考えていた時だった。
 それは黒光りするボディが偉く不釣合いなほど不恰好なよたよたとした動きだが、速度はむしろ壊れたのかと思うような速さでまるで方向感覚を失った酔っ払いのようにこちらへとやってきた。
「あ?」
 幸い、と言うべきかそのふらふらとしたその車に気がついたのはまだかなり距離がある頃で、僕は煙草を地面へと放り捨て麻奈の方に手を伸ばした。
 離れているとは言えそのかなりのスピードのその車はすぐにこちらへと向かってくる。僕は嫌な予感を覚えガードレールに手をかけた。思ったとおり、その車は僕達に全く気がついていない様子でぐんぐんこちらに近付いてくる。
「きゃあ!」
 麻奈が悲鳴を上げるのも気にせず僕は彼女を抱きかかえながら、歩道側へとガードレールを飛び越えた。そのまま地面へと倒れこみ、彼女を受け止める。勢いがつきすぎた彼女の体が僕に激突して痛みを覚えるのと同時に、ガァン、と派手な音が鳴る。
 殆ど入れ替わりでつい先程まで僕達がいたところに滑り込んできた車がガードレールに派手な音を立ててガリガリと車体を擦り付ける、それでもまだ止む事のないその勢いのまま車は道路に止めてあった原付に衝突した。
「あああああああああああ!!」
 寝転がったまま、衝突の衝撃で派手に空へと舞い上がる原付を見て叫び声をあげる。
 僕の悲鳴が響く中、クルクルと回転した原付はグシャ、と気味の悪い音を立ててまっ逆さまに地面へと転がる。
 慌ててようやくそこで止まった車の前に飛び出し、僕は横に派手に傷が付いてしまった原付を起こし、エンジンをかけようとする。
 中の配線が切れてしまったのかもしれない。カチ、カチ、と空しい音がした。
「ああああああああああああああ!!」
 なにやってんだ車。地元に帰らなきゃいけないのになんてこった。麻奈に怪我はなかったのでまだマシか。
 しかし、そんな事よりも、この壊れてしまった原付を遥にどう説明するべきだろうか、と僕は絶望的にもう一度叫び声を上げた。
「すすすすみません、すみません」
 兵頭、と名乗った僕より十は年上だろうと思う男が、立ち姿勢のまま深々と僕達に頭を下げた。下げすぎて立ったまま地面に頭をこすり付けてしまいそうで、僕は「いやまぁ、怪我もなかったし」と曖昧に返事を返す。彼が言うには昨日から寝ていないらしくついつい居眠り運転をしてしまったそうだった。
「本当にすみません、まさかこんな事故を起こしてしまうなんて」
 兵頭さんはもう一度動かなくなってしまった原付を見てもう十回は聞いたと思われる「すみません」を再び口にした。麻奈はそこまで謝られて逆に申し訳ない気持ちになっているようだったが、かと言って移動手段がなくなってしまった事に困惑している様子でひたすら無言のままだった。
「あのー、兵頭さん」
「は、はは、はい?」
 そんなに恐縮されるとなんだか脅しているようで気が引けてしまう。
「俺達ちょっと用があって県外から出てきてるんですよ。で、バイクがないとちょっと困るんですよね。よかったら代わりのバイクとか持ってないですか?」
「か、代わりですか? そ、そうですね。バイクくらいだったら用意できると思いますけど、それでいいですか?」
「まぁ、こうなった以上しょうがないし、正直言うとあれと同じバイクがいいんですけど」
 ボディに傷の入った原付を指差す。恐らく同じものを用意したとしても遥が気付かないわけはないと思うが、かと言って全く違うものだとどれ程激昂するか分かったものではない。
「あれと同じ奴ですか……ちょ、ちょっと周りにも聞いてみますので、ってあぁ!!」
 不意にそう叫びだすと彼は腕時計へと目を向けた。先程から随分忙しない人だ。時間を確認するとそれはさらに激しくなり、困ったように僕と、原付と、車と、車が向かっていた進行方向へと首をぐるぐると回す。その内耳から蒸気でも噴き出てきそうだ。
「ああぁ、まずい。時間が……」
 そう言いながら僕のところに視線が戻ってくると、彼は深々と溜め息を吐き「あ、あの、すいませんがもしよかったら移動しながら話す、と言う事で」とまるで取引先に媚でも売っているかのような口振りでもう一度頭を下げる。昨日から寝てないと言っていたし、なにか急用でもあるのだろうか。
「ちゃ、ちゃんとバイクも用意しますから。お願いします!」
「……わ、分かりました」
 そうまで言われて断れる訳もなく、途端救いを得たように表情を輝かせると、バイクから投げ出された荷物を三人で集めて彼の車へと乗り込む事になった。「ちょっと、荷物があるのでよかったら一人助手席にどうぞ」と言われ、麻奈に座るように言い、後部座席のドアを開けたところで僕は「なんだこれ」と目を丸くする。そこにあったのはダンボール箱に入れられた炭や、鉄板が敷き詰められ、更にそこにかぶせるように何枚か布が折り重なっている。僕は殆ど隙間のないシートからなんとか動かせるものを動かし座るスペースを確保したが、それでも尚窮屈だった。
「すみません。二十分位で着きますから」
「……お願いします」
 辿り着く前に僕の体が悲鳴をあげなければいいけど、と妙な姿勢のまま半眼でそう言うと、エンジンをかけっぱなしだった車がゆっくりと動き出した。さすがに眠気はもう吹っ飛んだらしく、今度はちゃんとまっすぐ進んでいるようだ。
「あ、あの」
「はい、なんですか?」
 兵頭さんの問いかけに麻奈が横を見る。彼女の穏やかな雰囲気なら必要以上にかしこまるようでもなかった。
「バイク、すぐに用意したほうがいいですよね?」
「そうですね。出来たらですけど」
「もしよかったらこのまま車で送る事も出来ますけど。あ、当然バイクはちゃんと用意します」
 どうやら兵頭さんとやらはかなりのお人よしのようだ。僕が地元に帰るのだと伝え場所を言うと「あぁ、そんなに遠くまで行くんですか。参ったな」と頬をごりごりと撫でた。
「原付さえ用意してくれたら構いませんから」
 そう麻奈が慰めるように言うのを聞きながら、僕はこの狭さを少しでも忘れようと窓の外へと首を向ける。
 今車が通っているのは簡素な住宅街と言った感じの通りで、狭くもなく広くもないと言った感じの道路だった。そんな景色を眺めていたのだが、僕はそこで人通りがやたら多いな、と気がつく。先程からちらほらと数人の姿を見かけていたが、次第にそれはどんどん増えていった。
 その人影はどうやらみんな同じ方向へと向かっているようだった。ガードレール越しに見えるその人達を僕はなんとなく見やる。小さな子供の手を引いている母親らしい女性がにこやかに微笑んでいたり、小学生が集団でかけっこのように走ったりしている。
「兵頭さん。そう言えばさっきからなにをそんなに急いでたんですか?」
「あ、あぁ、それはですね」
 車のすぐ傍を、浴衣姿の女の子が歩いていた。
「お祭りをするんですよ。僕、その準備をしないといけないんです」


「祭りかぁ……そう言えばそんな季節だよなぁ」
「そうだね」
 住宅街から商店街へとやってきた、フロントが少しへこんでいる車から降りた僕は、腕組みをしながらその光景を眺めた。隣で麻奈が「わぁ」と目を丸くしている。
 兵頭さんは駐車場に車を止めるとほぼ同時に「おせぇぞ! 兵頭!」と遠くからの叫び声に「ははい! すみません!」と再びどもりながら後部座席の荷物をどたばたと下ろし「すみません、もうちょっとだけ待ってください!」と頭を下げ、向こうへと駆け出していった。なので僕達はこうやってぼんやりと目の前に広がる光景を眺める事にする。
 先程見た通行人達はおそらく皆ここを目指してやってきていたのだろう。僕は古臭い電池式のCDラジカセから大ボリュームで流れている祭囃子に耳を傾ける。両側の道沿いには隙間なく赤や黄色のビニールの屋根付きの屋台が立ち並んでいた。その所々から思わず腹が鳴りそうになるいい臭いと湯気が立ち上っている。
「すげー」
 心の底から感嘆しながら呟き、僕は歩行者天国となってかなりごった返しているその中へと足を勧めた。麻奈が「待ってなくていいのかな?」と心配そうに言うがあの感じだとしばらくはこちらに戻ってきそうにないだろう、と言うと「そうかも」とあっさり頷く。と言うより彼女もこの場所でただ立ち尽くしているのが勿体無いように思えたのだろう。悪戯っぽく笑うその様子に「ちょっと回ってみようぜ」と言い彼女の手を取った。
「お、焼きソバだ」
 僕は目ざとく見つけると、そちらの屋台へとふらふらと引き寄せられる。僕を客と判断したらしく、おじさんが「いらっしゃい」と声をかけた。鉄板の上で確かに焼きソバが焼かれている事に僕は少なからず驚いた。足元にガスボンベからホースが伸びている。まさか停電した今、こうやってちゃんとしたものが食べられるとはちょっと感動すら覚えた。
「焼きソバ一つ」
「あいよ」
 おじさんがヘラを取り器用にプラスチックの容器へと掬い取る。僕はお金を払うのだろうかと財布を取り出そうとしたが、おじさんは「金なんかいらねーよ」と笑われた。
「え? いいんすか?」
「いいもくそも金なんかもらってもしょうがねぇだろ」
 話を聞いてみると、どうやらこの焼きソバの材料などはこの辺りの住人で持ち合わせてきたものなのだそうだ。毎年この時期には祭りは行われていたらしいが、最初今年はもうやらないという話もあったそうだが、それに反対する声が多く上がったらしい。こんな時だからこそ、やるべきだと皆そう思ったのかもしれない。おじさんは去年よりも来てる人数多いと思う、と少し楽しそうに言いながら肉や野菜を鉄板に放る。肉が鉄板の上で焼けるその音を聞きながら僕は箸を取った。
「美味しそう」
「食べる?」
「うん」
 僕ははい、と箸に焼きソバを巻きつけると彼女の方に差し出した。麻奈は僕の意図を悟ったらしいが少し恥ずかしいと思ったようで「いいよ」と言うけど「いいからいいから」と僕が尚ごねると諦めたように「あーん」と口を開いた。
「あつ」
「ははは」
 彼女が僕の笑い声に少し頬を膨らませる。
 あぁ、なんて可愛らしい。
 そんな表情が見れるのもこうやって皆が望んだこの場所のおかげなのかもしれない。
 僕は辺りを見渡す。延々と続く屋台にはくじ引きやら金魚掬いやら様々な食べ物屋が軒を連ねている。そしてその中に屋根よりも明るい人達の表情がある。
 生きる。生きる理由を作り出す事が出来る。手を取り合う事で、生み出す事が出来る。


「あーあ」
「下手だなぁ、俺にやらせてみろよ……ありゃ?」
「……康弘君も下手じゃない」
「……おっかしいな」
 破れた網の向こう側から僕をバカにするような金魚の群れを見ながら毒づく。
「いいなぁ、皆浴衣着てて」
「俺も麻奈の浴衣姿見たかったな」
「そんな事言われたら着るの照れる」
「なんでだよ!? いいだろ!?」
「……そんなに熱くならなくても」
「あぁ! よかった! いた!」
 兵頭さんが息を切らしてこちらへとやってきた。僕達を探していたからか、それとも今までこき使われていたのか随分と息が荒い。僕は屋台でもらった団扇を仰ぎながら立ち上がった。
「落ち着きました?」
「いや、それがまだちょっと。すみません、本当に待たせてしまって」
「いや、いいです。なんか俺達も楽しんじゃってるし」
「はい、気にしないでください」
 事故の事など忘れてしまったかのようなその言い方に「そ、そうなんですか?」と少し意外そうに答える。よっぽど忙しいのか汗に塗れよれよれになった服を正すと一息吐いた。
「あの、なんとかバイクを用意する事出来そうです」
「本当ですか? あぁ、よかった」
「はい、けどちょっと夜まで――あと一時間ほど――待ってもらえないですか? ちょっとまだ離れる事が出来なくて。本当にすみません」
 もう頭を下げられる事にも慣れてしまった事に苦笑しながら僕は「いいですよ」とあっさりと返事をした。
 今では正直こんな事になって少しラッキーだったかもしれない、なんて思ってもいた。麻奈も似たような思いだったらしい。それにもう時間も間もなく夜にさしかかろうとしていた。
「まだこれからなにかあるんですか?」
「あ、はい。と言うかこれがメインなんですけどね。あと少ししたら花火をあげる事になってるんです。今はその準備中で」
「へぇ、花火」
「わぁ、見たいです、それ」
「あ、よかったら見ていってください。ここからでも充分見えますから」
 兵頭さんはそう言って微笑み、僕達は彼から「あっちの方だったらもっとよく見えると思いますよ」と教えて貰った場所に移動し、屋台で売っていた林檎飴を頬張りながら少し段差のある石垣に腰を下ろしていた。祭りを楽しんでいる人々もそろそろ花火が上がる時間だと言う事を理解しているらしく、ぞろぞろと移動を開始している。
 街灯などなく薄暗くなってきた空を僕達は揃って見上げた。
 しばらくそうしていたところで、なんの前触れもないまま、遠くから一筋の赤い線が舞った。同時に所々から歓声が上がる。
 ばぁん。
 視界一面に色取り取りの火花がに広がった。それが合図と言うように次から次へと新しい花火が舞い上がっていく。
 暗闇を打ち消すまるで満開の花が無数に広がるようなその光景を見ながら、僕はチラリと麻奈の横顔を見やる。花火なんてこの季節毎年見ていたのに、こうやってまた一年ぶりに見る光景はやっぱり少し幻想的で、その淡い光に照らされて、まるでその瞳の中にこの光景を吸い込んでいるかのように輝いていた。
「きれいだね」
 林檎飴を一舐めしてから彼女がうっとりと吐息混じりに言う。
 全くだ。
 例えばそれは絵画だったり、言葉だけの詩だったり、人工的に作られた幾何学的なオブジェだったり、不器用でも手作りのマフラーだったり、ふと窓から外を見て広がる自然だったり、綺麗なピアノの音色だったり。
 自分のための美しさじゃなくて、他人のための美しさは、こんなにも人の心を穏やかなものに変えてくれる事が出来るのだ。
 誰かが叫んだり、逆に口を硬く閉じて見上げている。
 それでも皆同じようにその空に広がる光を見て、喜びを覚えている事は同じようだった。
「うん、きれいだな」
 僕はそこで「あ」と思い出したようにポケットに手をやる。取り出したものがまだちゃんと動いている事に安心しながら「なぁ、麻奈」と彼女の肩を軽く引っ張った。
「なに?」
「写真取ろう。写真」
「え? カメラあるの?」
「いや、携帯」
 幸い充電はまだ残っているようだった。僕は自分達と花火の位置を丹念に確認してから携帯を構える。
「もうちょっと寄った方がいいかな」
 開いた手で麻奈の肩を抱き寄せながら、僕は「じゃ、笑って。撮るよ」と彼女の肩を抱きながらカメラに向かってピースサインをする。
 フラッシュが眩しく光り、カシャ、と言う音が鳴った。


「じゃあ、行きますね」
「はい、気をつけてくださいね」
「兵頭さんも、運転中寝ないように気をつけてくださいね」
「ははは、いやぁ、本当にすみませんでした。こんな遅い時間になってしまったし」
「いや、全然。逆になんかラッキーでした。こんな楽しい事に参加できて」
「そう言ってもらえるとありがたいです。じゃあ、僕も行きますね。これから皆で飲み会なんで」
「ありがとうございました」
「いえいえ。事故起こして感謝されるなんて思ってもなかったです」
「確かに」
「それじゃあ」
 僕は兵頭さんの知り合いの人が用意してくれた原付のエンジンをかける。気を遣ってくれたのか、遥に借りたものよりも新しい型らしいその原付は、これから長い旅へ出発する事を喜ぶように排気音を上げる。
「うし、行くかぁ」
「うん」
 祭りが終わり、家へと徒歩で帰ろうとしている人達を僕は追い抜くようにバイクを走らせる。
 少し祭りが終わってしまった寂しさを皆を含め僕も感じていたが、それでもそれ以上に胸の中にあるのはやっぱり幸せな一時を過ごした事の高揚感だ。夢見る時間は終わっても、まだ僕達の時間は続く。
 だからその時間をあの時間だけはよかった、なんて事を思い返すような事にならないように、僕はまたこうやって少し目が痛くなるような速度で、風を切る。
54, 53

秋冬 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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