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二つ眼 「あの保健の先生はアホの子です!間違いありません!」(2010,0307 改稿)

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思い出さないで欲しいのです 思い出すためには 忘れられるのが いやなのです


寺山修二









「その犬、すごく可愛いですね」


 私を深い眠りから目覚めさせてくれたのは、夢の中の星さんのあの言葉だった。まるで王子様のキスで目覚めた白雪姫の気分だ。
 それにしても、私はどれだけ寝ていたのだろう。 
 ……寝ていた? ……私は気絶していたの? 
「あら、気が付きましたか?」
 私は自分の置かれた状況をなんとか把握するために頭をフル回転させた。
 すると、何の前触れもなく優しげな女性の声が遠巻きに聞こえてきた。そして、その声を合図にしてゴロゴロと何かの音が私の方に近づいてきた。
 この音には聞き覚えがあった。たぶん、この音の正体は一般的なオフィスチェアによくついているキャスターが転がる音だ。ということは、おそらく誰かがオフィスチェアに座ったまま私の許まで移動しているということだ。
 キャスターの転がる音が私のいる傍で止まると今度は私の容態を気遣うその女性の声がより鮮明に聞こえてきた。
 考えても仕方がないので、とりあえず私はその女性に色々と聞いてみる事にした。
 ここはどこなのか。どうして私はここにいるのか。
「あなたは一、二時間ほど前に、この保健室に担がれてきました。血色が悪く、脈拍も乱れていましたので、とりあえず、ベッドで安静にしてもらう事にしました。おそらく貧血などの類でしょう。どうですか? まだ動悸がしたり吐き気がしたりしますか?」
「い……いえ」
 私は貧血で倒れて、保健室に担ぎ込まれた? なんということだろう。予想だにしない星さんとの再会に気が動転してしまった私は気絶してしまったのだ。
 つまり、憧れの殿方に自分の醜態を晒してしまったということだ。恥ずかしいの一言では片付けられない。自分が失態を犯した。その事実を考えれば考えるほど私の頭は沸騰しそうになる。私は思わず両の手で自分の顔を覆い隠した。
「どうしたのですか? まだ、具合が悪いの?」
 保健医らしき女性が心配そうに私に語りかけてくる。なんだか、その声が私をさらに可哀想な痛い子に感じさせる気がして、私は耳をも塞ぎたい気分になった。
 ……リセット。時間を星さんに初めて出会った時まで戻したい。
 あぁ。私は、もっとロマンチックな展開を希望していたんだ。
 たくさんの本を抱えた女性が、足がスラッとしたいかにも「僕、文学青年です!」という雰囲気を醸し出す爽やかな男性と桜並木の綺麗な十字路ですれ違い際にぶつかってしまう。その拍子に女性が持っていた本が地面に投げ出されてしまう。そして、女性は「ごめんなさい」と控え目に、でも、慌てた様子で申し訳なさそうな表情を浮かべてその男性に謝りながら、散らばった本をかき集める。男性は「大丈夫ですか?」と心配そうな眼差しでそんな彼女を見つめつつも、一緒に散らばった本をかき集めるのを手伝う。二人で力を合わせて本を集めていたら、男性がある本を見つける。「あ、ぼくも、この本持っているんだ。ほら……。君もこの本が好きなの?」と男性は女性に訊く。「えっ? あ……はい!」と女性はぎこちない笑顔で頷く。そして、二人は桜の花弁が舞い散る公園のベンチで仲良く肩を並べて、二人の運命的な出会いを祝福しあうのだ。……でへへへ。
「ど、どうしたのですか? 変な声で笑ったりして……。とりあえず、お薬を処方しますよ」
 どうやら、私は掛け布団に包まったまま変な笑い声を出してクネクネと身体を芋虫みたいに動かしながら妄想の世界に耽っていたらしい。なんという痛い子だ。
 こんな情けない姿を星さんに見られたりでもしたら……。
 そう言えば、私はここに担ぎ込まれてきたと保健医らしき女性は言っていた。まさか、慧が小さな身体で私をここまで担いできたとは思えない。つまり、星さんが私を担いでここまで運んでくれたという事になる。
 もしかして、星さんはまだこの保健室にいたりするのだろうか。
 だとしたら、また私は星さんに自分のあられもない姿を……。
 ガバッと私は勢い良く布団をめくり上げつつ、起き上った。
「あの!」
 「はい!」と保健医らしき女性は裏返った声を出した。オフィスチェアに座ったまま後退りしたのかギコッと鈍くオフィスチェアが鳴る音も同時に聞こえた。
「星さん……。いや、私をここに運んできてくれた男の人はまだここにいるんですか?」
「男の人? あぁ、あなたを運んできてくれた?」
 こっくり! 私は大きく頷いた。口で言うよりも断然この方がわかりやすいに違いない。
「もうお帰りになりましたよ。アルバイトがあるとかないとかで……」
 よかった。もうここには星さんはいない。私は緊張の糸が解れて、糸が切れたマリオネットのようにだらしなく、ゴロンとベッドに倒れ込んだ。
「ど、どうしたのですか? まだ体調が悪いのですか?」
 挙動不審な私の態度を見て、まだ私の体調が万全ではないと保健医の女性は思ったのか、私は心配そうな声をかけられた。
 これ以上迷惑をかけたらいけないな。
 私は自分がもう大丈夫だという事を示すために、仰向けの体勢のまま天井めがけて大きく腕を真っ直ぐと突き上げた。
 保健医の女性は「はぁ……」と安堵の溜め息を漏らしていた。保健医の女性が胸を撫で下ろす様子が私の脳裏に伝わってくる。
 やっぱり、言葉よりも態度で示す方が断然伝わるものだ。
 身体にまだ少し脱力感は残っているみたいだけど、ラブリーと一緒に歩いて、お家まで帰る体力はある。もう、私がここにいる理由はない。
「あの~私はもう大丈夫なんで、もう帰ってもいいですか?」
「あら、そうですか? では、気を付けて帰ってくださいね」
 「は~い!」と、私は自分の体調が大丈夫な事をまたアピールするように、陸にあげられた鮪もビックリするくらい、ビクンと大げさに上体を起こした。
「あら、あら、威勢のいいお魚みたいね」
 含み笑いをしながら保健医の女性は、私の元気な様子に安堵感を抱いているようだった。声のトーンの高さ、明るさを聞く分には、それが一聞瞭然(あかりん語。意味:一聞きしただけで、はっきりとわかるさま。一聞きで明らかにわかるさま)だ。
 私は帰り支度をしようとベッドから降りて、ごそごそと足を動かして脱がされた自分の靴を探していた。その時、私はある重要なことに気が付いた。
 ラブリー。ラブリーはどこにいるのだろう。
 「Come! (来て!)」と盲導犬に使う指示語を言ってみても、私の傍に駆け寄るラブリーの足音がしない。人一倍敏感な私の自慢の嗅覚で辺りの匂いを嗅いでみても、私の鼻孔に吸い込まれてくるのは清潔な保健室の空気と消毒液のような薬品のツンと鼻をつく臭いだけだ。
「あの~私が連れていた犬は?」
「犬? あなた、大学に犬なんて連れて来てるのですか? 駄目ですよ~」
「あ、いや、盲導犬です! てか、見てませんか? ラブラドール・レトリバーの成犬なんですけど……」
「A guide dog? (盲導犬?)」
 途端に流暢な英単語が私の耳に飛び込んできたかと思うと、オフィスチェアがベッドから遠ざかっていく音が聞こえてきた。保健医の女性がまたオフィスチェアに座ったまま移動している? 
 私は、思わず人を遠ざけてしまうような、おかしいことでも言ったのだろうか? 
 今度はガララとガラス戸を開けるような音も聞こえてきた。続け様に何やら書物か何かのページを捲るような紙が擦れる音も聞こえてくる。何をやっているのだろう。
 保健医の女性が何をやっているのかは見当もつかない。ただ、私の話を全く聞いていないということだけは解る。解るというか、私はそう解釈した。
「あなた、もしかして、人文学部2年の野尻明さん?」
 私の解釈に間違いはなかった。全く会話が噛み合っていない。
 なぜか、私は、いささか機嫌が悪くなってきた。それは仕方ないことだ。だって、私は見た目で人の第一印象を決められない分、聴き目(あかりん語2。意味:相手から発せられる声などの音により想像することができる様子)で人を判断するしかない。
 きっと、この人はコミュニケーション破綻者だ。違いない。これではまずい。まず過ぎる。このままではお家に帰れないのはおろかラブリーともはぐれたままになってしまう。
 私は最終手段を使う事に決めた。仕方ない‘アレ’を使うしかない。
 私は首から下げているネックレスのチェーンを引っ張り、胸元からあるものを取り出した。それは、長さ7センチくらいの犬笛だ。これが私の最終兵器なのだ。

 
 (絶対にあり得ないことだけど、何らかの事情でラブリーとはぐれてしまったら、これを吹いて、合図を送りなさい。ラブリーはその合図の意味をしっかりと覚えているから。そのように訓練しているから、きっと、あなたの許に飛んでくるわ。)

 
 ラブリーを訓練してくれた‘訓練士のすみれさん’から私はそう教わっていた。
 私は大きく息を吸い込んで、口笛を咥えた。
「え?」
 遠巻きに保健の先生の声。かまうものか。私は勢い良く犬笛を吹いた。
「何をやっているのですか?野尻さん?」
 必死に犬笛を吹く私に保健医の女性は怪訝そうな声を出している。眉間に皺を寄せながら私を見つめる保健医の女性の様子が頭を過る。
 犬笛の発する音の周波数は人間の耳では聞くことができない。
 だから、保健医の女性の目から見たら、今の私はいきなり鳴らない笛を咥えだした、ただの変態にしか見えないだろう。そう思われるのは、恥ずかしいと言えば、恥ずかしい。だけど、緊急事態にそんな事は言っていられない。
 すると、私が犬笛を鳴らしてから数秒も経たないうちに慌ただしい不協和音が鳴り響いた。ドアなのか、はたまた壁なのか、木を掻きむしる音だ。その音は私にラブリーが近くにいる事を教えた。
 恐るべし、犬笛の威力である。
「こ、今度は何事ですか~? 何なんですか~?」
 普段、遭遇しないであろう場面に立ち会わせてしまった保健医の女性は、ひどく動揺してしまったようだった。声が震えている。鼻をすする音まで聞こえてきた。泣いている? この人はどれだけ小心者なのだろうか。
「保健の先生、ドアを開けてもらえませんか?」
「え? それは、危険です! 何かいますよ! 外に……。外に。That's dangerous! (危ないでしょうに!)」
 さっきもそうだったけど、また、保健医の女性は英語を喋り出した。英語を喋る人種なのだろうか。
 とりあえず、保健医の女性が軽いパニック状態になっている事は確かだ。私は保健医の女性を徒らに刺激しない様、落ち着いた口調で先生に話しかけることにした。
「たぶん、さっき私が言ってた盲導犬だと思います。ラブリーです。彼がドアを引っ掻いているのだと思います。彼をこの部屋に入れてあげてくれませんか? じゃないと、私、知らない場所では身動きできませんから……。お願いします」
「Really!? but,わたし怖いですよ!」
 保健医の女性の語り口は日本語と英語が入り乱れている。在日外国人は混乱を極めると異国語と母国語が混同してしまうのだろうか。
「Jesus,please save me…….please save me…….please…….(おぉ神よ。私を救いたまえ……。どうか……。どうか……)」
 最早、保健医の女性は自分の保身しか考えていないようだった。映画のワンシーンに出てくるような、絶望的な状況下に晒されて、居るわけもない神様に助けを求める演技をしているハリウッド女優の悲哀に満ちた姿が私の目の前に浮かぶようだ。
 ラブリーが爪を立てて掻きむしる不協和音は一向に鳴り止まない。そして、意味不明な保健医の女性の悲痛な叫びも止まらない。
 ああ、何だか頭が痛くなってきた。一体いつになったら、私は帰れるのだろう。
「あの~先生?」
「Please help me…….Mam…….(ねぇ助けてよ……。お母さん……)」
「あの~」
「……Dad(……お父さんってば)」
「お~い!」
「……Tom(……トムゥゥゥ)」
 もう駄目だ。話にならない。ゴロンと私はベッドに寝転んだ。どっと疲れが出てきた。私の身体から力が抜けていく。ずっしりとベッドに自分の体重が乗りかかっているのがわかる。もし私が漬物石だったら、それは出来がいい漬物が完成する事だろう。
 このまま、今日はここに泊ってしまおうか。……もう面倒くさい……。でも、晩ごはん食べてないなぁ。お腹すいたなぁ。
 そして、私は目を閉じて考えるのをやめた。
 今となっては、カリカリと爪で掻きむしるラブリーの爪音や意味不明な保健医の女性の悲痛の叫びは心地良い子守唄の様だ。もう眠ってしまえ。


 しかし、事態は急転した。私が不貞寝を決め込んでいると、けたたましく何かが蹴り破られるような音がしてきて新鮮な空気と共に人の気配が私の許へと勢い良く流れ込んできたのだ。
「あかりん! あかり~ん! あかりん!」
 急に誰か女の子に声をかけられた。
「ねぇ、あかりん。大丈夫なの? ねぇ? ねぇってば!」
 私は無理やり誰かに両肩を掴まれたかと思うと、今度は大きく上半身を前後に揺すられていた。気持ちが悪い。脳味噌が揺さぶられているようだ。気持ちが悪い。
「吐くってぇぇ!」
 私はこんな横暴を働く輩に向かって思わずそう叫んでいた。一体、誰だ。
 ……いや、こんな狼藉を働く人物はあの子しかいない。そうだ、あの子に決まっている
「慧」
「あぁ~よかったぁ~。あかりんが元気になった! 元気になった! 」
 予想通り、私の肩を揺すっていたのは慧だった。そして、なぜか私は慧にギュッと抱きしめられた。
 もう離すものか。そんな気迫さえその抱擁から感じ取ることができた。
 慧のきめ細やかな髪から漂うシャンプーの香り――ラベンダーの香りが私の心を落ち着かせる。
 ふと、私の鎖骨辺りに何かの水滴が零れ落ちた。何だろう。これは何だろう。
「うぅ~う……。あかりん……。本当に元気になって良かった……」
 あぁ……。慧……心配かけちゃったんだね。そういう事だよね。たかが、私が貧血起こしたくらいで……こんなにも心配して……。
 でも、やっぱり慧はいい子だね。本当にいい子だね。
 ありがとう……。慧。
 私はその水滴の正体とその水滴がなぜ私の肩に落ちてきたのかを十分に理解した上で、そっと、慧の身体を抱きしめ返した。優しく、そして愛おしく。慧の心の温かさが冷めないように包み込むように。

 
 その後、私と慧は手を繋いで一緒に保健室を出た。もちろん、必死になってくれたラブリーも一緒に。
 保健医の女性は、まだ動揺が抑えきれず英語交じりの語り口が治っていなかった。
 そんなおかしい口調で保健医の女性は私たちを送り出してくれた。
「お大事に! See you ! Have a good 放課後をね!」
 出鱈目な保健医の女性の喋り方に、私と慧は二人で吹き出してしまった。
 外に出ると、温かいお日様の日差しはとっくの昔に感じられなくなっていて、その替わり、心地良い桜風が優しく、歩いている私と慧とラブリーを包みこんでくれた。
「今日は、慧にアイスを奢ってあげよう!」
「え、マジで? やりー」
 私が慧にその様に提案すると、慧は本当に嬉しそうに繋いだ手を大きく振っていた。
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