AVに投影される女性の欺瞞
昔からAVの批判としてよく聞くのが、それが男性にとって都合の良い欲望の具象であるという切り口である。しかしそんなのぶっちゃけ男から言わせて貰えば精子出せりゃいいのである。もし仮に都合の良いものが描かれるのであれば精子ぶっかけたティッシュを女優が片づけてくれるところまで映す必要があるだろう。(顔射とかはそういう意味もあるのかもしれないが今回は論じない。)
AVにおける女優の振るまいは現実における女性の振るまいである。これは無から発生したキャラクターならばそこに男性の欲望のみが投影されると言えるかもしれないが、AVの場合女優が起用されるので100%欲望ということはありえない。あるとすれば現実のそれと誇張のみである。そのAVの誇張を見て全てを批判しようとした時には、現実の女性も批判されることは否めない。AVを批判するのであればそれに登場するAV女優という女性をもまた批判しなければならないのである。
誇張を無くした時に残る振るまいというのは女性の欺瞞である。女性は日常的に自分を男性より下位に貶めることによって逆に男性よりも上位の立場を獲得することがある。もしこのように下位の立場となった女性にそのまま接すると、それが以前と同じ立場であるにもかかわらず男性は糾弾を受けざるを得ない状況へと追い込まれるのである。男性はこういった状況に日々追い込まれることに苛立ちを憶える。
このような男性を慰めることのできるのがAVという媒体である。そこでは女性によって用意された下位をそのまま甘んじることのできる幻想が展開される。もはや現実にはそのような女性は存在しない。男性がそういった過去の女性像、何の不利益もこうむることのない母親のような女性を甘受できるのがAVなのである。
参考文献
寺田広平(2007) 『ジェンダーって何だ』 新都者(新都社新書)