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第三十五話 奇跡と炎と

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 カガミは反射的に手をパッと離した。ドサッとシマが尻餅をつき、喉を押さえて激しく咳き込んだ。
 その時にはすでに隆起した腕は元のしなやかな細さを取り戻していたが、それでもカガミは半身を引いて腕を隠すような仕草をした。
 そうして今、飛び降りてきた怪人を上目遣いに見やった。
 彼はしたたかに打ったらしい腰をさすりながら、片手を挙げる。
「よう、シマ」
 まだケホケホやりながら、シマは立ち上がってジト目で彼を睨む。
「遅いよ、天馬」
 天馬は汗と煤だらけの顔をだらしなく緩ませた。
「悪い悪い」
 この二人の言動で雨宮たちが混乱の極みに叩き落とされたことは言うまでもない。
 シマは表面上は天馬に裏切りを表明した。なのにどうして天馬はシマと仲良く笑い合ったりしているのだろう。
 まるで打ち合わせてあったかのように……。
「ありえない……」
 雨宮の口のダムが決壊し疑問の濁流が氾濫した。
「あの裏切りの時、天馬は演技なんかしちゃいなかった……」
 天馬は振り返り、仇敵と相対した。
 もうその瞳にはかつての怯えはない。
 それは勝利したからではなかった。
 もっと別の理由から、彼は今、自らの両足で立っているのだ。
「最後のリーチの前……オレは時計を見たんだ、雨宮」
「時計……?」
 天馬は雨宮たちの周りをグルグルと旋回しながら、手首に巻いた腕時計を示した。
「これは元はシマのだったんだけどさ……。よく見たら壊れてるんだよ、コレ」
 雨宮はなにがなんだかわからないという様子だ。
 すっかり落ち窪んでしまった空ろな目線が天馬に答えを求めている。
「壊れた時計を、後生大事に巻いてるなんて、よっぽど大切なものなんだろ。
 それをオレに持たせたままシマはいなくなったんだぜ」
 ひび割れたガラスをいとおしげに天馬の指が撫でる。
「シマは裏切ってない」
 シマはすっとぼけて明後日の方向を眺めている。
「オレはギリギリでその可能性に気づいた。
 そしてあの四本場。オレの手はちっとも形になりゃしないゴミ手。
 なんとか空リーチでおまえらを追い出せたけど、オレにはどうすればいいのか分からなかった。
 シマが助けに来てくれる様子もない。
 勘違いだったのかなってチラっと思った。
 そうして、ああ、もうこうなったら、おまえにはできないことをしてやろう。そう思ったんだよ」
「俺に……できないこと……?」
「ああ……。でも大したことじゃない。
 オレは自分に迫ってくる炎を、真正面から見据えただけだ。
 だがそれは、自分でリスクを背負えない、おまえにはできないことを」
「何を言ってる……それとおまえがここにいる理由となんの関係がある」
「見つけたんだ……火炎の中に真っ黒な円があるのを」
 雨宮はそれですべてを悟ったようだった。
 一瞬、目を限界以上まで見開いたかと思うと今度は顔をぐちゃぐちゃに歪めて握り締めた拳を震わせた。
「落とし穴があったんだ。……なァ、シマ」
 シマは懐から包丁を取り出した。リンゴを剥くのに使っていたそれには、木クズがたくさん付着していた。
「君んちの床、割と簡単に壊せたよ」
 シマは肩をぐるりと回して遠心力をつけると、それを燃える家屋の中へ放り投げてしまった。それは音もなく炎に抱かれて見えなくなった。
「最初に屋敷を探検した時、地下室の天井からわずかに人が動く気配がした。書斎でのんびりしていた君たちの音さ。
 二回戦でケリがつけば、こんな手品はするつもりはなかったんだけど」
 雨宮は一歩踏み出した。
「……まだだ、まだ分からないことがある。一階は火が回っていたはずだ。煙もかなり充満していたはず。
 なのに天馬、おまえはどうして煙に巻かれず二階へいけたんだ」
 天馬は痛む傷を抱えているように顔をしかめた。
「わからないか、雨宮」
「ああ、わからん」
「息を止めて目を瞑って、ただ走っただけさ。
 忘れられないほど遊んだからな、昔ここで」




 どこかでズン……と地響きに似た音がした。屋敷の中で家具でも倒れたのかもしれない。
 夜明け前の薄闇の中で天馬と雨宮は向かい合っていた。
 空気は凛と張り詰め、衣擦れの音さえ聞こえるほどの静寂に包まれている。
 今から決闘でも始めそうな二人の気配にカガミがなにか言おうとした時、それが契機となった。
 雨宮が懐から細身のナイフを取り出し、気狂い染みた雄叫びを上げる高速の弾丸となって駆け出した。
 今更、天馬を殺したところでそれは雨宮の勝利には繋がらない。
 自暴自棄に陥った最悪の敵から天馬は目を逸らさなかった。
 天馬を守るものは誰もいない。シマもカガミも間に合わない。
 しかし仮に二人が介入しようとしていたら、天馬は拒んでいただろう。

(これが最後になるんだ)
 二人はまったく同じことを考えていた。
(もう二度と闘わなくていいように……白黒ハッキリさせるために……)


(てめェを破滅させてやらァ――!!)


 雨宮はバトンを渡すリレー選手のように前屈気味に大きく踏み込み、ナイフを突き出した。
 まっすぐ胸へと突き進んでくる全身全霊の力が篭められたそれを、天馬は避けなかった。
 左手で受け止め、冷えた水に手を入れたような不気味な激痛に顔が歪むが、意思の力で押さえつける。
 手の甲へ刺さった刃は骨の間を滑り、根元まで進んで止まった。
(――っ!)
 天馬は歯をぐっと噛み締めると、痛みも省みずにナイフを握り締めた。
 新たな血飛沫が舞い、二人の間に散った。
 脳内で分泌されたアドレナリンが、勝負を惜しむかのように時間を緩く長く引き伸ばす。
 目に涙が滲んだ。
(嗚呼……)
(俺たちは、お互いが羨ましかったのかもしれない)
 天馬の腰がバネ仕掛けのようにひねられ、貫かれた手でナイフ越しに雨宮の手を掴んだ。
(おかしな話だ……)
 雨宮の体を一気に引き寄せる。
(どいつもこいつも……)

 喉の奥から、腹の底から、いやもっと深いどこかから、なにもかもごちゃ混ぜにした叫びが迸った。

(大馬鹿野郎だ――!!)

 天馬の拳が雨宮の顔面を打ち抜いた。
 



「おめでとうございます、天馬様、シマ様。
 あなた方の勝利です――」
 天馬はカガミが恭しく差し出した紙きれを四枚受け取った。
 一枚目は雨宮家の財産チケット。一生どころか十生生活していくことも可能な額だ。
 天馬は重なっている二枚目以降をずらして眺めた。
 そこには今夜の敗北者の名前が記されてあった。
「で、どうするの」
「なにが」
 天馬はぼーっとしながら聞き返した。
 すべてが夢だったのではないか。
 そんな非現実感がふよふよと胸の中を漂っていた。
「あの三人をどうするかってこと」
 シマが指差した先には、カガミによって全身を縛られ、猿轡を噛まされた連中が無造作に転がされている。
 芋虫と変わらない不様な姿を見ても、天馬の心にはなんのさざ波も立たなかった。
 シマが天馬の肩越しに囁いた。
「殺しちゃおうか」
 天馬は力なく首を振った。
「そう」
 シマはそれ以上なにも言うつもりはないようだった。ただ興味深そうに天馬の横顔を見上げている。
 そうして天馬の肩をポンと叩いた。




「おい」
 倉田と八木はびくんと胴を跳ねさせた。声にならない悲鳴を上げながら、身をよじって天馬から身を離そうとする。
 天馬は反対側に回って二人の体をこつんと爪先でこづいた。面白いように二人は慌てふためいてゴロゴロ転がった。
 天馬がその気になれば、この三人の目をくり抜くことだってできるし、屋敷の中に放り込んで焼肉にすることもできる。
 今まで彼らに味わわされた苦痛が脳裏をよぎるたびに、天馬の目尻がぴくぴくと引きつった。
 許せない。殺したい。
 それを罪だとは思っていない。
「雨宮」
 天馬は唯一なんの反応も見せていなかった芋虫を突いた。
 頬が奇妙な形に変形している雨宮の視線はわずかに動いたが、意思はほとんど感じられなかった。
 諦めた人間特有の潔さが彼にはあった。
 何よりもそれが天馬には一番許せないことだった。
 しゃがみこんで猿轡を取ってやると、雨宮の口からひゅうひゅうと息が漏れた。
「死ぬのが怖いか、雨宮」と天馬は低い声で囁いた。
「…………」
「怖いだろうな、オレだって怖い。
 でもな、安心しろ。オレはおまえを生かしてやるぞ」
「……?」
 抑え切れぬ怒りと悲しみを噛み締めながら天馬は語った。
「オレの目の前から……消え失せろ。
 二度とその面を見せるな」
 刺された傷口が熱を持って、天馬を苛んだ。
「オレはてめェらみたいな、群れなきゃ闘えないやつらが……
 一人で歩こうとしねェやつらが……
 おまえのことが……」
 ずっと言いたかった言葉を天馬は口にした。
「大嫌いだったんだよ」
 雨宮はそのセリフを聞いてかすかに微笑んだようだった。
 その笑みの理由は彼にしかわからない。




「結局、すべてあなたの思惑通りということですか」
「そうでもないよ。わたしテキトーだし」
 シマとカガミは肩を並べて天馬を見つめていた。
 その背中は初めて会った時よりも大きくなったように二人には見えた。
「あなたにこのシナリオを聞かされた時、私は無理だと思いました。
 彼はとても死の恐怖を乗り越えられそうには見えなかった」
「わたしもそう思ったよ。ところがどっこい」
 カガミが首を傾げるとシマはニッと笑った。
「ギャンブルってのは、大穴を当てた方が楽しいんだなァ!」
「あなたって人は……」
「そんなことより」
 シマは先ほどとは打って変わって嫌味な笑みを浮かべた。
「賭けに負けたんだから、言うこと聞いてもらおっか」




 シマのバイクの調子が悪いらしく、メンテナンスしている彼女を天馬とカガミは並んで眺めていた。
「では、彼らの処遇は我々が決めてよろしいのですね」
「ああ。せいぜいどっか知らない土地にやって、苦労させてやってくれ」
「私が言うのもなんですが」とカガミは前置きしてから続けた。
「彼らをバラバラにして売り払えば、ひとかどのお金にはなりますよ」
「おまえ、意外とひどいやつだなァ」
 天馬が苦笑するとカガミは少し早口になった。
「私はただ、そうしない理由が知りたいだけです」
「理由……理由なんてないよ。
 ただあいつらだったら、オレを殺すだろう」
「そうでしょうね」
「だからオレはその逆をいく。それがいいんだ」
 カガミが何か言おうと口を開きかけた時、シマが声を張り上げた。
「おーい、直ったよー」
 天馬は腰を上げて制服の汚れをパンパンと払った。
 カガミも横からズボンの汚れを叩いてくれたが、気恥ずかしくてたまらない。礼を述べる口がもごもごしてしまってよく動かなかった。
 カガミはスッと背筋を伸ばした。
「それでは……さようなら」
「ん? ああ……」
 そこで天馬は思い出したようにハッとカガミを見直した。
 ずいぶん長い間、側にいたけれど、よくよくその顔を見る機会がほとんどなかったことに驚嘆する。
 それほど勝負の熱は天馬から一切の通常を奪っていたのだ。
 天馬は朝焼けの中に浮かび上がるカガミの白い顔をぼんやり眺めていた。黄色い光線が照らし出す塵埃のスポットライトを当てられたその顔を見て天馬は、もう人形のようだとは思わなかった。
 どう言って別れようかと思案している内に、再びカガミが口を開いた。
「ありがとうございました」
「へ?」
「今夜は……楽しかったです。あ、いえ、べつに人の苦しむところを見るのが好きというわけじゃなくて、その……」
「本当に……」と天馬は言った。
「いい勝負だったよな」
 カガミは間髪入れずに頷いた。
 その様子がなんだかおかしくて天馬はふっと笑った。
 ようやく心の奥で凝り固まっていた勝負の残滓がほぐれてきたような気がした。
「またな、カガミ」と片手を挙げた。カガミは静かに一礼を返した。
 すでにシマはバイクに乗って待機していた。天馬は投げ渡されたヘルメットを被ってシマのうしろに跨った。
「クチ」
「あ?」
「ニヤけてるよ」
 天馬はなんでもないようなフリをして口元を何度もこすり誤魔化した。
 シマは盛大なため息をついて、アクセルバーを回した。
「バーカ」



 カガミと敗北者達に見送られながら、バイクは夜明けの一本道を走り去っていった。
 見る見る間にその影は小さくなっていく。
 カガミは小さく手を振った。

 奇跡を見せてくれたことに……夢に感謝しながら。
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