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人間が生きる世界には、秩序があり安寧があり平和があり。
 そしてその半面で、狂気があり破壊がありグロテスクなまでの殺し合いがある。
 それらは全て同じ場所にあり、しかし決して同時に出てくることはない。
 平和の後には破壊が、破壊の後には平和がただ繰り返され、
 それのみで世界が構成されているような感覚に陥るほどに世界にはその二つが強くある。
 そう、それはどちらかが死に、再び生まれるまでにもう片方が生まれ、死んでいくというだけの現象。
 そして俺は輪廻ともいえるその現象に背を向け、そっと目を閉じた。
 立っているのは、人間達の世界と彼らに『天国』と呼ばれている世界の境目。
 俺の背後には平和が、そしてこれから踏み入れる場所には破壊が。
 それぞれ輪廻という名の下に、生まれようとしている。
 暖かな笑い声と、殺戮に向けた雄たけびを心に留めながら俺は閉じていた目を開いた。
 見えるものなど、何もない。
 だが……。

「今、始まるモノと終わるモノがクロスしている」

 二つの世界の境目に立つ俺を軸にして、二つの輪廻が交差していることだけはよく分かった。
 そのことに珍しく感傷的になったせいだろうか?
 俺は足を踏み出すのをやめ、つい先ほどまで滞在していた世界のことを考えていた。



「あぁ、櫻井様……私は―――」
「…安心しろ。ちゃんと天国まで送ってやる」

 その日、俺は一人の女の命を奪った。
 正確には、彼女の要望で殺したのだと言うべきなんだろうか。
 どの道事実は変わらないので、気にしないことにした。
 とにかく彼女という命をこの世から奪った俺は立ち上がり、乱れた着物を整えた。
 そうして短い間であっても好意を持った女の顔を思い浮かべる。
 きっかけは楽園を求め死にたがっていた彼女の声を聴き、俺は興味を持ち彼女に近付いたことだった。
 会ってから殺すまでの時間は、それは間違っても長い間とはいえない時間だったが、
 それでも俺は楽園を切望する彼女の意思に惹かれていたのだとは思う。
 だが、そこまで感じていても俺は彼女の命を奪ったことに痛みを感じることはなかった。

「…そろそろ行くか」

 大体、これからすぐに会えるのだから痛みを感じる必要はない。
 そう……彼女が求める楽園へ、俺が案内をすることになっているのだから悲しむことはない。
 それに、俺は死神だ。
 誰かを殺し、その人間の望む夢へと運ぶのが俺の仕事なのだから。
 短い間であろうと惚れた女が死んだことに、痛みを感じている暇などなかった。
 彼女のいる場所へと向かい、ともに天国への道を歩く。
 戦ばかりが起きている現世の道の端を歩いていると、ひどく血なまぐさい匂いがした。
 もっとも、むせかせるような臭気に当てられようとも気にはならないのだが。
 彼女もそれは同じようで――というより死んでいるのだから当然か
 ――気にした様子もなく平然と歩いていく。
 混乱と破壊がひたすらにおき続けている現世に、目を向けることはない。
 故意にそうしているのか、無意識なのか。
 どちらにせよ、彼女がそれを意識のどこかで避けていることは確かだ。
 俺はそんな風に考えながら、耳朶を打つ誰かの断末魔の声に背を向けた。

「櫻井様? 」
「…なんだ」
「天国へは、あとどれぐらいでしょうね? 」
「人によって距離は違うらしい。早く着くと思えば、その距離は瞬きにも等しくなる」
「なかなか着かないと思っていたら、どうなるのでしょう? 」
「さぁ。蜃気楼のように霞んで天国も見えないのかもしれないな」

 やがて喧騒は途絶え、静寂のみが辺りを包み始めた頃。
 彼女が不意に口を開いて俺にそう尋ねてきた。
 それは案内している俺としても気になるところではあった。何せいつもよりこの道は長すぎる。
 毎回毎回天国に足を運ぶわけじゃないが、この道のりは長すぎた。
 彼女の想いがそうさせているのだろうか?
 濃紺色の着物の裾をわずかながらにはためかせながら、彼女は前髪をそっと耳の方によける。
 そうしてしばらく黙り込んだ彼女は、やがて口を開き呟いた。

「では、早く着くことを祈りましょう。天使のいる、楽園へ」
「…あぁ」

 微かな笑いを含んだその声に、俺も似たような声で応じる。
 だが軽く言われた言葉は、決して冗談で言われたものではなかったらしい。
 彼女が呟き、顔を上げた先には。そして俺が苦笑交じりに応じながら顔を上げた先には。
 確かに、天使の舞う地があった。


 足を踏み入れると、ふと違和感を感じた。
 立ち止まると、彼女も何か感じたらしく首をかしげた。
 とはいっても、彼女の言いたいことはわかるが。
 サラリと流れた黒髪が、艶のある光を放つ。
 その髪の流れに見とれていると、天使が舞う空の下に見える光景に彼女が感想を漏らした。
 それはごくごく普通の答えだった。

「私が先程まで存在していた世界と、同じですのね」
「…そうだな」

 そう、確かに見える光景は全て彼女が生きていた世界と同じものだ。
 だがまさかここがこれほどまでに平和だとは思わなかった。
 俺が以前遠めにここを見た時は、天使の涙が落ちていたほどに荒れていたというのに。
 天国なんてこんなものかと思わされたほどなのに、いつの間にこんな楽園じみた場所になっているのか。
 天国という名の楽園に連れて行くと約束したのはいいものの、
 あんな場所に連れて行っていいものか悩んで損をした気がする。
 本当に楽園があるのなら、悩むこともなかっただろうに。

「彩音! 」
「? ―――あっ……」

 そう考え俺が納得できない想いを抱えていた時。
 少し遠目から声がかけられ、俺と彼女は顔を上げた。いつしかそこは俺が彼女を殺した場所……
 すなわち彼女の故郷と全く同じ光景になっていた。まるで彼女のために天使があつらえたような光景だ。
 そして、彼女の故郷と全く同じ風景ということは。

「あなたっ! 」

 彼女が生きていた頃にいた者達も、そこにはいるということだろう。
 もっとも、最後まで生きていたのは彼女であり他の者はとうに命を失っていたが。
 嬉しそうな声を上げて駆けていく彼女を見送ると、視界に桃色の欠片が舞い踊るのが見えた。
 腕を軽く上げその色の欠片をつまむと、それは柔らかくしっとりとした感触だった。
 見覚えのあるものだ。

「桜、か……」

 桜に関して特に何の思い入れがあるわけでもないがとりあえずそう呟いて、
 俺はお互いを強く抱きしめあう二人に背を向けた。ここに立っているだけで、
 二人に水をさすような真似をしているような錯覚に陥るからだ。
 何よりも俺はそんな二人よりもこの永遠に続いているのではないかと思えるほどののどかな春に、
 目を奪われていた。暖かな気候は、ここにいる者達の願いなのか何なのか……それは分からないが。
 これから特にすることもない俺は、しばらくここに滞在することにした。
 辺りを散策し、時に彼女の様子を窺いながら。
 いつまでも散ることのない桜、途絶えることのない笑い声。
 そしてそんな世界の中で。

「感謝したい、心から。太陽と、水と、空気と―― あなたに」

 彼女も、日に日に幸せそうな笑顔を浮かべてそう言うようになった。
 生きているもの全てに感謝を――そういう考えを持った俺にはよく分からない言葉だったが、
 両手を広げてクルリと一回転するその笑顔を見ていると、悪くない気がした。
 だが。
 いつの頃からか、現世にすら満ちることのない愛とやらに満ちていたこの世界の住人は、
 それだけでは足りなくなったと言うようになり始めた。
 十分すぎるほどの春、愛を謳歌する高らかな声。
 想像の産物でしかないはずの天使が確かにそこにいるというかのように、
 白い羽を羽ばたかせるゆったりとした世界。
 完璧すぎるほどに、満ちた世界。
 下手をしたらその甘美な世界から二度と出られないのではないかと懸念するほどに、魅力的な場所だ。
 にも関わらず。

「この世界が、もっと満ち足りていたなら」
「この世界が、もっと暖かであったなら」
「自分が、もっと愛されているなら」

 そんな言葉が、ささやかに……だが確実に浸透し始めているのが、嫌になるほど感じられた。
 言葉は花を散らすのか、桜の持つ桃色の花弁が舞い落ちる量が目に見えて増えているのがわかる。
 だが俺は増えていく欲望に現世を思い浮かべて、何も考えないことにした。
 ここにいるのは、かつては現世に生きていた人間達だ。
 だとしたら、どれほど何かを与えられても満ち足りなくて当然なのかもしれないと思ったからだ。
 大体満ちているのなら、金持ちが権力を手に入れて満足しきれなくて破滅することはないだろう。
 生きていてくれればいいと思いながらも、相手に自分を思ってほしいと願うことはないだろう。
 そしてそう考えた俺は。
 更に日を重ね、今度は彼女が表情を失うのを見ながらこの楽園が壊れる音を聴いた気がした。
 だが俺はその痛みを覚えるほどの軋みを感じさせる音を聴いても、全く動く気にはなれなかった。


 楽園に決定的なヒビが入ったのは、いつだっただろうか。
 かなり長居してしまったと考えていた頃だったから、もう十日以上は経ったか。
 つ、と視線を横に向けるとそこには血を浴びた男が立っていた。
 倒れているのは、恐らく今まで連れ添っていたのであろう女。
 こちらは生きているのか死んでいるのか分からないほどに、悲惨な状態だった。
 銃で撃たれたんだろう。長い黒髪をどす黒い血で彩りながら、女は起き上がることなく倒れている。
 だが、もちろん死んではいない。
 彼らはとっくの昔に死に、生まれ変わるまでの長い生を死ぬことなく生き続けるのだから。

「俺を見ろよ」

 男は、倒れていた女にもう一発銃弾を叩き込みながら女を睨む。
 そうして目を見開きながら、誰かが見ているのもかまわず言う。

「俺を見ろよ俺を見ろよ俺を見ろよ俺を見ろよ俺を見ろよ俺を―――」

 狂ったようなその言葉は、しかし長くは続かなかった。
 女が震える手を上げて、男の足首に触れようとしたからだ。
 そして、こちらには背を向けているものの何とか聞き取れるほどの声で「見てるわ」と返す。
 だがそれはあまりにもハッキリとした苛立ちが込められた声で、誰の目から見ても男が静まるとは思えないようなものだった。
 案の定、男は一度ピタリと動きを止めたが。

「嘘をつくな」

 キッパリと言うと、今度は女の顔を狙って撃った。
 女はそれから俺がその場を離れるまで、何も言わなかった。
 女には分かっていたんだろう。
 男が、誰もが抱える疑心暗鬼という名の気持ちのせいですでに人の話など聞かないことを。
 だからこそ女は、自分がどれだけ愛情を示してもムリだと悟り素直に撃たれることにしたのだろう。
 もっとも、俺が未だに慣れない道を歩いている最中に男の叫び声がしたところかして……
 女も何か攻撃を仕掛けたのだろうが。
 ともあれ。

「…………」
「…………」

 限界、か。
 俺は辺りを見回し、
 民家から顔を覗かせ二人の男女の悲惨な銃撃戦を見ながら黙り込んでいるのを見て深く息をついた。
 そしてもうここを離れる時が来たと悟る。
 空を見上げ、もう最後の花弁だと思わせるような桃色の欠片が舞い落ちるのを手の平で受け止める。
 するとそれと時を同じくして、遠くで先程とは別の男女の怒号が聞こえ……
 俺はふと彼女に会いに行こうと決めた。俺が送り届けた彼女は、今壊れていこうとしている世界の中で
 どうしているのかが何故か妙に気になったのだ。
 楽に彼女に会いに行くこともできたが、俺はあえてこの町を歩いて会いに行くことにした。
 たかが十日程度では全く覚えられないほどの複雑さを備えた町の中を歩いていると、
 たまに見知らぬ光景を目にすることもあった。
 だが見える光景は全て現世と同じように見えて、
 多少現世より透き通って見えるという点ではどこを見ても同じだったのかもしれない。
 来た時と全く似たような光景を目にしながら、俺は歩く。
 そうして、来た時とは全く違う血なまぐさい臭気を感じ取りながら、俺は誰かの断末魔の中をすり抜けて進んだ。 歩きながら聴こえてくる怒号には、もっと自分を愛してくれと懇願している響きが感じられる。
 楽園ともいえる愛の中に生きている人間――すでに死人だが――が言うべき言葉ではないだろう。
 しかし別に止める理由も事情もなかったので、俺は無視して進むことにした。
 背中に中途半端なぬるさの何かを当てられ、
 それが全身を濡らしていってもやはり楽をして彼女の所に行く気にはなれなかった。
 事情は分からないが、とにかく進む。
 すると、現世ではすでに見慣れた光景が遠くに見えた。
 チラチラと見える朱は、誰がどう見ても炎だ。
 そして朱の見えるその場所は、恐らく俺が一番初めにたどり着いた最も桜の美しい場所。
 ――焼き払うつもりか、愛を求める代償に。
 そう思いながら、俺は視界の端で老婆が孫らしき子供を絞め殺そうとしているのを見た。
 辺りには他にもたくさんの人間達が殺し合いをしているが、誰も炎に気がついた様子はない。
 このまま燃え尽きても気がつかないような印象を受けそうなほどに、必死に人殺しに専念している。
 もっとも、燃えようと首を絞められようと死なないことに変わりはないが。
 痛みだけは体を蝕むことを、彼らは知っているのだろうか?
 傷は残らないだろうが、確かな痛みが存在し苦痛に顔をしかめるというのに
 彼らは誰かを殺そうとする欲望を止めない。
 愛されようとするがゆえに、必死になり愛するものを刺しては撃って絞めている。
 いつ果てるともしれず、あっけなく始まったわりにはやけに執念深く。

「こっちだ! 急げ! 」
「? 」

 そうして老婆が持っている力を使い果たして倒れ、逆に体力のある孫に殺されかけている最中。
 俺はふと聞いたことのある声を聴いて、立ち止まった。
 すると炎が勢いよく燃えている一角から、一人の男が躍り出てきた。
 よく見ればそれは彼女の夫だ。
 ということは、呼んでいるのは彼女か。
 老婆から視線を逸らし、俺は彼女が来るであろう場所を見る。
 予想通りそこからは、焼け焦げた着物が乱れるのを気にせずに走る彼女が出てきた。
 息を切らせた彼女は俺の姿を見て「櫻井様」と呟く。
 顔中にすすをつけた彼女の姿に思わず大丈夫か、と声をかけると彼女は大きく頷きながら傾いた。
 グラリと傾いた彼女の眉間には、ぽっかりと小さな穴が開いている。
 ある意味とても滑稽に見えるその光景を作り出したのは、彼女の夫だ。
 その男は倒れた女を優しく抱きかかえながら、自らも彼女の血を浴びるように至近距離で銃を放つ。
 片腕で拳銃を撃ったせいで腕の関節が外れても、お構いなしだ。

「夫の前で他の男を見るとは、どういうことだ。んん? 」
「…や、めて……」

 懇願する彼女の目元には、涙がにじんでいる。
 だが今までのパターン通り、男が銃を離すことはなかった。
 ただ、それが撃たれることもなかったが。

「―――!! 」

 声にならない声が、炎にかきけされて消える。
 いつの間に飛び火していたのか、真横に立っていた桜の木を全焼させた炎は
 それだけでは飽き足らず彼らを取り込むべく倒れた。
 俺は直前に後ろに飛び退り事なきを得たが、彼らはそれどころではすまないだろう。
 もちろん死ぬことはないが、焼け死ぬ痛みを感じるはずだ。
 その時。
 俺は先程の男同様、声なき声を上げた。
 倒れた桜の木が生み出す炎の中で、白い、しかしもうすぐ炭化するであろう細い腕が伸ばされていた。
 それはまるで俺に助けを求めているようで、頭上のどこかにいる天使へ助けを求めているようにも見えた。
 俺はその姿に、かつて失ったものを思い返して息を飲む。
 焼けこげ、数十年は草木が生えぬとさえ言われた場所。
 炎に飲まれ、腕を伸ばされたにも関わらず助けられなかった両親達。
 懇願するようなその腕を見て、あの時俺はどうしただろうか。
 俺は―――。

「…………」

 俺は黙り込み、誰にも顔を見られないようにして俯きながら伸ばされた手に背を向けた。
 すると炎が爆ぜる音が一際強く聴こえ、急ぐ必要があると思いながら足を大きく前に踏み出す。
 ふわりと浮いた体は先程いた場所よりも天使に近付き、
 なぜ死神が天使に近付くのかと微かに自嘲めいた笑いを浮かべる。
 だが文句を言ってもいられない。
 殺し合いはまだ続く。
 誰一人殺せはしないのに、欲望の限り愛を求めて町をさまよい続ける。
 それはさながら現世を思わせ、同時にここは現世を映し出す鏡のようだと考えさせられる。
 欲望を普段は理性で抑えている人間の、本能を映し出す鏡。
 それが恐らくこの楽園なのだろう。
 叫び声はあちこちで聴こえ、この広さがどれほどあるのか分からない楽園を覆いつくす。
 俺はその叫び声がどこから響いているのか、何て言っているのか聴きながら。
 一度も彼女がいる場所を見ることなく、全ての音がやむのを待った。



 終わりに聴こえたのは、黒い雨の音だった。
 見ているものに闇を思わせるような黒い雨は、現世で「罪を洗い流すような」雨とは全く違う。
 むしろ断罪を求めているような色にも見えた。
 そして誰もがそう思ったからだろうか。
 断末魔の悲鳴を上げるのをやめた者達は、殺そうとする意思を捨てた者達はその雨を浴びながら涙を流した。
 誰も謝罪や後悔の言葉を告げることはないのに、ただ泣き続ける。
 下を見下ろしそれを見ていると、その雨が即座に鎮火した木の中から彼女が這い出してきた。
 男も一緒だ。
 俺はフワリと柔らかく着地し、遠目から二人を見ていた。
 二人の傷はすでに癒え、汚れた着衣意外何も問題がない。
 そう、男が彼女を殺そうとしていたことすらも気にした様子がなかった。
 そして誰もが、何も気にすることなく再びお互いを抱きしめ始め、愛を謳った。
 呆気の取られるほどの、平和が顕現したのだ。
 あまりにも順序というものをなくし、一足飛びに平和から破壊へ、
 そしてまた平和へ移ろっていった楽園の姿に俺は微かに目を丸くする。
 だがそんな俺の疑問ですら、ここでは関係ないらしい。
 桜はまた咲き始め、桃色の欠片を舞い散らせている。
 それを手に取り、そのしっとりとした感触を感じていると彼女がこちらに来てニッコリと微笑んだ。
 幼いとも妖艶ともいえるその笑顔を見ていると、
 彼女は俺が自分を見捨てたことなど覚えていないかのごとく言った。

「私は今幸せです。だから感謝したい、心から。太陽と、水と、空気と―― あなたに」
「…そうか」

 しかし。
 俺はその笑顔に似てもいないのに両親を思い浮かべ。
 思わず顔を逸らしそうになるのを堪えながら、いつも通りの愛想のなさで笑うことしかできなかった。



 目を開き歩き出した俺は、前方に見える前世の戦の炎を見ながらふと後ろを振り返った。
 するとまだ数十歩ほどしか歩いていないはずであったのに、もう楽園は見えなくなっていた。
 自分が求めていないせいだろうか。どの道戻ろうにも楽園は程遠い。
 逆に前世は、異常に近く感じられた。
 恐らく、先程まで束の間の安息を得た現世は今や悲惨という言葉よりもひどい状態になっていた。
 転がっている死体が発する匂いは、死神である俺ですら避けたいほどのものだ。
 そんな中を歩きながら、俺はふと自分はこれから誰かを殺すことが本当にあるのかと考える。
 少なくとも任務を帯びて行くことはまずないと思う。
 かといって、死神を惹きつけるほどの死の匂いや願いを持つ人間がいるのかどうかと考えると疑問になる。
 …殺す時は、また行くのだろうか?
 そしてまた助けを求める手を、無視するのだろうか?
 どの道、楽園に行く時まで分からない……か。
 結局のところ実際にそうなる時まで分からない。
 俺はそう結論付けて死臭の漂うその中を、意味もなく歩き続けた。

 俺がそれから死を切望する人間を見つけるのは数年後。
 その切望を歌に乗せ響かせる、一人の盲目の少女が現れるまで俺はただ待ち続けた。
 楽園に破壊が生まれ、死に。その間に現世で平和が生まれ、死ぬのを見ながら。
 その輪廻の流れに飲み込まれることもなく、
 干渉することもなく楽園にいる彼女を時に思いながら今は遠く楽園を見上げて待ち続けた。
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