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ある作家の逃亡

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 小さなアパートの一室。三段の木棚の上段にはCDがいっぱいに押し込められ、下段には落語の入ったカセットと空のカセットがごちゃ混ぜに置かれている。中段には、みすぼらしい安アパートには似つかわしくないオーディオセットが置かれている。スピーカーだけでも百万はする代物だ。
 棚の横にはワークデスクというより子供の学習机といったおもむきの机が一つ。机の上にはワープロ、辞書、それと数冊の本がある。
 机に肘をたて、頭をかきむしりながらうめき声をあげている男が一人いる。この部屋の主である。
 オーディオは今年で二十一になる男が初めての収入で買ったものである。年齢を考えるとやはり似つかわしくない。が、年齢以上に、機械オンチである男には分不相応なものだ。
 CDの再生と、カセットの録音、再生以外の機能はないものと同じ状態だ。どうしてこのような高価なオーディオセットを買ったのか。それは彼の尊敬する人物がオーディオマニアだったからであるが、宝の持ち腐れとしか言えない。
 机の上のワープロも文字通りの物。つまり、パソコンに積まれたアプリケーションソフト『ワード』ではなく、全盛期をとうに過ぎ、衰退の一途をたどるワードプロセッサーだ。このワープロでさえ男には手いっぱいな一品になっている。
 そのワープロの文書作成画面はただただ白が広がっている。男はもうずっとワープロの前で頭を抱えていた。
 男はデビュー二年目の作家である。デビュー作『緑色の洋館』は飛ぶように売れ、昨年のベストセラーになった。続く二作目もヒットし、現在三作目を執筆中である――のだが、一向に筆が進まない。キーボードに置かれた男の指はホームポジションのまま微動だにしない。
 男は立ち上がると、狭い部屋の隅から隅へと行ったり来たり。背を丸め、左手を顎に添え、右手で左ひじを支えた体勢で右往左往。男の癖。悩ましく、困難な状況に陥った時にでる思考の体勢。
 デビューが決まった時は歓喜した。家族から友達、知り合い全員に連絡を取り、その喜びを伝えた。まさに狂喜乱舞といった様子だった。
 デビュー作が売れたのもまた嬉しかった。長く温めてきた物語が形になり、それが認められたことは、デビューが決まった時に勝るとも劣らない喜びだった。
 先の成功を得て、男のやる気は最高潮に達した。二作目の執筆には一作目を越えてやるという意気込みで臨んだ。
 その二作目も発売されると好調に売り上げを伸ばして行った。一作目までとはいかなかったもののヒット作と呼ぶに値する出来だった。男はその知らせを聞いて、喜ぶよりも先に大きく息をついていた。安堵のため息だった。
 まわりが天才だと囃し、褒め、持ち上げる度に男はプレッシャーを感じていた。一作目のヒットは素人の偶然の可能性もあったが、二作目もまたヒットするとそうはいかない。これは本物だとまわりは言う。そうなるともう男の逃げ道は断たれていた。
 次もいいモノを書かなくては、周りの期待に応えねばと思うとアイディアは浮かんでこなくなった。
 そして癖がでるほど男の状況は切羽詰まっていた。
 実をいうと三作目の〆切は昨日だった。当然、編集から連絡がきた。その電話にはもう少しだから一日待ってくれと言っていた。もう少しなんてのは大嘘だ。昨日の時点でもう少しならば、今現在ワープロの画面が真白であるはずがない。
 しかし、そんなことを知る由もない編集は一躍人気作家に躍り出た男の頼みを聞き入れた。
 翌日、つまり本日の正午に男の家に伺うと言って、編集は電話を切った。
 電話を終えて安堵の息をつくものの一時しのぎ、いや、一時しのぎにすらならない状況。嘘をついたことで状況はさらに切迫したというべきだろう。
 悪あがき。男は重々承知していたが、この状況を毛の一本ほどでも好転させるために夜通しワープロの前に身を置いていたが、結果は現在の真白である。
 こういったときは一眠りでもしたほうがいいアイディアも浮かんでくるものなのだが、そんな冷静な判断力など男に残っているわけもなく、状況は静止どころか後退していった。
 そして現在、時刻午前十一時三十分。二度目の〆切まであと三十分。
 

 
 閑静な住宅街の一角。外壁は薄汚れ、大型の台風でもくれば壊れてしまいそうな古めかしいアパート。男の住むアパートである。
 そのぼろアパートの錆付いていて、踏み抜かないか不安にさせられる階段をのぼる人物が一人。男を担当する編集だった。
 男は同年齢の貯蓄を遥かに上回る額を持っているのに、いつまでもこんな所にすんでいるのが編集には疑問だった。
 外観は言うまでもなく、日当たりはお世辞にもいいとは言えないし、正直に言えば最悪だ。低の低。底の底のさらに底。底辺が住むような所。
 人気作家には似つかわしくないと。
 短い階段を登りきると編集は軽く息をついた。
 二階の角部屋の前まで来ると、呼び鈴も鳴らさずに編集は中に入った。もっとも呼び鈴は壊れているので、いくら押そうと、うんともすんとも言わないのだが。ただ問題はそこではない。ノックもせずに男の部屋に上がるのは、男と編集の約束事。暗黙の了解という奴だ。ゆえに編集は呼び鈴を鳴らさないし、ノックもしない。
 編集は玄関で靴を脱ぎ、部屋へ。二部屋あり、玄関からみて手前が男の生活空間。奥が男の仕事部屋になっている。もちろん編集は手前の部屋で待つことになっている。
 編集はテーブルの上に鞄を置くと、仕事部屋の扉の前に行った。当然中に入ることなどしない。それもルール。男が出てくるまで編集は待つだけだ。
 そうは言っても男の――仕事の様子は気になる。編集は扉の前で耳を澄ませた。
 中からはカタカタと軽快にキーボードを打つ音が聞こえてくる。編集は安心したように頷くと、台所へ向かった。
 編集は台所にある棚の戸を開いた。そこにはいくつかの缶が並べられている。中身はお茶の葉。緑茶や紅茶の葉が十数種類。
 男が客のために用意したもので、編集は待っている間、自由に飲んでいいことになっている。これもまた取り決めだ。
 編集はその中からひとつを選び手に取った。ポットの中身を確認し、やかんを火にかけた。お湯が沸くまでに、カップなどを用意する。
 しばらくしてお湯が沸くと急須に葉とお湯をいれ、カップに注いだ。
 それを持って先の鞄を置いたテーブルまで戻り、ソファーに腰掛けた。
 編集はこのソファーに座るといつも思うことがある。このソファー、足の低いガラステーブルもそうなのだが、この部屋にはひどく不釣合い、不恰好だと。両者とも値の張るものではない。所有者、つまり男の年齢を考えれば妥当な値段。相応な品。
 そうなのだがこの部屋。和室。和室である。再三言うが和室なのである。畳の上にソファーとガラステーブル、加えて言うなら壁にはどこかの民族の面が飾られている。
 異様。異質。妙な気分にさせられる。そんな空間。
 編集がこの部屋を訪れるのは初めてではない。そうなのだから慣れてはきたが、馴染めてはいない。とはいっても他人の部屋。作家様の部屋。不平も不満も口にはださない。
 持ってきた自分の仕事もあらかた片付き、何杯目かの紅茶をすすりながら、編集は自分の腕時計に目をやった。
 午後一時を少し回ったところ。編集がこの部屋に来て一時間と数分が経ったところだった。
 しかしまあ、作家が一時間程度遅れることなんて日常茶飯事、世の理。炭酸を振れば噴出すくらい当然の出来事。編集は気にかけることもなく、お茶のお代わりを入れに席を立った。
 烏龍茶を片手に、持ってきた本を読む。これは仕事でもなんでもなく編集の趣味の本だ。大きな声ではいえないがこの本は、編集が勤めるところとは別の出版社からでた本だ。いい本がすべて同じ出版社から刊行されるわけがないので仕方ないことであるが。
 その本も一区切りがついたので、編集は時計を見た。
 午後二時。ちょうど二時間たっていた。
 「ちゃめしごと」とは言わないものの、ままあること。あわてるほどの事態でもない。
 それに耳を澄ませば奥の部屋からは小気味よくキーボードをたたく音が編集の耳に届いている。音の具合からいって順調といっていいだろう。
 編集は一度閉じた本を開き、読書を再開しようとしたところで、カップの中身が一滴ほどしか残っていないことに気づき台所にむかった。
 個人的な、どうしようもなくプライベートな読書を終えると午後三時を十分ほど過ぎていた。
 三時間。百八十分。一万八百秒。どう言い換えた所でそれだけの時間が経っている。
 茶飯事のわけがないし、ままもない。稀にはあるが、三時間も遅れると編集は少し心配になってきた。
 相も変わらず聞こえてくる連続的なタイピング音に、重ねるように貧乏ゆすりをする編集。薄い壁、薄い天井、薄い床。この安アパート中に伝わりそうな振動。
 男に声をかけるべきか、かけないべきか、頭を悩ます編集。
 一声かけたいところだが、男が出てくるまで待つのがルール。そういう取り決め。二人の間の取引。決まりごと。
 契約というのは守られるからこその契約で、守るべきものである。
 編集は思いとどまって、もう一時間待つことにした。
 台所で緑茶を入れ、ソファーに腰かける。視線だけ仕事部屋へ向けたが、すぐに手元のカップに目を落とした。
 こころなし貧乏ゆすりの速度が速まった気がする。
 一時間待つと決めたものの、そのあいだすることがない。仕事は片付いた、本も読み終わった。まあ、もっとも、編集は気が気でないのでそのどちらにも集中できないだろうが。
 こういう時間は長く感じるものだ。編集は先程から幾度も手首に目を落とすが、時間を告げる針は少しも動いていない。
 一時間前の姿が嘘であるかのように、まるで別人にでも成り代わったかのようにそわそわしていた。
 編集はカップの中の緑色の液体にうつる自分の顔を見つめた。
 そして、一気に口の中へ流し込んだ。
 それを盛大に吹き出した。
 入れたばかりでお茶が熱いこと忘れていた。心ここにあらずといった様子だった。
 少しして冷静になった編集はこぼしたお茶の片付けをしながら、男の仕事部屋の扉に目をやった。
 編集は少しうるさくしすぎたと思ったが、男は編集のへまに気付いていない様子だった。聞こえてくるキーボードを叩く音は一定で淀みがないからだ。
 集中を切らせてしまったということはなさそうなので、編集は胸をなでおろした。
 片付けを終え、台所から戻ってきた編集はソファーには座らず、部屋の中を行ったり来たりしながら、聞き耳を立てている。
 タイピングの音が途切れて、男が部屋からでてくるのを今か今かと心待ちにしている。
 編集にとっては永劫よりも長く、しかし、現実には一時間の十二分の一ほども経っていない時間が過ぎた。
 編集は仕事部屋の前で足を止めた。そっと扉に耳を近づけ、中の様子をうかがった。
 聞こえてくるのは軽快にキーボードを叩く音、ただそれだけ。一向に男が部屋から出てくる気配は感じられない。
 どうしてだろうか。流れるようなタイピング音を聞くたびに、編集は胸を締め付けられるような気になった。この音は男が仕事をしている証のはずなのに。
 編集は頭をふった。
 長く待ちすぎているせいで余計なことを考えるのだ。このタイピング音のひとつひとつが原稿の一文字一文字なのだ。
 つまり、男の書く物語は着実に終わりに近づいているということじゃあないか。男が仕事部屋からでてくる時に一刻一刻進んでいるということじゃあないか。
 この音がする限り何を不安になることがあろうか、と。
 編集はもう一度頭をふった。さっきよりも強く。自分に不安になることなどないと言い聞かせるように。
 編集はソファーに腰をおろした。背もたれに全体重をかけるようにより掛かる。首の力を抜く。すると自然に頭は後ろに倒れ、天井を仰ぐかたちになる。
 しばらくのあいだ編集は口をだらしなく開け、どこを見るともない焦点のぼけた眼で宙空を見つめていた。
 いきなり。いきなり編集は両の手で自分の頬をはたいた。
 空気をめいっぱい吸い込み、ゆっくりと吐き出した。数回、深呼吸を繰り返した。
 編集はソファーに座りなおした。
 ほんのいままで焦りと不安で曇っていた編集の顔から邪が抜けて、どことなく晴ればれとした面持ちになった。
 状況は何一つ好転していない。むしろ、逆。
 それなのに顔つきが変わったのは、覚悟を決めた。腹を据えた。もしくはくくった。
 みっともなくおろおろと取り乱すのはもうやめた。待つと決めたのならば、信じて待つ。
 心の中心に一本筋が通れば、顔つきも変わるものである。
 そうして静かに待った。
 時間がきた。一時間がたった。午後四時。編集がここに来てちょうど四時間がたった。
 それでも仕事部屋の扉は微動だにせず、男が姿を現すことはなかった。
 編集はすでに覚悟を決めた。待つ覚悟を決めたということは、逆に開ける覚悟も決めたということだ。
 仕事部屋の扉は開けない。それが取り決めであり、申し合わせ。誓い、協定、公約。血盟とまではいかないが、男の部屋でのルール。気難し屋の作家の男とその男を担当する編集の間の絶対の約束。
 二度、ノックして中からの応答をまつ。返事はない。キーをタイプする音だけが聞こえてくる。聞こえて――。聞こえてくるのだ。変わらない音が。思い出せばわかる。部屋を訪れた時と全く変わらない音が、今も聞こえる。
 編集は乱暴に扉を開けた。
 膝をついた。開ききった扉のノブから手をはなし、編集はその場に膝をついた。力なく、ただ呆然と、我を失い頭の中が白くなる。
 編集の目に飛び込んできた映像は驚くべきものだった。とはいっても、床に真紅の池を作って男が倒れていただとか、暴風雨が通り過ぎたかのように部屋が荒らされていた、なんてこともない。
 部屋にあるべきものはあるべき場所にあるべきとおりに置かれているし、血で書かれた男のダイイングメッセージなんてものもなかった。
 ただ、あるべき物はあるべきとおりであったが、あるべき者はあるべきとおりとはいかなかった。
 呆然とへたり込んでいる編集の耳には変わらずキーボードを叩く音がと届いていた。
 

 
 ベルが鳴り、機械仕掛けの扉が閉まった。窓の外の景色がゆっくりと動き出した。
 男は肘掛に腕を立て、立てた腕のほうの手のひらに顎をのせて座っている。
 時刻は十二時五分。約束の時をわずかばかり、十二分の一だけすぎた時刻。
 窓の外が動き出してようやく男は小さく息をついた。
 安心か。いや、まさかそうではないだろう。まだ動き出しただけだ。列車はその車輪を半回転ほどさせただけだ。安心するにはまだ早い。早すぎる。紛い物は置いてきたが、まだ早い。
 まだ逃げ出したばかりなのだから。
 人はほとんどいなかった。対面の二人掛けの座席は三つの余裕を残している。男が一人、肘をついて、車窓からの景色を眺めている――かどうかはわからないが、顔を窓の外を向けて座っている。
 車体は徐々にスピードに乗り始めた。時折、男の体を揺らした。
 男はほんの少しだけ前の自分を思い返した。
 
 部屋。狭くて、臭くて、ぼろくて、汚らしい男の部屋。だが、彼だけの城。聖城。
 希望、熱意、挫折、堕落、怠惰、再起、努力、そして成功。男の作家としての全てがつまった部屋を捨てる決断を下したのは約三十分前。十一時三十分から少し経った時だった。
 背中の重圧も期待も責任も男には重すぎた。細い神経では耐えられるはずもなかった。着の身着のまま逃げ去った。
 仕掛けを一つ。実にくだらない、まともに考えるのも馬鹿らしい、猿のような仕掛けを残して。
 「逃げる」と決めた男は部屋の中を見渡した。何か時間稼ぎになるものはないか。
 普通に考えれば仕掛けなんかいらなかった。逃げれば追えないのだ。探すことなど困難に近似している。顔を知る者などそういない。ひきこもりの商売だから。
 ただ安心が欲しかった。心細いのだ、何もなくては。「仕掛け」という心をあずける何かが欲しかった。気休めがあればそれでよかった。たとえ、そくざに看破されるような安い仕掛けでも。
 あれば安心なのだ。種がばれようとも、ばれたという事実を知りようもない。捕まる直前までは。仕掛けにだまされていると思い込める。追う者などいないと。現実がどうであれだ。
 部屋には何もないと言ってもいいほど何もなかった。仕事用の図鑑や辞書とオーディオセットの棚ぐらいだ。
 男は考えた。編集はどうするであろうかと。
 黙ってあがってくるだろう、家に。約束だからだ。
 それから台所にむかって飲み物を入れるだろうか。編集のために用意した緑茶や紅茶の葉、コーヒーの豆。おそらく最初は紅茶。漂ってくるのだ、微かに、香りが。編集がくると仕事部屋まで紅茶のそそる香りが。
 それから仕事部屋のほうをみるかもしれない。気になるだろう、中の様子が。自分なら気になる。扉は開けられない。これも約束だから。それでも気配は、わずかな様子は感じ取れるだろう。そして、ソファーにでも座り、待つのだろう。原稿を。
 編集の様子を思い浮かべてみれば、策は簡単に決まった。
 男のもとに漂ってくるのは香りだけではない。音もだ。編集がどんなに気をはらおうとも、どうしようもない。老朽アパートなのだから。壁を越えて伝わる音は仕方がない。
 むしろ、よかった。ボロアパートで。
 編集の音は伝わるのだ、男に。そうならば、だ。その逆もそうであるのが道理ではなかろうか。男の音も編集に伝わり、届くのだ。
 男は棚の下段をあさった。カセットテープの段を。
 カセットならなんでもいいというわけにはいかなかった、今回は。
 通常のカセットテープの収録時間は三十分から百五十分程度だ。片面でその半分。時間が圧倒的に足りない。収録時間がではない。タイムリミット、編集がくるまでのだ。
 最短の三十分でも間に合わない。十二時になってしまう。なら、片面、十五分だけにすればどうだろうか。
 それもだめだ。録音して、家を出るには時間はじゅうぶんだ。しかし、誰が、いったい誰が鳴り終えた片面のカセットのテープを巻き直すのか。そんな奴はいない。
 無理なのだ、カセットテープじゃあ。通常のものでは不可能。
 が、ある。逆転の一手が。
 エンドレステープと呼ばれるカセットテープの一種が。それは収録時間が三分から六分程度。そして名前の通りエンドレスに再生を繰り返してくれる。電源が切れるまでだ。
 男はテープの山からそれを掘り当て、急いで録音の準備をした。
 録音するのは仕事の音。仕事をしていると、男がそこにいると勘違いする音。
 ワープロを叩く音。キーボードを叩く音。
 ただひたすら三分叩く。
 キーボードを叩く音はこれまで幾度か家を訪れた編集は耳にしていただろう。不自然ではない、はず。
 この音は物語が紡がれていく音。原稿が進んでいる音。仕事がはかどっている音。停滞とは真逆の、安心できる音。
 この音が聞こえるのなら不安にはならない。進んでいればいつかは終わる。そのうちに原稿を持って男がでてくると思う。
 それが普通。音は偽物で男がいないなどと考えるのは思考回路の外。思うはずもない。
 だから、仕掛けが成る。ひどくチープで、誰でも見抜けるような仕掛けが仕掛けに成る。
 そして、主のいない部屋でオーディオだけがせっせと働いている。これから来る客人のために。
 
 列車は最高速に達し、窓の外を置き去りする。何もかもを置き去りにした。
 男が降り立ったのは全く知らない土地だ。そして男は人ごみの中に溶けていった。男の最後の表情は笑っているように見えた。
 
 
 数カ月した。編集は立ち寄った本屋の新書コーナーで一冊の本を手にした。あのとき読んでいた本の出版社と同じところから出ている本だ。タイトルは『こうして編集者はだまされた』。
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