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振子

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春の大川は、薄紅に染まっていた。
風の日が続いて、両岸の土手に整列する桜は殆んど裸となり、
例年より早く、艶やかな骸を、水面に塗している。
その隙間からは、朝の太陽が反射され、
幾本もの光線の筋が発生し、中空を突き刺していた。
また、時折は漣が起き、
花弁の絨毯がうねって、かすかに芳香を散らす。

ほう、と、まだ白みの抜けない溜息が二つ出た。
この早朝に珍しい散歩者である。

「一体、花の一生は短いなどと、知ったような事を言っているが、
 木そのものを見れば、我々人間より長寿ではないか。
 何故に一々、ぺーソスを見出そうとするのか。風人振って。」

鹿爪らしい顔が一気にまくし立てて、
小柄な体躯に似つかわしくない気炎を吹く。
飛び切り不粋の、桂章吉は、何事にも文句を付けねば気が済まない、
難儀な性格の男であった。

「君は木を見て、僕等は花を見る、それだけのことだろう。」

その傍らを歩く、安西京は、
窘めるのか、からかうのか、どっちつかずのことを言って、
目の前を横切る花弁たちに、一々視線を注いでいた。
桂の気勢も、この男には風に柳といったところで、
適当な言葉で流され、丸で功を奏しない。

噛み合わない二人ではあるが、
気難屋の桂は、何かと人に突っ掛ってばかり、
安西は安西で、曖昧模糊としか喋らないので、
どちらも他人から疎まれ続けた挙句に、ふとして出会い、
そこから何故だか、よく連れ立つようになった。
傷の舐め合いというわけではなかろうが、
変わり者にも、それなりの同士がいるらしい。
その親密さは、安西が気紛れから、
日の出ない内から桂の家へ赴いて叩き起こし、
無理矢理に市中引き回すという、今日の仕打ちからも伺えよう。

「しかしつまらない散歩だ。
 どこかで犬が鳴くばかりで煩いぜ。」

「野良犬も散りし桜を鳴きにけり、かね」

「犬など、悉く巡査に撲たれればいい。騒々しい。」

「こんな早くから巡査が回るかい。」

「ああ、回っていないさ。全く怠慢だよ。」

甜睡を妨げられた恨みはとうに打棄て、
今や無実の四方八方へ剣突を食らわせている。
その様子にも安西は臆することなく、
平気な顔で、好き勝手に春霞の景色を眺めている。
そのところ、おやと言って、対岸に目を留めた。
先行しかけた桂も、次いで視線の先を同じくする。

「巡査がいたかい。」

「いや。だが直に来るかも知れないね。」

表情だけで問い返した。

「首括りだよ。」
ややあって、くしゃくしゃと顔が不細工に歪みだす。
これは桂が人の言葉を疑う時に出る、非常に周囲に迷惑な癖である。
喩え苦虫を噛み潰したって、これ程にはなりそうもない。
安西も堪らず噴き出す。

「嘘じゃないぜ。まだ括っちゃあいないけど。
 ほら―― まだ決心が付きかねていると見えるね。」

安西の指の向こうには、確かに首括り人候補がいた。
桜の張り出した枝に、先を輪とした縄を吊るし
更にその下に、もちろん用途は言わずもがなであろう台を設置し、
更に更にその周りを、恐らくはこの舞台を調えたであろう人物が、
逡巡してかうろうろと忙しなく歩き回っていた。
着物からして男性、そして遠目からとしても余り背は高くない。
成人以下と見えた。
二人の存在に気付く様子もなく、
もはや首括りではなく、歩くことそのものが目的となったようで、
ご苦労なことに、こうして見ている間にも、
桜気を軸として、二週三週と距離を稼いでいる。

「何てことだ。おい、早く助けねば。」

「いや、助けるなら本当に首を吊ってからだろう。
 今に説得しようとして、揺れる縄と動ぜぬ台を観賞していました、
 なんて言われたら決まりが悪い。」

「そんな馬鹿があるものか。じゃあ、何故あれほど思いつめた様子なのか。」

「うん。もしかしたら、友人に頼まれて最期の花道を誂えて、
 吊りに来てくれるのを待っているのかもしれない。」

「結局は誰かが首を吊る結果じゃないか。」

「まあ、そういきり立たないでくれよ。
 そもそも、僕は人が首を括るのを悪とはしないしね。」

そう結論付けた安西は、爽やかな口元で、にやにやと笑った。
こんな反応をされた桂が黙っているはずも無く、
何らかと罵るべく息を吸い込んだところで、がたん、と音が立つ。

両君同時に振り返った視線の向こうには、
先の少年が、桂の危惧通り、また、安西の期待通り、
首に縄を引っ掛けて、地から僅かばかり浮き、
一生懸命に足をばたつかせている。
手は首に掛けられていたが、
どうにか縄を千切るためか、余計に首を絞める気なのかは知れない。
彼の口が開閉して、今一度、今一度と、
今生の空気を吸わんとしているところさえ見えた。

その様相の凄さと言ったら、肉に縄が食い込む感触だとか、
魂が抜けかけて、身体が段々と腐り果ててゆく悪寒だとか、
そういうものが、己の肉体にも伝染するかのようで、
桂は、背筋を走る一種の霊感に、恐怖せざるを得なかった。
少年の足元には、蹴飛ばされた台が佇んで、
内部の薄暗い空洞をこちら側に向けており、
その暗闇こそが、彼の落ちるべき奈落とまでさえ感じられた。
少年のもがきで、ぎしりぎしりと揺すられて花弁が舞い落ち、
興行を彩る様は、皮肉を越して滑稽でもある。

とかく桂は動きようが無かった。
或いは彼も、急に人の死を見たくなったのか。

「おい君、彼は随分必死に運動しているが、
 あれは一体、自殺に後悔して、どうにか生きたくて暴れているのか、
 それとも、早く死にたくて、体力を消耗させているのか、
 または単に苦痛への反射なのか、何れかね。」

いつも人を苛立たせるばかりの超然節が、
今ばかりは、感情を平静に戻させるべくして働いた。
死のうとしている人間を放って置くわけにはいかない。
はっとして、桂が駆け出した後方には、ただ気味の悪い薄ら笑いが残された。
2, 1

  

早すぎる決着であった。

「済みません、ご迷惑を。」

と、沈痛な面持ちで頭を下げるのは、まだ15、6歳程の少年である。
ただ奇妙なところは、首と桜の大枝を、縄で繋いだまま、
地べたに恭しく正座している。
彼の頭上からは、その枝の折れ末であろう、
棘作られた傷跡が、静かに見下ろしていた。

「君は何を―― 一体君は―― 何故。」

地団太を踏んだり、頭を掻き毟ったり、
苦しそうな呻き声を上げたり、誰を前にしても桂は喧しい。
己の感情に、身体が付いていかないようで、
あれこれ無用の動作をしては、落ち着かない。
そんなに好き勝手暴れられると、少年も怯えてか、
ちらちらと目を泳がせて気まずそうである。
桂が怒ると、少年がおどおどする。
少年が居心地悪そうにすると、桂がむしゃくしゃし出す。
期せずしての無間地獄であった。

振り乱される着物の下半からは、
水滴が飛沫いて、日を受けてきらきらと輝きつつも、
地に落ちては黒々と染みを作っている。
生地は中々上等なようであったが、
こう非道く濡れていると、面影を感じるべくもない。
この現象が示す通り、桂はわざわざ、
少年を助ける為に、単騎川を漕いで来たのである。
が、その志半ばで、少年が世話になっていた枝は呆気無く折れて、
誰の手を焼かせることも無く、死を賭した一大活劇は幕を下ろした。
そうして何故か、少年は何事も成していない桂に恐縮している。

「あの。」

「何だ。」

「そろそろ失礼します。」

言い終わらぬ内に桂は動き、
少年と繋がる桜枝を、ぐい、と踏みつける。
その表情はもはや仁王様に迫るほどで、
たかが小児が何人寄ったところで適いそうもない。
少年は正座を続けることを決めた。
それが賢明か否かは別として、唯己の恐怖心に従うのみである。

「こんな朝からこんな方法で自殺なんて、迷惑だ。
 君が余計なことをした所為で、
 僕は水の中を渡されて、風邪を引きそうに寒い。
 しかも君は、こんな立派な桜の枝を折った。
 そんなことをするのは酩酊した爺いくらいだ。
 そもそも何の権利があって首を括ろうとなどしたのかね。」

呂律も回らない上に、支離滅裂である。

自殺に朝も夜も無い。都合が良くて人通りが無ければ遂行する
その点で、首括りは準備が手軽と聞いた。おまけに苦痛は少ない。
他人が桜にぶら下がるのを見て、川を走らねばならぬ法は無し。
そもそも濡れたくなければ、大回りして橋でも渡れば良い話だ。
枝が折れたのは目的ではなく結果である。
自殺に問うべきは権利に非ず、理由ではないのか。
付け加えるなら、酩酊爺いに近いのはお前の方であろう。

少年の思考はここまで展開されたが、口から漏れるものは無い。
仁王様相手に口答えは甚だ危険である。

「だんまりか。せめて名前だけでも聞かせてはくれないか。」

僅かながら顔つきが和らいだのを受けて、少年も一寸唇を動かす。

「彦田です。」

「そりゃ姓だ。名前と聞かれたら姓名を答えるものさ。」

「彦田一です。」

角度を付けた太陽が、丁度少年の背後を取って、
彼と対峙する桂の前身に照りつけた。
烈しいような、柔らかいような光に包まれた桂は、
先の微笑を更に広げて、ちらりと白い歯を見せる。
元来整った顔つきという訳ではないが、この時ばかりは妙に様になって、
一瞬の中で数段男振りを上げて見せた。
桂にだって笑うことくらいはできる。

「よし、分かった。彦田と言ったらあの家か。
 着替えた後に君の両親と談判しよう。
 二度とこんな事をせぬよう、きっちりお願い申し上げなくてはな。」

優しい振りをしたって桂である。
綻んでいた口角は、突如に上へ引き締められて、邪悪を滲ませた。
下駄の歯が枝に食い込んで、万力の如くぎりぎり圧力を加えている。
少年の歯はがちがち言う。
「いよー、説教してるのかい。相変わらず手厳しいことだ。」

安西の登場はいつも唐突である。
今回も、桂の背後の影から、音も無く現世に滲むように出現した。
これは娯楽としての、一種の趣味であり、
いつでも気配を抑えて、人の裏をかくことを好んでいるのだった。
そのような性格だから、法螺を吹いたりするのもしょっちゅう、
不人気を買うのに一層拍車をかける原因となっている。
桂はとうに慣れているので、溜息一つで済ませるが、
彦田少年には衝撃であったか、ぎくりと目を丸くして仰け反った。

「お知り合いですか。」

「昔、勝手に知り合われた。」

「何を言う、双方同意の上さ。
 それで君が自殺未遂者かね。何だまだ若いようだ。
 相当に厭なことでもあったのかい。」

上品な物腰と、穏やかな顔つきに、彦田も少々心を緩める。
きちんと橋を渡ってきたことも評価に値したらしい。

「ええ、色々と――」

「それにしても君、ぶら下がるなら松にしたまえ。
 桜は死体を埋める目安だよ。見当違いなことだなあ。
 縄も余り上等でないようだ。もう少し奮発しないと、冥土で後悔するやも知れないよ。」

話を遮っておいて、無関係の方面へ脈絡を伸ばすのもお手の物である。
次に溜息をつくのは彦田であった。桂の方は欠伸へ進化している。

「うん、まあいいや。それで一体何があったんだい。」

彦田はまただんまりになる。
少し話をすれば、安西の胡散臭さには誰でも気付く。
神経症の桂に至っては、その昔、
話す前の一目で気付いてはいたのだが、少し一緒に遊んでみたが最後、
この今までに交際を強いられているのは、甚だ気の毒である。
彦田少年も桂と同じく憂き目を見る破目になるかもしれない。
もちろん、彼にはこの場から逃げる選択もあるのだが、
運の悪いことに、桂がまだ枝から下駄をどかさないままである。
下手をすれば、安西地獄の道連れを増やそうと言う思惑かも知れない。

「黙ってちゃあ仕方ない。じゃあ少し言わせて貰うがね。」

独りで話を進めるのも、やはり得意分野である。
咳払いからの深呼吸、ゆらりと両腕を広げた。長話の合図であった。

「我々がここを通ったのは全くの偶然だ。
 なのに、今まさに自殺しようとしている君と出会った。
 これは奇跡だ。すばらしいことだ。
 と言いたいところだが、現代科学では、奇跡は起こらないものとされている。知っているかね。」

「はあ。」

「実のところ、僕は今朝、馬鹿に早くから目が覚めてね。
 悪夢とかではない、本当に何の気無しに起きた。今までこんなことは無かった。
 それが今日に限って、という話となるとだ。
 君が自殺の道を選んだ、その烈しい悲愴な決意が、
 我々人間同士一般の心に張り巡らされた幽冥界の網、まあ意識の連結を辿って、
 様々な人の魂と感応する内、僕のところにもやって来たところ、僕は未覚醒の内に感動に打たれ、
 思わず飛び起きてしまった、と思うのだがね。」

「からかうんじゃない。もう帰るぞ。僕は腹が空いた。」

「まあ、待ちたまえよ。もう一寸話させてくれ。
 ええと、そうだ。何故この桜の枝が自然と簡単に折れた。
 桂君の仕業じゃなかろう、見えていたからね。
 見たところそれほど細くはないし、君だって点検した挙句に縄をかけた筈だ。
 それが何故折れる。全くおかしい。」

「たまたま虫でも喰ってたんだろう。」

「だからってそうそう脆くなるものかい。
 いいかい、少年。今日の事件は必然だ。
 我々が通りかかったことも、桜が折れたことも、必然だ。
 偶然なんて、妄想の産物に囚われてはならないよ。
 僕は君の意識を受けて、君に会いに来たんだ。
 桜だって君を助けたいから、自らを傷つけたんだ。
 唯この桂という男だけは、因果を解さないから、つまらなそうな顔をしているんだ。
 桂のことはともかく、僕と桜を信じたまえ。」
4, 3

  

この時の安西の勢は、
単なる子供じみた好奇心から発生した、無垢なるものではない、
精神を刺激された気狂が、百心動乱の演説を始めた如くであり、
その瞳のぎらめきたるや、鬼気迫るを通り越して、
実に鬼の双眸そのものであった。
笑みを形作る唇は、紅を注したわけでなし、やたらとテラテラ光る。
安西本人が如何なる意図で、そんな形相を作るのかは不明だが、
どう見てもまともな人間の仕業ではない。
せっかくの自害の決意を挫かれて、心理の不安定になった彦田少年が、
こんな男と正面から相手をできるはずはない。

「どうか堪忍してください。大した話じゃありません。
 放って置いて下さい、さいなら――。」

言うが早いか、己の頸部に取り付いた縄を、引き千切るようにして解くと、
もつれる足で土手を駆け下り、屋根の群がる方角へ向かって脱兎と化した。
安西は追いこそしないが、ご馳走を取り上げられたような顔つきをして、額に八の字を書いていた。
先程まで取り付いていた邪悪な魂は、無事成仏したと見えて、
只今の様子では、紛うことなき一般の凡人である。

この寸劇を見て、桂はやや呆気に取られてはいたが、
傍らの人間の暴走がようやく片付いたと安心して、
踏みつけていた枝を手に取ると、例の大川へと放り投げた。
涼やかなような、どこか重いような、着水の音がして、
まどろんだ春の空気を揺るがせた。
特に目的のある行動ではない。強いて言えば行動が目的であろう。

「逃げられちゃあ仕方ないな。おい、次はどこへ行く。」

「何だって。」

自殺未遂の現場という、中々衝撃的なものを見ておきながら、まだ散歩を続ける気でいる。

「馬鹿を言え。僕はこれから朝飯なんだ。
 その後は彦田家に訪問だ。君に付き合ってる場合か。」

「今朝からこんな面白いことがあったんだ。
 これは運が良いぜ。きっと他にも何か起こるさ。」

「君の身にも起これば良いな。」

流石の桂も、早朝から気狂の相手には手が折れる。
それだけ言い残すと、懐手をして、さっさと早足で自宅へと歩いていった。
安西は肩透かしを食らった体であったが、これしきではへこたれない、
うんと大きく伸びをすると、どこへとも無くふらふらと足を向かわせた。

桂は歩きながら考える。
自殺しようとする人間の親は、まともでないに極まっている。
そんな親に育てられるのだから、彦田少年の兄弟姉妹も、
いつかは積極的往生をしない保障はない。
否、もしかすれば、次に桜にぶら下がっているのが一人だけとは限らない。
只一人でさえ、美観の損失と風紀の乱れは著しいのだから、
それが同時に二人三人と増えれば、正しく効果は絶大である。
ややともすれば、自殺を流行と勘違いした若者が、
俺も俺もと真似してぶら下がり始めるかも知らん。
それが広まれば、勘違いに留まらず、本当の流行と化して、
日本列島総自殺の祭りが始まるかもしれない。
もっとも、喩えそうなったとしても、自分はどこまでも生きるつもりであるが――
何にせよ、芽は小さいうちに叩き潰して踏みにじり、ついでに根っこまで穿り返すべきだろう。

このような平和思想を、しぶとく展開してはいたが、
しばらくすると、空腹の苦痛に思考を支配されてしまったのであった。
ともあれ、自宅の扉はもうすぐである。
5

景山才蔵 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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