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新都社におけるオリジナルとパクリ

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現代において「オリジナリティ」は非常に高く評価される。漫画や小説においても。
であればその逆―「パクリは即悪」という風潮が自然発生することもまた至極当然である。

新都社は漫画や小説を発表する場である。それらは広義の「物語」に属する。
この物語の世界においてオリジナルであることがプラスの価値を持つようになったのは今から200年ほど前の話。近代化の原因でもあり結果でもある資本主義経済が物語に「オリジナルであること」を要請し始めて以降の話である。

モノや情報を「持っている人」と「持っていない人」―両者の落差にお金が生じる。
これが資本の論理である。
つまり、希少であること、独創的であること、オリジナルであることが資本主義の社会にあって利益を生むのである。オリジナリティ信仰はこうした経済的側面と不可分の関係にある。
それは人類の歴史という観点から見れば比較的新しい価値観であると言えよう。

ところで、筆者は日々くだらない漫画を描いては新都社の末席を汚しているのであるが……
たいした才能もないのになぜ漫画を描くのか?
その回答は「模倣欲求」である。
「今日面白い漫画を読んだ。凄く面白かった。だから自分も描いてみたいと思った」という
幼稚園児からお年寄りまで、誰にでも理解可能な単純な動機に他ならない。

この「模倣欲求」こそ、あらゆる創作活動の最も原初的な衝動であると筆者は考えている。
面白い漫画を読んだという経験無くして一体誰が漫画を描こうなどと思うであろうか!

映画界の鬼才タランティーノは映画好きが高じて映画監督になったような人物である。
彼のデビュー作『レザボア・ドッグス』はある香港映画のストーリーからラストシーンまで
パクリ倒した傑作である。
「好きだからパクった。文句ある?」とタランティーノがうそぶいたかどうかはともかく―
そこには彼の映画に対する愛情と、根源的で純粋な「模倣欲求」が溢れている。

したがって、現代の作家には2つの相反する命題が課せられていると言えよう。
一方には産業資本の要請した「オリジナリティ」という評価軸が。
他方にはいかんともしがたい「模倣欲求」が。

新都社は、商業地帯に比べ、そこまで強く資本の寒風が吹き荒れてはいない(はず)。
実際、パロディに類する作品の数も多い。創作の「模倣欲求」をより満たしやすい場である。

筆者はオリジナリティのある独創的な作品が大好きだし、
そういう作品を描ける作者さんを尊敬して止まない。
同時に、筆者は「これパクリだろwww」って作品も大好きである。
そうした作品はあまりにナイーブすぎるが、かつて作者が経験したであろう
「面白い作品を読んだ日の感動」が直に伝わるからである。

というわけで、「パクリ即悪」と断じる前に、オリジナルとパクリの狭間で、
一度立ち止まって考えてみるのも一興ではないだろうか。
いや、別に、自己弁護しているわけじゃなくて。
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