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第十七審『コールドゲームのその前に』

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 佳子の誘いを初めは断った。
 事実、その行為自体気分の良いものではなかったし、むしろ嫌悪が大部分を占めていた。それに、父の顔が浮かんだ。動物園で見せた少年のような笑顔。久しく出会っていなかった本来の父の姿に、私は心が温まる気がした。そしてその熱が、胸を焦がした。それは母や弟のことを思い浮かべても同様だった。
 カラオケ店の廊下で遭遇した時、私は私を育ててくれている父にどんな思いをさせたのだろう。死ね、なんて酷い事を言い放ってしまった。謝りたいと、思っていた。
 しかし、佳子の勧誘はしつこかった。
 私が居ると、ギャランティーが弾むそうだ。私はそんなもの知らない。
 せっかく家族が一つになろうとしているのに、私だけが足並みを乱すようなことはしたくなかった。私の背徳が、父や母や弟の笑顔を奪ってしまうのが怖いと思った。そしてそれは、私にとっても辛く悲しいことだと思ったから、断り続けた。
 けれど、佳子は諦めてくれなかった。
 結局、私が折れた。今回を最後に、次からは誘わないことを約束してもらって電話を切った。ベッドに仰向けに転がり、天井の部屋の明かりに視界が白く染められ、私はそのまま瞼を閉じた。
 その翌々日。二月中旬の土曜日。奇しくも父の再出発の日に、私は泥に足を囚われている状態だった。
 高校の制服で行く方が受けがいいと言う話だった。シャツにリボン。スカートを穿き、最後にブレザーを着た。首にマフラーを巻いて、通学鞄を肩に掛ける。
 行き先は告げず、昼前に家を出た。
 駅内のファーストフード店で佳子達と合流し、時間を潰していた。
 「…あ、やばい」
 携帯電話を弄っていた佳子が声を上げた。
 訊くと、絶対に外せない用事が出来てしまったと言う。今から家に帰らなければならないらしかった。
 テーブルを囲んでいるのは、私と佳子と菜実。一人抜けると二人になってしまう。今までは、殆ど佳子が場を仕切ってくれて助かっていた。その彼女が居なくなってしまうことに、じんわりと不安と焦燥を覚えた。
 しかし、彼女はそんな私の戸惑いは露知らず。手をひらひらと振りながら、簡単に店を出て行ってしまった。
 そして残された私と菜実が相談を始める前に、低い男性の声が背中に掛けられた。振り返るとそこには、薄ら寒い笑顔を顔面に貼り付けた四人の男の人達が居た。
 ぎこちない笑顔を返し、今日の事を断ろうと口を開いた。しかし私が言葉を発する前に、長身の男が口を開いた。他の男達も何かを親しげに喋り出す。何を話しているのか、私の耳はそれを感受していた筈なのに、一切脳で咀嚼することを放棄していた。そして気味の悪い会話が続くうちに、私は機会を失ってしまっていた。
 駅前に出た。四人の男達は檻を作るようにして移動し、私達を取り囲んだ。まるで鳥籠に閉じ込められたよう。四人から感じる奇妙な雰囲気もその印象を強くさせた。
 首の後ろに虫が這うような感覚を覚え、私は恐怖心を煽られながら振り返った。何も無い。斜め後ろの中肉中背の男が、どうしたの?と微笑む。私は、いいえ…と呟いて前に向き直った。しかし今度は手の甲や大腿、腰に先程と似た悪寒を感じる。
 ふと気が付いた。それらは全て男達の視線だった。
 私はさらに不安と恐怖を膨らませた。呼吸が潜められ、脇や鎖骨辺りに冷汗を感じる。自然と、右手が左腕の肘に添えられていた。
 ―――今回が最後。これが終われば、私はまたあの食卓に笑顔で着くことが出来る。
 心を救う祈りのように、ざわつく胸の中でその文章を反芻する。
 そして私は心と身体を強張らせたまま、連行されるようにして地下のカラオケ店への階段を下っていった。
 個室に入って数分も経たずに、男達が豹変した。いや、その兆候は確かにあった。
 後ろから突然押され、私の体は赤い革のソファに突き倒された。訳が分からない。混乱する思考のまま、私は近付いてくる男を手で押し返そうとした。しかし直ぐに手首を取られ、身体を開かされてしまう。男が掴む手首は万力に締め付けられたように痛み震えた。
 そして次の瞬間、私は男の手に握られた物を見て背筋が凍り付いた。
 ナイフ。鈍い輝きを放つ鋭利な凶器が顔に向けられていた。
 分かっている。これは脅迫だ。その証拠に、菜実が声にならない悲鳴を上げた。その彼女も他の男に拘束される。
 刃物を持った男は何か私に呟いていた。多分、騒いだら殺す、とか、人様に見せなれないような顔にしてやる、だとか言う常套句だろう。だけど、一片余すところ無く恐怖に支配された私の頭はその声を聞き入れられなかった。喉は塊を詰め込まれたかのように硬直し、視線は怪しく哂う刃先にひたすら注がれるばかり。
 伸びた男の手がブレザーのボタンを強引に外し、次いでナイフが制服のブラウスの前を引き裂いた。胸元が露になり、男の欲情した眼差しが集中する。
 「ひ…ぁ」
 「…く、く」
 男のくぐもった笑い声が聞こえ、私は頭の端っこで思った。
 …ああ、私は壊されてしまうんだ。
 私はこの人達に壊されてしまう。心も体も何もかも。
 それなら、いつかテレビに被害者として顔を隠して出るのかな。嫌だな。
 結局、遅かった。お父さんに謝りたいと思っていたのに。もうそれも叶わないのかな。
 壊されて、何も出来ずに。お父さんに絶望させて、ごめんなさいと言うことも出来ずに。
 「お、とう…さ、ん」
 戒めの解けた刹那の自由が言葉を紡いだ。

 「―――憂梨!!」

 その瞬間、私は力強くドアを開け放つ父の姿を視た。
 私の父は途切れ途切れの呼び声に駆けつけて来てくれた。それは虚構のようで、夢幻のようで、それでいて奇跡と言わざるを得ない現実だった。
 「ッ!お前等は一体、俺の娘に何をしているんだ!!」
 稲妻のような怒号を男達に突き立て、父は私に覆い被さっていた男に掴み掛かった。そしてそのまま揉み合いになり、父の体と男の体が目まぐるしく入れ替わり争う。
 突如、父の体が跳ねた。まるで電流を流されたみたいに。
 その直後、男が狼狽した様子で後ずさった。すると、その動きに合わせて父が男に凭れる様にしながら崩れ落ちる。
 ズ…、ドサ。
 「あ…ア…」
 鯉のようにぱくぱくと口を開閉させる男。その目は下方に向けられていて。
 消えた父の陰から現われたのは、血に塗れたナイフ。
 力を失った男の手からそれが落ちて無機質な音が響き、私は知った。

 お父さんが、刺された。

 「きゃああああああああああああああああああ!!!」
 菜実の悲鳴が凝結した空気を切り裂いた。
 男達は愕然としていたが、すぐさま個室の扉を開け我先にと逃げていく。しかし同時に押し寄せた為、体が枠に収まり切らない。彼らは互いを薙ぎ払いながら走り去っていった。
 私はうつ伏せに倒れて動かない父に駆け寄って、その背中を裏返した。
 カッターシャツの腹部に、血が赤々と花を咲かせていた。
 それを見た後ろの菜実から再度、飲み下せなかった悲鳴が漏れる。
 父の顔は、汗をびっしょりとかいているのにも関わらず、蒼白だった。痙攣する手で自らの傷口を押さえるのを見て、私も両手で必死にそこを押さえた。酷く、温かい。それを苦痛に苛まれて眇められた瞳で見た父が、私に向けて何故だか薄く笑った。
 「…!?」
 もう何もかも意味が分からない。湧き水のように溢れてくる血液。寸陰の内に両手は朱色に染められていく。ブラウスの袖にもそれは侵食し、末端から私を取り殺そうとしているよう。私は狂人が如く叫んだ。
 「お父さん…!!と、止まって…止まってよぉ…!!」
 それでも言葉は無力。流血の勢いは治まらない。次第に目が霞み、曇っていくのを感じていた。
 その時、異変に気付いた店員達が駆けつけて来た。一瞬、凄惨な光景を目の当たりにして口元を押さえる。そんな彼らに、私はどうしようもなく哀願して言った。
 「き、救急車を、呼んで…お願い…救急車を……。お父さんが、死んじゃう…」




 ああ、困った。全く困ったことになった。最近の若者はキレやすいというのは本当だ。
 しかし俺も衰えてしまったものだ。若い頃ならあんな奴、一発でのしていた。
 やっぱり憂梨は優しい子だ。気分が悪いのに、思わず笑ってしまう程だ。
 ああ、そう言えば。
 あの子はどうしているのかな―――――。



 ピ、ピ、ピ。
 心電図が一定間隔で波打つ。だがその波形は弱々しく、静かな雨の波紋のようだった。
 ここからは窺えないが、外に出れば広がるのはきっと闇夜。本来なら、それと対を為す筈の清杜記念病院の床も壁も天井も蛍光灯も、そこに居る人でさえも真っ白な病室の別称は集中治療室だ。しかし今は微光に照らされるのみで、青みがかった室内は幽寂としている。
 父は病床に寝かされていた。呼吸はしているものの、化粧をしているかのように顔面の色は希薄だった。マスク型の呼吸器を取り付けられ、その向こうの唇は暗い紫色に変わり、乾いて縦に筋が浮いている。その様は白々しい程に痛々しく、否応無く現実を突き付けてきていた。
 父の小さく上下する胸の横の辺りに座る、私の周りには母と弟。また私達の他に、禿頭の医師がいた。動物園で紹介された穏和そうな顔立ちの白髪の人じゃない。極普通の、医者のイメージをそのまま映し出したような医師だ。
 「一先ず呼吸は戻りましたが、予断を許さない状況です。…今夜が山でしょう」
 ベッドに群がる私達から一歩引いて、その医師は客観的な姿勢は崩さずに硬い声でそう言った。私はそれを他人事のように聞き流していた。ただ、虚ろなまま動かない焦点の中心には父の顔があるだけだ。母はリノリウムの床に跪き、祈るように両手を合わせて項垂れた顔を髪と腕とシーツの中に埋めており、医師の言葉に反応する気配はちっとも感じられない。唯一、私と対面してベッドの脇に佇む弟だけが無言で医師に首を回すのが、その台詞に対する反応と言えば反応だった。
 死なないで、洋介さん、死なないで。母から、くぐもった呟きがぶつぶつと経文のように聞こえる。私は知っている。母は顔を伏せて、泪や嗚咽を堪えていることを。それでもシーツには大きな染みが出来てしまうことも。
 「では…また」
 医師が病室を立ち去ろうとした時、父の指がぴくりと動いた。晩夏の蝉が最期に漏らす一音を思わせる僅かな事だったが、私は見逃さなかった。
 お父さん…?と何年か振りに発したような掠れた声で問い掛けると、父の指がまた微かに曲がり、次いで紙一重程に瞼が開かれた。
 私は、お父さん、と呼んでさらに父に近付く。その異変に気付いた母もより近くに行こうと腰を蠢かせる。
 父の少し茶色がかった瞳が、私に向けられる。そして震えながらゆっくりと口を開いた。しかしそれは乾燥した空気の抜けるような音しかせず、呼吸器をそれに合わせて曇らせるだけ。それでも私は父の口の動きからその意味を理解することが出来た。
 ゆ、う、り。よ、か、っ、た。
 そして長い息を吐きつつ、父は嬉しそうに頬に皺を寄せた。
 「…」
 父の首元に掛けられた白い布に、ぽたりと一滴の雫が零れ落ちた。
 それは、私の涙。累々と落ちる雫は八重にも九重にも重なっていく。私は顔を歪ませ、
 「…っ、…さい…ごめんなさい…、っ…ごめんなさい……」
 泣きながらに謝っていた。
 ずっと言いたかった言葉をやっと口にすることが出来た。また、それ以上の様々な意味を籠めて。こんな場で、意識も朦朧とした人に言うのも可笑しいのかも知れない。けれど私は自然に涙を流し、自然にこの言葉を縋るように繰り返す。
 私は自分の額の縁に手を添えた。普段は前髪に隠れて見えない、未だうっすらと影を残す、小さな頃の褪せた傷跡。
 覚えている。恥ずかしくて話題にしてこなかったけど、本当は覚えている。幼少の頃、ジャングルジムから落ちた時のことを。たくさん血が出て、とても怖かった。
 泣き喚く私を背負った父の大きくて温かい背中も。全力疾走で風を切りながら、ずっと掛けてくれていた、大丈夫だぞ、と言う言葉も。私を大切に思うあまりに医師に浴びせた怒声も。冷めた金属の臭いがしてさらに泣き叫ぶ私の滲んだ視界に逆しまに映った、必死に励まそうとする若い父の顔も。全部、覚えている。
 それらが脳裏に去来する度に、私の瞼からさらに多くの涙が溢れ出した。



 ああ、良かった。憂梨が無事で、本当に良かった。
 俺はちゃんと喋れただろうか。少し、自信がない。
 なあ、憂梨。俺は君が生まれる前から、自分は子煩悩になるって確信していたんだよ。逢紗子より君のほうが大きくなってしまうような気がして、無性に一人、彼女に申し訳なく思っていたんだった。
 そして君が生まれた。
 そりゃもう飛び上がって喜んださ。一週間は仕事が手に付かなかった。それで久永さんに叱られたけど、その後の居酒屋で彼は大いに祝福してくれ、子の素晴らしさを長々と語ってくれたものだ。
 だけど、時が進むにつれ俺は考え出したんだ。
 いつか。
 風呂は俺と一緒に入るのには狭くなってしまうのだろうか。お出かけに俺が付いていかなくてもいいようになるのだろうか。君が寝付くまで読んだ絵本は要らなくなるのだろうか。遊び相手が現れてくるのだろうか。秘密が増えるのだろうか。彼氏なんかも出来てしまうのだろうか。あと何回、君は大好きと言ってくれるだろうか。
 そんなことばかり、考えていた。
 君は何か事ある事毎に泣いていたね。
 でも、今は成長して大人になろうとしている。我侭も滅多に言わなくなったし、ぐすぐすすることもない。それはそれで物寂しいことだけど、未だ彼氏が出来ていないと言うのが不幸中の幸いだと思ってしまうよ。
 可愛らしい女の子に成長して、これからはもっと美人になっていくんだろう。どんどん大人っぽく綺麗になっていくんだ。そして、心も。
 一つ一つ階段を上って強くなっていくんだ。君は今その途中。
 …いいや。そうだ。君は強くなった。
 とても良い子に育って、強くなったんだ。だから。
 だから――――――もう、泣くな。



 太陽を求めて天を指差す枝葉のように伸ばされた父の手が、私の涙を柔らかく拭った。私は頬に当てられた父の手の甲に、自分の手のひらを重ねる。するとそれは滑り落ちて、今度はシーツを破れそうなほどに引掴む母の方へと指先が伸びた。それを母は蜘蛛の糸を見つけたように掴む。修太も反対側でひたすら父の右手を握っていた。



 そうか、逢紗子も泣いているのか。なんだ、修太もそんなに涙を溜めて。ためて良いのはお金だけだって前に言っただろう。あとお前の好きなお菓子のシール。それ以外は毒や悲しいだけだ。
 なんだいなんだい。皆泣いているじゃないか。
 泣くなと言ったり、泣いて欲しいと願ったり、忙しい奴だなと思う。
 なかなかどうして、想像してみるのも悪くない。池添の葬式で思ったことが本当になるなんて、頬が緩む。いや、俺はまだ死んでいないけど。あれ、どうなのだろうか。分からない。まあいい、そんなのは瑣末なことだ。
 おい、奥さん。そんなに握られたら痛いよ。跡が付いてしまうじゃないか。
 懐かしいな、逢紗子。君はあの手紙に俺が君に勇気を与えたって書いていたね。
 なら、その宛先のない手紙に返信をしよう。
 こんなことを真面目に言うのは柄じゃないけど、俺の方こそ君に勇気を貰っていたんだ。
 夢も目標も無かった。漫然と日々を過ごし、ただ惰性で大学生活を送っていた。就職活動も卒業も、目先のことなのに何処か遠い世界のことにようにあの頃は思えていた。
 そんな俺に、未来を見据えて生きていく勇気を与えてくれたのは、数々の試練を乗り越えて俺と一緒に歩む道を選んでくれたのは、君だったんだよ。
 もう少し経ったら、そうだな。またあの公園の遊歩道を二人で歩きたい。
 季節外れのアイスクリーム屋はもうあそこから消えてしまったんだろうな。
 なら何でも良い。君が行儀が悪いと諫めた買い食いをしよう。逢紗子。


 「ぁ……こ…」
 父の左手が、母の両手から力無く抜け落ちる。


 ああ、最高だ。俺の家族はこんなにも、温かい。
 ちょっとしか視界は開かないけど、それでも十分に思える。
 そうだ。もう少し笑ってみよう。山根さんも言ってたじゃないか。笑えばいいんだ。
 もう少し笑って、軽い冗談でも聞かせて。それで。
 そう。もう少し、もう少し――――。



 薄暗い病室で、私は父を見つめる。父が何かをしようとしているのは分かる。しかし、徐々に彼の目蓋は長い幕際のように下がっていき、ついには目を完全に閉じてしまった。
 そして、彼の意識は途切れた。
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池戸葉若 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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