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AVと物語と人生論

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 AVを見て何らかの感慨や刺激を受けない人が居るだろうか。おそらくほとんどの人は性的な刺激、あるいは嫌悪感を催すだろう。それらはおよそ構成立ったものに依存しておらず、ほとんどの舞台装置や演出はある種の記号的意味しか持たずに独立している。しかしそれらが与える刺激はいわゆる物語と言われるものよりも刺激に満ちていて散漫ではない。「物語」はしっかりと構成された物こそその刺激が散漫にならざるを得ない。
 「物語」の最初の文章はその構成にしっかりと根を下ろし、構成の供給する養分に依存して成長する。したがって構成の起伏によってその成長が制限されている。それらは一切の記号的価値を剥奪されて構成という支配の下に隷属されざるを得なくなる。おっぱいの好きな人にとってはパイ揉みシーンこそが志向であるのに対し、「物語」は必ずセックスと射精シーンに最大の感情移入を強制する。それは普通のAVが見たいのにゲイビデオだったというほど強烈な暴力的印象を伴うだろう。
 それでは「物語」からおっぱいを取り戻すためにはどうすればいいだろうか。我々はまずその構成を意図的に破壊する必要があるだろう。あるいは散漫な記号を配置することによって――それはちょうど複数女優が出演するAVのように――その刺激によって散漫な構成内の空白部分を余すことなく満たす必要がある。
 そういえばちょうど人生といったものもそのように構成立ったシナリオによってAVを剥奪されるのだ。我々はAVによって世話になり、それとともに成長したと言えるのに、しかしある種の社会性や常識といったものに阻まれて次第にAVとの関係が薄まってしまう。それは即ち我々が自ら成長を拒むということと同じであるだろう。我々は今こそ自分達にとって必要なものを取り戻すべきではないだろうか。
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