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十余り二つ眼 「私は結構泣き上戸なのですよ!」

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自分の全生命を女の愛というカードに賭けた男が、このカードが殺された時
がっくりとなって何事も手につかないほど放心してしまうようなら
そんな人間は――男ではなく、ただのオスである。


ツルゲーネフ









「あかりんのはんけん入会ば歓迎して、かんぱ~い!」
 私が初めてはんけんのサークル室を訪れ、まさかのはんけん入会をやってのけたその日、私のためのささやかな歓迎パーティーが行われた。
 桜舞う季節に全国津々浦々の大学で一般的に行われている、いわゆる「新歓コンパ」のような盛大さはないけど、私はまだ飲み慣れないビールを舌にのせながら地に足がつかない気分を味わっていた。飲酒が許される年齢になってからも、たまに我が家に遊びに来た慧と二人きりでコンビニで売っている安っぽいカクテル缶を嗜む程度だった私にとって、気が置けない友達以外の人とテーブルを囲んでお酒を飲み交わす事は初めてだった。
 いつも以上に食がすすんだ。私の大好きな「たこわさ」の鼻にツーンとくる刺激はたまらないし、「きんぴらゴボウ」の甘辛さも口の中に広がって、ビールの旨みが料理の味を引き立ている。思わず、親父臭く唸ってしまった。ヘブン状態とはたぶんこの事をいうのだと思う。久しぶりの良い夜だなと思った。
 ……ある三点の不満を除いては
「Bottoms up! (乾杯!)あかりん、楽しく飲んでいますか?」
 手に持ったグラスにカツンと控えめにもう一つのグラスが当てられたかと思うと、発酵したブドウの上品な香りが私の鼻先に侵入してきた。
 マーガレット・ケンウッドさんことメグ先生ことアホの子先生が私の傍に近づいてきたらしい。
 不満1「アホの子先生がいやがる件」
 まぁ、わかるよ。アホの子先生だけど仮にもこの人は、はんけんの顧問やってるらしいからね。この場にいる事は仕方ない。仕方ないよ。
 でも、何かな? この心の奥底から湧き上がってくる言いようもないモヤモヤとしたどす黒いものは。うわ!? 腰に手を回された。このアホの子酔ってやがる。私の首筋にアホの子先生のきめ細やかなロングヘアがかすめて何だかくすぐったい。それにフローラルないい香り。頭の悪い男だったら、簡単に口説かれてしまうんだろうな。でも残念、私は女だ。しかも、ノンケだ。大人の女性の妖艶さにホイホイついてく程、不用心な人間じゃない。って、私は何という世迷言を考えているんだろうか。自分の恋敵が目の前にいて、しかも酔った勢いで私の腰に手を回している、いかんとも言い難い異常事態だ。今すぐにでも蹴飛ばしたい。だけど、人前だ。ここは我慢、我慢。って、こら! 私の眼鏡に触るな、フレームが腐る!
「あかりん、栓抜きはどこにあっと?」
「姉さん、トイレはどこにあるんだ?」
 不満2「パーティー会場が私の自宅な件」
 私は、杏ちゃん先輩の質問に答えるべく、我が家の約五畳あるキッチンの位置関係図を頭の中にイメージした。キッチンの扉を開けてすぐ左が冷蔵庫。冷蔵庫のさらに左側に置かれているのが食器棚。確か、栓抜きは食器棚にある引き出しの上から二番目に入っているはず。栓抜きまでの場所を一から順を追って杏ちゃん先輩に説明すると、彼女は意気揚々と返事をしてパスパスとスリッパを鳴らしながらキッチンへと消えていった。
 お酒が若干廻っているので頭を働かせるのが億劫になってきた。トイレまでの道筋を口頭で説明するのは簡単な事だけど、私は目的地までの地図を頭にイメージする習慣が身に付いてしまっているので、面倒臭くなって、小泉には「あんた男の子でしょ! 自分で探せ!」とわけのわからない理屈を垂れながら適当に返事をした。小泉はぶつくさとしながらも、スリッパも履かずに音もなく席をはずしたようだ。
 やれやれと、大きく溜め息を吐きながら、私はグラスに僅かに残ったビールを飲み干した。どうして、私の家で宴会するかな。人が来たら、後始末が大変なのに。特に飲み会とかの後はゴミの後片付けが大変なんだよ~。ゴミの分別とか。目が見えないから燃えるゴミか燃えないゴミか分別するのに一苦労するんだから。どこか、適当な居酒屋さんでやってくれたら気が楽なのに。アホの子先生が「お酒に酔った目が見えないの女の子を夜遅くに帰らせるのは大変です。危ないです」なんて、いらない気遣いしちゃってさ。ありがたいお言葉なんだけどね。でも、私は子どもかっての! そもそも、宴会をするなら、打って付けの場所があるじゃないか。
 そう、喫茶店「サンタナ」あそこでやれば良かったじゃないか。
 聞けば、あの喫茶店は夜になると結構いい感じの雰囲気のBARになるらしい。サンタナのおじさまも私の為に催される宴と聞けばきっとお店を貸し切り状態にして、それはそれは豪勢なフルコースを作ってくれたに違いない。
 ……それに星さんだってそこには……
「光一は今頃、サンタンナでアルバイトに励んでいるかしら」
 アホの子先生が思い出したようにポツリとそう言った。
最大の不満「やっぱり、星さんがこの場にいないという件」不満と言うか憂鬱。
 いない事がもはやお約束という様に星さんの姿はここには無かった。
 目が見えないから、私にはその人がその場にいるのかいないのかはっきりとはわからない。だから、私は人の声や気配などで誰かいるのかいないのかを認識する。
 人恋しくて寂しいという感覚があるとするなら、私はいないという物理的な事に対して寂しさを感じる事は少ない。むしろ、声がしない、気配がしない、その事実に私は胸が締め付けられる。
 楽しく誰かとお喋りしていてその人の声が私の耳に届く。あぁ、私は今誰かと一緒にいるんだなと思える。誰かが私の身体に手で触れて、その手の温もりが私の体に染み渡ってくる。あぁ、私は今誰かといるんだなと思える。
 星さんがこの場にいないそれはそれとして確かに悲しい。でも、星さんの声が聞こえない、温もりが感じられない。そっちの方が私にはもっともっと悲しい。そして、その事が余計に私と星さんの距離の遠さを感じさせる。私は星さんにもちろん会いたいのだけど、むしろ声を聞きたい、肌に触れたいと思っているのかもしれない。
「じゃ~ん! 栓抜き取ってくるついでに、杏ちゃん特製、ユッケ仕立てのチョレギサラダば創ってきたよ~」
 杏ちゃん先輩がリビングから戻ってきて自慢げに愉快そうに、そして鼻歌交じりにそう口にするのが聞こえる。私の耳に心地よくその声が吸い込まれていく。あぁ、杏ちゃん先輩が今ここにいるんだな。
「姉さ~ん、しっかりトイレの場所教えてくれよな! 漏れる寸前だったじゃないか」
 いつのまにか戻ってきていた小泉はそうぼやきながら、控えめに、そして悪ふざけのように大きな手で私の頭をくしゃくしゃとする。あぁ、小泉が今ここにいるんだな。
 何故かはわからない、何故かはわからないけど、私はいつの間にか泣いていた。
 あけっぴろげで羞恥心を知らない赤ん坊のように泣いていた。止めどなく、私の頬を涙が伝っている。
 小泉はあれ? まじで? と慌てふためきつつまだ私の頭の上に手を置いたままだ。杏ちゃん先輩は相変わらずの方言交じりで「どがんしたと?」とおそらくティッシュを私に差し出してくれている。
 違うんです……違うんです……
「小泉! あんた、なんばしよっとね。よか年して女の子ば泣かすなんて」
「え、やっぱり俺のせい? あ~何でだよ~」
 私は眼鏡を外して、差し出されたティッシュで目元から溢れでる涙を拭きながら、ちょっとした言い争いをしている、杏ちゃん先輩と小泉の間に割って入ろうとした。
 でも、突然の気持ちの高ぶりとお酒の酔いのせいもあって二人に上手く涙の理由を説明する自信がなかった。涙は目元に当てたティッシュの防波堤を突き破って止まる事を知らない。
 私が今泣いている理由を聞いたら二人はなんて言うんだろうな。そんな事を考えつつ、言い争う二人の方をぼんやりと見つめていた。
 言い争う二人の声を聞きながら、なんとか冷静さを取り戻せたようだけど一向に涙が止まる気配はない。心の中でも、様々な感情が渦を巻いて蠢いていてその気持ちが溢れ出てそのまま涙となって私の目から流れ出てきているようだ。
 ふと、誰かが後ろの方から私を包み込むようにして抱きしめた。フローラルな髪の香りとブドウの甘い香りが私を包み込む。
 それは、もちろん星さんではなく、アホの子先生だった。
 アホの子先生は何かを囁きながらワインの匂いを含んだ息をわざと私に吹きかけているようだ。そして、長く細い指は優しく私の指を拭きとってくれている。
「あら、あら、どうしたのですか? せっかくの可愛い顔が台無しですよ」
 いつもなら、こんな冷やかしにも似たアホの子先生のアプローチに対して私は明らかな抵抗を示すはずなのに、今は反撃の狼煙をあげるでもなく、まるで魔法でも掛けられたみたいに私は微動だにしなかった。
 背中にアホの子先生の柔らかい胸が当たって何だか温かい。まるで、ママから抱きしめられているような安心感を私は感じていた。
 その母性にも似た温かさに包まれたおかげか、いつの間にか私は泣き止んでいた。アホの子先生は私が泣き止んだ事を悟ったのか、抱きしめるのを止めて今度はちょこんと私の右隣に寄り添った。今度はワインの香りが私の顔に吹きかかる。アホの子先生は私を見つめている。
「落ち着いたかしら?」
「はい……なんだか、ごめんなさい」
「いいのよ、いいのよ」
 そう言って、アホの子先生は私の頭を子どもを褒めるときのように優しく優しく撫でた。やはり不思議と抵抗感はなかった。
 んふふ、とアホの子先生は私に微笑みかけた。私の頭に浮かんだアホの子先生の表情は私を小馬鹿にするような悪戯な憎たらしいものではなく、母親が赤ん坊をあやす時に見せる柔和な慈しみにあふれた笑顔だった。
「可愛いですね。涙で瞳がキラキラに輝いて、宝石みたい」
「え? 何言ってるんですか、先生」
 突然、アホの子先生は変な事を呟いた。私を慰めているつもりなんだろうか。
「いい事を教えてあげるわ。光一もね、あなたみたいにそれはそれは鮮やかな輝きをもった、琥珀のようなオッドアイを持っているのよ」
 アホの子先生が何の事を言っているのかさっぱり分からなかったけど、不意にアホの子先生の口から出された「星さん」という言葉に何の根拠もない安堵感を覚えて、泣き疲れたのか私は先生の胸にゆっくりと身体を預けていた。

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