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冬の旋風  「起」

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一、鬼と悪平

 天正十七年(西暦1591年)旧正月を2日か3日ほど過ぎた信濃の山深き中の一軒家。
 正月を過ぎれば暦の上では春となるのだが、この日は何時にも増して厳しい寒さであった。

 女はその家の中で目が覚めた、暖かい囲炉裏端に粗末な布団で体を温めて貰っていたようだ。
 囲炉裏端には背中の大きな男の人影が見える、それを見た女は直ぐに体を検めた。
 それは貞操の確認ではない、彼女は忍である、任務に必要な道具の確認を行なったのだった。
「目が覚めたかね」
 背中の大きな男は振り向きもせずに仕事なのか、刀を研ぎ石で研磨しながらこちらに話しかけた。
 女は言葉に詰まった、忍道具がすべて手元に無いのだ。
 傍目では唯の竹水筒に見えても中には仕掛け針が詰まっている物から毒団子など、簡単には判らない道具から衣の中に縫いこんだ道具まですべて無くなっていた。

「何かしゃべったらどうかね?」
 男は振り向かずに話しかける。
「助けて頂いてありがとうございます」
 女は明るくそう伝えた、もしかしたらこの男はまだ気が付いてない可能性もある、慎重に話し道具を返してもらわねば仕事が出来ない。
 男は刀を研ぐ手が止まり、しばし時間が凍ったような沈黙の後、振り向きもせず口を開いた。

「お互いもう判っているのだろう、我等は同じく忍であることを」
 男はゆっくりと体を動かし女を見つめた、女は心臓を掴まれたような衝撃を受けた、実際にそののような業によって女は身動きが出来なくなったかと思った。
 女は丹田に力を込め、男と向き合い頭を下げ丁寧に男に申し込んだ。
「助けて頂いたことには礼を申し上げます、しかし私は急ぎの任務が在ります故に、どうか私の道具一式を返して頂けませんか」
 雨戸が風に揺られガタガタと音を立てる。
 部屋にする音は風の音、火の音、ただそれだけであり、まるで世界から生き物が消えたかのようだった。
 男はしばし女を眺め、そして外へ目をやる。

「女よ、まだ外には出られん。雪と風が暴れておる、四半刻(30分)もすれば再び雪の中で倒れているだろうよ、今度は助けん」
 冷たく言い切ったこの男に女は興味が沸いた、(この男は私に何かを求めているな。)じっとお互いに目を見つめあい腹を探り合っていた中、男は厳しい眼差しでしゃべりだした。
「わしは、元風魔忍の混田悪平(まざりだあくひら)と申す、元と言うのも先の戦で猿面の大将に北条家が破れ、今はこうして研磨師の真似事をしとる故にの。お主の名と主人の名を聞いてもよろしいかな」
 まだ相手の素性が知れぬものに真実を話すことは自らの生を短くする愚かな行為と忍の世界では言われている。あえてそれを話すと言う事は、何らかの覚悟を帯びている可能性が高い。女の体が一瞬硬直する。
「混田様と申されますか、しかと覚えさせて頂きました。しかし悪平とはまた強そうなお名前ですね」
 この時代と現代の言葉では意味が異なる文字もある。例えばこの(悪)と言う文字だが、現代的な間隔では善人の反対の意味合いで悪事と言えば反道徳的行為を指すが、この時代で言う悪とは(強い)と言う意味で使われることが多い。
 有名な者で言えば(悪源太)と言う名前は源義経を指す、戦いにおいて強い人物への敬称の様な物である。
 一呼吸を入れて、女はしゃべりだした。

「私の名は(れい)と申します、伊那忍で現在は加藤主計頭の下にて仕事をしております」
 混田の空気が少し変わる。
「なるほど、ならば私も猿面の大将と呼んでは失礼であるかな、これからは秀吉公とお呼びいたしましょう」
 小田原を落とし北条家を滅ぼした秀吉公、そして彼の右腕と呼ばれた加藤主計頭清正。
 れいは素早く雰囲気を察し言葉を加えた。
「伊那と風魔ではお互いに情報の交換や忍同士の交流があったと聞きます」
「いや、別にお主や上方を恨んでおる訳ではない。私は戦忍であった故に、満足の往く忍働きも出来ずにこのように無残に生きておる、それが悲しいだけじゃ」
 れいはまだ体の呪縛が解けずにいた、初めに心臓を握られたような感じがしたまま未だに解けた様子は無い。
 混田は完全にこの場を掌握していた、そしてそれは彼が凄腕の忍であることを証明していた。
「れいとはどのような字を書くのかな」ふと混田が尋ねた。
「私の名に決まった字はありません。人によっては鬼や零と書きます」
「鬼に零か、何とも幸の無い名前であるな」
 これには流石に不満げな顔をしてしまい、それを見た混田は顔を上げて笑う。
「結構な事です、れい殿。お主はまだ(くのいち)には成り切れていぬ様子じゃな。年の頃は17,18で未だに生娘といった所かな」
「混田殿、貴方は何を御望みなのですか」
 混田の笑い声を無視して本題に入った。

 彼は笑いを押し殺し真面目な顔をし、こう言った。
「わしは今でも自分の術に自信がある、未だにれい殿の体を不動金縛りの秘術によって五体を動けぬようにしておける。しかし秀吉公によって天下を平定された今、どこにわしの働き場があるのじゃろう」
 混田は淡々と話す中に殺意を込めている。
「この所、伊賀忍がこの辺りを嗅ぎ回っておる様じゃ、上方より女の忍が密命を帯びて北を目指していると」
 混田は、右人差し指でれいの乳房を撫でる。
 お前を徳川方に売って仕事を得るが良いと思うか」
「なにを仰られますか、すでにお気持ちは決まってられるのでは」
 れいは即座に返答を行なった、れいはこの男について(仕官の口が欲しいようだな)と見た。
「貴方の力は存分に判りました、どうか金縛りを解いて頂けませんか」
「わしはまだハッキリとは決めかねておるが」
 混田は懐より酒を取り出し一口飲んだ。

 れいの体はようやく痺れから回復し、五体を動かすことが出来るようになった。
 催眠術の一種なのであろう、まるで急に体の調子が戻ったかの様だ。
「よろしゅうございます。教えて差し上げましょう私の任務を、その後で貴方が如何するか決めるべきですわ」
 雨戸を叩きつける風は未だに弱まっていない。
 玄関の先まで氷が張ったように冷えた家の中にて、れいは言葉を紡ぎ出した。
二.加藤と石田と島

 忍とは技術者の集団である。
 時と場所によっては乱破とも呼ばれた。
 起源は様々な説があるが山伏、修験者などが前身であるという話もある。
 また、彼らのやり方も考え方も違うものである。例えば有名な伊賀と甲賀でも違いがある。
 伊賀が里長を中心としたチームプレイを信条とすれば、甲賀は各個人の能力を重視していた。

 れいは伊那の忍である。
 武田家が無くなった後、その後釜は真田家に託された。
 今彼女は真田家に仕えている、しかし真田家だけではない。
 その始まりから説明せねばなるまい。

 時は一年前、すでに朝廷より関白職と豊臣姓を受けている秀吉公は自分の後継者として鶴松を指名していた。
 だかその鶴松がこの秋容態を悪くした。体の熱が下がらず淀の方も大変嘆いていた。
 
 場所は変わり、石田三成の屋敷に三人の男の姿がある。
 一人は小柄で槍を長い間握ったことが無いような男、もう二人は豪傑そのものの顔をしていたが優しげな顔をしていた。
 小柄の男の名を石田治部少輔三成、彼の隣の豪傑が島左近清興、もう一人が加藤主計頭清正。太閤子飼い武将の中でも一際名のある者達である。
 彼等の友情が固いものであったかは歴史を知る我々ならば知っている、しかし当時の彼らの仲は極めて良いものであった。

「淀の方のご様子は良くない様であると聞くが。」
 加藤清正が酒を啜りながら石田三成に話を振った。
 彼の顔は急に険しくなり島左近も口を噤んだ。
「主計頭殿、私も頭を悩ませております。国の基礎固めは私の得意な方であるが、どうも奥方様を励ます術に関してはほとほとに困っております」
「様々な噂はあるようです。すべては噂ですが先の小田原攻めの際に太閤様の下へ参陣した伊達の仕業、徳川による仕業、果ては秀次様による仕業」
「左近、少し控えなさい」
 石田三成は厳しく叱り付けた。
「失礼致しました」
「いや、私は正直な話が聞きたいので何でも話して頂いた方が嬉しいのだ」
 加藤清正は笑って彼らを見た。
「もうしわけありません主計頭殿、なにぶん秀次様まで首謀者扱い故に腹が立っておりまして、確かに鶴松様が居られねば秀次様しか後継者がいないわけですが、彼のお方はそのような浅ましい真似を行うとは私には信じがたくありまして」
「私もそのように思います、秀次様は権力をありがたがるような人物とは思えませぬ。彼のお人は自分で努力しそして勝ち得た物意外を欲しがらぬでしょう」
 
 当時、羽柴秀次は尾張、伊勢合わせて100万石の大大名であり、二年前に淀の方が鶴松様を産んでいなければ次期関白であったかもしれないと思われていた。しかし彼自身は与えられる物を喜ぶ性格ではなく自ら手に入れることを望んだ。それは大敗戦を行った小牧、長久手の戦いの後に秀吉より受けた厳しい叱責による転換であった。
「となると考えられるのは、徳川か伊達か。」加藤清正は眉をひそめ考える。
「当然、純粋に重い病気に掛かられた可能性も高い」
 石田三成は加藤清正に言葉をかける。
 辺りは静かで秋風が障子の隙間から流れた。
「医者はどのように言われておりますか」
「毒ではないと言っている、しかし南蛮や大陸から我々が知らぬ薬を使われたというのならば流石に分からないと言っておったよ」
「徳川、伊達の陰謀と考えてみて何か奴らに得はありますかな」
「考えられることは幾つか在ります、太閤殿下はあのようにお年をめされておりまする故に、後継者争いを引き起こし内部からの波状を狙うものか、もしくは伊達のように再び戦国の世を望むものか」石田三成が言い終わるやいな加藤清正は顔を赤くして怒りを表した。
「ばかな、ようようにして天下より戦を無くしたのだ、戦の世の何が嬉しいのだ。伊達は誠にそのような事を考えておるのでしょうか」
 さすがに石田三成も驚き言葉が出なかった。
 石田三成はその時まで加藤清正が戦を嫌っているのを知らなかったのだ。
 しかし島左近は彼の心情を理解した。戦場で戦う武将は常に心を痛めつけられる、我等の声一つで多くの兵の命が散るのだ。
 戦を終えた時は本当はいつも泣きたいのだ、だがそれを許されない彼等は「せめて早く終わらせる事」それが目標となっていて太閤秀吉はそれをやってのけた。
 その時の嬉しさはどれだけあったのだろう。
「主計頭殿、御気分を害してしまって申し訳ない。私も戦を無くす為に努力してきた為に貴方の気持ちは痛いほど分かります。しかしこれはあくまで噂、推測の話でございます。今私達が力を合わせ行うことは唯一つ、鶴松様の御病気を治す事でございます」
 加藤清正は我にかえり酒を啜った。
 左近は静かに加藤清正の杯に酒を注ぎなおした。

「私の方も失礼致しました。しかし一体どのようにすれば万事上手く行くものでしょうか」
 加藤清正は天を仰ぎ再び酒を飲み干した。
 3人の間で湿った空気が流れた、行灯の火が揺らぐ、膳の上の魚は少し堅くなったような色をしだした。
 静かで、月の無い夜のようなこの空気を割ったのは島左近であった。
「失礼ながら申し上げます。」
「何か良き案でもあるのか」
 石田三成は島左近を見つめる。
「陸奥の国に非常に高名なる薬学士がいると聞きます、なんでもどのような病かすぐに判り、そしてその病に効く薬を作ることが出来るらしいのです」
「それは誠か、ならば何故早く言わないのだ」
 希望を見出したかのように顔に満面の笑みを浮かべた石田三成。
 しかし加藤清正は一瞬笑みを浮かべた後、少し動きが止まり何か思慮をしているかのように顎鬚を撫でた。
「しかし、若干危険であるのが問題です。鶴松様を直接連れてゆくには遠すぎるし命の危険もあります。また淀の方が拒絶なさるでしょう。」
 一同は黙り、彼の言葉に耳を傾ける。
 なるほど、淀の方が承諾するとは思えぬし、仮に承諾を受けても道中に鶴松様が暗殺でもされたら事だ。
「彼の者は薬学士故に薬を貰えばそれで良いのですが、場所柄が問題です陸奥と言えばあの伊達の領土、もし彼が裏で糸を引いているとすれば」
「なるほど、決して踏み入れない危険な地ではあるな。だが太閤殿下のご命令とあらば流石に大丈夫ではないか」石田三成は藁をもすがるように太閤の名を出した。
「いや治部少殿、相手は伊達であるぞ。のらりくらりとかわして他所の医者を勧めるだろう。もしその薬学士の薬で跡継ぎ殿を殺してしまっては困る。などとほざいてな」
「ならばどのようにすればよいと思うのだ左近。何か手を考えられるか」

 島左近は目を瞑り静かに思考を凝らし、そしてこう述べた。
「交渉で薬を得ようとすれば、難しいし何より時間が取られます、そして仮に私が伊達ならばそのような嬉しい情報が飛び込んできたら毒の牙をもって食いつきます。鶴松様の病はまだ城内から出さないほうが良いと思います。」
 そして一呼吸後、彼は持論を述べた。
「忍の使いを送りましょう、彼等は足が速いそして危険に対し対処が出来る。中には医術の知識を持つものさえいる。彼らを使いその薬学士より薬を貰ってこさせましょう」
 加藤清正もこれには感嘆の声を上げた。
「なるほど、筋も通っておるし先も見通しておる、良き案だと思うぞ」
 しかし石田三成は少し考え島左近に質問をした。
「しかし、薬学士に鶴松様の容態を詳しく伝えるものがいないとならぬであろう、となれば誰か淀の方に付いている侍女も連れて行かねばなるまい」
 島左近は酒を一口で飲み干しゆっくり目を開けた。
「適任者がおります、主計頭殿もご存知の者です」
「もしや・・小夜を使うのか」

 視線は今や島左近に集中している、島左近は再度酒を飲み干し一呼吸おいて
「彼女は淀の方の護衛を目的として主計頭殿の推薦で侍女になられましたね」
「まさにその通り、すっかり忘れておったわ」
 話の筋が見えぬ石田三成を見て加藤清正は説明を行った。

 今から二年前、淀の方御懐妊直後に加藤清正は島左近と酒を飲んでいた時の話だ。
 太閤殿下は淀の方を溺愛しており更に御懐妊の報の際には飛び回って喜んだ。
 それを見た加藤清正は島左近に淀の方をしっかりと守るにはどうすればよいか相談したのだった。
 加藤清正は実直な武将であり忍に対して余りにも無知であった、そんな彼に島左近は彼を真田昌幸を紹介し巡り合わせた。
 また、真田のような小大名を徳川のような大大名を退けたのは一重に忍の力であり、彼等は非常に素晴らしい技術を持っている事を教えた。
 数ヵ月後、島左近よりの紹介状をもって上田へ赴き真田昌幸へ事の成り行きを説明し、力を貸して欲しいと彼に願い出る。
 真田昌幸はにこやかに笑い、一度部屋を出ると年の頃は14,5歳の可愛らしい少女を連れてきて加藤清正へ紹介した。
「加藤殿、この子をあなたに差し上げよう。淀の方の侍女をする際は小夜と呼ぶことにしましょう。」
 この時、加藤清正は正直困った。戦場しか知らない男がこのような可憐な少女が忍びとして役に立つのか。
 しかし流石は真田昌幸、彼の心を見抜いたかのごとく
「女の忍は恐ろしいですぞ、特にこの子は十で猿飛の術と千里眼を会得しました故に才能はこの子の兄より優れてるやも知れません。まぁもっとも、このような事をここで言うと陰で盗み聞きしている者は悔しがるでしょうがね」
 その時、影の隅で何かが動いたような気がした、それは今の今までまったく気配もなく影であった部分が急に生を受けたような感じであった。
「はは、後で謝っておきますか」
 急に汗が噴出し寒気を覚えた加藤清正はこの時、この男と忍を敵に回したくないと心より思った。


3, 2

  


 三、伊那と風魔、そして伊賀

 その鍋には色の濁った出汁が張ってあり、悪平はそれを囲炉裏に吊るした。
 小屋の外の内臓を抜いて干した鴨の肉を乱雑にぶつ切りにした後、冬ねぎをこれまたぶつ切りにして鍋の中へ入れた。
 鍋の表面を薄く張っていた氷も鍋の底へ沈み、鍋の汁が熱を帯びると辺りにかすかな磯の香りを振り撒いた。

「これは冬にしかできん俺の秘伝の味だ。春にもなればこの出汁がすぐ腐る、長い間同じ出汁を使うと味噌などなくても少しの塩で十分いける」
 しかし煮立ってくるとその匂いは、れいには耐えられないような異臭へと化した。
「れいとやらも食え、食えば病み付きになるぞ」
「申し訳ない、伊那の忍は五穀と肉の摂取は術の妨げとなるので絶っている。気になさらず食べられてください。」
 修験者を起源に持つ伊那忍は体を軽くし自然と一体になる為に米麦など五穀と肉類全般を絶ち木の実や野草の類しか口にしていない。
 それ故に彼女の体は数日体を洗わなくとも優しい春の匂いがする。
「ほう、噂には聞いていたが誠に悲しい定めであるな。肉は旨いぞ、特に猪肉は絶品なのだがな」
 れいは悪平がどうしてもと薦めるので葱と汁だけ貰いそれを啜った。
 匂いは納豆に近い腐った匂いがするが味は濃くぬるりと喉を通る感覚は悪くなかった。

 れいは手を合わせ感謝の言葉を伝えた後、悪平に話を切り出した。
「私の仕事は陸奥のその薬学士より薬を貰いそれを我が殿へ送る事、それも決して遅くなってはならない、なぜなら若様の御容態がかなり悪い。持って数ヶ月、悪ければもっと早くにお亡くなりになる可能性もある」
 悪平は肉を骨ごとバリバリと砕きながら次々と箸を進める。
「しかし、我が殿が危惧していた事が判明した。伊賀の者が私を殺そうと追って来ておる、おそらく服部半蔵の手による伊賀忍だろう」
「少なくとも徳川は一枚噛んででおると言うわけだ」
 すでに鍋の具は無くなり悪平は汁まで飲み干していた。
「若様に一服持ったものが伊賀であるかどうかはわかりません、私の情報を知りたいのかは判りません。判るのは伊賀忍によって私の仕事が邪魔されている事だけです」
 悪平は横になり、れいを見つめた。

「わしが知る話を教えよう、お前を追っているのは伊賀忍で指揮はあの服部半蔵だ」
 さすがのれいもその名前を聞いた時は身が凍える思いがした、服部半蔵といえば十六歳で一軍を率いて忍働きを行うほどの天才、また戦略眼が鋭く徳川家康直々の側近である。
 更に術では甲賀に劣ると言われる伊賀忍の中で対等に戦っても勝ち目は無いと言われる程の術者でもある。
「まぁそう堅くなるな、実際に表に出てるのはその配下だけだ、奴は江戸に居る」
 当時、徳川家康は領土を移され江戸の開拓に奔放しており服部半蔵もまた、彼と共に江戸を離れる訳には行かなかった。
「だが安心もするな、お前の相手は柊蔵人、半蔵の耳と目と呼ばれる老練の忍だ、半蔵と対等の者と思え」
 れいはその名前を知らなかったが悪平がそこまで言うのであれば間違いないと確信した。
「それだけ知るのに俺は3人も伊賀者を殺したぞ。伊賀者はいかん、口を割らせるのが難しくてかなわん。甲賀であれば若干楽だったのだがのう」

 まだ、部屋の中には先ほどの鍋の残り香が漂っている。
 風の音は激しく二重に締められた戸から、かすかに体温を下げる冷たい一撃が二人を襲った。こうも風と雪が激しくては結界も役には絶たないが、今の二人には不要なほどの冷たい集中力があった。
「悪平殿、私を手伝って下さいませんか」
 れいは頭を下げて頼む、悪平は少し黙って一つの質問を投げかける。
「わしは負ける戦がとことん嫌いでのう、仕事を無くしてこのような生活をするのがな。それ故に先を見据えたい、お前の考えを教えろ、豊臣に付けば間違いないのかどうか」

 れいはこの質問に固まった、自慢の千里眼でも未来は読めない。
 彼女自身の考えで言えば豊臣家は滅ぼされるような気がしていた。
 理由は二つ、未だ後継者がおらず太閤閣下が亡くなれば内乱が起こるであろう事。
 もうひとつは仮に鶴松様が無事に生き延びたとして太閤閣下が無くなればこれまた内乱が起きるであろう事、それも淀の方によって。
 淀の方はさすが信長公の姪だけあって気性が激しく自分の子供以外の後継者は認めないであろう事。
 どちらにしろ太閤秀吉の寿命の長さに掛かっているのだ。もし彼が後継者が育つまで生き延びれば安泰だが、ここ十年以内に亡くなってしまった場合は終わりである。
 これを告げるべきか、それともしらばっくれるか、れいは思案した。胸を張って大丈夫とウソを言えれば楽なのだろうが、この男からは、私の嘘が一切通用しないような果てしない力を感じるのだから。

 れいは腹をくくり悪平に伝える。
「正直に申せば、太閤閣下の寿命次第です。そして後継者である鶴松様が立派に育って下さいましたら問題ありません。」
「ほほ、曖昧よのう。だがそれの真実なのだろう。・・・良いだろう。れい殿よ、わしの力買って下さるか」
 れいは目を見開いた。予想外な穏やかな顔の悪平を見たが為である。
(なるほど、私を試したか・・)
 おそらく彼は彼なりに調べた中で同じ結論に至ったのだろう。
 その上で私が彼の観察力、術力を甘く見ていたならば(ウソをついた場合は)その場で首が飛んだかもしれない。
「是非お願い致したい」
 れいは安堵からか17歳の少女の顔になった、悪平は少し驚き再び笑った。
「なるほど、そういう顔も出来るのか。悪くない、わしの前ではそうしていて欲しいものだ。」
 意地の悪い悪平はれいをからかった。

 外はまだ白く雪化粧に染まっており匂いと温度の無い冬の世界であるが、小屋の中はようやく春を迎えたような心の繋がりが出来た。
「報酬は黄金とそなたの純潔を貰おうか、わしを雇うの高いぞ」
「わかりました、黄金は先払いで10枚残りは我が殿と淀の方よりそれぞれ出して貰う事でよいですか、そして私の純潔は後払いです」
「おい、ちょっと待てわしは長らく女を抱いておらぬ故に今すぐにでも欲しい所なのだが」当てが外れた悪平は驚きの声を上げた。
「伊那忍はただのくのいちではありません。貞操を守らねば術が弱くなってしまいます、その為に今回の仕事が成功した暁にはお好きなようにして頂いて結構です」
 これは嘘であった、処女ではあったが術と貞操は関係ない。
 れいは素早く女の悪知恵を使いもったいぶらせた。
「やや、しまった。お前が寝てる間に抱いておれば良かったよ」

れいは再び17歳の顔に戻り笑った。

四、信濃から越後へ


 悪平が名前を変えたのは二刻後早朝の出発の際であった。
「是より、わしはそなたの部下である、改まった話し方は不要だ。また風魔と縁を切る意味で名を変える事にする。わしを一(ひとつ)と呼べ」
 愛嬌のある顔で微笑んだ。

 風魔忍は正式には相州忍で、足柄山を拠点に各地へ忍働きを行って来た凄まじい実力を持つ忍の集団であり、長く北条家に仕えてきた。
 有名な「風魔小太郎」の名は棟梁を意味し、服部半蔵のような個人の名ではない。
 北条家亡き後は江戸の町で盗賊として騒がせ、江戸時代初期、五代目風魔小太郎が幕府に捕まって一族は滅亡した。
 戦忍を勤めた悪平が風魔を去ったのは、盗賊として徳川へ復讐すると言う棟梁の考えに納得出来なかったからである。
 しかし縁を切ったとはいえ、三十五年体に染み付いた風魔忍術は捨てることが出来ない、忍び働きを好ましく思い、これまで続けてきた男の心からの望みは「大舞台で存分に働いて死にたい」これである。
 彼のように誇りを持った忍は数少ない、何故なら彼らが行う仕事は汚れ役である、誰もそれを望まない。もしくは、ただひたすらに「その時」が来るのを十年二十年、死ぬまで待つ潜伏調査役。彼らがどれほど武士の世界に憧れたかは我々には想像も付かないことだろう。
 しかし、一ついえるのは、誇りを持った忍はとても強かった。
 悪平、改め「ひとつ」はそういう男である。

 光が差し出した頃、二人は雪で重くなった戸を開ける。
 色が鮮明なこの時間でも、見える色は数種類のみ、聞こえる音は自分たちが立てる足音のみ。
 ひとつがれいに囁く、
「当分はわしが指示を出そう、二人とは言え経験の無いものが集団を統率する術があるとは思えぬのでな。お前が全て出来るようになったら後はお前に任せる。」
 れいは頷いて彼の言葉を承諾した。
「まず、会話は手暗号で行う。昨夜お前に風魔式を教えたはずだ。当分はこれで行く」
 ひとつは周りを見渡し危険が無いかを確認した。
「昨日の話しでお前が千里眼が出来る事がわかったから恐らく一里眼も出来ると思うが」
 れいは周りに見えないように手暗号で「はい」と答えた。
「よし、上出来だ。道中では走りながら行う必要があるかもしれない、注意をしておけ」
「後は、これをやる。なるべく早く修得しろ、使い方は道中教える。」
 彼はれいの手の上に棒に巻かれた細い糸の束を置いた。
「俺の得意技であり、風魔独自のものだ。俺はこれから結界を解いて同じものを作る、それは俺の予備だが使っていいぞ。」
 れいは、ひとつに「質問」のサインを送った。
「まぁー後で説明はするが、そいつは風閂(かざかんぬき)って言う術の道具だ。刀より鋭く刀でも切れない、拘束にも使えない事もないが、体がばらばらになるほうが早いだろう。こう言う場所での結界に役にも立つ。便利な道具だが、下手に触ると指が落ちる、今はまだ使おうとしないほうが良い。」
 それを懐にしまうと、二人の顔は忍の顔らしい「それ」になり、ひとつは手信号で「進行」を表す形を見せると二人は雪の上を走り出す。
 
 足跡を完全に残さないように走る方法はないが、それでも通常の人であれば足首が完全に浸かってしまう程の深い雪道を上から軽く踏んだ程度で次の場所へ飛んでいく。また、真っ直ぐでなぐ不規則に道から外れたり、木々を利用して飛び移りながら前へ前へと進む。
 雪はまだ降り続けている。
 このままであれば足跡は消し去ることが出来る。
 だがやはり彼等は見張られていたようだ、半刻(一時間)もした頃、ひとつは彼女の元に近き、木の上で「止まれ」の手暗号を見せる。
 れいも当然異変に気付いている。

 彼らの後ろ、そう遠くない所に追っ手の気配を感じる。
「れいよ、気付いているか」当然のごとく頷く。
「少し時間を頂きたい、私の千里眼で距離と人数を調べる」れいの眼差しは冷たい忍特有の物となっている。
「大層な術を使えるのだな、頼むぞ」
 れいは、目を閉じ心を飛ばした。
 千里眼は自分の知る場所へ心を飛ばし、状況を把握する術で、今で言う超能力に近い。
 れいの心眼の中では、彼女はツバメのように飛び、追っ手の姿を探している。
 程なくして一里ほど先に、凄まじい速度で雪の上を走る一団が見える。
 全員が忍特有のカニ走りで薄くなった我らの足跡を追っている。数は五人、全員が漁師のような姿をしているが動きを見れば彼らがただの漁師ではないと判る。
 心を体に素早く戻し、ひとつに状況を伝えた。
「それほど多くは無いな、ここで迎え撃つか」自信ありげに答える。
「数では不利です、逃げませんか」
 れいは冷静に現状を見た、今ならまだ身を隠すことが出来ると考える。
「いや、逃げても奴等は追い続けるぞ。数を減らすに越したことは無い。」
 ひとつは、にやりと笑い、れいに囁いた。
「ここで待っておれ、三人ぐらいは引っかかるだろう。残りは同時に手裏剣で仕留めよう」
 彼は結界から外した風閂を素早く辺りの木々に巻きつけた。
 その間、再び千里眼で状況を確認

 ・・・来た、奴等も我々を感ずいている。
 五人は散開し音も無く忍び寄りだす。
 ひとつは、手信号で「真っ直ぐ」と「走る」をしてみせ、れい達は呼吸を合わせ同時に走り出した。

 直ぐ近くで「殺せっ」と叫び声が聞こえる。
 その瞬間四方から白い服に色を変えた忍達が飛び出した。
「何時の間に」れいは驚いたが声に出さず、すぐ後ろを向く見事な早着替えで雪の色に成済ましていた為に、彼女は近くにいることは判ったが場所までは見抜けなかった。
 直ぐに竹水筒より仕掛針を数本取り出し迎え撃つ体勢を取った時
 
「ガッ」
 白い空間から突然の鮮血が飛び散った、瞬時に四人の忍が体の至る所を両断され、悲鳴も無く絶命した。
「左、打ち込め」後方のひとつが素早く指示を出す。
 れいは感覚的に体を反らし飛び、左の白い空間へ仕掛針を三本投げた。
 バッ・・・
 白い空間より鮮血が噴出す、同時に相手の投げた鎌が、れいの元いた場所へ突き刺さる。
 ひとつは、素早く相手に駆け寄りクナイで首を切った。
 
 忍達の勝負は一瞬である。
 ほんの少しの判断力と、事前の仕込が物を言う。
「まぁまぁだな。だが次からはもっと気を張らねば死ぬぞ」
 それはれいも判っていた。あのまま声を聞くまでじっとしていた場合、死ぬかこれ以上の忍働きも出来ずにいたかも知れない。
「目、鼻の下、喉に刺さっていた。それなりに術は心得ているようだな」
 そう言って、ひとつは仕掛針を三本、れいの掌に置いた。
「風閂の回収をする。その間にこいつらを雪の中に埋めろ。血もなるだけ目立たないようにしたら越後まで素早く行動するぞ。ただし村や町では漁師夫婦に成り切れ、よいな」
 れいは手信号で「はい」と伝えると二人はそれぞれ行動に移った。
 それはまだ太陽が東を見いている朝の一瞬の出来事であった。


 場所は変わり美濃の国の山中、十人前後の武士の集団と駕籠が小さな小屋の前に居た。
 小屋の中は工房があり、そこで陶磁器の器を作っている。
 来ている客人の名は前田玄以、当時の豊臣五奉行の一人である。
「半夢斎様も大変ですな、太閤殿下の為とは言えこのような山まで来て頂いて」
「よいさ、美濃は私の故郷でもあるからな」
 工房の主と思われる痩せた老人は前田玄以の手へ茶碗を乗せた。
「見事な朱色、実に満足のいく仕事であったな」
「有難うございます。しかしまぁ、朱色はさほど難しくないので私も気が楽でした」
 前田玄以は、興味深けに老人を見つめた。
「半夢斎殿、実は派手な色は安い色なのですよ、如何様にも修正が効きます。むしろ地味な色や黒、これが難しい。修正の効かない色なのです。素人目でも直ぐに判ってしまいますからね」
「判っているさ篠山老人。だがそれをわしに言ってはならんよ、これでも奉行なのですぞ。お互い長い付き合いだから許しておきますが、あまり大声で言われては私もまずいですから」
 苦虫をかみ締めたように苦笑する前田玄以を横目に、にこやかに笑いながら笹山老人と言う男は、丁重に前田玄以が帰るのを見送った。

 二刻程して、夕餉の膳を一人で食していると天井裏より囁き声が聞こえた。
「柊様、先ほど信濃からの繋ぎの報告で、大阪城より出た女を逃がしたとの報が入りました」
 機嫌が悪そうに篠山老人は囁いた。
「わしは食事中であるぞ、降りてきて物を申せ」
 柱の上より半裸の男が降りてきて頭を下げた。
「失礼致しました柊様。報告を続けますと、先発の五人は行方不明となり、山麓の村の我が手の者が女の姿を見ています」
「そうか」
 言葉少なく柊と呼ばれた老人は箸を置いた。
「当然つなぎは付けてあるのか」言葉には重みがあり、半裸の男は震えながら、
「申し訳ありません、現在は姿を見失ったようです」
 柊老人は、静かに半裸の男の目を見た。
 その瞬間、半裸の男の体の自由は奪われ金縛りのように動くことが出来なくなった。
 流れ出る冷や汗が絶え間無く男の体より滴り、顔は恐怖の色に染まる。
「口だけは動けるようにしてやる、最後まで話してもらおうか」
 冷たく、重い言葉に半裸の男は顔を青くし、ろれつの回らぬ舌でゆっくりと話だす。
「お、女は山中にある小屋から出た時、体格の良い男と一緒で一緒であったようです。その男も中々の忍の様で、これまで仲間が五人以上殺されています」
「ほう、あの娘に仲間が居たか、まぁよい。彦よ、良く聞け。今すぐ江戸へ飛び半蔵様より許可を貰って来い。わしも直接出る。」
「ははっ」
 体の自由を取り戻した「彦」と呼ばれた男は瞬時に柊老人の目の前より姿を消した。

 一人になった柊老人は、笑みを浮かべ
「猿の仕事も終わったし、何も怪しまれることはあるまい。大殿による天下統一の邪魔を行うつもりならば消し去るのみさ」
 そう呟くと行灯の火を消し闇の中に溶け込んだ。
5, 4

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