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第十五審『ハヴ・ア・グッド・デイ(前)』

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 一月も終盤に差し掛かった、ある曇天の日曜日。
 俺は一人きりの睡眠から意識を取り戻した。ふと、そのまま視線を外に流す。灰や塵を振り撒いたような憂鬱な色の空を茶色の影が滑らかな動きで飛び去っていく。ストーブ用の灯油を販売する軽トラックから流される音楽が遠くから耳をくすぐる。
 体を起こし、隣にある空白を手のひらでさすった。枕は綺麗な形を保ったままだ。
 妻は大事をとって、未だ入院している。紀早子さんは妻を実家に連れ戻すことすら考えていたようだが、俺が再就職を約束出来るという旨を伝えると、苦々しそうに眉を顰めながらも照れの混じった声で納得してくれた。
 今、この家は一人欠けている。しかし、それも明日まで。この冷えたシーツを再び暖めるべく彼女は戻ってくる。
 寝巻きの上からフリースを羽織り、階段を下った。居間を覗いてみたが、誰もいない。冴えた空気が張り詰めており、ガラス戸を通された朝日が克明に居間を照らしている。冬は、全てが透明に感じる。
 そのまま洗面所へ足を運んだ。
 毛先の広がった歯ブラシで歯を磨く。その間、俺は今日のことを考えていた。
 蛇口を捻り、バシャバシャと顔を洗う。この季節の水は外気の影響を受けて、かなり冷たい。どんな寝ぼけ眼でも、一瞬で覚める。痛いほどの爽快感を味わいながら、息を吐いた。
 俺は鏡に映った自分の顔とにらめっこしてみた。水滴が顎の縁から、ぽたぽたと垂れる。
 「……」
 訳もなく、眦が下がる。
 その男の顔は、ひどく穏やかだった。


 昼過ぎになり、俺はビデオゲームをしていた修太に声を掛けた。
 「修太。せっかくの日曜日だし、出かけようか」
 すると修太は素早く振り返り、
 「うん!行く行く!」
 と言って問答無用に電源を切った。久しぶりの父親との外出だからだろうか、その顔はきらきらと輝いている。
 修太は俺の再就職を素直に喜んでくれた。しかし息子にとっては父親が再び働ける場を得たことよりも、その嬉しそうな顔を見られた方が大きかったのだろう。そう言う具合で笑ったようだった。
 俺は微笑んで、息子に着替えてくるように言った。修太は元気一杯に返事して、二階への階段を駆け上っていく。俺はその後をゆっくりと追った。
 妻と俺の寝室とは逆。納戸から見て左側の子ども達の部屋の方向へ進む。修太の部屋を通り過ぎた。その奥、廊下の行き止まりにある扉の前に立った。
 そして、俺は憂梨の部屋のドアをノックした。
 彼女は、俺の吉報を知らされても眉一つ動かさなかった。やはり恩田のことが心に澱を作っているのだろう。鮮やかさを失った黒曜石の瞳が、俺の胸を見つめていた。
 コンコン。一度。返事はない。しかし娘が部屋にいることは確かだった。
 コンコン。二度。沈黙の幕は下ろされたまま。だが、俺は構わずに目の前の木製のドアに、その向こうの一人娘の憂梨に語りかけた。
 「なあ、憂梨…お父さんとデートしないか?」
 少し、物音が鳴ったような気がする。癇に障ったのか、動揺したのかは不明だが、娘はこの話を聞いてくれているということだろうか。俺は微かに手応えを感じながら言った。
 「…会わせたい人がいるんだ」
 ……。反応は皆無。それでも俺は、不思議と焦る気持ちにならなかった。
 「是非、憂梨に会ってほしい人がいる。それに、部屋に閉じこもっていてもつまらないだろう?日曜日ってのはさ、文字通り日に当たるべき一日なんだよ。…今日は生憎曇りだけど。なあ、憂梨はお父さんのことがそんなに嫌いかい」
 十数秒経っても、娘は口を閉ざしたままだった。
 そして、俺が優しく溜息を吐いた時だった。
 ガチャ。
 漸く拳一個が入るくらいの隙間が開き、パジャマ姿の娘が顔を出した。
 不機嫌そうに、分かったわよ…行けばいいんでしょ、と口を尖らせた。

 

 にわかにざわつき出した商店街を通り、人々の往来の激しい駅前をすり抜け、そのまま駅に入り改札を抜けて、電車に三十分ほど揺られた頃に目的の駅に到着した。
 そこは市内の動物園に繋がっており、駅名も動物園の名称と全く同じである。
 駅から出て、二百メートルほど直線に歩けば動物園の入口が開かれている筈だ。俺は二人を連れて歩き出した。修太は頻りに学校の話をし、憂梨は黙って後ろに着いて来ていた。
 そして動物園の門の上、大きく描かれた看板の文字が読めるようになった時、俺は門前の石畳に立っている人影を見つけた。
 退屈そうに足を投げ出すようにして徘徊している。しかし、俺の姿を視認したらしい。その人は夢現な目つきを正すこともなく、俺達を迎えようとしていた。
 その時、後ろにいた娘が何かに気付き、あっ、と声を上げた。
 振り返り娘の顔を見ると、かなりの剣幕で俺の顔を見つめていた。思わず肩を竦める。俺は二、三歩戻って憂梨の背に手を添え、先に進ませた。
 「…お父さん…」
 「大丈夫だ憂梨。そんなに皺を寄せるなよ。可愛い顔が台無しだぜ」
 「冗談言わないでっ…」
 「冗談じゃない。大丈夫だって言ってるだろう?」
 そう笑顔で言うと、娘は押し黙り、目を伏せて歩いて行く。横断歩道を待つ間も、石畳の広場の前の数段ある階段を上る間も、娘は俯いたままだった。
 そして俺達は石畳の上に降り立つ。それと同時にスウェットパーカーの上にダウンジャケットを羽織った女が三人の前に立ちはだかった。修太がただの通行人ではないことに気付き、不思議そうに顔を見上げた頃に俺は一歩前に出て言った。
 「修太、憂梨。紹介する。友人の恩田だ」
 「…どうも。恩田棗です」
 些か表情を硬くしながら、恩田はのろのろとお辞儀をした。
 会わせたい人と言うのは恩田だった。俺は今日の計画を予め彼女に説明し、此処に呼んでおいたのだ。彼女は最初渋っていたが、結局俺の説得に折れてくれた。
 今回は憂梨の誤解を解いておきたいと言う意図もあったが、純粋に俺を助けてくれた友人を家族に紹介したかった。
 恩田は、初めて会う人間には視線に容赦のない修太に見つめられて居心地が悪そうだ。憂梨は視線を地面にへばり付かせて顔を上げようとしない。俺は苦い笑いを噛み殺しつつ紹介を続けた。
 「恩田は最近できた友達だ。俺がちょっと振るわなかった時、話し相手になってくれたんだよ。彼女からはたくさん気力を貰ったし、心を落ち着かせてくれた。大切な友達だ」
 「…らしいです」
 照れたように細々と合わせる恩田。
 「まあ、外見は何てことなくて、冷凍の魚介類みたいな目をしているが根はいい奴だ」
 …栗山、と恩田が俺の発言に難癖を付ける前に、今度は子ども達の方に手のひらを向けて家族の紹介を始めることにする。
 「恩田。この男の子が息子の修太だ。ほれ、挨拶しろ」
 「こんにちは!なつめお姉ちゃん!」
 「…うん、こんにちは…修太くん」
 元気よく名を呼ばれ、その声に気圧されながらもぎこちなく言葉を返す恩田。俺はそんな彼女を一瞥し、娘に語りかける。
 「…俺の娘、憂梨だ。素直で家族思いな優しい子だよ」
 「はじめまして、…じゃないよね」
 「……」
 漸く、憂梨は正面から恩田の顔を目で捉えた。その顔は苦難に彩られているが、決して目を逸らそうとはしない。恩田という人間と対峙しようと言う意思が見て取れた。
 「…本当、なの?本当にお父さんの友達なの…?」
 唇を震わせながら、憂梨は恩田に訊ねる。恩田は簡単に頷いて、そうだよ、と言った。
 男と女の友情は成立しない。よく聞く言葉だ。しかし俺と恩田はおっさんと小娘。それなら例外も生まれると言うことだろう。
 数秒の沈黙の間にそんな益体の無いことを考えていたら、恩田が風の吹くような声で言った。
 「…憂梨ちゃん。君のお父さんは良いお父さんだと思うよ。言い訳もするし、吸わない人の前で平気で煙草も吸うけど、君のことを大事に思ってくれてるのは本当だから。あと変なユーモアがあって、面白くはないけど楽しい男だと思う」
 娘の目元が歪に曲がる。だけど、彼女の苦しみの性質が変わったような気がした。
 両手を握り合わせて、一度何かを振り払うかのように顔を伏せた後、再び顔を上げて強い声で言った。
 「ごめんなさい」
 俺は憂梨に目を凝らした。深々と頭を下げて、その拍子に耳から落ちた髪を整えることもしない。
 「私…貴方のこと誤解してた…。それで、酷いこと言って…打ったりなんかして…」
 「いいよ」
 「え…」
 「許してあげる。きっと君は栗山の言うとおり、家族思いなんだよね」
 「う……」
 恩田の言葉に頬を染めて恥ずかしそうにする憂梨。その反応に、逆に少し顔を赤くして頬を指で掻く恩田。彼女達の様子に口が綻ぶ。
 俺は大きな声で提案した。
 「よっしゃ!じゃあこれから皆で動物園へと洒落込むか!」
 「おー!!」
 修太が天を覆う雲を突き破るかのように、拳を高く掲げる。それを見て憂梨が口に手を当てて笑った。恩田も、…たまにはいいかもね。六年ぶりだし。と呟いて賛成の意を表した。


 満面の笑顔を向ける従業員にチケットを渡して門をくぐった。水鳥が踊る池の横を歩き、土産の販売や化石の展示がされている赤茶色の建物に入ろうとする息子に、帰るときに寄ろうと言い聞かせてまた前に進む。小高い山と森林に囲まれた動物園の中央に走る大通りに出た。両脇には猿や豹の檻や売店が並んでいる。大通りは流石に人が多い。家族連れが大半だが、恋人達や大人の集団も見える。
 すると、偶然見覚えのある人が視界に映った。全く想定していなかった人物の登場に、嬉しい驚愕を感じる。俺は小さく走り出す。誰かが近付いてくる気配に気付いたのか、その人は俺の姿を認めた。そして、柔らかく微笑む。
 「こんにちは。加藤さん」
 「こんにちは。栗山さん。これはまた奇遇ですね」
 「ええ。それで加藤さんはどうしてこんな所に?」
 そう言って彼の手に握られている、小さな手を発見した。その手の主はこちらを怯えた相貌で見つめている。俺がにっこり微笑んでやると、加藤さんの背中に隠れてしまった。けれどおさげは見えたままで、まるで子犬の尻尾みたいだと思った。瞳の大きな可愛らしい女の子だ。
 その時、恩田と子ども達が追いついてきた。俺は振り返って言う。
 「皆、あと一人紹介するよ。俺の恩人、加藤さんだ」

 そうして、俺を支えてくれた人々が一堂に集結した。
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