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第十三審『あなた』

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 ざざあ……    ざざあ……

 夕暮の白浜。水平線は橙色に染められて、夕陽が滲むように落ちていく。
 長く伸びる影は、人が人を背負っている形。
 俺は砂の一粒一粒を踏みしめるようにして海岸線を歩いていた。
 前方の両側では、彼女の白い手と、それに掴まれたサンダルが歩くたびに微かに遊ぶ。
 ―――この背中は、もうすぐ赤ちゃんのものになるのですね。
 彼女はそう、俺の首筋に吐息を吹きかけた。その音は少し、儚い夢を見ているよう。
 ―――知ってるかい?俺の背中は二人乗りなんだぜ。
 俺はそう言って笑った。
 大げさに、彼女を担ぎ直す。きゃ、と笑い混じりの悲鳴が聞こえる。
 そうしてまた俺は笑い、金色の砂浜を歩き続けた。
 潮騒がやけに心地よかったのを、覚えている。



                 *



 時計を見れば、時間が分かる。
 分かっている。今は太陽の回る時間だ。人々が活動し、生きる。そこには笑顔が溢れていて、ささいな幸せに満たされている。
 なのに、世界はこんなにも暗い―――。
 三十メートルはあろうかという長い廊下。その壁際に置かれた長椅子の上に一人俺は座っていた。修太や憂梨は学校にいる。お母さんのことは俺に任せておいて欲しい、と言ったのだ。修太は心配そうに、憂梨は悔しそうに、家を出て行った。
 「……」
 静かだ。廊下は息を止め、何処かから硬い足音が聞こえてくるだけ。
 病室の扉はことごとく閉まっていて、この廊下に射し込む光は両端の窓や通用口のガラスから送られているものだけだった。それらはリノリウムの床に揺らぎながら反射している。見る角度を変えれば際限なく歪曲する光は不気味に思えた。遠く廊下の行き止まりで、四角形に切り取られた光の額縁の中は白く、それは随分と現実味のない白色だった。
 建物全体から染み出してくるかのような冷気に体を震わせながら、俺は顔を膝の間に埋めていた。
 握った両手の中には花束。何故だか今も、手の中にある贈り物。
 花を包む紙がクシャ、と音を鳴らすのを感じながら、俺は目の前の扉が開くのを待った。




 昨日の夜、妻が倒れた。
 俺は何とか頭だけは支えることに成功し、そのまま腕の中に妻を抱え込んだ。その肌は驚くほどに温度を失っていた。
 逢紗子、逢紗子。俺は大声で呼んだが、妻の瞼は無感情に閉じたままで、返事はおろか、呻き声さえも出てこなかった。呼吸はしているようだったが、頬に色は無く、その怖いくらいに安らかな表情はまるで死人のようだった。
 俺は修太を呼び、妻の体をさすっていてくれるよう頼んだ。突然の事態に戸惑いながらも、母親の様子を見てただならぬものを感じた息子は、無言で俺の指示に従った。
 俺は電話に飛びつき、救急車を呼んだ。支離滅裂な言葉だったが、オペレーターは俺を宥めすかした上で理解してくれた。
 所々明かりが灯る住宅街に救急車という非日常が訪れ、近所の子どもや主婦が好奇心を瞳に持ちつつ見守る中、俺と修太、そして意識のない妻は病院へと連れて行かれた。
 闇を切り裂くように赤いランプとサイレンを振り回し、救急車は走った。
 その後、妻の容態を診た医師によると、妻が倒れた原因は過労だと言うことだった。精神的なストレスも一つの要因になっている可能性も指摘された。
 元々体が弱いのに、パートや家事などで酷使したせいなのだろう。
 俺は病室のベッドで眠る妻を見た。その隣では、真っ白な布団から伸びた妻の真っ白な手のひらを、息子が握っていた。丸椅子に腰掛けながら、寂しげに母親の顔を見つめていた。
 「何かの拍子に、緊張の糸が切れたんでしょうな」
 禿頭の医師が呟いた。
 その時俺の頭の中に浮かんだのは、あの花束だった。




 ガラ…――。
 目の前の、妻の病室の扉が横にスライドし、開く。俺はゆっくりと広がる光の帯に反応して顔を上げた。
 そこから出てきた人物は、逢紗子に少し似た淑女。妻の姉で、つまり俺の義姉にあたる紀早子さんだった。義弟の自殺未遂のことは知らない。俺の連絡を受け、急いで駆けつけて来てくれたのである。
 一目で上質だと分かる洋服を着た彼女は、優雅に軽くお辞儀をして、俺の前に立つ。
 両親、親戚一同を何度も何度も説得して、凡庸な俺と一緒になった逢紗子とは対照的に、彼女は親族全員の賛同を得て結婚した。嫁ぎ先は家柄も良く、非凡な資産を所有していた。
 「あの…逢紗子は」
 「…じきに目覚めるだろうと言うことです」
 細く透き通った妻のとは違い、よく響く舞台女優を思わせる声である。しかし、今はそれも弱って聞こえた。
 俺は長椅子に座ることを勧めたが、紀早子さんは断り、俺を見下ろしたまま続けた。
 「ねぇ、洋介さん…?」
 ――どうしてこんな事になってしまったのでしょう。
 含みのある声色で紀早子さんは問い掛けた。俺は閉口するのみ。柳のように項垂れた頭に視線を感じる。
 けれど俺の答えなど初めから期待していないのか、彼女は構わず語り始めた。
 「……私は貴方達の結婚を認めました。それは、洋介さんが妹を絶対に幸せにしてくれると、生涯共に歩んでくれると、言ったのを信じたからですよ」
 紀早子さんは厳しい声で俺を追い詰める。俺はただ、口を結んで叱責を甘んじて受けることしか出来なかった。
 「私は妹を大事にしてきました。体が弱いですから、色々面倒を見てきた妹です。無理な運動をしないように、風邪を拗らせないように、いつも見てきました。そして貴方と結ばれたいと逢紗子が言った時、ああ、ついにこの時がきたのかと思いました。小学校、中学校、高校、果ては大学まで、今まで両親や私の意見に従ってきた妹が、初めて自分の意思を貫いたのです。それには妹の成長の証という喜びがありましたが、反面私達の手を離れてしまうことに侘しさを覚えました。…あの子が二十二の時でしたか…予想していたよりも早かったのですけど、貴方の熱意と愛情に負ける形で結婚を認めました。その時確かに、私は貴方が大切な妹を幸せにしてくれると信じて疑わなかったのです」
 「……」
 ですが、と一度言葉を区切って、紀早子さんは凄然と俺を見据えた。
 「貴方は言葉を違えてしまった。この病室で血の気を失い眠っている逢紗子を見て、貴方は彼女が幸せだと感じますか?これは、お願いです……妹をあまり、苦しめないで下さい。…私は貴方を、許せなくなってしまうから」
 「…申し訳、ありません…」
 沈滞した響き。もはやこの呟きに意味はない。
 紀早子さんは何かを堪えられなくなった様子で首筋をさすると、
 「…私は少し、席を外します。貴方はあの子を、看ていて下さい」
 と言って、白く濁った廊下を歩いていった。彼女が霞むように消えた後、俺は立ち上がり、目の前の病室の扉を開いた。実際には何てことは無い重量。しかしそれは今、牢獄の鉄扉のように重く冷たい。
 開けた空間の右、妻は病床に横たわっていた。彼女以外に、この部屋には誰もいない。
 俺は妻に近づき、ベッドの隣に設けられた棚に崩れた花束を静かに置いた。
 淡い光を窓から受ける妻の顔は、宗教的な絵画を連想させる。点滴の針が妻の肌に極小の穴を穿ち、そこから伸びる管は途中で送る点滴の量を調整できるようになっている。そこでぽた、ぽた、と落ちる滴は無慈悲なまでに時を刻んでいた。
 「…逢紗子」
 何気なく呟いた妻の名だったが、その時、それに反応したかのように彼女の瞼が動いた。ゆっくりと、時折閉じそうになりながらも、再び世界を見ようと開かれていく。
 潤んでいるようにも、光の無いようにも見える瞳を、立ち尽くす俺に向け、
 「……あなた…?…ごめんなさい…」
 渇いた唇で、彼女はそう言った。
 謝るべきなのは目の前の不甲斐無い夫なのに、妻は虚ろな眼差しのまま、言葉を続けた。
 「私…本当は怖くて仕方がなかったんです。…あの夜のずっと前から、あの夜も、そしてあなたが帰ってきた時も…。でも…何処か冷静で醜い私は、あなたを止める事もせずに行かせてしまいました…」
 「……」
 「…あなたが腕を吊って帰ってきた時、私はどうしていいか分からなくなってしまった…。あなたの妻として……私が本当にするべき事は…、あなたを咎める事でも、冷たく睨む事でもなかったのに…。あなたの誕生日だって…覚えていたんですよ…?でも…私は…何も…」
 少し、息をするのが辛そうに顔を顰めた。瞼が弱々しく瞬く。
 「もういい、身体に障る。休んでくれ…逢紗子」
 俺は屈んで妻の手を握りながら言った。微かに握り返す力を手のひらに感じる。
 「…あの、花は…?」
 「ああ…あるよ。そこにある」
 「そう…よかった…」
 震える息を吐きながら、妻は消え入りそうな微笑を浮かべた。そして、そのまま意思に関係なく瞼は閉じられ、呼吸は復調の兆しを見せ始める。
 「……」
 数分の間、そのまま妻と手を繋いだ後、俺は別れを惜しむように手を離し、窓の光に背を向け歩き出した。
 ちょうどその時、紀早子さんが病室に入ってきた。俺はすれ違う形で部屋を出ようとする。後ろから、何処に行くのですか、と訊く彼女の声が聞こえた。家に必要なものを取りに行ってくると答えた俺は、廊下を抜けて階段を下り、病院を後にした。
 その間、俺の目は何も捉えてはいなかった。ただあの不自然に汚れの無い空気に怯えていた。耳に纏わりつく病室の無音が刺すように俺を咎めているような気がした。それだけだった。



 家の鍵を開けた。途端、外の無愛想な大気は去り、入れ替わりに心の落ち着く匂いを感じる。家族全員。俺や妻、息子や娘の匂いがこの家には染み付いている。
 この時間は憂梨も授業が終わっていない。修太も友達と遊んでいるのだろう。住宅全体から人の気配がしなかった。
 玄関で靴を脱いだ。靴底とタイルが合わさる音、その後に俺が床を踏みしめる音。それらは無人の玄関で囁かれる。そして俺は意識を何処かに手放したまま、階段を上り始めた。
 右手には子ども達のそれぞれの部屋。修太の部屋の扉は開け放たれ、憂梨の部屋のそれは隙間無く閉ざされている。
 左手には俺と妻の寝室。昼下がりの陽光が部屋から廊下に這い出している。
 そして俺はそのどちらでも無い、廊下を上りきった正面にある、納戸のドアを開けた。
 うっすらと埃の舞う納戸の中は、他の部屋と比べて薄暗い。天井高くまで積み上げられた箱や、棚に収納された工具箱や裁縫箱、幼い頃の憂梨にせがまれて買った盤ゲームの類が光を遮っているのが理由だろう。
 俺はその中から、ずり、とアルバムを二冊引き出した。さらに宙で踊る埃を無視して、その表紙を見る。桃色の分厚い一冊は憂梨が生まれてからの記録だ。
 「……」
 かさ、とページを擦らせてそれを開く。
 そこには生まれて間もない憂梨のあられもない姿があった。小さな口を閉じて、不機嫌そうに目を瞑っている。
 その写真の下には、コミカルな吹き出しのコメント欄があった。

 『ついに誕生した俺と逢紗子の子ども。世界一かわいい女の子だ。きっと世界三大美女の小野小町あたりと交代するに違いない。本当にかわいい。最高の気分だ。逢紗子も本当によく頑張ってくれた。パパ(照れる)は分娩室で泣いてしまいました』

 筆圧の高い俺の字で、そう書かれている。その右には、また違う形の吹き出しの中に妻のコメントが綺麗な字で綴られていた。

 『ママ(確かに照れますね)もお父さんにつられて泣いてしまいました。洋介さんとの子を授かったと聞いた日には、溢れ出しそうな喜びと、それと同時に一抹の不安が生まれました。でも、無事に産むことができて、本当に嬉しいです。大切にしましょうね』

 俺はそれを読み、無造作に他のページを開いた。
 日付は数年後、憂梨が初めてリコーダーを学校で習った日に撮った写真だ。
 カメラの正面に立った小さな娘が、歓喜を瞳に滲ませて、リコーダーを口に含んだままこちらを見つめている。
 「…懐かしいなあ…リコーダーで先生に褒められたって、憂梨言ってたっけ…」
 今度は数ページ戻す。
 娘と妻と一緒に、水族館の前で通行人に撮ってもらった写真。息子はまだ生まれていない。あの時、憂梨は水槽にへばりついてしまってなかなか帰らせてもらえなかった。
 また、ページを飛ばして大きく捲った。
 息子は幼稚園児ぐらいだろう。娘は小学校高学年ほどの年に見える。家族で妻籠・馬籠まで旅行に行った時の思い出だ。
 「……」
 俺は分厚いアルバムを閉じ、もう一冊、些か厚みのない薄いブルーのアルバムを手に取った。大学時代から結婚して子どもが生まれるまでの、俺と妻の日常の断片が散りばめられたそれを、丁寧に開いた。
 いつも一緒に歩いた公園の遊歩道で。微妙な色の違いでようやく見分けられる海と空を背景に、ガードレールに凭れかかり逢紗子の肩を抱いて。式場の下見に行った時、衣装を試着して。一体誰が撮ったのか、膝を折りたたんで座る妻の膨らんだお腹に、横になった俺が浮かれた顔で耳を当てて。
 それらは多少古いフィルムに収められている。妻は若く、俺も少年のような笑顔をこちらに向けていた。この頃は、愛と自信と勇気に満ち溢れていたような気がする。妻の手が胸に添えられるだけで強くなれる気がした。逢紗子と育む未来を見据え、必死になって生きていた。
 数々の写真を眺めながら、俺は自分の中に何か沸々と沸き上がるものを感じていた。その正体は分からないが、横一文字に結んだ口が震えている。
 「……?」
 最後のページを捲り、背表紙の裏に達したところで気付いた。
 背表紙とその裏に貼られた白い厚手の洋紙の間に隙間があったのだ。別に珍しい構造でもない。しかし気にかかったのはそこではなかった。そのひどく狭い間隙に、札のようなものが忍ばせてあった。
 俺は隙間を広げて指を入れ、それを挟んで引き出した。かさり、と擦れながらそれは姿を露にする。
 それは、象牙色の封筒だった。
14

池戸葉若 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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