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第十審『夢(後)』

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枯れた花は土に還るなら、
冷めた灰は風に攫われるなら。
貴方を愛しく想うこの気持ちも、
貴方を女々しく呪うこの胸裏も。
いつかは一夜の雪のようになくなってしまうのでしょうか。


              *


そうして過ぎた三月の初め、結局私の欠陥品の頭脳は夢に追いつけなかった。
受験した大学は全て不合格となり、当然誠司との約束を果たすことは出来なかった。
彼とはもう一ヶ月半ほど会っていなかった。メールもたまにしか帰って来ず、電話も早々に切ることが多かった。同じ建物の中に居るのに、どうして会うことが出来ないのかと疑問に思ったが、納得のいく答えは見つからなかった。
「……誠司…」
そう言えば心と身体が恢復するかのように呟き、茫然自失と、脱殻のように塾の前のベンチに座っていた。
「……っ」
その時、会いたくて会いたくて切望していた人を漸く発見した。きらきらと輝いて見えるガラス張りの横幅の広い自動ドアが開き、中から誠司が出てきたのだった。五日間ほどここでエントランスを見張っていた甲斐があったと言うものだ。私は立ち上がって名を呼んだ。掠れた大きな声で。
私は精一杯笑いかけた。そうすれば誠司もそれに応えてくれる筈。しかし、ジャケットのポケットに両手を収めて歩いてきた彼の顔は、能面のようだった。私の前二メートルほどの位置に止まり、眉間に皺を寄せ、彼は口を開いた。
「おい…棗、そこに座るのやめろよ。気色が悪い。毎日ベンチに一日中座ってるお前を、地縛霊だって仲間が俺をからかってくるんだよ。いちいち話を逸らさなきゃならない僕の身にもなってくれよな」
普段の、少なくとも二ヶ月前の彼からは考えられないような、刺々しい口調で非難され、私は以前と全く違う彼の態度に戸惑いながら謝ることしか出来なかった。ご、ごめん…もうしない…、と掌を慎ましい胸の前で合わせながら言うと、彼は満足そうに鼻を鳴らしてから私に訊ねた。
「それで、試験の結果はどうだったんだ?」
私は唇を噛んだ。震える声で誠司との夢が無念にも潰えてしまったことを伝えると、彼は無表情のまま、そうか、と一言だけ放った。そして、僕は合格したよ、と付け足した。
私は顔を上げて、必死に取り繕おうとした。彼の深く落ち込んでしまった気持ちを助けてあげたいと思ったからだ。きっと彼は私以上に悲しい思いをしていると思った。
「で、でも…大丈夫!今年はダメだったけど、まだ来年があるよ。誠司との約束はまだ終わった訳じゃない。…私、今よりもっともっと頑張るから、いっぱい勉強して来年こそは合格するから…誠司は先に大学で待ってて?誠司は二年生になってて、私は一年生だけど…。そ、そうだ、誠司と同じサークルに入りたい。それならたくさん貴方といれるし、一年間の埋め合わせぐらい簡単にできるよ…!大学のサークルって飲み会とか旅行とかあるんだよね?すごい、楽しみ。だから、その…誠司は待っててくれるよね…」
大学での生活を身振り手振りで表そうとし、下手で滑稽なパントマイムを演じる私を見て、彼は事も無げに言った。まるで現実味のない声で。
私はその時、宿題を忘れたことを悪びれもせずに他人事のように担任に報告した、中学にいたあの横柄な男子生徒を幻視した。
「ああ、あれ、無しにしよう」
「え…?」
文字通り、頭が真っ白になった。〝ナシ〟と言う言葉の意味が理解できなかった。季節が来たらおいしい梨を一緒に食べようと言っているのかと、一瞬私の脆い部分が判断しかけたが、
「無効だよ、無効。棗はもう僕を追いかけなくていい」
機械から作り出されたような声音で、誠司は追って言った。
周りには何人もの人が往来していると言うのに、何も聞こえない。幾多の声が重なり合った喧騒は消え失せ、世界の終末のような静寂があった。
呆然と佇む私を瞥見して、彼は語り始めた。それは、私にとって心臓をギチギチと絞め殺されるような激しい苦痛をもたらすものでしかなかった。
「…全く、僕も運がない。外れくじを引いてしまったようなもんだ。まさか…お前がこれ程までに頭の悪い女だって知らなかったよ。悪い意味で予想外」
「嘘……嘘だよね…」
そう呟くことしかできない。
「嘘じゃないさ。全部僕が心の底から思っていたことだ。…得意な科目だって一つもない。本気で同じ大学を狙ってたのは夏までだな。模試の結果を見るたびに正直ムカついた。どんだけアホなんだと。笑い話にもしたくないね」
沸々と沸き上がる怒りを溜め込んだような顔。
…これは本物じゃない。本当の私の好きな人は平気でこんな酷いことを吐くような人間じゃない。目の前の男は偽者。だって本物の誠司は、とても優しい人なのだから。
「違う、違うよ誠司じゃない…!」
「うるさいッ!!」
「…ッ!?」
絶叫にも似た怒号に、全身がビクリと跳ね上がった。拍子に、涙腺が緩んでくる。通行人の一部がこちらを白んだ目で見て、興味を失いまた歩いていった。
叫んだことによって感情の箍が外れたのか、誠司は私に向かって、低く罵声を浴びせ始めた。
「うるさいんだよお前…!ねえねえ、教えて教えてって…同じ問題を何度も繰り返し聞きやがって、頭がおかしくなりそうだった!そのくせ何回言っても理解出来ない。要領は悪いし、抜けてるし、愚図だし…もうウンザリなんだよッ!?お前のお守はもう出来ないんだッ!!」
もう別れる――――彼は、溶岩のように煮え滾った声でそう告げた。
そして、その意味を正しく理解する前に、私の身体が跳ねた。
「誠司ッ…」
「く…、しつこいんだよ!この―――馬鹿女ッ!!」
縋るように掴みかかった私に、彼は咄嗟に腕を振り上げた。
パン。
肉が弾かれる瞬間の音。しかしそれは、大き過ぎる街の喧噪やクラクションにかき消され、他の人の耳に届くことはなかった。
頬が熱い。掌で押さえた部分が痺れてきて、ようやく私は打たれたのだと気付いた。
つう、と目の端から涙の一筋が流れ落ちるのを感じた。
「…っつかよ、もっと早くに気付けよ。メールや電話も、塾で滅多に会わなかったことも、わざとお前を避けていたんだ。あれだけ邪険にされたら、流石に分かるだろ。自分が、捨てられたんだって」
荒い息を吐きながら、誠司は言った。
タイミングを見計らったかのように、彼の携帯電話が鳴った。舌打ちをして、彼は呼び出し音の四回目に出る。途端、彼の口調が豹変した。冷酷な響きから、出会った頃の温和な声に。電話の相手は、どうやら女性のようだった。
私が待ち望んで止まなかった声が、別の女性に向けられている。その事実に、また一つ雫が零れ落ちた。
「え?ああもう来る?じゃあ駅の中で待っていてよ。僕ももうすぐ着くから…。うん、じゃ」
誠司は携帯電話を持っていない片方の手で、乱れた私の着衣を直し始めた。万が一のことがあるから、私の状態を元に戻しておこうと言うのだろう。
「……」
私はされるがまま。マネキンと同類だ。
しかしその時、誠司の男性にしては細く繊細な指が、私の涙をさらった。テレビドラマで見るような優しい手つきではなく、汚れを拭き取るような乱暴な動きだったけど。彼と私を誤魔化す行為のただの一環に過ぎないのだろうけど。けれど一瞬触れた彼の指の温かさに、私は拭かれたばかりの涙痕を再び涙で濡らした。
「……」
「僕は、藤岡さんと付き合う」
何処かで聞いたことのある苗字だ。あの、ロビーで楽しげに話していた女の子のことだろう。
「同じ大学に合格した。多分、一緒に通うことになる」
私よりも断然おしゃれで、化粧も上手。軽くウェーブのかかった栗色の髪は艶やかで、大人びた人。身長も高くて、きっと誠司とお似合いになる。誠司と同じ大学に入れると言うことは、頭も良くて、聡明な人なんだろう。
「……」
私は、違ったんだ。私は馬鹿な女だった。思えば、昔からそうじゃない。何を今さら、私は……。
「…棗」
滲んで泳いでいた焦点を正面に合わせると、誠司の顔があった。私は、私じゃない誰かがそう言うのを漠然と眺めているような気持ちで、なに…?と弱々しく聞き返した。
「二度と俺の前に顔を見せるなよ。…じゃあな」
あまりに都合が良すぎると思う。私の沈黙をイエスと受け取ったのだろう。誠司は私の頭をぽんと叩くと、駅に爪先を向けた。そして春の兆しを孕んだ風に吹かれながら、駅前の人混みに消えていった。私はその後ろ姿を、ただ悄然と茫然と見続けていた。







そして、春になった。
あの人に未練がないと言ったら嘘になる。駅前を徘徊すれば、偶然会うことも出来るのだろう。だけど、それは彼を困らせ、私自身もまた傷付く結果になる。徐々に、私はアパートに引きこもりがちになった。
両親には電話で受験に失敗したことのみを告げ、今後のことは何も話さなかった。それでも、仕送りを続けてくれると母は言った。
桜の花が近くの公園で発見できるようになった頃、誠司の夢を、見るようになった。
実家に帰って満身創痍の心を少しずつ癒していくという選択肢もあったが、私はここから、この誠司と一年を過ごした街から離れると、もう二度と彼の夢を見られないような気がした。


夢の中の彼はゆっくりと微笑んで、私に話しかける。会話の内容は、毎回何故か覚えていない。私は今ではもう不可能に思える満面の笑みで返し、彼に何かを甘える。そして場面は移り変わり、ショッピングモール、テーマパーク、動物園、水族館、大学へと去来する。どこもとても楽しくて、苦しいことは何一つ無い。
最後に、彼は私を抱きしめる。強く、それでいて柔らかに。
切ないくらいに幸せで、温かい抱擁に、私はそれを噛み締めながら静かに瞼を閉じる。


「……」
目を覚ますと、私は一人で、窓から差し込む朝日に照らされたベッドの上に横たわっている。
目尻から流れる温かい涙が、頬を伝ってシーツに薄く染みを作るのを感じる。
そして私は枕元にあるカッターをそっと手に取り、小さく死ぬのだ。
11

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