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第三審『晩餐』

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 「今は、少し頭がこんがらがってて……その、考えさせて、くれないか」



 たっぷり数十秒。それだけの間を使って発した言葉がコレだった。
 その時、ダイニングで妻の質問への回答に詰まった俺は、結局答えを先送りにした。妻は「……そう」、と平坦な声音で言うと、夕飯の準備にとりかかり、それ以上は何も言わなかった。
 一応、俺の心境を汲みとってくれているのかも知れない。しかしそれは今の俺からしてみれば、雀の涙ほどの気遣いだ。
 あまりに重厚な現実感に、俺は押し潰されそうになる。
 妻は立ち竦んだままの俺の事を無視して、レシピを確認し、具材を取り出した。テレビから流れる、アニメの主人公の叫び声が耳に侵入してくる。
 「………」
 突然俺は、台所に向かう彼女の影に暗む後ろ姿や、電気も点けないで番組に釘付けになっている息子の時折カラフルに照らされる横顔を見ていられなくなった。
 薄暗くも、外からの僅かな陽光で紫色に染まった廊下に出て、二階への階段を上った。上りきった目の前には納戸。右手には憂梨と修太それぞれの部屋がある。その逆、左手の俺と妻の寝室に入った―――逃げ込んだ。
 ここも廊下と同じ。夜の帳が落ち始めている。クローゼットやダブルベッド、パソコン達が何も言わずにただそこにあった。
 俺は、闇にたゆたっているような、そんな気がした。
 間違いない。
 息子を除き、家族は俺を咎めている。失望や譴責といった感情を、言葉に出さずして訴えかけてくるのだ。
 するべき事を為し得なかった役立たずだと。死にぞこないの臆病者だとも。
 光を宿さない彼女達の目が、それを如実に物語っているから。
 俺は脱力し、ベッドにゆっくりと横になった。身体の、心の疲労がどっと押し寄せてくる。たった今妻に言われた言葉が脳裏に浮かんだ。
 ――――これから一体、どうするって言うんですか。
 ――――これからの事なんて、考えたくもない。
 そう、俺は嘘を吐いたのだ。頭の中は空っぽで、何も考える気がしない。
 大きく息を吐いて、体を広げる。左腕は三角巾を解いた。
 世界は徐々に幕を落とし、俺は泥のような眠りに落ちていった。






 胸を揺すられ、目が覚めた。
 脳全体に膜を張ったかのような意識感覚。しかし天井の蛍光灯は容赦なく俺の網膜に光を送り、無理矢理覚醒させてくる。俺はそれから逃れようと、呻き声をあげて体を横向きに回した。
 「お父さん、起きてよー」
 「う…?」
 人が居る。無視する訳にはいかない。声に反応して目を開くと、そこには修太の顔があった。
 「…なんだぁ、修太…」
 「ごはんだから、お母さんが起こしてきてって」
 窓の向こうを見ると、外は真っ黒だ。時計を見ると、短い針はじきに八時を指そうとしている。俺はがっくりと頭を枕に埋めた。二時間も眠っていない。どうりで頭がさっぱりしない筈だ。
 「…分かった、修太。お母さんにもうすぐ行くって言ってきてくれよ」
 「はーい」と返事して、修太は階段を駆け下りていく。
 妻が、俺に嫌がらせするつもりで修太を使って眠りを半端に途切れさせたのかと、ありもしない計画に腹を立てつつ俺はのっそりと起き上がった。
 頭をボリボリと掻きながら、一階の洗面台に向かった。片手で蛇口を回して、顔をバシャバシャと洗う。冷たい水が顔の皮膚から浸透して、ぼやけた頭にまでヒンヤリと届いた。それでも目蓋は確実に下がってくる。
 キッ、と鏡に映った自分の顔とにらめっこしてみた。
 幸いにも毛の不足には困らない髪の毛は会社を辞めてから伸びた。もう少しで耳が隠れてしまいそうだ。髭も伸びてきたから剃らなければならない。身だしなみを整えたところで、社会にお披露目する訳でもないのだが…。
 訳もなく舌を打つ。
 水滴を滴らせてこちらを睨む男の顔は青白かった。


 食卓には全員が揃っていた。
 憂梨はちゃんと遅くなる前に帰ってきてくれたみたいだ。指通りの良さそうな黒髪を揺らして修太の隣に座った。「おかえり」と言っても他人を見るような目で一瞥するだけである。俺はあえて反抗期にしか見られない愛娘の貴重な一面と受け取っておく事にした。
 修太は椅子に座って、目の前の餌をじらされている飼い犬の尻尾のように、足をばたつかせていた。
 テーブルの上には熱そうなグラタンが配膳されている。もしや片手の使えない俺を気遣って、簡単に食べられる物を作ってくれたのか?と淡い感謝を抱いたが、献立は以前から決まっている事を思い出し俺は密かに項垂れた。
 一人で喜怒哀楽に振り回されるのは虚しい。自殺に失敗してからと言うもの、発見ばかりで嫌になる。
 俺は修太の対角に座り、妻が俺の隣に座った。栗山家の食卓のいつもの席。
 まずは皿の周縁の焦げついたチーズをフォークで剥がし、クリームソースをたっぷりとその身に纏った熱々のマカロニとエビを口に運んだ。うん、美味い。妻の料理は何時まで経っても、どんな時でも俺に幸せを届けてくれる。
 しかし当の妻は、俺の至福の表情などどこ吹く風、静かに無感情に食を進めている。
 「か、母さんのグラタンはほんとに美味しいなあ」
 「……」
 「うん、おいしいね!」
 返事をくれたのは修太一人だけだった。
 俺は沈んだ食卓の雰囲気を少しでも和らげようと、リモコンを手にとり、テレビに助けを求めた。
 シット。民放だ。
 仕方なく眺めていると、今日起きた事件のニュースがやっていた。
 解雇された男性が、駅構内で何やら叫びながら果物ナイフを振り回して逮捕されたという内容だった。画面の端、円形の中に閉じ込められた本人の写真の顔は青白い。俺は、さっき鏡の前で見た自分の同じ顔色を思い出して、確かめるように頬を撫でた。
 「……?」
 妙にその報道に釘付けになっていたからか、気付けば娘と妻は嫌そうな表情をしていた。もしかしたら俺がこういう事を起こす、とでも思っているらしい。
 気まずい沈黙が訪れる。
 その間も淡々とテレビは情報を吐き出し続けた。俺にはそれが、千切れてしまえば最後、外の世界とこの食卓を辛うじて繋ぎとめる命綱のように思えた。
 『・・・容疑者に薬物反応はみられず・・・』
 ニュースキャスターの無機質を努めた声が、俺を暗に責めているように聞こえる。
 『・・・白昼の騒動に、現場は一時、騒然となりました・・・・・・・・では、続いて天気予報です・・・』
 修太のフォークを動かす音が、カチャカチャと響いていた。







 数日後、俺は出来るだけ家から離れることにした。
 俺という存在を置いてきぼりにして流れ、しかし何処か停滞した家族の日常に我慢出来なかった。
 憂梨が高校へ行き、修太が小学校へ行き、妻と二人きりになるのが嫌だった。
 庭から差し込む十月の日射しや廊下、階段の身震いを誘う冷えた空気、そして何より妻の虚無感を湛えた表情が、心を苛み続けたのだ。
 洗面所で髭を剃った。ワイシャツとスラックスを着た――俺の元企業戦士としてのプライドだ――。長い間愛用している黒い革靴を履いた。

 そして俺は、外へ出た。
3

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