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 喋る犬が僕の邪魔をしている。わぅわぅだとかそういうものでなく、人語を喋る犬が僕の勉強の邪魔をするのだった。
 喋る犬は貴重で、これは物騒な話だが麻薬の売買なんかよりずっと利益がある。公にオークションが地上波で流れ、あろうことかその額が億の値を超えたこともある。
 そんな高貴な犬は実は老けており、人であれば全身が白髪まみれというほどだ。実際、全身が真っ白で、耳の先から尻尾の末端までが白銀だった。
「なぁポチ。いいかげん俺の邪魔をするのはやめて勉強を教えてくれないか」
「失敬な。私は確かにポチという名前だがお前なんかより十年も先にいきているんだから、敬語で話せ」
 ポチは犬のくせに今年で三十歳になる。しゃべる犬は基本的に長生きなのだ。それこそ他の犬とは比べ物にならない知性を持ち、人語を話し、長生きをする。そして、希少種だ。ポチには子供がいない。喋る犬は子供を作ろうとしない。なぜかは分からない。どの犬もその問題に触れられると黙ってしまうからだ。
「なぁ、いい加減にしてくれよ。俺だって勉強しないといけないんだから」
 ポチの尻尾が揺れた。彼はいま、漫画を読んでいる。笑顔は人にしかないらしいが、犬でいえば尻尾自体が顔のようなものだ。彼はいま笑っている。
「待ってろって。これ一冊読み終えたら、見てあげるから」
 読み終えたとき、まさにそれが抜け殻だったらどうしよう、と思ってしまった。
「私はまだまだ長生きするからな。せめてこの本が完結するまでは生きてやる」
 そういって置いたのはヤケに作画のいい人気のある漫画だった。確か六部で完結しているはずなのだが次の話を書いているという奇妙な作者によるものだった。完結した漫画から登場人物が蘇ったように再登場している。いわゆるバトル物のストーリーだったので僕は不思議に思った。笑える部分はあっただろうか。だが見ると確かに納得した。作者が壊れていたところだ。作画崩壊とか、そういう次元のものではない。意味の分からない、だけど心の底から笑えるものだった。
 ポチが震える腰を持ち上げるのを見た。ふと、かしゃん――という音が聞こえたような気がした。金属音がすれるような、血生臭いような音だった。
 時期が、近づいているのかもしれない。やめてくれ、と低い唸りが喉の奥で響く。
「さて、散歩にいくか」
「外は雨なんだが。それでもいいのか」
 気遣ってそう尋ねるとフン、と鼻を鳴らした。強情だというのは昔から変わらない。

 別にカッパを着るわけでもない。傘もささない。雨はザァザァと降り、深い水たまりを作っている。僕はその音も好きだ。なぜだか分からないけれども、むしょうに雨の音だとか風の音だとか、雷の音だとかが、好きだった。
「そういえば」とポチが切り出した。「今日は土曜日だったか」そう言う彼も、カッパなどは身につけない。二人していつもずぶ濡れだった。
 頷いた。この日は土曜日の夕方だった。雨は明日も止まないらしい。
 喋る犬との散歩は日に日に遠くなっている。一月は毎日、朝と夕ずつに。二月は毎日、朝だけに。三月は二日に一回、朝。四月、三日イに一回、朝。五月、五日に一度、朝だけ。
 喋る犬の足を見ると、後ろ脚の関節部分が腱鞘炎によって禿げ、皮膚がむき出しになっていた。また胴体はか細くなっている。ほとんど毛だけの犬に思えた。声も枯れている。犬のクセに、耳も遠くなっている。目は相変わらず良いようだが、鼻が悪くなったといってマーキングもしなくなった。何でも、縄張り争いはもう飽きたし、面倒だから嫌だ、らしい。
 だが昨今、僕とポチは毎日のように散歩をしている。しかも、他の犬が現れるから嫌だ、という夕方に。長雨の中、毎日散歩をしている。朝も晩も、ロクに飯を食べないクセにポチは散歩に行きたがった。僕にはそれが理解できなかった。
 しゃらん――。刃物が擦れる音が、後ろから聞こえたような気がした。あぁ、やっぱり、そんな時期が近付いているのか。
 僕とポチは公園を目指した。ポチは疲れを思わせないような軽い足取りでトントンと歩いている。調子がよさそうだ。いっそ、一年前のように走りそうだったが、それは肉体的に、流石に無理そうだった。
 ポチは流石に歩いているときだけは喋る犬ではない。息が上がるからで、半年前からそれはやめていた。
 公園に入ると、ポチが辺りを心配そうに見ていることに気づく。彼は昔からこの公園に入る度に悪戯されることを心配したのだった。
 4月の初旬に大きな祭りがこの地方で開かれる。土日にかけて続くのだが、毎年この日は決まって散歩をしない。爆竹やらクラッカーがあるからだ。いくら雨であっても、子供が騒いでいる。クラッカーは水の中でも鳴るし、たまに砂の中に仕込まれていることがある。犬にとってあの耳を劈く炸裂音は脅威であるに違いない。
 だがその日に公園に行かなくなったということは、それには理由があるわけで、ポチにはトラウマがある。そのような日に、鳴り響く爆竹の中を平然と歩き、公園でマーキングをするような、若い時代のときだ。祖父がそのときポチを連れていたのだが、マーキングの途中、爆竹が腹の下に忍び込んだ。祖父はそれに気づいたのだがこれも天罰だろうと、放っておいた。少しすると爆竹はなるのだが、ポチの小便はまだ終わっていなかった。バチバチ!という炸裂音の中、ポチは小便をあちらこちらに散らしながら逃げだした。爆竹が鳴り終わった末、ポチは自身の小便まみれでガタガタに震えていた。
 これがポチのトラウマで、それからは何か思いもかけないようなことが起きやしないかいつも目を見張っていた。例えば小学生ほどの子供が分かれ道の右にいるならば左を選ぶだろうし、その逆もある。近道にヘビがいるなら通り道をするだろうし、電車の中に女性がいれば万が一の可能性を考えてその電車には乗らない。実際、そのようなものだ。ガキといえば悪いイメージがある。だが全てがそうでないのは確かだ。イジメと聞けば悪いイメージを持つ。だがイジメという行為は一種の社会適正であり、そのほとんどは正しい方向で話が済んでいる。だが社会の片鱗はそれを見逃さず、さもそれが異端だとして罰しようとする。実際は悪くない行為なのに、だ。中にはそれを正義だと掲げ無理矢理にでも退けようとする。ポチも例えるならその一端に過ぎないのかもしれない。一目見て全てを決めてしまうのだ。ポチは子供を見てそれをイジメをしてくる悪者と、或いはイタズラをしてくる者だと捉えているのかもしれない。ポチは注意深く、子供という存在自体を悪だと決めつけているのかもしれない。普段の会話でも、最近の子供って奴は……という始まりがかなり多い。愚痴も多い。おそらく、良いと思っている部分は欠片もないのだろう。
「ほら、そこの大木の下に腰をかけないか」
 ポチは足を止めて、顎をしゃくりその木を指した。
 この公園にはかつて木が二本あった。一本は小さく、一本はとても大きく。まるで親子のようだった。公園の中で育つ小さな木をもう一方が、まるで我が子を見守るように、眺めているようだった。やがて、改修作業が始まる。その頃、公園の遊具が色々と危険だと騒がれていた。その公園にも一つだけそのようなものがあった。おまけに周りを覆うフェンスはぼろぼろで、あちこち破れているところもあった。敷地が狭いから、周りにある土地を買い取って広げるということもあった。
 公園の小さな木は切り倒された。仕方のないことだった。いくら我が子のように見えても人間にはそうは中々見えない。幻想、妄想の限りであるからして、改修工事の過程で刈られるのは必然だった。あるいはおまけという、それほどその木は小さな存在だった。だからといってそれ自体に意味がないわけでもない。人が認めない限りそこに意義がないというわけでもない。自然の中にあのような因果関係は確かにあるが、それを人が気付かず、切り倒してしまっただけだ。悲しいことは僕らがその因果関係を見ることはその星の数の中の数個でしかなく、普通の人はそれを何十、何百と説明されなければ気付けない、そういうことだ。
 僕らが大木の下にいくと地面には雑草がある。そこには芝生も混じり、ふわふわとしている。太い木の根元の間を縫って、僕は腰を下ろす。ついでポチも、半ばガクンと倒れこむように座った。湿り気があるのは気にしなかった。
 普段はここから周りを覆うフェンスを通して多くのものを見渡せる。寺の屋根だとかマンションだとか。道路もある。かつて幼馴染だった人の家の跡地も見える。様々な思い出が、真っ白な光景で歪んでいた。雨はますます強くなり、霧のように一寸先を真っ白にした。まさしく槍のように降り、ドドドと滝のように地面にぶつかった。
「よく聞こえる」
「なにが」
「私は耳が悪い。犬の癖に、だ。長い間、犬として私は生きているがこのような雨は数年に一度もない。雨音はすごいだろう。だが私にはあまり大きく聞こえない。大昔に聞いた波音に近い。だけど、私には聞こえる。切り捨てられたものの、喘ぎ声が」
 よく目をこらし、周りを見たが、何も見えない。耳を澄ましても聞こえるのは雨音だけだった。
「そういえばお前は将来、なにになりたい?」
「そんなこと、まだ考えていない。第一、犬のお前には言われたくない」
「ははっ。そうだろうな。私は生まれて数年で気付いたことがある。私は人間に飼殺しにされるのだと。人には目的だとか夢が、この世の憎悪と喜びと同じ数だけある。だが、私にはない。それは私が犬だからだ」
 そう言うポチの声はひどくしわがれていた。
「お前ならどうする? そうだなぁ……例えば、この公園にはその昔、木が二本あった。お前はその木を守りたかった。だけど、一人の力ではどうにもならない。お前なら、どうするだろうか」
「わからないけど、たぶんよく考えて答えを出すと思う。それを何とかやり遂げても、自分の手元には何も残らないし、不利益をかぶるかもしれない。たしかにここの木は好きだったけど……そんなに思い入れはなかったなぁ。たぶん、なにもしないでいると思う」
「それも、ひとつの答えだ。だけど、私には、もう一つある」
「へぇ。犬のお前にも、そういうことがあるのか」
「あぁ。あるんだ」
 ポチは切なげに言うのだった。
「たとえば、身を犠牲にしても何かを引き換えにしないといけないんだ」
 僕は最後の言葉が聞き取れなかった。
 がしゃん――。はっとして後ろを振り向いた。かしゃん、かしゃん、と足音がもう近付いているようだった。
 もう時間は少ししか残されていない。
「さぁ。帰ろうか」
 ポチはそう言って、腰を上げた。
 僕はそのときのポチが死に顔のように見えた。

 家に帰った頃には二人ともプールに飛び込んだあとのようだった。冬辺りからポチは家で飼うようになったため、今日もポチは家にあがった。
 母がタオルをくれて、それでポチの体をぬぐった。ぶるぶると体を震わせ、僕は更に水で濡れた。ポチは尻尾を揺らしてご機嫌だった。
 僕の部屋は二階にある。ポチは急な階段をわっせわっせと、老いを感じさせず上がっていく。よほど楽しみなのだろうか。部屋の中に入ると、本棚を漁る。器用にくわえ出すと、漫画を読みだす。小説は流石に読まないようだ。何でも、この歳になって教養を蓄える必要はない、らしい。どうせなら笑いながら死にたいともいっていた。
「そういえばミキヒサはいつ逝ったんだっけ」
 ミキヒサは祖父の名前だ。ポチは祖父だけは名前で呼ぶ。
「一昨年あたりだよ。たしか僕が中学生のとき」
「そう……か。まだそれぐらいしか経っていないのか」
 夕方の漫画の続きを読みだしていたが、目は文字を捉えていなかった。
「ミキヒサはいい奴だったんだがな。頭もよくて、才能もあった。だが無欲だった」
「へぇ。僕にはそうは見えなかったよ。だって歩いていて柱にぶつかるような人じゃん。よく忘れものもするし、人の顔もロクに覚えられないじゃないか」
「そういうわけではない。人と明らかに違うんだ。根本から。あいつは滅多に人と話そうとはしないし、いつも夢をふらふらと見ているような奴だった。どうだ、死ぬ時は呆気なかっただろう?」
「そうだなぁ……親父も母ちゃんも悲しんでる様子は無かったし、葬式もあまり人はこなかった。死に目を見る人はいなかったし、遺産っていえるものはなかったなぁ。こういっちゃ悪いけど、幽霊みたいな人だった」
「そうだ。それがミキヒサの生き方だよ」
 ふーん、と僕はまたも勉強道具を取り出した。今度は邪魔しないでほしいな、と思いながら。
「ミキヒサはいい奴だったんだがなぁ……人は誰も理解していなかった。人の目に見えるような優しさは何一つしなかった。悪いことは何一つしなかった。だけど見えないことはしてたんだ。夜中にゴミを拾ってたり、公園を掃除したり、木を手入れしたり。その傍に私はいたけど、人は誰もミキヒサを見なかったなぁ」
「でさぁ、なんでそれを僕にいうんだよ」
 苛立たしげに返した。それが拙いことだと気づいたのは数瞬置いたあとだった。
「それはな。誰か一人にだけは分かって欲しいと願ったからだ。それはいまの私と境遇が似ているからだ。ミキヒサは私に見てもらい、それだけで満足していた。おそらく、彼を本当の意味で理解できるのは私しかいなかったのかもしれない。彼はそういう人がずっといることを心から願った。そういえば、私は彼が変わった人だと言った。そうだ、彼は他の人とあらゆる面で違っていた。性格から、何から何まで。気が合うという人は一人も出会うことがなかった。だから、彼自身を理解する人は誰もいなかった。犬という私以外にはな。だから今、ミキヒサと似た境遇のお前に、ミキヒサのことを話そうと思ったんだ」
「なぜそんなことを――」
 僕は分かった。境遇ということは頭の中で依然として空回りしていたが、なぜポチがこんなくだらないことを言ったのか、分かってしまったのだ。
 その時のポチの雰囲気が遺言を言い渡すような人に見えた。
 かしゃん――。死神の姿が、ポチの後ろに見えた気がした。もう時間はないのだろうか。
「もう寝ようか。明日は早いぞ。なにせ、早朝からの散歩だからな」
 僕はただ、頷いた。寝るしかないようだ。
「明日は、日曜日か」
 電気を落とした。豪雨の雲の隙間をすり抜けて、窓から月明かりが射した。ポチが寝ころび、月を覗いた。不意に、その無表情が笑ったように見えた。犬が笑うはずがない。犬は、尻尾だとか、しぐさで喜怒哀楽を表わす。だけど、笑ったように見えた。
 ベッドに潜り込んだ。勉強は後回しにしたほうがいいのかもしれない。少しでも、時間を大切にしないといけないのかもしれない。寝て、起きた後、全てが凍りついているような気がしてたまらなかった。
 雨が止んだかのように静かになった。僕が夢の中に落ちたからだ。

 夢の中で、僕はそれを夢だと気づきました。あたりは暗く、今日の雨のようでしたが、それほど強くはありませんでした。
 雨の音はそれほど大きくありません。いや、大きかったのかもしれないのですが、それよりも存在が大きい音がありました。夢の中では、大きいと思った音が大きくなるのです。
 にゃあにゃあ、にゃあにゃあ。
 猫が耳元で囁くほど近づいて、それでも精一杯鳴いているようでした。顔を回して、声のもとを辿りますが、猫はいませんでした。声は、どこから聞こえているわけではありません。夢なのですから、おそらく直接、語りかけているのでしょう。ですから、僕には猫の言っていることが分かるのでした。
「助けて、助けて。死んじゃから、助けて」
 足もとを見ると、雨でふにゃふにゃになったダンボールがあります。中には子猫が5,6匹いたような気がします。泥で汚れていたり、口元に綻びがある猫もいました。すでに息をしていない猫が多かったです。
 生きていたのは、全身が黒い猫。そのただ一匹でした。
 後ろを振り向きました。
 黒いローブをはおった、何らかの物体がふわふわと浮いています。ふらふらとどこかに逃げて行きす。
 よく見ると、その物体は刃の鋭い、身の丈ほどもあろうかという鎌をもっています。
 さらによく見ると、その物体の周りに火の玉のようなものが浮いていました。一つだけでした。物体は手を伸ばし、火の玉を手に取り、握りました。ふっと火は消えます。
 あれは魂なんじゃないかなぁ。
 そう直感的に思うと、猫の数を数えます。すでに生きている猫は一匹だけです。なので、火の玉は何個も無ければいけません。ということは、死んでしまった猫の火の玉はだいぶ前にほかの物体が刈り取っていったのでしょう。あるいは、無垢のプット(天使)たちが連れ去っていったのでしょう。
 でしたら、あの物体が手に持っている火の玉は、いったい何だったのでしょうか。
 僕は、知りたいと同時に、それを知ったら大事な人が朝、となりにいないような気がしました。だから、知ろうとしませんでした。ですから、夢が覚めたのです。

 じょり、じょり。眼を開けるより前にその感触に驚いた。がばっと飛び起きると、ベッドの横にはポチが待機していた。彼が僕の頬を舐めていたのだ。猫だとも思ったのだが猫ならばもっと痛いハズだった。
「早くいくぞ」
 尻尾がわさわさと揺れていた。
 僕はため息をつくと、仕方なく体を起こした。時刻はまだ5時も間もない。日の出にほぼ近かった。この時間なら、他の犬はいないだろう。
 窓を開けると相変わらず外は土砂降りだった。どこかで甲高い声が聞こえたが、夢のことは忘れていたため、それが何の鳴き声であるかは知る由もなかった。
 階段を下りると、それにポチも続いた。階段を転げ落ちないか心配だったが、あくまで杞憂だったらしい。すたすたと下りるのだが、足取りは確かであった。
 服を着替えて準備をするのだが、それはあっという間に終わる。傘もカッパも使わないのだから。第一、外行きの服装をする必要がない。どうせ帰る頃にはずぶ濡れなのだから。
 玄関に下りると、母が顔を出した。何でも、犬なんだからせめてロープで繋ぎなさい、とのことだ。言われなくてもポチならば大体のことは理解できるし、自重もできるのだからそんな鎖は必要ないのだが――形式上のものだそうな。犬には首輪と鎖。仕方なく、僕はポチに取り付けた。といっても、ロープだけだ。首輪ならいつもつけていた。本人曰く、付けている裏がとてもかゆくてたまらないそうだ。
 外に出ると、昨日と比べさほどは弱くなったが、それでも雨音は大きかった。
 散歩に出るとき、ポチの顔は見えなかった。なんとなく、見ることが怖かった。

 雨に打たれながら外を歩いた。いつもと同じ道だ。
 ポチを見ると、少しだけ昨日より歩く速度が遅かった。昨日は調子がよかったのだから、これが本来の歩き方なのだろう。
 大きく息を吸うと、ほこり臭かった。雨の日はどことなく車の出した排気ガスのような、砂っぽいような臭いがあるからイヤだ。
 ポチもそうなのか、尻尾は垂れていた。あまりご機嫌ではないのかもしれない。なぜなのかは、ほんとうに、この雨の日の空気の臭さが原因かは分からなかった。おそらく、何か理由があるのだろう。
 公園につくと、誰もいなかった。もう、ポチは歩くのがやっと、という感じだった。ほとんど這うように歩き、後ろ脚を半ば引きずっていた。ほんとうにこれが生き物なのか疑わしいほど、その足取りは頼りなかった。体は細く、もう毛と皮と、折れそうな骨だけだった。
 あの木の下に座った。そこからはありとあらゆるものが見えた。失ったはずの思い出は雨の向こうでおぼろげに蘇った。
 僕は祖父と似ているのかもしれない。親父は勉強しろとしか言わない。もちろん親父は心配していっているのだろうが、僕は勉強などしたくなかった。しても、それに見合うものが小さすぎるからだ。だから僕は雨の音や、風の音だとか、普通の人が見ない、ものを見ようとするのだろう。祖父もそうだったのかもしれない。僕にはこれといった友達がいない。皆が皆、丸い形をしてるのに、僕だけは四角い。ただ寂しくなどはなく、むしろ人と話している方が辛かった。ただそれは仕方のないことだった。どうしようもないことで、こればかりはどう説明すべきか見当もつかない。あまりにも抽象的で、デタラメなゴミ箱の中身のようだ。だけどおそらく、祖父もそうだったのだろう。善と思われることをしても、それを本当の意味で、本人を含めて理解されることはあまりにも少ない。ましてや祖父のような奇人には、同調するような人はまずいない。だからポチに話し、それをかけ橋として、僕に伝えたのだろう。知られない努力ほど虚しく、貴いものはない。漫画などでは格好よく描かれるが、それは見る人がいて初めてなりたつ。
 あぁ、そうなのか。
 カシャン、カシャン――。物体が、鎌を携えてやってきた。
「昨日、私は願い事を唱えた。一つは私の存在という枠を打ち破ること」
 火の玉がポチの周りで揺れていた。
「私が死んだとき、お願いがあるんだ」
「言ってくれ」
「猫は欲しくないか」
 既に分かっていたことのように思えた。
「どうせ私が死んでしまえば、動物好きのお前の母が、今度は猫を欲しがるだろう?」
「そんなこと、ないかもしれないじゃないか」
「いや、分からない。だけど、そうじゃないといけない」
「どうして」
「今日は日曜日だ。今日は、私がいつも悪だと決め付けた子供たちが、朝はいない。だから、捨て猫は拾われない。雨だしな。だからこんな日の捨て猫はとても可哀そうなものなんだ。不思議なものだろう?私がいつもバカだのなんだのいうガキ共に、そういった幻想を抱くなんて。だけど、ほんとうは悪いものなんてないような気がするんだ。例えばあの日、切り倒された小さな木も、誰もが切りたいと思って切られたものじゃない。だけど全てが仕方ないことなんだ。私が犬で、人間じゃないのと同じように。
 そして、私はただの犬として長生きしすぎた。その間に見捨てるべきものが多すぎたんだ。もう、苦しむのは嫌だ。多くのものが捨てられる中、私だけがぬくぬくと生きている。ミキヒサに拾われたのは、まだあいつが半生を終え、疲れ果てたときだった」
 命を蝋燭と例えるなら、どうなるだろうか。おそらく、ポチの蝋はもうほとんど残っておらず、ちらちらと朧げなのだろう。
「どれだけ私が善人でもどうにでもできないことが多すぎる。気楽とも言うべきなのか、とても痛むんだ。だから聞いてくれ。私がいなくなったとき、新しく猫を飼うと」
 僕は押し黙った。答えたら、ポチがふっと消えそうな気がした。
「わかった」
 だが答えずにはいられなかった。雨音にのみ込まれるほど小さな声で、喉の奥で言った。
「聞こえなかった」
「わかった。わかったよ」
 ぽつぽつと、反芻するように何度も答えた。
「そう……か。もう、場所は分かっているんだな」
 頷いた。夢を思い出した。朧げだった。場所なんてものは夢の中で見ていない。だが、感覚で分かりそうな気がした。
「なぁ。もう少し話をしよう。どんな漫画が笑えたんだ?」
 僕はポチに語りかけた。
「なぁ。おじいちゃんはどんな人だったんだ?」
 続いて、いろんなことを尋ねた。若い時、なにが一番楽しかったか。祭りの時のトラウマとか、かなりのことを訊いた。
 だが返事はなかった。「なぁ――」と言って、ポチのほうを見た。
 ポチはいなかった。
 カシャン、カシャン。音は過ぎ去った。火の玉は消えた。
 死神は、役目を果たしたようだ。
 首輪は、ポチの毛が少し纏わりついているだけで、本体は無くなっていた。ポチは痩せていた。一か月ほど前から、ほとんど水しか飲まず、飯もほとんど食べなかった。首も当然、細くなったのだろう。首輪を通り抜けるほど。
 呆気なさすぎる、と僕は思った。だがそうではなかった。僕はなにかを手渡されたのだ。死神は、ポチの火の玉をさらう代わりに、使命という題名の手紙を僕に手渡してくれた。
 駆けだした。どことなく声が聞こえた。雨はいつの間にか、晴れ上がっていた。朝日が雲の間から差し込む。
 鳴き声が聞こえた。僕はポチの首輪とロープを握り、なりふり構わず走っていた。
 とある分かれ道の看板の下。ゴミが普段捨てられているところから猫の鳴き声がした。夢じゃなく、実際に聞こえるのだった。
 見下ろすと、いくつかの亡き骸の中に、必死に声を上げる猫がいた。黒かった。
 僕は持ち帰り、家でまず温めた。なぜか母は、猫用の粉ミルクと哺乳瓶をもっていた。なんでも、ポチがどうしても、と言っていたらしい。
 もう、してやられたという感じだった。
 ポチの命が蝋燭ならば、その火を一瞬だけ消えかけた猫に、分けたのだろう。

 いつだったか、ポチは言ったのだった。人語を喋る犬は、私が最後なのだと。なるほど、テレビで見たのは一度か二度、しかもかなり前だった。
 ポチは、なぜ喋る犬が子供を作ろうとしないかも話してくれた。
「私たちはとても長生きだ。そして賢い。人と同じように人情がある。だが喋る犬は稀で、めぐり逢うことはぜったいにあり得ない。神様がいるなら悪戯のようにその巡りあわせを断ち切ってしまう。そしてその長寿さゆえに、人生を共にする相手は長いライフスパンの中で、たちまち消え去ってしまう。だから孤独になってしまう。私たちはそれが嫌いだ。
 それに、相手は言葉を喋れるのに、自分は吠えるしかないなんて夫婦は、世の中に存在しないだろう? それと同じ話だよ」

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そろそろ廃人 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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