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 繰り返し、繰り返し、彼女は言った。「起きてください」と。
 その言葉通りに、目を覚ました。まだ夢の中にいるような気分でベッドから起き上がり、鏡台の前に立ってみる。鏡の中に映っている私の目は、涙のせいで赤く染まっていた。
「……夢、だったのよね」
 奇妙な夢だった。どこからどこまでが夢だったのか、わからなくなるほどに。
「……アイリス」
 夢に出てきた淫魔が、アイリスである根拠なんてない。単なる夢だったと割り切るのが普通だろう。だけど、
「確か、淫魔は別名で、夢魔とも呼ばれているのよね……」
 相手の夢の中に入って、誘惑し、魔力を吸い取る。
 淫魔の最も得意な、常套手段。
 夢の中に入り込めば、どんなに屈強な剣士であっても、明朗な賢者であっても、対抗できない。
「昨日のアレもね……」
 そっと、指で唇をなぞってみる。柔らかい感触が蘇ってきて、慌てて頭を振り被った。
「……そんなことない、大丈夫。私は、ヘンタイじゃないもん……っ!」
 それにしても、あそこまで執拗に、同じテーブルで食事を求めていた理由が分かった。
 一人は嫌だからと言って、泣いていた。心細そうに、嗚咽を上げて、小さな子供みたいに。
 愛されることを知らなかった。本当はどうしようもなく不器用で、必死だった。
「馬鹿なんだから……変態で馬鹿なんて、手に負えないわよ……」
 眼尻に浮かんだ涙を拭う。しばらく俯いて息を整える。
 もう一度顔を上げた時、鏡に映る私の瞳は、いつもと変わらない色になっている。
「……うん、大丈夫」
 扉を開けて、部屋を出た。家の廊下には、窓から差し込まれてきた淡い光と、小鳥の囀りが届いていた。
 いつもと変わらない朝の気配。空気は澄んでいて、少し冷たい。
 廊下を進み、一緒に食事をする部屋の前に立つ。扉を見て、一層心がざわついた。
 ひんやり冷たいドアノブ。いつもと同じ感触なのに、胸が高鳴った。
「……おはよ、アイリス」
 開かれた扉、耳慣れた、錆びた音。
 返事だけが戻ってこない。
「……アイリス、いないの?」
 ここ最近、目を覚まして部屋に訪れた時には、いつも机の上に食事が用意されていた。
 バスケットに入った小麦色のパンに、お皿の上にはサラダとベーコンエッグ、その隣には木苺のジャムが一瓶。
 今日も準備は出来ている、だけどお皿が一人分しかない。
「アイリス? 部屋にいるの?」
 呼べば、すぐに返事をしてやってくるはずなのに。ここまで静かだと、逆に怖い。
「また、よからぬ事をしてるんじゃないでしょうね」
 世話が焼けるんだから。変態は朝から元気ね。うん、一発殴っておこう。
 
 アイリスの部屋は、居間の奥にある。元々は物置に使っていた空き部屋だった。
「入るわよ」
 一応ノックをしたが、返事がない。鍵もかかってなくて、自然にドアノブが回った。
「あれ?」
 小さな部屋だ。ベッドと衣装棚のみが置かれているだけで、隠れられる場所なんてない。ただ、そのベッドの上に、丁寧に畳まれたシーツと一緒に、彼女が普段着ていたメイド服が、綺麗に畳んで残されていた。
「…………え?」 
 嫌な予感がした。
 不安が込み上げてくる。頭がじわじわと痛み始めて、血の気が引いていく。
 そのままベッドの上に倒れ込んでしまいたいのを耐えて、部屋を飛びだす。
「アイリス、どこにいるのっ!? 返事をしなさいよっ!!」
 食事をする部屋に戻り、庭に面した窓を力任せに開いた。物干し竿にかけられていた洗濯物が、いつもと変わらず、静かに風にそよいでいる。
 素足で飛び出して、玄関の方へと走る。もう間に合わないという予感を必死に振り払う。
 やだ。やだ。
「アイリス! 返事をしなさいってばっ!!」
 乾いていた涙が、また、瞳の中に溜まっていく。一秒でも早く、一歩でも早く、姿が見たかった。この焦りが、些細な勘違いだと信じたかった。だって、前にもあったんだから。今日みたいに晴れた早朝に、玄関先で、ぼうっと空を見上げてて、
「今日の夜は、お星様が、きれーに見えそうですねぇ」
 そう言って、振り返って、笑ったんだもの。
 思いっきり、ぐーで殴ってやる。それで、心配かけてごめんなさいって、謝らせてやる。
「……勝手な真似したら、絶対許さないからねっ!」
 息を切って、玄関に辿りついた。
 土くれの上、黒い翼の欠片だけが残されていた。
「――――ご主人様、聞こえますか? 今まで楽しかったです。ありがとう」
 手に取った翼の欠片に残る、仄かな魔力。残された声。
 頭の中が、真っ白になった。
「私が側にいると、ご主人様は不幸になっちゃいます。それだけは嫌なので、だから、お別れです」
「……なんでいきなり、そういうこと言うの」
「最後なので、色々白状しちゃいますね。私は使い魔じゃありません。ご主人様の魔力が足りなくて、契約は失敗だったんです」
「……どうして」
「貴女の側にいたかった。えへへ、サキュバスなのに、一人の夜が怖くて寂しいなんて、変でしょ?」
 変じゃない。変じゃないのに。
「どうして、何処かに行っちゃうのよ!」
「――――ヒトになりたかった。一つ屋根の下で、誰かとずっと一緒にいたかった。おいしいご飯が食べたかった」
「それなら、一緒に……」
「私はもうずっと、本当のご飯を食べていません。だから時々、どうしようもなく、我慢が出来なくなるんです。覚えてますか、昨日の夜のこと。明らかに変だったじゃないですか。紛れもなく変態でしたよぅ」 
「うるさい……っ!」
「この紅い瞳には、私自身も逆らえません。相手を見るだけで、虜にしてしまう。ご主人様がそうなってしまうのは、嫌です」
 どうして謝るの。そんなはず、ないじゃない。
 どうして大切なことを、消えてしまってから言うのよ。素直に言えば、私の側に居られないと思ったの?
「これで最後だから。ごめんなさい、一つだけ、お願いさせて」
 嫌よ、貴女の頼みなんて、絶対聞いてあげない。いつもいつも、無茶ばかり。だから、
「なにも言わないで! なにも望まないで! 帰ってきてっ! 今なら許してあげるから……っ!」
「さようなら、ご主人様。しあわせになってください。私は不幸を呼び寄せる悪魔ですけれど、ご主人様のこと、大好き」
 黒い翼が消えていく。空の彼方に溶けていく。
 跡形も、残らない。
「―――――アイリスの馬鹿っ!!」
 彼女が飛び立った空に向けて、思いっきり叫んでやった。
「貴女は馬鹿だわっ! いつもいつも、自分の気持ちばかり押しつけてっ! 私の気持ちを考えてみたことなんて、ないんでしょっ!? なんでいきなりどこかにいっちゃうわけっ!?」
 同じ言葉を使っているのに、変態には言いたいことが伝わらない。意志の疎通が図れない。考えてることが、全然わかんない!
「確かに貴女の言う通りよっ! 変態馬鹿淫魔っ! 大っ嫌い!!」
 罵り続け、部屋の中に戻った。
 机の上に残された最後の食卓が目にとまる。込み上げてくる想いは、限界だった。感情の線がぶちぶち切れていく。
 涙が堰を切って、あふれて、こぼれて、とまらない。
「……やだ、もう、こんなの……やだぁ……」
 バスケットに入れられたパンを、一つ手に取って、口に運ぶ。
「本当に、いつもいつも自分勝手で、変態で、変態で、変態で、変態なんだからぁ……っ!」
 夢の中の彼女は教えてくれた。おいしい物を食べると、涙が出るって。

「はんぶんこ、しましょ。ご主人様」

 向かいの席に座り、幸せそうに、そう告げた彼女の姿を思い出す。
「……はんぶんこ、出来ないじゃない……」
 アイリスは嘘つきだ。淫魔である彼女に、ヒトの食べ物の味なんて、なに一つわからなかった。
 それでも満面の笑みには、けっして嘘は混じっていなかった。
 おいしい、って笑った。
「……覚えてなさいよ。絶対、許さないんだからね……っ!」
 一人で食べる涙味のパンは、おいしくない。それがわかっていて、アイリスはいなくなった。
「絶対、絶対、許さないんだから……っ!」
 悲しいわけじゃなくて、怒ってるんだから。本当に、怒ってるんだから。
 馬鹿な貴女に、今度こそしっかり教えてあげる。
 言葉で。心で。だから、ねぇ、お願い。
 帰ってきて。どこにも行かないで。
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