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十余り四つ眼 慧「残念だけど、私の嫌な予感は必ず当たるんだ……」

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自分自身以上に愛するものがあるとき、人は本当に傷つくのだ。


グッド・ウィル・ハンティング









 暗闇の世界に生きる私でも大学生らしく携帯電話は持っている。携帯電話を持っていると言っても、私が愛用しているそれはメールも出来ないような通話機能だけが付いたシンプルな作りのものだ。音楽プレイヤーの機能なんて付いていないし、もちろんカメラ機能だって付いていない。付いているものといえば、某農大漫画に出てくる愛くるしいキャラクターのストラップくらい。まるで何のソフトウェアも搭載されていないただの箱同然のパソコンみたいな携帯電話だ。 
 それでも私は大事に大事に「こいつ」を使い続けて、この通話ボタンと電源ボタンとダイヤルボタンだけの「こいつ」と今年でもう四年目の付き合いになる。
 大学の小講義室で私はそんな携帯電話をさっきからまじまじと見つめていた。
「おはよう! 野尻さん、なんでケータイなんか見つめちゃってるの?」
 同じクラスの子が挨拶もほどほどに私に問いかけてきた。
「慧からの連絡待ち。いつもあの子、私より先に講義室で待ってくれてるのに、なんかいないみたいだから、おかしいなって思って。それで、電話したんだけど……」
「岩下さん、電話に出ないの?」
 私はその子に向かってコックリと頷いた。
 その子が親切にも慧がいないか講義室を見回してくれたり、慧の携帯電話にワンコールしてくれたりしたけど、やっぱり慧の姿はこの講義室にはなくて私の携帯電話はおろかその子の携帯電話にも応答がなかった。
「風邪でも引いたんじゃん?」
 その子は何も訝る事なく私にそう言うけど、慧は責任感の強い子だから病気で講義を欠席するにしても、必ず授業が始まる前に私にその旨を連絡してくるはずなのだ。たまに、遅刻しそうになる時も同じだ。私への連絡を疎かにしない事について慧は「学習支援ボランティアとして当たり前のことだっての!」と豪語していた。
 そう言えば、毎日慧は私の家まで迎えに来てくれるはずなのに今日は来なかった。今日たまたまアホの子先生と通学していて、すっかり慧のお迎えの事を忘れていたけど、今になって私は慧の身に何かがあったのではないかと心配になってきた。
 視覚障害者用の音声腕時計で時間を確かめると、もう始業一分前になろうとしている。それに合わせて講義室の中に次々と人の気配が雪崩れ込んでくる。その気配に交じって慧が元気な声で私に「おっす!」と挨拶してくる事を期待したけど、その期待を裏切ってとうとう講義が始まってしまった。仕方なく、私は講義内容を記録するために用意したICレコーダーのスイッチを入れ、教壇にいる教官のところまで点訳テキストを取りに行った。
 そして、授業が終わっても慧が現れる事は無かった。
 今日は幸いにも授業は午前中の二コマだけだった。あれから私は何度もカーディガンのポケットに入れた携帯電話を手にとって、携帯電話が着信してバイブレーターが震えるのを待っていたけど、待てど暮らせど私の携帯電話が震える気配はない。
 電話も掛けられないほどの高熱にでもうなされているんだ。きっと、そうだよね、慧? 
 私は何の根拠もなくそう決めつけて、嫌な胸騒ぎを抑えつけようとした。そして人混みを掻い潜りながら売店で買ったハムカツサンドにパクつき一緒に買ったパック牛乳でそれを流し込んだ。噴水池を囲むベンチに一人ポツンと座って昼食を食べながら、私はしばらくの間噴水のサラサラとした浅瀬のせせらぎにも似た水音をBGMにして、真っ暗な自分の世界に彩りを添える雑踏のにぎわいに静かに耳を澄ませた。
 どれくらいの時間が流れたのだろう。いつの間にか、辺りのにぎやかさは和らいでいた。慧の奴、大丈夫かな。もしかしたら、家で寝込んでいるかもしれない。お見舞いにでも行ってあげよう。そして、お見舞いに、ぶっといバナナでも持って行こう。そう踏ん切りをつけて、私はポケットに仕舞った携帯電話に手をつけようとした。
 すると、タイミング良くポケットの中が震えた。携帯電話が震えているのだ。慧だ! 誰からの着信かも確認せずに私はすぐさま電話に出た。
「慧! 慧だよね? もうどうしたのよ? 学校に来ないで……心配したんだから!」
――もしもし? あの~私は慧じゃなかとばってん……
 あれ、慧……じゃない? この博多弁の声の持ち主って、まさか……
「杏ちゃん先輩!?」
――あかりん……だよね? あぁ良かったぁ~てっきり間違い電話したと思ったたいねぇ~
 電話をしてきたのは、なんと「はんけん」会長の杏ちゃん先輩だった。
 杏ちゃん先輩に自分の携帯電話番号を教えた記憶は無い。どうして、知っているのかと彼女に尋ねると、曰くメグ先生即ちアホの子先生から教えてもらったという事らしい。いやいや、あの人にも教えた覚えないんですけど……
 私が混乱しているのを余所に電話口で杏ちゃん先輩は陽気に話を続けた。
――午後は予定空いとる?
「まぁ、授業はもうないので、空いていると言われれば空いてますが……」
――空いとるとね! よし、オーケィ! じゃあ、今からサークル室まで来て!
「え、何でですか?」
――ミーティング! ミーティングばするよぉ~
 そういえば、アホの子先生が今日「はんけん」でミーティングがあると言っていたっけ。
――来るやろ? てか来なさい。
 杏ちゃん先輩が私にそう言い切ると、ミーティングとは何か私に教えないまま「じゃあ、待っとるけんね~」とそう言い残して一方的に電話を切った。突然の出来事に私は二の句を継げる事も出来なかった。
 慧かと思って電話に出たら電話の主は杏ちゃん先輩で、杏ちゃん先輩は私の携帯電話番号を教えたはずがないアホの子先生から教えてもらったと、とんでもない事を言い出すし。もはやそれらの出来事は私の理解の範疇を遥かにK点越えしていた。
 私の知らないところで何か予想だにしない恐ろしい出来事が起ころうとしている。そんな大げさな事を私は思わず妄想してしまった。
 一呼吸置いてから、私はまた慧に電話をかけてみる事にした。でも、何度コールしてもやっぱり慧が電話に出る事は無かった。受話口から聞こえてくる無機質な呼び出し音が余計に私の不安を助長する。そして、何十回と受話口で聞こえ続ける呼び出し音に耐え切れなくなった私はとうとう慧への電話を断念した。ポケットではなくリュックの中に携帯電話を仕舞った。どっと疲れが出たのか、私は全力疾走していないのにもかかわらず何故か息も絶え絶えにベンチの背もたれに背中を預けていた。
 これからどうしようかな。とりあえず、慧にはもう連絡がつかないと思う。私は呼吸を整えようと瞼を閉じる。
 そうだ「はんけん」に行こう。そうすれば、何もかも解決するかもしれない。
 これは単なる思いつきなんだけど、形而上的な何かが私にそう囁いているような気がする。 ……そんなわけないじゃん。馬鹿みたい。
 そうだ、楽しい事を考えよう。ミーティングって何かしら。あ、今日こそ星さんがサークル室にもいるかもしれない。きっといるよ! さぁ、行こうか!
「ラブリー、Up! (立って!)……left Go! (左に曲がって!)」
 私は立ち上がりながらラブリーに指示を出してサークル棟に本丸を構える「はんけん」を目指した。私はわざと右腕を大きく振って自分の気を楽にしようとした。


 昨日、小泉に誘導されてサークル棟を訪れた時に私はサークル棟までの距離だけではなくその道すがらに存在しているであろう障害物の有無まで覚えようと意識して歩いていたので、今回サークル棟までの道程で私とラブリーが歩くことに苦労する事は無かった。偶然の産物とはいえ、昨日、白杖を手に一度この道を歩いていて良かったと思う。
 桜並木を通り過ぎる爽やかな春風を縫って私とラブリーは晴眼者と変わらないペースで無事にサークル棟まで辿り着いた。
 初めて訪れた時、手動の引き戸に顔面をぶつけた私も今度はラブリーの働きのおかげで華麗に入り口を抜ける事が出来た。そしてサークル棟内に漂うカビと煙草の何とも言えないブレンドの空気を吸い込まないように鼻を摘まみながら歩みを進めて、いよいよ「はんけん」のサークル室の扉の前まで来た。
 張り切って「はんけん」の扉をノックする。
「こんにちわ~」
「お、あかりん! いらっしゃ~い。待っとったばい!」
 私の今までの不安が嘘みたいに、杏ちゃん先輩が電話口と変わらない調子で私を出迎えてくれた。きっと、今、彼女は「はんけん」の活動に積極的な新会員の態度に感激していることだろう。そして、会員不足に喘ぐ会長として喜んで破顔しているに違いない。
 私は勝手にそう思い込んで顔をほころばせながら部屋の中央にあるはずのテーブルまで行き適当な席に着いてから「Stay♪(そこで待機しててね♪)」とラブリーに指示を出した。
「あかりん。あなた自由すぎるね~」
「何がですか?」
「犬! 普通、大学にはペットは連れて来んって!」
「ペットじゃありません! 盲導犬です! 私のパートナーです」
「あぁ、なるほど………お手!」
「駄目ですよ、杏ちゃん先輩。仕事中の盲導犬には構わないでください。仕事に集中できなくなりますから……」
「ふ~ん」
 杏ちゃん先輩はいかにも詰らないと言いたげな口ぶりでそれだけ言うと今度は黙り込んだ。
「何をしているんですか?」
「う~ん? 星に電話」
 おっと、今日もまた星さんは来てないのかな。でも、杏ちゃん先輩がわざわざ電話して呼び出してくれているから、もしかしたら今日は会えるかもしれない。
 来たら、どうしよう。何を話そうかな。何をしようかな。あ、その前に携帯電話番号を聞いちゃおう。私の頭の中に次々とメルヘンチックな未来予想図が構築されようとしている。もちろんその未来予想図には星さんの手を握り締める私がいる。夢のような気分で心がウキウキとする。やっぱりここに来て良かった。心からそう思えた。
「ミーティングって何をするんですか?」
「あぁ、まず映画ば観る。……今回のお題は『インビジブル』」
 そう言う杏ちゃん先輩は何やら四角いモノを私に手渡した。たぶんDVDのケースだと思う。 『インビジブル』といえば私の大好きな俳優、ケヴィン・ベーコンが透明人間の魅惑に取り憑かれていく科学者の狂気を見事に演じている傑作SF映画だ。
「そういえば、あかりんは目が見えんとやったね~……一応、日本語音声で観るばってん、画が見えん分、ちゃんと集中して観らんばよ!」
「え? あぁ~…は~~い」
 ちなみに私はこの映画を通算十回は観ている。目が見えなくても、セリフとBGMさえ認識できれば情景描写はおろか登場人物の表情まで鮮明に想像する事が出来る。年季が違うんです。あなたとは違うんです。
 なんだ、ミーティングって映画を観る事だったんだ。てっきり、難しい話をするのだとばかり思っていた。
 好きな人と好きな映画を観る。なんて素敵なサークルに私は入ったんだろう。数時間前まで私の心を煩わせていた悩みが露となって消えていくようだ。
 パチンと音が鳴る。折りたたみ式携帯電話を閉じる音だろう。……あれ?
「電話、繋がらなかったんですか?」
「うん、繋がらん。おかしかねぇ」
 あれ? 私の心の中に堂々と広げられた未来予想図が音もなく破れかかる。
「いつもこの日この時間には、星、電話に出るとに……」
 あれ? あれ? 心の中の未来予想図がもう半分近くまで破れてしまった。
「メールも昨日送ったとばってん、返信してこんし……」
 とうとう未来予想図は真っ二つに破れてしまいヒラヒラと私の心の中で宙に舞った。
 やがて、シンと静まり返ったサークル棟内に誰かの足音が響き渡った。不気味に規則正しく鳴るその音は徐々に、この「はんけん」のサークル室に近づいてくる。私は息をのんで、いつの間にか意識せずに両手で耳を塞いでいた。
「あかりん、どがんしたと? 身体の震えとるよ」
 もはや、杏ちゃん先輩の声は私の耳には届いていなかった。
 どうして? どうして? 数時間前のあの漠然とした不安は私の取り越し苦労じゃなかったの? 
 そして、その足音は私の予想通り「はんけん」のサークル室前で止まった。
 ガチャリとドアノブが回される音がする。まだ覚悟ができていない。できていないのに……
 その音は、容赦なく何かの「悲劇」の始まりを告げているように私には聞こえた。
 ついに、ドアが開けられた。
「あんたが、久本杏子さん?」
 私の耳に聞き慣れた声が突き抜ける。
 その扉を開けた主は、紛れもなく私の親友の慧だった。

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