中二病という言葉がある。
また、厨二病という言葉も存在している。
前者は大雑把に言うと「子供なのに穿った見方をする、大人ぶりたくなる症状」の事とである。
後者は所謂邪気眼系と呼ばれ「漫画やゲームの世界に憧れるあまり、自分をフィクションの世界の人物に置き換えてしまう(成りきってしまう)症状」と言える。
しかし中二病というものも奥が深く、完全なる定義は出来ていない。
ひとまずここでは中二病というものに対して、ニュアンスで捉えてもらいたい。
「ああ、確かに中二っぽいよね」という感覚で語っていくことを許してほしい。
中二病とは、言い換えれば十代の若者たちが格好良いと感じる要素のこと、と言えるのではないだろうか。
漫画やライトノベルにおいては、非常に重要な要素であると筆者は考える。
しかし中二病というものは、その限度を見極めるのが非常に難しいのである。
一歩間違えれば独り善がりな他人には理解のできないものとなるし、痛々しさを感じてしまうのだ。
確かに中二病というものは、総じて痛々しい物だと言える。
しかし良い中二病には、そういった痛々しさを感じさせたいものがあるのだ。
冷静になって見返してみれば「痛いなぁ」と思うことはあっても、初見で見た時には痛さを感じないもの。それこそが良い中二であると筆者は思う。
ヴァルキリープロファイル(以下VP)というゲームがある。
知らない人に説明すると、そのゲームはRPGであるのだが(ARPG寄り)、その戦闘の魔法の詠唱には中二病としか思えない呪文があるのだ。
例を挙げようと思う。
『汝、その諷意なる封印の中で安息を得るだろう、永遠に儚く、セレスティアルスター』
……うむ、中二的であるといえよう。
しかしプレイ中には、そんな痛さなど全く感じないのだ。
それは一体なぜなのか?
ずばりそれは、設定にあると筆者は睨んでいる。
この場合の設定とは、物語全体の構想についての設定のことである。奥深さと言い換えてもいい。
このゲームは神話を元にしたストーリーが下地となっており、非常に重厚な雰囲気のあるゲームだ。
また、人の死というものがテーマにあるため、王道でありつつもダークな面が強いゲームでもある。
そんな世界観に出てくるキャラクターたちは、どれも渋くてかっこいい。
そういった背景のあるキャラクターたちが唱える魔法の詠唱というものは、大変絵になるのだ。
つまりキャラクター性の一致と、世界観の一致が、中二を「良い中二」足らしめているのではないかと筆者は考える。
上記の呪文が、例えば中学生のノートにひっそりと書かれていたら、うわなにこいつ痛い野郎だな、という感想にしかならない。
では逆に「悪い中二」とはなんなのか。
簡単だ。キャラクター性と世界観が一致していない中二が、悪い中二と言える。
その典型例こそが中二病である。
現代日本で生きる中学生というただのガキが自らの設定した中二的な設定を羅列したところで痛さしか生まれないのである。
何故なら現代日本に魔法など無いし、中学生のような若い人間がそういった魔法などという「すごいこと」を出来るはずがないからだ。
つまり大雑把に言えば「違和感があるかどうか」にかかっていると思われる。
その違和感度とでも言おうか。それが無ければ無いほど中二的設定には説得力が増すのである。
やれやれ系主人公というものがある。
簡単に言えば「やれやれ面倒なことになりそうだ」といった内容の台詞を主人公が呟く訳である。昨今のライトノベルだと、突然やってきた美少女と何故か同棲することになり、呟かれることが何故か多い(最近はそういったものは少ないかもしれないが)。
このやれやれ系とやらが嫌われるのは、以下の理由からだと思われる。
まず、普通男子高校生(一般的なライトノベルなどの主人公)が美少女と同棲することになったら、恥ずかしさも大きいだろうが(程度の差こそあれ)嬉しいはずである。
なのに、やれやれ面倒なことになったぜ、というのは普通の男子高校生像と離れている訳である。
また、この現象は大人ぶっているものであるとも解釈できる。つまり冒頭部分で語った、前者の意味での中二病である。
こういった二つの理由で、多くの読者は違和感を持つ訳だ。その違和感が嫌悪感になり、それがつまりやれやれ系とやらが嫌われる原因であろう。
勿論面倒くさがる明確な理由があればよいのだが、それが読者が違和感を持つことなく納得できるレベルで理由付けされている場合が殆どない訳である。
このやれやれ系が見事に扱われている例としては、ジョジョの奇妙な冒険三部の主人公である空条承太郎が挙げられる。
この主人公も「やれやれだぜ」といった内容の言葉をそれなりに呟くが、このキャラクターに嫌悪感を抱く読者はあまりいないのではないだろうか。
何故ならこのキャラクターには下地(背景)があるからである。
空条承太郎は、バリバリの硬派な不良な訳である。
ガタイが良くて喧嘩も強い。一匹狼の不良学生。
その描写がちゃんとなされているからこそ、女子学生にまとわりつかれても「やれやれ」という台詞が許される訳だ。
『中二』とは、ただあるだけでは中二病かどうか判別できない、ややこしいものなのだ。
VPの呪文も、現代社会の中学生男子が言うのと、ハードでダークでファンタジックな世界観の老獪な錬金術師が言うのでは、全く捉え方が異なってくる。
「やれやれだぜ」という台詞も、スカした高校生が言うのと、四十過ぎのハードボイルドでダンディなオッサンが言うのとでは、まるで意味が違ってくる。
よって、少年向けのサブカルチャー(漫画やライトノベルなど)で良い意味での中二感を描写することは極めて難しい。
何故なら先述したように、背景という経験を十数年しか生きていない若者に付与するのは難しいからだ。一歩間違えれば、ただの痛い奴が出来上がってしまう訳である。
しかし敢えて筆者は言いたい。
筆者は、中二病が大好きだ(勿論格好良い意味での中二病である)。
現実的にはありえねぇデザインのカッコいい武器を振り回すとか最高だし、日常じゃ絶対使わないような単語の羅列の魔法の呪文とかクソカッコいいし、覚醒とか燃えるし、邪とか滅とか神とか魔とか、とにかく中二病が好きだ。筆者と同じような嗜好の人間は少なからずいると信じている。
しかし中二病と痛さは紙一重なのである。
中二を中二足らしめるには背景がいる。理由がいる。説得力がいる。
中二というと、中学二年生でも考えられそうなものと思ってしまいがちだが、いや実際にそうではあるのだけれど、そうじゃねぇんだよ。中学二年生でも考えられるんだけど、それとはちょっと違うっつーか結構違うんだよ。
ぼくのかんがえたさいきょうのものがたりってのを脳内で考えるだけってのと、実際に作り出せるのかは別問題なんだよ。
中学二年生には『設定』を作ることは出来ても『背景』『理由』『説得力』までは造り出せない。それが素人とプロの違いなのではないかと筆者は考えている。
簡単に見えて実はかなり難しい良い中二病。
この奥深い題材を存分に活かした血沸き肉躍る、想像力を駆りたてる作品がより多く生まれて欲しいと筆者は願う。