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パクリの境界線についての考察

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『パクリ』とは作品を生み出す側にとって不快を覚えざるをえない暴言であると同時に作品の防衛に使われる言葉である。
しかしその線引きは非常に難しい。では、我々は自身でどう判断をすればよいのだろうか?

そもそも一概に『パクリ』と言っても様々な分け方がある。
例としてここでは創作作品における「内容」のパクリ、「絵、キャラクター」のパクリを挙げることとする。

最初に挙げた「内容」のパクリ、これは先日webのニュースで取り上げられた星新一氏とイキガミが有名だろう。
因みにこれは作者本人が『パクリ』と明言したのではなく(印税でいい生活してる)親族が発言による。
内容は知っての通り、「国に無作為に選ばれた人間が死を与えられる」というものである。
確かに指摘される部分はこれだけではないが大部分はここだと思われる。
これを聞くと一見「これは酷い」「パクリ乙」などと言われるかもしれない。
だが少し待って欲しい。
例えば作品の説明として「体内のエネルギーを手から放出する」という内容の漫画だとどうだろうか?
さらに付け加えるのなら「そのエネルギーによって空も飛べる」という内容ならば?
そう、これは日本で最も有名な漫画の一つであるドラゴンボールの大部分の内容、そして多くの漫画で取り上げられる内容でもある。
これに対してはほぼ誰も「パクリ」と言いはしない。というより、自分の好きな漫画もこれに当てはまり他人に指摘されたなら
絶対に擁護するのではないだろうか?
そしてはっきり言うとファンから言わせて貰えば「その部分だけで全ての内容を語るな!」ということなのである。

次に「絵、キャラクター」のパクリについて、これについては最も有名なものは北京五輪パンフレットの涼宮ハルビン(分からないひとはググれ)だろう。
これはあくまで予想の域をでないが、政策側は「日本で最も人気のあるキャラをパンフレットとして使えばいんじゃね?」という観念から涼宮ハルヒを取り入れて作り、そして結果元作品を知る日本の若者に総つっこみを喰らった。
中国では前科として某テーマパークが著作権侵害で騒がれ「参考にした」などの言葉も無く「童話の主人公です」と呆れた発言が我が国の報道で伝えられたため『またこれか』感が増幅し不快感を倍化させたのだろう。

ここまでの内容を読み返すと、「前と後で言ってることおかしくね?」「筆者頭大丈夫か?」などと言うかもしれない。
しかしこの二つは似ていないようで重要な共通の要素を秘めている。それは受け取る側にとっての【不快感】だ。
つまり『法的措置がとられない上でのパクリの線引き』は【不快感】なのである。
前述のイキガミがもし、二ヶ月で打ち切りだったのならば星新一の親族は声を上げただろうか?
某テーマパーク(法的措置対象)が報道されず北京五輪のパンフレットを作った人間が「日本のハルヒ最高だよね。参考にさせてもらったよ」と言っていたなら?

現代には創作作品がそれこそ星の数ほど存在する。その中でこれから完全なオリジナルを作り出すことは不可能と言えるだろう。
好きな人間、好きなアーティスト、好きなテレビ、好きな本、好きな授業、学校生活。何物にも影響されずに成長する人間はいない。
つまりこれら全てから人間を隔離することなど不可能なのである。
あなたは自分の嫌いな作品に対し「〇〇のパクリ」と言ってはいないだろうか?

-追記-
つい最近某少年誌で、前作の内容ほぼそのままでキャラ変えただけの漫画(作者は同じ)が連載されたが8週で打ち切られた。
だから、似た内容ってだけで人気がでるのなら誰も苦労しねーYO!三国志の漫画だって売れるのと打ち切り喰らうのがあるわい!
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