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リヴァイヴ

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 八月二十五日。
 小笠原と別れ学校に戻ってきた僕と麻奈は屋上で空を眺めていた。
 彼女には小林と小笠原の事を話しておく事にしたが、それを話し終えると僕達は話す事を忘れてしまったようだった。
 他の生徒達は二人がいなくなった事を不思議がっていたが、僕の「二人でいる事を望んだ」と適当な嘘を聞くと誰もがそれ以上の追求をする事無くあっさりと納得をし、僕はその反応を見る度に叫び、本当の事を言ってしまいたい衝動に駆られた。小林は皆の中でそのまま消えていってしまうのだろうか。彼の言うとおり、彼がいなくなってもそれによって寂しく思う人はいないのだろうか。
 なにも言わずにいなくなってしまったのだから、そういった反応もしょうがないのかもしれないが僕はどうしようもないやりきれなさを覚えていた。だが、こうなる事を望んだ小林を裏切るわけにもいかず、僕は「また戻ってくるのかな?」と首を傾げるその仕草に「どうだろうなぁ」と返すのが精一杯だった。
「……あ」
「……ん?」
「鳥」
「本当だ」
「…………」
「…………」
 麻奈が空へと伸ばしていた腕を力なく下ろす。二人でほぼ同時に溜め息を一つ吐き、僕はポケットから煙草を取り出した。
「あ」
「なに?」
「最後の一本」
「そうなんだ」
「…………」
「…………」
「……小笠原が、柳君は気にしないでってさ」
「うん」
「気にしないでって無理だよなぁ」
「そうだよね。小笠原さん、今どうしてるのかな」
「なにしてんだろうなぁ」
 僕は立ち上がり、同じく立ち上がろうとする彼女の手を取り屋上を出て、ぶらぶらと階段を歩き出した。振り向く事はしなかったが彼女はすぐ後ろで着いてきた。僕は一階まで降りて学校から出る。きつい陽射しに目を細め、額に汗の滴が浮かぶ。シャツの裾を持ち上げて顔を拭った。汗を吸って変色したシャツは萎れた紙のように力なく風に揺れた。
 どこに行くの? とは彼女は当てもなく歩いている僕の心境を理解しているらしく聞いては来なかった。
 僕達はふと思いついたようになにか口にしては、短い返答だけど受け取り、それ以外の時間はほぼ無言で歩き通し、そうやって辿り着いたのは自宅で「あがる?」と聞くと麻奈は頷き、僕は玄関を開けた。
 熱気の篭った室内にうんざりしながら、窓を開けたが、しばらくしてどちらからともなく互いの体に触れ合うようになり、麻奈が「恥ずかしいから」と言うので僕はもう一度窓を閉め、カーテンもかけた。僕達はベッドに寝転がって服を全てとっぱらってお互いの体に触れ合う事で、それ以外の事を忘れてしまおうと言うように行為に没頭した。
 真昼間にするその性行為はなんとなくいつもより猥褻な気がして、僕はそれを彼女に伝えると彼女は「よく分からないけど恥ずかしい」と言い、僕はバカな事を言ったと苦笑した。彼女の吐息に紛れて時々聞こえる「好き」とか「愛してる」とか「気持ちいい」なんて言葉を聞きながら、その言葉と言うものを本物か偽物かいつも考えていたのかもしれない小林の顔が過ぎり、僕は彼は少し贅沢を求めすぎたのかもしれないし、こうやって麻奈に求められる僕こそが贅沢者なのかもしれない、そんな事を思った。


 智史と真尋が尋ねてきた時、僕達はまだベッドでまどろんでいた頃で、インターホンの音と智史の「康弘」と僕を呼ぶその声に僕達は慌ててベッドから飛び出し、服を着る羽目になった。二人でおかしいところはないか確認してから玄関を開けたが、智史はともかく、真尋は僕達がなにをしていたのかすぐに感づいたようで、お互いにバツの悪い表情を浮かべた。
「ちょ、ちょっとー暑いんだから窓くらいあけなさいよ!」
「あ、あぁ、そだよなー!」
 僕はドタバタと真尋に言われるとおり窓を開け、布団の乱れを直した。麻奈は顔を赤らめてもじもじとしていたが、智史はそう言った仕草を見てもちょっと首を傾げる程度だった。
「麻奈、どうかしたの? なんか顔赤いけど」
「う、ううん、なんでもないよ、なんでも」
「そう?」
「うん、そう、そう」
 引きつったように笑っているのだろうその姿を僕は、彼女の後頭部あたりでピンと跳ねて寝癖のようになっている髪の一部を見ながら眺めていた。
 外からの風を受けてようやく落ち着いてくると、僕は二人に座るように勧めながら「智史、久しぶりじゃん」と少し皮肉っぽく言うと、彼は申し訳ないと言うような表情をした。
「前は悪かったよ。我ながらどうかしてた」
「全く、あの時は廃人みたいだったぞ」
 尚も続けると「もう勘弁してくれ」と彼は目の前で手を合わせ、それを見て僕もやめる事にしたが彼と真尋を見比べていると、智史は「いや、本当に真尋に助けられた」としみじみとそう言った。
「やめてよ、大した事してないでしょ」と真尋が照れたような呆れたような口調で返す。
 僕はそうやりとりを交わしている二人の距離感に首を傾げた。
 首を傾げた、と言ってもなにかがおかしいと感じたわけではない。むしろその逆で、二人の距離感は今までと全く変わっていない。そして僕にはそれが不思議だった。
(……告白しなかったのか?)
 保健室のやり取りから僕は彼女が智史への恋慕を伝えると思っていた。
 彼の様子を見て告白を出来るような雰囲気ではないと彼女が判断したのだろうか?
 麻奈も二人の様子をどう判断したものか悩んでいるようだが、それよりも智史が生気を取り戻した事に安心したようだった。
「私、あの時智史君にどう声かけたらいいか分からなかったなぁ」
「そうだよね。自分でもあの時の俺はやばかったと思う」
「でも、真尋のおかげで元気になれてよかったね。真尋どうやって智史君立ち直らせてあげられたの?」
 それはきっと話の流れで深い意味はなかったのかもしれない。
 だが、智史も、真尋も、その質問には「いや、まぁ、大した事じゃないよ」と曖昧な返事と共に、誤魔化すように張り付かせた微笑を浮かべた。それがなにかを隠そうとしているのは僕も、そして麻奈もきっと分かっただろう。


「振られちゃった」
「マジで?」
「里美の事忘れられないんだってさ、あのバカ」
 意外にも彼女はサバサバとした口調でその失恋を僕達に打ち明けた。
 僕達は四人でいつもの喫茶店に移動したあと、ちょっと学校に行く、と智史が言い店から出ていった。彼女が僕達にこの話を切り出す事に対し気を遣ったのかもしれない。
 僕達は真尋にどう声をかけるべきか悩んだが、それよりも先に「まぁ、しょうがないっしょ」と自ら締めくくってしまった。
「いや、けどさ」
「康弘、あんたの言いたい事はなんとなく分かるけど、私ももう出来る限りの事やったからさ」
 カウンターに真尋を挟むように並んで座り、二の句を告げようとしている僕と麻奈を制し、彼女はコーヒーを二、三口含み、ぐるりと首を回した。
「すっきりしたもん、私も。それにもう二人で決めたからさ」
「なにを?」
「今まで通りの関係でいようって決めたの、最後まで。友達としてさ」
「それでいいの?」
「いいの」
 麻奈の困惑したような言葉に彼女はぴしゃりとそう言い切った。
「最初は私も無理無理って思ったし、振られた時はもうどうしようもないくらい泣けてきちゃったし、私かっこわるって思ったわよ。廃人みたいな智史を前にして告白して、そんなのに振られちゃって、それでももうヤケクソって感じで正気に戻るように延々延々これでもかってくらい話し続けてさ。私、しつこくそのあともう一回告白しちゃって、それでも振られた時はもう死にたかったわよ。でもまぁ、しょうがないのよね、恋愛ってそういうもんじゃん。それにさ、振られちゃったけど、智史元気にする事は出来たしそれに結局私が好きなのは、あいつのああいう一本気なところだしさ」
 マスターが無言で僕達の傍にやってくると、空になったグラスにポットでお代わりを注いでくれた。真尋が「マスターなら分かりますよね、私の気持ち」と明るく言うと彼は「分かるよ。例え報われなくても恋愛って言うのは最後まで真摯に向き合い続けられたなら、その姿そのものに価値があるものだよ」と微笑んだ。
「そういうもんですかねぇ」
 頬杖をつきながらさっぱり理解出来ないと言った感じでそうぼやく僕に、
「愛を受け入れる事の反対はどれもこれもが否定という事じゃないんだよ」
 と余計にこんがらがるような事を言った。
「愛じゃないと、ダメなのかな? 他人に対する思いの重さは」
 それなら、少しは理解出来た。
 それは、小林がずっと欲しがっていたものでもあるから。
「バーカ」
「なんだよ、いきなり」
「うっせぇ、バカ」
「真尋の事か?」
「そうだよ、バカ」
「バカばっかり言うなよ」
「うっせぇ、ボケ」
 翌日、学校で出会った智史は口を尖らせる僕を、半眼で見返してきた。なぜ僕がそういった視線を送られなくてはいけないのかと憤慨したが、彼は「そりゃ悪いなとは思ってるけどさ」と前置きをした上で、
「一応、お互い納得はしてるんだって」
「分かってるよ、バカ。でも言いたいんだからしょうがないだろ、バカ」
「言いたいって、バカしか言ってないじゃないか」
 もっともな指摘に僕はようやくやめてやる事にする。そしてそれをやめてしまうと特に彼に対して言う言葉は見当たらなかった。僕が今更口を挟める事などあるはずもなかった。
「でもさぁ、告白って凄いよなぁ、俺里美に彼氏がいなかったとしても、自分が告白出来るかどうか分からないよ」
「お前なぁ、告白されてそのネタで、別の女の話するって最悪だぞ」
「そ、そうかな」とたじろぐ彼に「そうだよ」と冷たく返す。
 付き合えばよかったじゃないかよ、嘘でも。
 そんな事を智史はきっと想像もしないだろうし、その想像もしないところを真尋は愛しているのだろう。
 紛い物として付き合うくらいなら、はっきりと本物と向き合って失恋事を彼女は選んだ。
「大体、告白なんてする気もないくせにさ」
「まぁ、そうだけどさ」
 やれやれと思いながら、彼を連れて駐輪場へとやってきた。
 ポケットからまだ借りたままの原付の鍵を取り出してバイクのエンジンをかける。
「いいんだよ。これで」
 そうかもしれないな、と言って駐輪場から出て速度を上げる。ミラーに僕とは反対方向に、同じく学校の誰かから借りた原付で走り出す智史の姿が映っていた。
「晶を探さなきゃ」
 僕と智史がそう切り出したのはほぼ同時だった。
 智史の話では僕達が旅立ってから二日程してその姿を消してしまったらしい。初めの頃は智史も近辺を探したそうだが、すぐに諦めてしまった。晶の家を訪ねてみたが出てきたのは彼の母親で、たまにふらりと帰ってくるのだが、またすぐに姿を消してしまう、と困ったような表情を浮かべた。
「どっか晶が行きそうなとこないですか?」
「私はてっきり康弘君や智史君と一緒だと思っていたのよ。それ以外と言われるとちょっと分からないわ」
「そうっすか」
 もう少し探してみます、と言い振り返る僕におばさんが「よろしくね」との言葉をかけた。
 しかし、一体どこを探したものだろう、と原付を適当に走らせていたのだがやはりそんな具合で簡単に見つかる訳もなく、やがて日が暮れようとしてきていた。
「……どこにいんだろうな」
 一度学校に戻ろうかと思い交差点に差し掛かったところでちょうど智史と鉢合わせた。
「おう、いたか?」
「いや、まだ見つからない」
「一旦、学校に戻ろうと思ってんだけど、智史どうする?」
 僕がそう言うと彼は「そうだな」と時間を確認しながら呟いたが「ちょっともう一箇所行ってみようと思うんだ」と行った。
「どっかあてあんの?」
「あてと言えるかどうか分からないけど」
 頭を掻いた。
「スタジオ」


「いるかぁ?」
「もうここしか思い当たる場所がないんだよ」
「つっても、ここでなんすんだよ」
 スタジオを前にして智史に聞こえない声でそう呟いたが、彼は僕のそういう考えよりも強い確信のようなものを持っているようではあった。
 僕の知らない彼らの情熱が詰まっているこの場所。そう思えば智史が彼がここにいると思う事も自然な事なのかもしれない。智史はきっと僕の知らない晶を思い描いているのだ。
「じゃ、入るかぁ」
 ドアに手をかける。
「晶ー。いるか?」
 そう言いながら一歩足を踏み入れたところで埃が舞いあがり、僕は息を止めた。その脇を智史が通り抜け奥へと続くもう一つのドアを更に開けた。
「あき……」
 ら、と言うところで智史の言葉が止まり、同時に僕の足も止まった。
 防音加工のされているドアを開けたところで僕達の耳に飛び込んできたのは、ギターの音だった。
 その音色は、お世辞にも上手とはいえない。アンプにも繋がっていないし、時折間違ったのか、音が飛んだりもしている。
 だがそれはあの日、僕と二人で訳も分からず鳴らした「ジャーン」ではなく、確かにメロディと言っていいものだった。
「わーお」
 感嘆を零しながら、僕は扉の傍で突っ立っている智史の背中をドンと押した。突然の事に悲鳴を上げながら、部屋の中へとつんのめるように入った彼に僕も続く。
 ギターに集中していたのか、その物音でようやく気がついたらしい。
 ギターを手にしている晶が、僕達の方へと振り向いた。
「よお、久しぶり」
「……帰ってきてたんだ、康弘」
「結構前に帰ってきてたぞ」
「晶、今までずっとスタジオにいたの?」
「あー、まぁ……」
 智史が質問しながら彼のすぐ傍に腰を下ろした。部屋には椅子が五つあり、向かい合うように並べられている。
 視線が僕達とギターの間で何度か往復し、隠し事がばれた子供のような苦笑と、その奥に浮気がばれた旦那のような気まずさを感じさせるような曖昧な表情が浮かぶ。
「いや、もう練習しても意味ないって分かってるんだけどさ……なんか納得出来なくてさ。せめてやろうとしてたあの曲くらい弾けるようになりたくて」
「だからって一人でやらなくてもいいじゃねえか。皆心配してたんだぜ?」
「康弘、そういう言い方はないだろ」
「いや、康弘の言う通りなんだけどさ。けど、一緒にやろうって言えなくてさ。俺のせいで、ラジオやるの出来なくなったみたいなもんでさ、なのに今更一緒にやってくれ、なんてむしがいい話だよなって思っちゃってさ」
「バカ、なに言ってんだよ、そんなことないに決まってるだろ? ラジオが出来なかったのだってお前のせいじゃないし、それに元々俺がやりたくて晶はそれに付き合ってくれたじゃないか。その気持ちで充分だよ」
 晶の肩に、そっと智史の手が置かれる。晶はその言葉に「うん」と「でも」の二つを何度か繰り返し、それ以上の言葉を見つけることが出来ないまま、涙を流した。僕は黙って二人を見つめる。
 きっと、ここは彼らにとって大事な場所になっていたのだと思う。
 エアコンもなく、少し離れた場所にある小さな扇風機だけで、蒸し暑いこの空間の中できっと彼らは汗だくになり、それと同時に苦悩や喜びを染み込ませていったのだろう。
 僕は今更になって、もっとここに来ていればよかったと悔やんだ。そうすればこの沈黙の中に確かに存在する言葉や、涙の意味を理解出来ていたはずだから。
「無駄だったわけじゃない。ラジオが出来なかったから、今までここでやってきた事が無意味になってしまった訳じゃない。だってそうだろ? 俺達は頑張ったし、俺はそれだけで充分嬉しかったよ。浦沢も原田も真尋もきっとそう思ってる。それに」
「それに?」
「こうやってギターをちょっと弾けるようになった晶がいるじゃないか。ラジオが出来なくなってもギターをやめずに、上手くなったお前がいる。俺はそれだけでもやってよかったと思うよ」
「そうだよ、晶ギター弾けるようになりたいって言ってたじゃねーか、それが出来るようになっただけでも意味あんだろ」
「うっせーよ、康弘。誰のせいだよ、俺の指がこんなに豆だらけになったのは」
 そう言って見せ付けるように差し出された彼の左手は確かに皮が幾分厚くなっているようだった。
 僕は「立派だよ、すげー立派」と、その勲章のような指と、ようやく彼が浮かべた笑顔に、拍手を返した。
「でもさ、そろそろ帰ってこいよ」
「……そうだよなぁ、最後の日までここに一人でいるわけにもいかないし」
 その台詞を聞き、僕はほっとする。彼が孤独と寄り添う事を望むのではなく、やはり誰かといる事を望んでいるのだと思えたから。
「うん、行こうか」
 智史がそう声をかけ、僕達は立ち上がった。
 晶はギターをケースにしまうと背中に担いだ。置いていこうかどうか迷ったようだったが、やはり愛着が沸いたようだし、僕はその内彼のギターを聞かせてもらえるような気がしていた。
「ここに置いていくのもなんかかっこいいような気がするんだけどさ」
「意味わかんねーよ」
「お前にゃわかんねーよ!」
「はいはい」
「あーもう分かったからけんかするなよ」
 スタジオを出たところで、晶が立ち止まり建物を見上げ、僕と智史もそれを真似するように顎を少し傾けた。
「お別れだなぁ、こことも。本当にお別れだ」
「そうだな……楽しかったな、なぁ、晶」
「うん、本当に、楽しかったな」
 郷愁のような、そんな思い。
 しばらくそうやって見つめていたが、やがて僕達は振り返り原付に跨った。
 風が吹いた。その風は地面すれすれを走ったかと思うと、勢いをつけたように今度は上空へと向かい、僕達はその行方を追いかけるように空を見上げ、そこに一筋の流れ星を見つけた。
 僕はあの防音室に立ち入り禁止の張り紙でもしておけばよかったのに、と思う。足元に転がっていた磨り減ったピックや切れている弦もそのままにして、古墳やピラミッドみたいに現状を保存しておくべきだと。
 あのスタジオには今、そしてこれからも安易に荒らしてはいけないものがある。それは彼らだけが踏み入る事を許されていて、どんなに短くても確かにそこに、歴史を刻んだ。


「大体さぁ、偉そうな事言ってるけど、俺が帰ってきた時、智史も酷かったんだぜ? あれもう廃人だよ、廃人」
「マジで? なんだよ、智史かっこわる」
「その話はもういいだろ……あの時は本当に悪かった……ってあの時そう言えば康弘本気で殴っただろ」
「だからそれはお前が酔ってて勝手にベッドに頭をぶつけたんだろ」
「いや、その事じゃなくて、麻奈がいなくなってからの事、ってやっぱりお前あの時も殴ってたのか!?」
「……いや、だからベッドだって」
 自分の失言をなんとか誤魔化そうとしたが、既に手遅れだったようでなぜかこの場で一発殴られる羽目になった。晶が「やれやれ!」とはやし立てて背中から僕を思い切り羽交い絞めされ、帰ってきた教室でなんとか逃れようとジタバタしては、周りは騒がしい僕達を見て苦笑いを浮かべていた。
 見事に脇腹に入ったその痛みでしゃがみこみながら、僕はなんとか報復の手段はないだろうかと考え、思いついたのは真尋の事を晶にちくる事だった。
「なああああにいいいいいいいいいいいいいいいい!!」
「……いや、ちくった俺が言うのもなんだがそこまで興奮する事か?」
「お前らは! いっつもそうやって抜け駆けするんだもんなあああ!!」
「……いや、俺、断ったって」
「なんで断ったりするかなあああああ!? もてる奴の余裕かああああ!?」
 いや、そんな余裕とか活かす時間ないし、全然違う問題だと思うんだが。
 と言っても、どうやら全く聞き入れる様子ではないな、と判断した僕は無言で智史の後ろに立ち、先程の僕のように今度は彼を羽交い絞めにした。
「ちょ! なにするんだよ!?」
「あー、晶さん、こいつ好きにしちゃっていいっすよ」
「ちょっと!? なんで俺が殴られないといけないんだよ!?」
「うるさいいいいい!! 俺の恨みを思い知れえええええ!!」
 一体、なんの恨みだろうか。
 ぼこ、っと鈍い感触を智史を通じて感じると彼を解放した。よろめいた彼の向こう側にいる晶はそれでもまだ収まりがついてないらしく目元が充血している。彼はフラフラと窓際で頬杖をつくと「あーあいいよなー、俺なんか誰にも告白されないしなー」と遠くを見つめだしてしまう。僕はどう声をかけるべきか判断をつきかね、しばらく放っておく事にした。
「……なんかおかしくないか」
 智史の呟きが空しく教室に響く。
「いやぁ、自業自得だろう」
「なんで自業自得なんだよ!?」
 そう、適当な返事を返していたがふと背中に気配を感じ、振り向こうとしたところで、それよりも先に頭に激痛が走り僕は床に無様に転がった。
「なにが、自業自得なのよ」
「……いや、嘘です」
 冷や汗を感じながら、僕を見下ろしている真尋にそう応えた。彼女の右手には厚めの本が握られており、恐らくその角で僕を打ったのだろうが、今ではその痛みよりも恐怖感のほうが上回っていた。
「……えっと、いつからいたの?」
「あんたが智史に殴られてた頃から」
「へーそうだったんだー、いるならいるって言ってくれればよかったのに」
「うん、そうね」
 お互いに棒読みのような台詞を交わしあう。
 だが次の言葉で彼女の表情が豹変した。
「あんたのその軽い口が動く前に、言っとけばよかったわ」
「いや、ほんと、すみません。悪気はなか」
 僕の隣で、智史が同じ痛みを感じるかのように目を閉じた。
「まったく、あんたは本当に」
 苛立たしげに言う真尋を一緒にいたらしい麻奈がなだめる。彼女は僕に「大丈夫?」と尋ねてきたが同時に
「康弘君、そういうの勝手にばらしちゃダメだよ」
 と彼女にまで説教をくらい、僕はうなだれた。
 いつもの光景。
 その言葉が浮かび、だがここ最近その光景は随分遠ざかってしまっていた、とも思う。
「俺も恋愛してー!」
「……そこ、運動場に向かって叫ばない」
「うるせー! 智史に俺の気持ちが分かるかー!」
 いつもの光景とは、僕達が望む光景、と言い換えてもいいのかもしれない。きっとどれだけ日常を退屈だのつまらないだのと言っても、僕達が本当に求めているのは決して非現実的でドラマティックなものではなく、こう言った些細な繰り返しの日々の方だ。
 なぁ、つまらない、なんて口に出来る間は本当のつまらなさなんて体験してないのかもしれない。そうやってつまらないって感情を誰かに伝えたり、受け取ったりしているのはきっとその先の楽しいものを探したりしている事の途中での事でしかなくて、本当のつまらなさ、なんてものは僕達は一生知る事が出来ないかもしれないし、一生知る必要がない事なのかもしれない。
「晶君、好きな人いないの?」
「いたら、もうとっくに告白してるし、と言うか二ヶ月くらい前に告白してもう振られたし」
「麻奈、それ以上傷口広げないほうがいいよ」
 いや、うん、こういう話でも、完璧につまらない事はないと思うんだ、多分。
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 晶が家に顔を見せに帰ると言い、麻奈と真尋もそれぞれ家に帰ったあと、僕は智史と運動場にやってきていた。彼は僕が屋上ではなく運動場を選んだ事が不思議だったようだが、僕が曖昧に返事をするとそれ以上は聞いてこず、暗闇の中二人で並んでマルボロの白い煙を吐き出した。
「今日が終わったら、あと五日しかないんだな」
「そうだな」
「早かったな。一ヶ月。色んな事あったけど」
「だな、本当色々あったよ」
 僕は彼の言葉を聞いて終業式からの記憶を思い返した。
 ゆっくりと確実に迫る死を宣告され、世界は混沌へと傾いた。あの日、人々は至る所で死への絶望と生への渇望を叫んだ。
 数え切れないほどの涙を流し、きっと僕の知らないどこかでは血が流れ、多くの命が消えていったのかもしれない。結局のところ、こうやって皆なにをしたって一緒に死ぬという時になっても僕達にとって他人は他人でしかなかった。だけどそれはそれでいいのかもしれない。
 隣人を愛する。人間の生き方なんて「その程度」で充分なのかもしれない。だって、そうする事が出来たなら、僕達の間にある糸はきっとどこまでも途切れる事無く続く事が出来るはずなのだから。
 新藤先生。捨てられたコンビニで会った人達。こんなご時世にひたすら明るいだけの歌を歌ったアーティスト。公園でラジオを聴いていたホームレス。きっと彼らにも手を繋ぐ誰かがいて、僕の知らない物語を紡いでいる。
 遥は僕には切りがないと思える数の繋がりを切った。だがそこにあったのは、喪失ではなく、本当の繋がりを探し、確認するための作業だ。その逆に諏訪先輩は目に映る全ての人と繋がりを生み出すことを選んだ。それは自分と誰かを繋ぐ事と同時に誰かと誰かを繋いだ。仙道は無関心に手を伸ばす事を一切やめた。残された時間を自分が望む事を行うことだけを洗濯する為に。
 上杉直人と植田智子。
 僕は二人の事を殆ど知らない。いまでもあの選択が正しかったのかどうかも分からない。きっとあの放送室で二人のために涙を流した彼にだって分からないだろう。ただ、二人はきっと、二人だけの理解を得たのだろう。
 おやじとおふくろ。俊介と夕子。きっと、最後まで僕達は繋がっている。誰にも、何者にも断ち切れない強い糸によって、永遠に結ばれている。
 そして、小林と、小笠原。
 彼と彼女だけは、最後まで孤独と共に歩むのかもしれない。小林は――本人がどれだけそう望んでも――誰にも本当の自分を知られる事なく、自分の死すら誰にも知られる事なく孤独に消えていく事を選んだ。そして小笠原は誰かに本当の自分を知られる事を拒み、誰にも振れられないまま孤独に生きていく事を選んだ。
 僕にはそれを幸せと呼べるのかどうかは分からない。だけど、僕がそれを表現する事に意味などあるのだろうか。紅と蒼が望むような幸せを、僕は肯定するが、彼らはそれに首を頷く日は果たして来る事などあったのだろうか。それはきっと、小林と小笠原だけの事ではなく、皆そうなのだ。世界を誰かが定義する事など決して出来ない。だから僕達は衝突しては迎合を繰り返す。薄情でも、冷酷でもない。
「世界の全てを愛する事なんて出来ないよな」
「そうだな。でも、目に見える誰かを愛していれば、それで世界中に愛は溢れてるんじゃないかな」
 智史は照れる様子もなくそう言った。
 僕はやっぱり彼はそういう事を言うのが似合っていると思った。
「報われなくても、誰かを愛した記憶は残る。愛した方は当然、愛された方にもね」
 僕は、きっと小林と小笠原に届ける事は出来なかった。報いる事は出来なかった。だけど、愛してあげる事だけは出来ただろうか? きっと自分で回答を見出す事は出来ない。彼と彼女だけがそれに答える事が出来、僕はきっとその正解を聞く事はないだろう。だけど、僕は
「それで、いいと思うんだ」
 そう、僕は、彼らにとっての、他人だから。
 この寂しさも、悲しみも、僕の中の物語だから。
 彼と彼女の物語の中で、隣人はきっといたのだから。
「夏休みでよかったな」
「なんで?」
「思い出作ろうって気に嫌でもなるじゃん」
「そういう問題かなぁ」
「そーだよ。あと五日、しっかり生きないとな」
 そう言って立ち上がり時計を見ると間もなく日付が変わろうとして、そろそろ教室に戻ろうかと切り出そうと思ったその時だった――バチン、と腹に響くような音が鳴ったのは。
「あ?」
 僕も智史もその音がなんなのか分からず、二人で顔を見合わせた。音の出所はかなり離れていて、それも真上の方から聞こえてきたもので、僕は何事だろうと視線を上へと向けたその瞬間だった。
 世界の色が反転したのは。
「うお!?」
 僕達はもう一度鳴ったその大きな音と同時に急にフラッシュを焚かれたような眩しさに襲われ、目を細め、同時に驚きの声を出した。
「嘘だろ?」
 智史の呆けたような声が聞こえる。だが僕も彼と同様目の前に映る光景が信じられず呆然としていた。
 運動場に、光が点っていた。それは部活動などで夜間練習に使われるためのあの照明の光だ。あの日以来使われることのなくなったそれが今唐突にその役目を思い出したかのように僕達を照らしていた。
「なにがどうなってんだ?」
 ようやく光に慣れ、かざしていた手を下ろしたところで僕ははっと校舎を見つめた。
 窓から光が零れている。アロマキャンドルのような優しさはなくても、力強く存在を主張するような光が校舎の至る所から溢れ出していた。
「康弘、見ろよ、あれ」
 彼の言葉に僕は振り向いた。彼が見ていたのは学校の外で、僕は彼が見ていた景色を見て、感嘆の溜め息を零した。
 民家の一つ一つ、そして街灯や看板のイルミネーションや遠くには高速道路の照明などから、ゆっくりと浮かび上がる蛍のように光を生み出していた。
「……やべぇ……すげぇ」
 今目の前で生まれようとしているオーロラのように無数の光がどこまでも広がっていく光景は、まるで新たな命が生まれようとしているようですらあった。
 わぁっ、っと校舎からも歓声があがる。スイッチをオフにしていたらしい教室からも慌てて皆に追いつこうと言う感じで電気がつけられていた。
 僕はもしかしてとポケットから携帯電話を取り出す。そこにはやはり今まで「圏外」と表示されていたのが今ではしっかり三本アンテナが立っていた。
「おいおいおいおい、なんだよ、マジかよ」
「夢じゃないよな、これ」
 どうやら夢じゃないみたいだぞ、と僕は彼の背中をバン、と強く叩くと同時に校舎に向かって駆け出した。
 後ろで「叩くなら自分を叩けよ!」と非難がましい声がするが、だがその声も高揚し切っていて全く効果のないものだった。


『皆さん、ちゃんと見られてるかな? こんばんは。残り五日間だけですけど、ライフラインを復活させる事が出来ました。皆さんの生活のお役に立ててもらえれば嬉しいです。一応私達の事を説明しときますね。と言ってもそれほど詳しく言うような事はなくて、一言で言えば善意のボランティアのようなものです。ちゃんと言っとくと一部の政治家さんもいるんだけどあんまり表には出たくないんだって。一応最後の日、八月三十一日まで皆で交代で供給を続けられる手筈になってます。まぁ、最後の日はちょっと適当になっちゃうかもしれないけどね。えーと、どうしようかな、テレビで一人で喋るって恥ずかしいね。アナウンサーとかよくカメラに向かってうまく笑えるなぁ……って話が逸れちゃったけど、とにかく私が言いたいのは恩着せがましく言うわけじゃないんだけど、日本の皆さんのために頑張ってる人がいた、ううん、今もいるって事を伝えたかった。皆の幸せを願ってね』
 僕達は教室のテレビでその映像を見守っていた。テレビに映る中年男性は緊張しているのか、なんどか首に巻かれたタオルで額の汗を拭いていた。
『まぁ、言う事はそれくらいで、この放送も単なるライフラインが復活したと言う事をお伝えするだけのものなので、あとは自動放送に切り替えます。皆さん、隕石の落下まであと僅かな時間しかありませんが、精一杯生きましょう。ちゃんと生きて人間らしく死ぬ事を選びましょう。そうあってくれれば私達も復旧作業に尽力した甲斐があると言うものです。それではこのあたりで失礼します』
 その言葉を最後に映像が切り替わりライフラインが復旧した事を知らせるテロップだけが映るようになった。
 僕達は、その放送が終わり、しばらくお互いの顔を見渡し、そうしている間にも口から笑いが零れてくるのを抑えることが出来ず、誰彼構わずすぐ近くにいる誰かと抱き合ったり、大きく叫んだりして喜び合った。
「すげえ! 水道から水が出る!」
 その声を聞きながら、僕も廊下に出て水道の蛇口を捻った。初めは濁った水が間断的に吐き出され後ずさったが、それが収まると綺麗な水が流れてきて、僕は思わずそこに頭を突っ込んだ。ひやりとした冷たさが気持ちよくて僕も皆に負けじと喚起の声を上げる。
「……いるんだなぁ、こうやって、俺達を救ってくれるような人」
「ヒーローだよなぁ、まさに」
 頭を振り回して水分を飛ばしているとそんな言葉が届いた。
 まさにその通りだ、と僕は思った。この夢も希望もないと思えた世界にもちゃんと正義は存在して、苦しんでいる僕達を救ってくれる救世主は確かにいたのだ。きっと彼らはあの日からこの日のために様々な障害を乗り越えて復興作業を成功させたのだろう。僕はあのテレビの中の中年の男性と、そしてそれ以上の表には出てこないヒーローに感謝を捧げた。
 携帯電話が鳴り、麻奈からだと分かると僕は通話ボタンを押した。
「はい、もしもし!」
 僕の威勢のいい声に『わ、びっくりした』と言う言葉が確かに聞こえ、僕は顔をほころばせた。
『すごい、通じちゃった』
「テレビ見た?」
『うん。それで今こうやって電話してみたの』
「いきなりびびったよなぁ、こっち皆大騒ぎしてるぞ」
 それを聞いて、彼女は私も学校にいればよかったなぁ、と残念そうに言う。
「明日来いよ。俺も智史もいるからさ」
『そうだね。ちょっとお母さんが呼んでるから今日はもう切るね。おやすみなさい』
「おやすみ」
 通話を終え携帯電話を折りたたんでから、僕はふとその携帯電話を見つめなおした。
 思えば、僕達の共同生活はこの携帯電話に届いたあのメールから始まったのだった。
 小笠原が世界の最後に希望を込めて送り、受け取った僕達も、同じようにそのメールに希望を探そうとしていた。
「康弘、なにぼーっとしてんだよ」
 近寄ってきた智史と晶に振り返る。
「なぁ、世界が再びお前達を必要としてるみたいだ」
 僕はそう言ってにやりと笑みを浮かべ、両手を大きく広げた。二人はそれだけでなにが言いたいのか理解したようだったが「なに格好つけてんだよ」と毒づいた。


「とりあえず分かる範囲で揃えたよ」
「ありがとうございます。諏訪先輩」
「なんで俺も呼び出されるの?」
「お前の交友関係なんか俺も先輩も知らねーからだよ」
 僕は諏訪先輩と仙道と共に職員室に設置されてあったパソコンに向かい合っていた。諏訪先輩が携帯電話とパソコンを繋ぎ、マウスを何度か動かすと「よし、出来たよ」と言い、今度は僕と仙道の携帯も同じように接続する。
「ねぇねぇ、やなちん、これなんなの?」
「携帯の中のアドレスをパソコンに転送してんだよ」
「うぇ? そんなの出来んの?」
 僕もそんなにパソコンに詳しい訳ではないので、諏訪先輩がどうやっているのかよくは分かっていないのだが、こうやって出来ているのだから細かい事は深く考えない事にした。
「携帯でやってたらきりがねーからな。文字打つのも面倒くせーし」
「柳君、もう内容さえ出来ればいつでも遅れるよ」
「よっしゃ」
 僕はローラーつきの椅子を引くとキーボードに指を添えた。
 しばらくいいアイディアが浮かんでこず、キーボードが押されるか押されないかと言う曖昧なところで指をコツコツと動かす。そうしていると仙道が口を挟んできた。
「ねぇ、俺がやろうか?」
「やかましい。お前みたいなバカに任せたらどんな事になるか分からん」
「あーあーひーどーいーなー」
 そうやって騒ぐ彼を僕も諏訪先輩も完全に無視し、僕は「ま、適当でいいか」と一言呟いて、キーボードを叩いた。
 そこに、希望を込めて。そして喜びを求めて。


『中央高校生徒全員集合!


 いよいよ、最後の日まで残り五日となりました。夏休みから今まで色んな事あっという間で、けどいい事も悪い事もたくさんあったと思います。今日ライフラインが復活しました。だからって訳じゃないけど、最後にまた皆で学校に集まったりしちゃいたいと思います! 残り短い期間ですが、もうこれ以上無理ってくらい僕ら全員胸のど真ん中に残るような思い出を作ってやろう。このメールを見た人は、まだ届いてない人もいるかもしれないので友達とかどんどん回してやって、どんどん来ちゃってください! 待ってます!!』


「うーん、まーいーんじゃないかなー」
「そっか? じゃあこれで、やっちゃうか」
「よし、じゃあやろうか」
 僕は、自分で書いたそのメールの内容におかしいところはないか何度か確認して、大丈夫そうだと判断した。三人でお互いに顔を見合わせ、無言で頷きあい、僕はエンターキーに中指を乗せる。


「メール、送信!」
70

秋冬 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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