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第十八審『雲の上』

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 思えば、コールドゲームの人生だった。

 子供の頃からやる事なす事全て終わってしまった後だった。小学校の行事でやった演劇では、主役をやりたいと思った。役決めの道徳の時間。願望はある、けれどなかなか手が挙がらない。汗ばむ掌をこまねいていたら、クラスの一番かっこいい奴が迷いなく挙手した。それだけで担任の教師は、待ってましたと云わんばかりに決定の旨を伝えた。まるで初めから、そいつ以外の生徒を想定していなかったかのように。クラスメイトの拍手と共に勝負は決まった。別にそいつとはあらかじめ勝負を取り決めておいた訳じゃない。真っ直ぐに担任を見つめるそいつの横顔に、俺は掌の汗を、半ズボンの腿の部分で必死に拭った。

 でも、それだって今は笑って吹聴出来るような気がする。昔話の一つとして、息子に訓示を与えられるような気がする。
 なぜなら、試合はまだまだ続いていたのだ。俺の人生は、コールドゲームで終わらせるには少しばかり無理があったに違いない。それは完全な誤算だった。
 思い起こせば、中学の野球部では、俺の出番はいつも敗色濃厚の時だった。試合が終了した後、俺は敗残兵の如く俯いてグラウンドを歩いていた。そこに無意識的な未練があって、この夢の遠因になっているのかも知れない。
 でも、今この時は違う。
 俺は一度肺から空気を抜き、前を見据える。
 アンパイアはやる気満々だ。喉を鳴らして、今にもカウントを叫びたいと言っているよう。観客席は人が溢れ出しそうに満杯である。地響きのような、球場がはち切れんばかりの大歓声で空気を歪ませて、頻りにカメラのフラッシュが星のように瞬いている。塁上ではランナーが慎重にリードを広げながら、投手の一挙手一投足を凝視している。
 そして、その輝度を誇示するかのように辺り構わず照らし散らすスタジアムのライトの下、俺はバッターボックスに降り立つ。放射状に伸びる影は全て自分のもの。
 目の前ではガムを噛みながら投手が捕手と意思の疎通を交わす。
 俺はその間に肩の力を抜き、再び強く息を吐く。
 投手は走者の動向を密かに探った。此処からでも珠の汗が浮いているのが分かる。
 そして、クイックモーションで高い位置から放たれる豪速球。自らの常識を覆す速さ。
 俺は思う。
 中学校生活最後の試合。俺は自分のチームが負けると思っていたから何も出来なかったんじゃないのか?あの時、本気で勝つ意志があったなら試合は続いていたんじゃないのか?
 俺は強く思う。
 もう、コールドゲームは真っ平だ。何も出来ずに終わるなんてお断りだ。
 全身に力を籠める瞬間、俺は短く唇の隙間から息を吸い――――振り抜いた。
 何時までも耳に残るような快音。
 地盤が隆起するみたいに観客席の人々が立ち上がり、地響きは雷鳴になる。
 俺は、白球が鳥のように空を渡る、その行方を見ようとした。
 しかし、外野席後方に取り付けられたライトが眩暈を感じる程に眩しい。
 打球はその白光の中に飲み込まれていく。
 ああ、俺の球は何処に行ってしまったんだ。行方が知りたいのに、空がとても眩しい。
 視界が真っ白に染まって、何も見えない。
 全てが狂おしいまでに白く何も見えないまま、俺の意識は高く上り詰めて行った。





 視界の端から端まで、乳白色に彩られている。
 次に目を醒ますと、俺は奇妙な空間にいた。とは言え酷く居心地が良い。
 ふと自分の身体を見遣ると、俺は薄いストライプのカッターシャツに臙脂色のネクタイ、紺のスラックスと黒い革靴と言ういつもの出で立ちだった。不思議なことに、刺された筈の腹に痛みは無く、シャツも血が染み込んだ形跡が一切ない。
 腹部を擦りながら、辺りを見渡した。
 空は見える。しかし水色は霞んでいて、殆ど雲に隠れていた。日射しは感じられず、ただ温かい空気に包まれている。
 言葉に出来ない違和感。しかしそれはさらに大きな違和に掻き消された。
 俺が立っている地面は、地面と呼べる物ではなかった。脛辺りまで乳白色の煙か霧のようなものが泳いでいる。それを掻き分けてみたが、同じく乳白色の何かが何処までも立ち込めているように思えた。
 もしかしたら、俺は雲の上に立っているのかも知れない。
 俺は子どもの頃夢にまで見た体験をしていることに気付き、童心に還った気持ちで雲の上の散策を始めた。
 ところが数分歩いた後、俺はある仮定に辿り着いた。
 雲の上と言うことなら、ここは天国と言う場所ではないのか。それなら俺は既に死んでしまったのだろうか。それは厭だと思った。妻や子ども達をこれ以上悲しませたくない。
 携帯電話はポケットの中に収まっていた。モノは試しだ。手当たり次第に発信する。しかし、すぐに圏外の時と同じ反応がマイクから戻ってきた。電話は通じないようだ。俺は難しい顔をして息を吐き出す。
 すると、突然目の前の雲が晴れて、靄の中から黄金のエスカレーターが現れた。隅々まで山吹色に造り上げられたそれが静かに稼働し始める。
 感心した。天国への階段はレッドツェッペリンの曲などで知っていたが、今時の天国は先端技術を取り入れようとしているらしい。これなら足腰の弱ったお年寄りでも楽に天国に上ることが出来るだろう。
 俺は導かれるようしてエスカレーターのステップに一歩を踏み出して乗る。エスカレーターは一直線に、光が漏れるさらに上空の雲の中へと続いている。全く、えらく遠隔の地に来てしまったものだ。俺は景色を眺めながら、夢現な状態でそこに着くのを待っていた。
 エスカレーターの終わりには、さらなる神聖さが漂っていた。
 目の前には白亜の建物が聳えていた。殿堂と呼ぶのが相応しいだろう。窓は一切無く、数段階段を上ったところにある大きな観音開きの扉が外との唯一の繋がりだ。
 横に視線を外すと、駅のようなものが見えた。ゲートがあり、鉄道員の制服を白くしたような服を着た人がその脇に立っている。ゲートの奥には蒸気機関車が燻らせながら停車していた。因みに、これはまた全てが黄金である。
 ゲートの前には長蛇の列が出来ており、皆機関車に乗るのを待っているようだ。
 「……」
 俺は暫しの間沈思した後、白亜の殿堂に向かった。



 荘厳な音と共に扉を開けると、眼前には長い長い廊下が続いていた。
 壁には、他の部屋に通じるドアが一つもない。ただ途方もない長さの廊下が伸びているだけ。代わりにとは言えないが、古代ローマの宮殿のような廊下の両脇には長椅子が隙間無く並べられており、そこには多くの人が座っていた。
 小さな日本人の子ども、カラフルな布を纏ったアフリカ系の黒人、中国人風の男性や、サリーを被った中東の女性、果てには何故かパンツ一丁の白人男性までいる。やはり老人が大半を占めているようだったが、肌の黒い人々の中では子どもの数もかなり多い。
 ここは最後の審判の待合室みたいな場所か、と思いつつ俺は歩を進めた。
 前を通ると無機質な眼差しで見上げてくる人もおり、俺は苦笑いで挨拶したり、会釈して奥の方へと歩いていく。よく見ると、何処かの教科書で見たような人も居た。
 奥行の限界か、霞掛かった扉が見えた頃に、漸く俺は空席を発見することに成功する。
 そこに腰を下ろし、一息吐いたところで、隣から声が掛けられた。
 「…あれ、貴方は日本人ですか?」
 少し吃驚して隣を向くと、誠実そうな白人の青年が微笑んでいた。
 「ああ、そうだが。あんたは?」
 俺は露骨に訝しんで言った。だが別にこの男が不審に思えたのが理由ではない。――言葉が通じている。この摩訶不思議な現象に疑問を覚えたのだった。バベルの塔の話が何所かで関係しているのかも知れないな、と考えていると、
 「ええ、僕はトビアス。トビアス=アンシュッツです。ご覧の通り、第三帝国の出です」
 被っていた帽子の鍔を正してそう名乗った。
 改めてそのトビアスと言う男を見て、俺は成る程、と思うと同時に目を疑った。
 彼は軍服を着ていた。そして腕章。赤地に白い円、その中に描かれた漆黒の鍵十字。
 半世紀前の亡霊に出会った気分だ。いや、事実そうなのだが。
 俺が心臓の血流が悪くなるのを感じていると、トビアスは我々現代人の彼らに対するバイアスからかけ離れた笑顔で続けた。
 「日本の人は好きですよ。僕達は枢軸の盟友ですから」
 遠慮したい気持ちである。口の端が引き攣るのを抑えていると、あなたの名は?と彼が尋ねてきた。
 「俺は栗山洋介。あ、いや、洋介栗山かな」
 「へえ、ヨウスケ。良い名前だ。友人にヨースケンと言う者がいたのを思い出します」
 一寸天井を見上げながらトビアスは黙っていたが、不意に顔をこちらに向けて、期待と不安が入り混じった声で言った。
 「そう言えば、我々は生存圏獲得闘争に勝利しましたか?私は道半ばで戦死し、此処に来てしまったのですが」
 俺は口を間誤付かせることしか出来なかった。日本も、ドイツも戦争に負けた。彼の祖国に至っては二つに分断されてしまった。その悲哀と衝撃はどれ程のものだろうか。
 しかし此処で出会ったのも何かの縁。意を決して教えることにした。
 「…いいや、負けたよ」
 急速にトビアスの目の色が沈んでいった。だがその答えを予期していたようにも見えた。
 「そうですか…。あの美しいドレスデンの街も壊されてしまったのでしょうか」
 そう呟いて、トビアスは胸からペンダントを取り出した。その蓋を開くと、彼の家族と思われる白黒写真が入っていた。少し痩せ気味の女性に、利発そうな男の子。
 「お、あんたの家族か。よし、待ってろ」
 俺はポケットから携帯電話を取り出して待受画面を開いた。斜めに走った透明な疵はそのままで、俺は少し押し黙る。だが直ぐに気を取り直して、妻と娘と息子が画面一杯に詰まった画像をトビアスに見せた。
 「おお、何ですかこの小型兵器は」
 「違う違う。そんなことより、見ろよ。俺の嫁と子ども達だ」
 「へえ…奥さん、とてもお綺麗ですね。娘さんもきっと。息子さんはお元気そうだ」
 「だろう?俺の自慢の嫁と子ども達なんだ。どうだ、あんたの家族も見せてくれよ」
 「ええ、いいですよ。左の女性がラウラと言って、僕が軍に入った頃……」
 それから暫く、俺とトビアスは自らの家族や生活について雑談していた。
 ところが、何の脈絡も無しにトビアスは表情を萎らせて、すみません、と言った。
 「…思い出してしまいました。自分は、家族を思う資格の無い男でした」
 「なんでまた」
 「僕は極度の緊張の中で塞ぎこんでしまったのです。それで元気付けようとしてくれた妻や息子にさえも辛く当たるようになって、仕舞いには彼女らを重たい荷物だと思うようになった。そしてそのまま、僕は倒れた。それでも僕には悔いる気持ちが現われてこなかった。今でも時偶ペンダント開くと、何の感慨も浮かばずに閉じます」
 つまらない物語を朗読している気色で、彼はペンダントを指で閉じた。また、他人の家族もたくさん殺してしまいましたしね、と小さく付け足した。
 俺はその空疎な横顔を視界の端に捉えながら、考えていた。
 「…そうだな。確かに俺達父親って言う人種には、家族が荷物に思える時があるのかも知れない」
 でもな、と一度言葉を区切って、俺はトビアスの顔を見て続けた。
 「その荷物の重みは気持ちいいもんだ。背中がすっからかんで歩いていたって、何故だか肩が浮いて背中がむず痒い気がしないか?それに、その中身はどうだ?その荷物はただ重いだけか?荷物の中には冷たくて美味しい水の入った水筒だって入っているし、安らかに眠れる寝袋だってある。それに、鉄のガラ芥が詰まっている訳じゃないだろう、それだけの重い価値を持つ物がその中にはあるんだよ。そう言うのを背負って、汗水垂らしながら不敵に笑って見せるのが、父親の醍醐味じゃないかと思うんだ」
 トビアスは正直に驚いた時の眼で俺の顔を見つめていた。
 些か加藤さんの真似をして説教をしたつもりだったのだが、どうだっただろうか。加藤さんは毎回このような小恥ずかしい思いを我慢していたのだろうか。
 いや、それは俺がまだまだ至らないからだな、と考えているとトビアスの開いた口がゆるゆると三日月に曲っていくのが分かった。
 「…はははは、ヨウスケ。君は本当に面白いことを言う。すごい気に入りましたよ」
 延々と悩んできた難問が解けた時の数学者のような顔をしながら、銃を杖代わりにし、両手を被せその上に顎を預けて、トビアスは再び天井を見つめた。
 「ああ、なんだか突然家族の事が心配になってきましたよ。妻や子どもはどうしているのかなあ。そうだ、ヨウスケは今さっき来たところだったね。地上の方は西暦何年ですか?」
 此処では時間の感覚が曖昧なのだろうか。現に半世紀も変わらない姿で一つの椅子に座っていても、トビアスは気が可笑しくなっていないのだ。自分の時間感覚にも一抹の疑問を抱きながら、俺は彼に今年の暦を教えてやった。
 「何と。ミレミアムに既に到達していたとは、驚きです。そうか、それなら妻は亡くなっているだろうし、息子も僕より年上の老人なのだろうね。変な気が否めないな」
 静かに笑って、トビアスは帽子を被り直した。
 その時、俺は名前を呼ばれた気がした。しかしそれは鼓膜を叩かれた感じではない。直接頭に伝わり、自らの考えのように響いてくるのだった。
 「…?なんだ、俺の名前が…呼ばれた」
 「それは…――」
 ゴーン、ゴーン、ゴーン。
 トビアスが何かを言いかけた時、重厚感のある鐘の音が鳴り響いた。きっとこの殿堂の屋上に造られた物だろう。俺が何一つ理解出来ずに天井を見渡していると、トビアスが優しく告げた。
 「…きっと君の番だ、ヨウスケ。君が今言った事と鐘の音が審理の合図だ。ほら、其処の扉の前に行ってみなさい」
 促すように背中を押され、俺は立ち上がった。
 固く閉じられている行き止まりの扉。その前に立つと、遅々と時間を掛けて白い扉が腕を広げた。まるで、こちらに来なさいと誘っているようだ。内部の様子は不可知。外と同様に乳白色の霧が立ち込めていて、視界の一寸先は白い闇である。
 俺は急に不安になり、振り返って、トビアス、と呼んだ。
 すると彼は、大丈夫、進んで下さい、と頷いた。その言葉は、まるで先程の彼とは違う別人が放ったかのような響きを以て、俺の耳朶に訴えかけてきた。
 「…ああ、分かったよ」
 俺は首筋を軽く掻きながら、その白い闇の向こうへと足を踏み出した。

 後ろで扉の合わさる音が聞こえた。
 這入った空間は、殆ど何も見えなかった。他よりも濃い白煙が充満し、神聖と言えば神聖だが、地獄と呼ばれるものとも大して差異は無いだろうと感じられた。
 静謐な空気に身を震わせながら数メートル程歩くと、融けるように雲が消えていき、何やら大層な広間が開けた。そしてその向こうに、海坊主が如く巨大な影が立ちはだかるのが見えた。煥然とした後光が射しており、その輪郭と衣服の形ぐらいまでしか知ることが出来ない。そしてその容姿は、度々目にする西洋の神によく似ていた。
 彼の周りには背中に羽根が生えた人が控えており、俺はその光景を呆然と見上げていた。
 ――――――――。
 彼が喋った。いや、喋ると言うのは正しくない、告げた。先程俺の名を呼んだように、直接脳に語りかけてくるのが分かった。また、それに慣れ始めている。
 彼の言葉の意味を理解し、襟を正す。
 そうして、俺の最後の審判が始まった。
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