トップに戻る

<< 前 次 >>

七つ眼 「私の好きなラブコメ漫画は『めぞん一刻』です!」

単ページ   最大化   



二人の人間が愛し合えば、ハッピーエンドはあり得ない。


アーネスト・ヘミングウェイ









 「寝耳に水」って多分この事をいうんだろうね。そりゃ、気持ち良く寝ているときに急に耳に水を注がれたら誰だってびっくりするよ。てか、そんなこと予想だにしないって。それほどに先生の「星さんは自分の弟!」発言は恋愛の甘美な香りに酔っていた私を大いに驚かせた。一目瞭然なリアクションはさすがに周りには見せなかったけど、私はいささか動揺を隠せないでいた。胸の鼓動が一瞬トクンと大きく鳴ったのを感じた。
 向かいからカラカラとグラスの中の氷をストローで悪戯に弄くる音が私の耳をくすぐった。
そして、その悪戯な氷の調べに「んふふ」と無邪気な微笑みが交わる。何故か先生は愉快そうだった。私は目の前の暗闇の世界にまるで子どもをありもしない作り話でからかう厭らしげな大人の姿をぼんやりと感じた。


「どぅえぇ~~! 先生、それマジで?」
 私とは対照的に慧は素直に驚きの感情を言葉に現した。てか、大げさだよ。慧。テーブルの上の食器がズレ動くくらいにテーブルを両の掌? で叩いたりなんかして……みっともないなぁ。
 慧はまるで専業主婦たちの井戸端会議よろしくの勢いで先生の発言について先生に質問攻めしていた。一方の先生は待ってましたと言わんばかりに愉しげに星さんと自分の関係を外国人特有の丁寧な日本語で喋っている。興奮しているのかな。時折、先生の言葉に英語が混じってる。本当に愉しそう。ちっちゃな子どもが覚束ない箸使いで夕飯を食べながら自分の母親に今日あった出来事を自慢げに話しているみたい。
 そんな二人のやり取りをよそに私はただただ自分のグラスに残っていた氷を口の中で転がしながら黙っているだけだった。何でだろうな。今、自分が一番知りたい想い人の話題なのに。身を乗り出してまで話の中に加わりたいって思うはずなのに。訊きたいことが言いたいことが頭の中にあふれかえるはずだろうに。
 私は口の中にまだ残っている小さい氷のかけらを飲み込んだ。あぁ~こりゃあかんね。
「おじさま、お手洗いってどこですか?」
 自分の気持ちの整理をするために一旦この場から退場することにした。
 目が見えない私の事情を覚えていてくれたマスターのおじさまは私の許に歩み寄ると紳士的に私の手を取って手際良く私を座敷からお手洗いまでエスコートしてくれた。でも、途中何回かカウンターチェアに私は足をぶつけてしまうという始末だった。
 「隅っ子(すみっこ)」という部屋の隅にいることが落ち着いて好きだという人種がいるみたいだけど、なるほどそれに似た感覚だね。お手洗いというこの小さな密室にもそれに似た作用があるみたいだ。クンクン。ラベンダーの香りの芳香剤が相乗効果になってるのかな。
 先ほどの胸のつかえも取れたみたい。…完璧じゃないけど。「すっみこ」にまだ微かに正体不明のわだかまりが居座っている。そっと胸に手を当ててみる。そして心の中の自分に問いかける。
「どうしたの。ほら、チャンスじゃない。星さんのことを聞き出そうよ。あの先生から」
(……なんか、それは違うよ)
「違うって、どういうことさ」
 自問自答の答はいつだって解るのに時間が掛かる。むきになって答を見つけようとして暗闇の世界の中で私はさらに瞳を閉じ深淵の闇に身を沈めることにした。

 

 「おかえり~」と陽気な慧の声が私を出迎えてくれた。慧が奥のスペースに座りなおしてくれて私は通路側に腰を下ろした。結局、私は自分の気持ちの整理がつかないままに座敷に戻ってきた。
 慧と先生は、まだ談笑に明け暮れているようだった。いつのまにやら星さんの話は終わっていて、別の話題でまた同じように盛り上がっていた。どうやら深夜アニメの話らしい。今さら星さんの話題を振るのも何だか小恥ずかしいし、盛り上がっている二人の歓談に水を差すのも申し訳ないので私は社交辞令的な面持ちで二人の話に適当に相槌を打つことに決め込んだ。愛想笑いを浮かべながら、いつのまにか私はこの場に星さんがいたらどれだけ楽しいだろうかという事を考えていた。でも、私はそれを口には決して出さない。そんな自分がたまらなく情けなく感じられて悔しかった。
 カタッ。何か私の目の前に置かれたみたいだ。
「お嬢さん、何やら元気がないようだね。何があったか知らないが、これを飲むといい」
 穏やかな口調でマスターはそういうと私の右手を優しく目の前のものに添えさせてくれた。どうやらそれは温かい飲み物が注がれたティーカップだった。クンクン。レモンの香り?
「レモンバームティーだよ。明るい気持ちになりますよ」
 私は慎重にティーカップを口許に近付ける。すると爽やかな蜂蜜とレモンの香りが口の中に広がってきた。私をマスターのおじさまが佇んでいるだろう方向を見上げると、控えめに笑顔を作ってお礼を言うマスターのおじさまの姿が私の頭に浮かんだ。「どういたしまして」とどこか照れくさそうなマスターのおじさまの表情はきっとはにかんでいるに違いない。
「私にはないの? マスターのおっちゃん」
 慧の羨ましそうな声が左耳に滑り込む。私は笑いながら、まだ温かさの余韻が残るティーカップを両手で包み込むように持ち、あることを思い出していた。
 そういえば、初めてわたしがここに来た時もこれと同じティーカップでコーヒーを飲んだっけ。そして星さんが親切にコーヒーに砂糖とミルクをいれてくれたな。
 ……あぁ、そうか。……そういうことか。
 私は慎重にティープレートの位置を確認しながらティーカップをそこに置いた。そして、ようやく胸のつかえが取れていくのを感じた。
 そして、ある決意を胸に秘めた。


「あら、もうこんな時間ですね。あなたたちは家に帰らなくて大丈夫ですか?」
 先生が今までの子どもっぽさがまるで嘘だったかのような常識ある大人のお決まり文句を口走った。私は慧に時間を尋ねた。その時間は、すでに門限が厳しい家庭の親が自分の子どもの帰りの遅さに腸が煮えくりかえる寸前の時間帯だった。まぁ、あたしんちは門限なんてないから大丈夫なんだけどね。それでも、さすがに長居しすぎたので私と慧はそろそろお暇することにした。先生はここで夕飯を食べてから帰るらしい。ここでお別れだ。
マスターのおじさまと先生に挨拶をしてから、外に出ようとした。
「明さん、ちょっと待ってください。あなたに渡したいものがあります」
 すると先生の気配が私の方に近づいてきて、そして私の胸元に紙袋が差し出した。それは先日私が貧血で倒れた時に先生が処方するつもりだった錠剤だった。ご親切に、どうも。でも、もう大丈夫なんだけどな。私は先生に向って深々とお辞儀した。
 ふと、先生の肩に私のおでこが当たってしまった。やっちまったぁ~。
「すみません。せんせ~」
 口で謝りながら、先生の肩からおでこを離そうとした刹那……。
 私の耳元で先生が囁いた。
「光一君の電話番号教えてあげようか」
 それは、突然告げられた先生の‘弟’という冗談よりも私にクリーンヒットを与えた。
 本日二度目の先生のクリティカルパンチだ。
 一発目は成す術がなかった。そりゃ予想できなかったし、何よりも偶然街中で出会った先生が偶然にも私の目的地を知っていて、さらに星さんの姉を自称する始末だから……。そんな波状攻撃を喰らってしまってはリングの上に身体を沈める他ないでしょう。
 もちろん、先生の‘自称’星さんの姉宣言が詐称であることは私も馬鹿じゃないからそれぐらいすぐに見抜けた。でも、それを理解しながら数時間前の私は胸のつかえとともになぜあんなにも先生の言葉に動揺してしまったのか。
 二度目のパンチを喰らって、一瞬、私は固まった。
 また、やられたなぁと戸惑ったりもしたけど、今度は……今度は違う。
 やっと、理解したんだ。私の胸のつかえの原因を……。
 いや、これはどちらかというと認めたと云った方がいいかもしれない。
 そして、私は声高らかに先生に対して宣戦布告した。
「いいえ、結構です。自分で聞きますから……。あんたなんかに星さんは渡さないんだから……この年増!」

 
 かくして私は自分の恋敵とみなした目の前にいる大学の保健の先生に今どきのつまらないラブコメの脚本にも書かれないような顔から火が出るような恋の宣戦布告をぶつけたのだった。
 そして、そんな時でもやっぱり忠犬・ラブリーは我関せずといったご様子で大きな欠伸をしていた。

9

文造 恋象 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

<< 前 次 >>

トップに戻る