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First "In"pression

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 召喚の間。一日に二度訪れるのは、あの時と同じだった。
 あの時、一人で彼女を呼び出した時とまったく同じ状況。
 辺りは静まり返っていて、人影はないはずだった。
「―――また、ここへ戻って来ると思っていましたわ。フィノ・トラバント」
「……レアナ」
 ただ、厄介な変態が一人。
「先日の賭け、覚えていらっしゃいますわね?」
「私の勝ちよね。ほら」
 言って、手に持った合格証明書を見せる。
「教師のお言葉添えで、どうにか落第を免れた割には、随分な自信ですこと」
「うるさい。試験を乗り越えたのは一緒よ」
「そうはいきませんわ。そんな程度の低い結果で、わたくしが満足すると思って?
「……ぅ」
 言葉に詰まってしまう。出来る限り強気に出てみたけれど、流石にレアナの言い分が正しい。
 怯んだ私に向かって、レアナがにこやかに手を差し伸べる。
「さぁ、今から二人で仲良く、朝まで語り合いましょうね。色々と。それはもう色々と」
「遠慮しておくわっ!」
「あら、なんでしたら、貴女の秘密を教えてさしあげても構わないのですよ?」
「必要ないわ。ほら、一人で帰ってよ」
 そう言うと、口元に手を添えて、妖艶に微笑んだ。彼女が変態であることを知っていても、惹きつけられてしまう微笑みだった。
「また、使い魔を呼び寄せるおつもり?」
「召喚をするわけじゃないわ。自分の意志で離れていったアイリスが、素直に帰ってくるとは思わないもの。……変なところで、いじっぱりだから」
「それならどうして、この場所へ?」
「決まってるでしょ。今度は、私から、会いにいくの」
「……お馬鹿さん」
「今だけは、馬鹿で結構よ。それよりはやくどいて、邪魔よ」
 お互いを目の中に焼きつけた。一歩も引く気はなかった。
「扉の奥がどういうところか、頭の良い貴女なら、理解しているはずでしょう?」
「それでも、行くのよ」
 眉をひそめたレアナを無視して、床に魔法陣を描いていく。

『あはっ! 本当に大丈夫なのかしら~?』

 また、あの声がする。
 顔が熱くなって、耳鳴りがして、胸が苦しい。

『扉の先は、この世界の迷宮をすべて継ぎ足してもまだ広い、終わりのない場所よ? 気が狂えるだけでも、幸せに思えてくるわ』

 かつん、と一歩近づいてくる足音。
 正面のレアナを見据えた。
「レアナっ! これ、貴女が原因でしょっ!」
「……なんのことかしら?」
「とぼけないでっ!」
 今思えば、旧校舎で騒ぎがあった帰りに、この声が聞こえるようになった。
 淫らで、軽薄な女の声。もう一人、別の誰かが、自分の中にいるような。
「変なこと、しないでよっ!」
「…………」
 かつん、かつん。
 近付いてくる。
 無表情で、無言で。
「……お馬鹿さん。それが、わたくしのせいだと、思っていらっしゃるのね……」
「……え?」
「貴女の知らない秘密よ。教えてさしあげますわ」
 そう言って、なにかを考える前に、唇が触れた。
「――――ッ!?」
 暖かい体の肌のぬくもりに、熱い吐息が入ってくる。
 キスをされているのだとわかって、全身の血が滾るように燃えていく。
 ぬめった感触の舌先、口内で踊った。
 瑞々しい唇の先、レアナの眼元からこぼれ落ちていた、涙の味が混じり合う。
 喉へ、奥へと迫ってくる。突き放そうとしたのに、叶わない。
 夢の中にいるように、現実感が希薄になっていく。

『フィノ、止めなさい』

 父様の声が聞こえた。
 なんだろう、これ。くらくらする。
 熱いよぅ。父様。とっても熱いよぅ。
 心の奥が、むずむずする。くすぐったい。助けて。父様。凄く気持ちがいいです。
 見えない傷口を塞いでる瘡蓋に、優しい爪が、刻みこまれていく。

『ダメだよ、君にはまだ早い。今すぐ彼女から、離れなさい』

 でも、父様。これ、とっても気持ちがいいんです。おいしいんです。
 魔力なんですね。これが。魔力って、こんなに濃い味がするのですね。
 こんなおいしいものがあるなんて、私、知りませんでした。

『フィ―――ノ……、止め―――なさ……い』

 重なりあっていた唇が、微かに離れる。頭がぼぅっとする。
「どう、もっと欲しい?」
「……うん」 
 頷いて、もう一度。今度はもっと激しく、熱く。
 邪魔な瘡蓋が剥がれて落ちていく。
 その下から、まだ渇いていない血の香りが、いっぱい、溢れ出してくる。

『フィ……ノ………………――――さん、は…………」

 父様の声が消えていく。遠くなっていく。

『―――――――――――――――――――――――』

 それから、私の中に、欲求だけが残った。
 重ね合わせるように、自分から彼女を求めた。
 たべたい。もっと、もっと、たべたい。食べ続けたい。
 貪欲に齧りつくしたい。味わえるだけ欲していたい。
 どれだけ満足しても、満足しきれないって思うぐらい、味わいたい。
 心の中が満ち足りて、それが外にこぼれ落ちるぐらい、たくさん、たくさん。
 おいしいよぅ。
「……フィノ、もう……」
 目の前の『餌』からの供給が無くなっていく。最後に名残惜しい後味だけを残して、私の餌は、その場に崩れ落ちた。
「……………ご満足、頂けたかしら?」
 真っ赤な顔で喘ぎながら、ぼんやりした眼差しで、見上げてくる。
「満足、なんて、出来るわけ、ないよ……」
 足りないよ、まだまだ、全然。もっと頂戴。全部頂戴。
 貴女が持っているものを全て、私に注ぎなさい。
 追いすがるように両腕を伸ばして、餌の頭を抱え込んだ。
 だけど思いっきり頬を叩かれた。
「貴女が今すべきことは、何だったのかしら? ディナーの時間には、まだ早くてよ?」
 頭が割れるように痛くって、くらくらする。体が別の色の炎を灯したように、熱くなっていく。
 さっきまでの欲求だけじゃない。別のなにかを、全身が耐えきれないぐらい欲してた。
「しっかりなさい、フィノ・トラバントっ!」
「――――――ぁ」
「まずは深呼吸をなさって。……そう、ゆっくりとね」
 言われた通り、思いっきり息を吸いこんで、吐き出した。ぼんやりと揺らいでいた意識の中に、光が戻ってくる。
「…………レアナ」
 彼女を欲する欲求は完全には消えない。だけど、どうしようもない感情は抑えられた。歯を食いしばって、レアナの細い首を軽く締め上げる。
「……今、なにしたの」
「あら、激しいのね。うふふ、もう少し力を入れて頂ける?」
「やかましいっ! なにしたかって、聞いてるのよっ!」
「別に、たいしたことはしていませんわよ?」
「嘘つけっ!」
「嘘ではありませんわ。単なるキスじゃありませんの。なにげにわたくし、初めてだったのよ?」
「黙れ馬鹿っ! 死ねっ! 変態は絶滅しろっ!」
「うふふ、それなら仲良くご愁傷様ね。それともこの場にいない、どこかの誰かさんも一緒かしら?」
 ぐっ、と言葉に詰まる。そうだった。アイリスも変態なんだった。
 どうしよう、やっぱり変態は嫌だよぅ、怖いよぅ。父様。
 私は父様がいれば、それでいーんです。父様とだけ、いちゃいちゃしてたいの。
「心の声がまる聞こえですわよ、ファザコン娘。貴女も末期な変態ですけれど、貴女の父親も、相当な過保護ですわね」
「……なんですって?」
「実の父親に力を封印されていたなんて、想ってもなかったのでしょうね?」
 聞きなれない言葉を耳にして、一瞬、頭が働かなくなった。
「封印?」
「そう、封印。貴女の喉元に、本来の力を封じている印。それを解除してさしあげましたわ。わたくしの魔力を注いであげることでね」
「な、なんのこと……?」
「ふふ、あくまで推測できたけど、外れてはいなかったみたいね」
 ふわりと、微笑んだ。
 頭がぐるぐる回る。父様? 封印? 変態? 
 なんのことか、全然わからない。
「フィノ・トラバント。よくお聞きなさい。貴女は、全身から生み出される魔力のほとんどを、父親にかけられた印によって、全て自分の餌に置き換えていた。そして本来あるべき欲求を、自分の魔力で満たしていたの」
「あ、あるべき欲求?」
「性欲よ」
 口に出すには躊躇われる言葉。優等生の仮面を被った魔女は、平然と口にした。
「恐らくは、貴女が異常に父親を慕うのは、喉元にあった印が、元凶なのでしょうね」
「……よくわからないんだけど。私は無意識のうちに、魔力を消耗してたってこと?」
「そういうことね」
「どうして、そんな封印を、父様が私に?」
「もちろん、必要だと思ったからでしょう。嫌よね、まったく。食べたければ、いくらでも餌はありますのに」 
 レアナが一つ、くすりと笑った。
 それを見て、また背筋が震えた。
 唇の感触、濃い味を思い出して、食べたい、って思ってしまった。
「うふふ。自分で言うのもなんですけど、わたくし、おいしいですわよ? 一口いかが?」
「―――う、うるさいっ!」
 どきどきする。そんなはず、ないのに。
「今の気持ち、どうかしら? 悪くないでしょう?」
「そ、そ、そ、そそそそそんなことっ!」
「嘘が下手なところも好きよ、フィノ・トラバント。それが肉欲というもの」
「にくよ……!?」
「ロマンティックに言って差し上げると、貴女は恋をしたことがないのよ」
 レアナの言葉に、思わず首を傾げてしまった。その単語は、変態の口から発せられると、凄く違和感がある。
「こ、こい……?」
「えぇ。貴女の感情は、単なるプラトニックな紛い物よ。生物であれば誰もが抱くはずの、性的な行為を、貴女は父親に封じられていた。でも知っているでしょう? 一組の関係が、単に見つめあっているだけでは続かないことぐらい。……口にするのも馬鹿馬鹿しいですけれど」
 レアナは、出来の悪い生徒を叱るような口調で、淡々と述べていく。
 私の、父様への想いが紛い物だってことを。
 でも、それって、つまり。
「そっか。そうなんだ! 父様、私を他の誰にも渡したくなかったんだっ!」
「…………は?」
「だって、そうでしょ。封印が喉元にあるのだって、私が誰かとキスをしたら、封印が解けるのがわかるからだよね? つまり、私が他の誰かとキスをするのが嫌なんだ!」
「……フィノ・トラバント。貴女、封印は解けてるはず、ですわよね?」
「うん! なんかね、こう、力がいっぱいあふれてる気がするっ! 最高だわっ!」
「…………変態」
「父様と一緒なら、それでいいもーん!」
 心に、ぱぁーっと花が咲きほこった。
 えへへへへ。短い時間、幸せに惚けていると、レアナが綺麗な顔をひきつらせて、素早く両腕を伸ばしてきた。
「甘いッ!!」
「……いひゃああああああああぁぁ!?」
「砂糖とクリームとハチミツとシロップを限界にぶち込んだぐらい、甘いッ!! 親子揃って、ムカつくッ!!」
 頬を、ぎゅーーーーーって、引っ張られた。いひゃい。
「貴女は、骨の一本までわたくしの物なのッ! さっさと堕ちなさいっ!!」
「ちょ―――――! 変なとこさわるなあああああああぁぁ!!」
「ほらほらぁっ! ここがいいんですのっ!? それともこっちっ!?」
「やめてぇーーーーーーーーーっ!?」
 どっちも気持ち良くて、すごくぞくぞくする。違う、そうじゃなくて!
 甘い声が出そうになる。頭の中が爆発した。
 いろんな気持ちが、いっぱいに湧きあがって、処理出来ない。
 狂ったみたいに、全身が熱いっ!
 溶岩みたいに、熱いっ!
「エッチなのは、ダメーーーーーーーーーーーっ!!」
 あふれだす、魔法の力。
 世界の一端に、終末の光が浮かびあがるイメージ。
 
 手に持った魔法の杖。先端から光が飛びだした。
 耳をつんざく轟音。
 吹き荒れる大量の砂塵。そして迫る巨大な瓦礫。
 ぶつかるっ! そう思った瞬間に、薄緑色の結果が、弾いていく。
「………………」
 どれぐらい、経ったんだろうか。
 口を半開きにして、ぽかんとしていた間に、もうもうと立ち上がった砂煙が、充分に晴れていたことだけは、確かだった。
「嘘でしょ……」
 召喚の間の一部の壁面。綺麗に焼け焦げて、崩れ落ちていた。その先に、夕焼けに染まった広大な空が浮かんでいた。
 思わず、レアナの方を見た。
「どうして、わたくしを見るのかしら?」
「だって……っ!」
「流石のわたくしにだって、最高級のミスリル鉱石を使用した壁面を、一撃でブチ壊すなんて真似は出来ませんわよ」
 至極真面目な顔で言う。
 開けた空から流れ込んでくる冷たい風。それと一緒に、ざわついた人の声が、うねりをあげて聞こえてきた。いつかの図書室の事件なんて、比べものにならない。
「あらあら、大変」
「なにを平然としてるのよっ!?」
「だって、わたくしがやったのでは、ありませんもの」
「レアナじゃなきゃ、一体誰が、あんなこと出来るって言うのよっ!」
 噛みつくように言った矢先。突きつけられる、人差し指。
「貴女に決まってるでしょう」
 さらりとそう言った。小首を傾げて、口元に手を添えて、優雅な仮面をつけて微笑んで。
「それが、本当の貴女の力よ。喉元にあった封印は、魔力を無駄に消費していた枷。さっきも言いましたけれど、消費した魔力は、すべて貴女の餌にかわっていた。でも、今は違う」
 レアナが言って、ゆっくり、両腕を伸ばしてくる。
「フィノ・トラバント。貴女のこと、少し調べさせてもらいましたわよ…………」
 逃げ場のないように閉ざされて、甘く触れる唇が、今度は頬に降り注ぐ。
「とっても、興味深いわ……ますます、貴女のこと、好きになっちゃいそう……」
 心臓が大きく飛び跳ねた。また、頭が真っ白になっていく。
 その気持ちから耐えるように、大きく後ろへ仰けぞった。
「うふふ、大丈夫よ。貴女には、淫魔の力は効かないから」
「……え?」
「覚悟しておいてくださいませ。これからは全力で、堕としにかかりますからね」
 レアナの背中から、一枚だけ、黒い片翼が現れた。
「夢でも、お会いしたでしょう?」
「……父様と、お会いしてた時の……」
「そう。お勉強熱心な貴女なら、当然知っているでしょう。淫魔は別名、夢魔と呼ばれていること。ちょっとお邪魔するつもりが、無粋な侵入者に邪魔をされてしまいましたわ」
「レアナ……サキュバス、だったんだ?」
「いいえ、わたくしは単なる小娘。少し昔に、淫魔に心を堕とされてしまっただけのね」
 その両目が、寂しそうに微笑んだ。眩しい太陽には届かない、深い海の底。
「ねぇ。私も、アイリスや、貴女と同じなの?」
「少し違うわね。言うなれば、貴女は一つの可能性かしら」
「……可能性?」
 サキュバスに相応しい、妖艶な笑みだった。
 少し寂しさを孕んでいるのも、心をくすぐった。
「貴女が羨ましいですわ、サキュバス・ロード様」
 細い指先が、ひらひら、踊る。
 空中に、印を結んでいく。
「―――あの時のわたくしが、貴女のようにお馬鹿で、身の危険を鑑みない子供であったなら、後悔なんて、微塵もしなくて済んだのに」
 閃光のように鋭い光。空中で結び合い、形を成した。
 精緻な文様を刻んだ、荘厳な一つの扉が現れる。
 音もなく、開かれていく。二つの世界を繋ぐ、狭間の空間。
「フィノ・トラバント。貴女は取り戻しなさい。その背にある、黒い翼を広げてね」
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 扉の先にある世界は、奈落の底のように暗かった。
 出来ることなんてなかった。ただ、眠るように落ちていくだけ。
 意識が消えていく。もう、入ってきた扉も見えなくなってしまった。
「………………アイリス」
 さみしい。
 冷えきった心を感じることも出来ない。ここは、すべてから拒絶されている。
 消えていく。私が、消えていく。
 ………………
 みんな、いつか、この場所へ来るのかな。
 誰も必要とせず、誰からも必要とされず。この暗闇の中に、落ちてくのかな?
 真っ暗闇の中を、どこへともしれず、消えてくの?
 ……怖いよ。そんなの、嫌。
 どこに手を伸ばせばいいかわからない。気持ちが、ひどくぼんやりしてる。
 どうすればいいの。わからないよ。誰か、たすけて。
 せっかく、ここまで来たのに。でも、どうしてここへ来たんだっけ?
 なにかをもとめてた?
 しろい、ちいさなはなびら……?
 わすれたくない。あなたを、わすれたくない。
 わたしは、あ……りすを、さがし、て。
 けさないで。たすけて。きえるのいや。だめです。
 ―――いり―――です。わたしは、―――――、ます
 かなし、こと、とか。
 きえる。ぜんぶ。なかった。
 おねがい。
 ――――――――です。――――は――――――――
 やです。だめ。め。
 
『あはっ! 情けないわねー』

 こえ。だれ。どこなの。
 しがみつきます。ぎゅう~~~って。
 てがふれあっているかんしょくはないのです。
 ぬくもりも、つめたさも、なにもかんじられないのです。
 だけどそのとき、なにかをつかんだというかんかくがありました。それだけを、信じた。
「……アイリス?」
「父様のお言葉を無視して、ここまで来たのにねぇ。いつもは強がってる癖に。追いこまれると駄目な子ねー」
 軽薄で、淫らで、頭の悪い女の声。違う。私のアイリスじゃない。
 無性に苛立ちを覚えた。世界で一番、大っ嫌いな声。
「ほらほら、お家に帰りましょ? 今なら父様だって、優しく迎えてくれるわよ?」
「うるさいっ!」
 聞こえてきたのは、自分の内側から囁きかける、悪魔の声だった。歯を食いしばって、腕を振るう。
「あははっ! 無理無理。この程度であきらめてたら、ここは抜けられないわよ?」
 声がひらひらと、嘲るように踊っていた。苛立つ。この声、すごく苛立つっ!
「無理じゃないっ!!」
 唇を噛みしめた。強く、強く、血が出るほどに。
 痛い。でも、意識が戻ってくる。自分の四肢の存在と、黒い翼と尻尾を感じた。
 一欠片の灯りもない、深い闇の中。どれだけ口を開いて声を張り上げても、小さな音すら響かない。
それでも叫んだ。力の限り、いっぱいに叫んだ。
「絶対、帰らないからっ!! あの馬鹿をひきずってでも、連れ戻すんだからっ!!」
「どーしてぇ?」
「好きなんだもんっ! ありえないけど、好きなのっ!!」
「あらあら~」
 耳元に、くすぐるような吐息を一つ感じた。目の前に気配を感じる。
 白い裸体。一瞬、誰なのか分からなかった。
「長かった。やぁっと会えたわね。」
「…………私 ?」
「そうそう、私よ。はじめまして」
 口の端をつりあげて、挑発するように笑ってくる。腕を伸ばして、私の額を突っついてくる。
「もう末期かと思ってたけど、ようやく少し、親離れ出来たみたいね?」
「……え?」
「甘いお菓子でべったべたに包まれて、いつも尻尾をパタパタ振ってた子犬だったのにねぇ。アカデミーに通う前、実家にいる時は、毎日毎日、とーさま、とーさまって、病気みたいに頬染めて叫んじゃって。年齢が二桁超えた後も、当然のように一緒のベッドに潜り込んでるし。そもそも一夜中、手をふらふらさせて、襲いかかろうかって、はぁはぁ言いながら悩んでた挙句、小鳥の囀りで起きてきたあの馬鹿の寝起きの顔を見て、『あぁ、父様……』って呟きながら、ベッドを乗り越えて床に後頭部強打して死んだように眠った時は、本当にあきれたわよ。いろんな意味で」
「そそそ、そんなことしてななななないぃもんっ!!」
「ここ最近、唐突に犯されそうなことが増えてたから。これはいよいよ卒業出来るかしらねーって、期待してたの」
「そんな卒業の仕方は絶対嫌っ! 第一、卒業する気ないもんっ!!」
「面倒だから、少し黙りなさい。このファザコン娘が」
「ファザコン言うなっ!!」
「本当のことなんだから、しょーがないでしょ」
 ぱふっと、白い掌が、頭の上に乗る。
「なにすんのよ」
「べっつにぃー? やっとなでなで出来たなーって、そう思っただけ。あはは、変な感じっ!」
「……えっと」
 気恥ずかしい。自分自身に、優しく頭をなでられるのって、確かに、変な感じ。
 なんだか不思議と眠たくなってくる。そのまま、眼を閉じたくなってしまう。
「なにのんびりしてんのよ。あんた、肝心なとこでバカよねぇ?」
「……なっ!」
「これから、もっと甘いご飯が待ってるのに、この程度で満足してどうすんの。お子様」
「お、お子様言うなっ!!」
「ほらほら、こっちこっち」
 ふらりと、誘うように闇の中を飛んでいく。
 なんなの、あれ。腹が立つ。絶対、私じゃない。

 闇の中、進んでいたのかすら、よくわからなかった。だけどもう一人の私は振り返り、
「はい、到着」
「……到着って、相変わらず真っ暗なんだけど」
「急がなくてもいいじゃないの。少しお話をしたいなって、思っただけ」
「上等だわ。聞きたいことは山ほどあるのよ。そもそも、誰なのよ、貴女」
「あははっ! 前にも言ったでしょぅ? 私は、貴女よ」
「嘘つかないで。貴女みたいな馬鹿女が、私のはずないわ」
「えー? 魂の構成成分は、一緒なのにぃー」
「…………は? どういうこと、タマシイ?」
「難しい事は、わかんないわよ。あの馬鹿が勝手にやったことだから」
「……あの馬鹿?」
「そう、あの馬鹿よ」
 なにが面白いんだろう。口元に手を添えて、くすくす微笑んだ。
「貴女のだーいすきな、お父様。ルーク・トラバントとかいう、馬鹿男よ」
「な……っ!」
 腕を組んで、にやりと笑う。するする、腕が伸びてくる。
「ちょ……止めてよっ!」
「やっぱり腹が立つわねぇ。あの男のこと、ベタベタベタベタ、引きずっちゃって」
 五指が、今度は顎をなぞって、頬へと伸びた。そのまま頭の後ろで、交差する。
「自分の姿を見る時って、鏡を見るでしょう。その時、どう見える?」
「屁理屈だわっ!」
「あらあら、どうすれば、信じてくれるのかしら」
「うるさ…………」
 言いかけたその時、また、頭の上に手が乗った。
 それだけで、なにかの魔法にかかったみたい。胸がつまって、言葉が出ない。苦しい。
「よしよし、かわいい子」
「や、やめてよ……っ!」
「いいじゃない。あの馬鹿の時みたいに、デレっと笑いなさいよぅ」
「そんな顔、してないもん……っ!」
 優しい掌。頭の上を、いったりきたり。父様がしてくれるのと同じ。
 私、泣いてる。とっても胸が苦しい。涙が止まらない。
 震える両肩を、ぎゅうって、抱きしめられる。同じぐらい、抱きしめる。
「うふふ。同じなのに、絶対に交わらないっていうのも、不思議ね。……貴女の物語は、どんな結末が待っているのかしら。楽しみねぇ、フィノ」
「……フィノ……」
「そう。貴女はフィノ・トラバント。淫魔の血が沸き立つなら、もっと淫らに、一途に体を求めなさい。倫理がどうだとか、愛がどうだとか、面倒くさいでしょ?」
「……いきなり、なに言ってるの」
「だってぇ。こういうの苦手なんだもーん」
「……苦手とか、そういう問題?」
「いいからいいから。とにかく一口齧ってみなさい。病み付きになって、止まらなくなっちゃうんだから。相性よければ、一日中ベタベタしてればいいんだしー?」
「べ、べつに、そういう関係じゃないからっ!」
「そうかしら? フィノって、偉そうに振舞ってる癖に、落ちる時はあっという間じゃない。そーいうとこも、あの馬鹿と似てて、かわいい。あはっ!」
「う、うるさいっ!」
「あの淫魔、まだ若いわよー。あれぐらいの事で迷ったりくじけたりするなんて、ほんっとかわいい。手篭にするなら、確かに今が一番かもね」
「あんたねぇ! そろそろ黙りなさいよっ!」
「えー? 飽きたら乗り換えればいいじゃない。それか新しいのと、とっかえひっかえすればいいんだし。むしろ全員でやっちゃえば、楽でいいわよ?」
「無茶言うなっ!!」
「ご飯は、おいしくいっぱい食べるのが、美人の秘訣――あ、こら、ほっぺひっはひゃらめぇっ!!」
「黙れ黙れ黙れーーーーっっ!!」
 聞いて損した。泣いて損した。そう思ったのに。
 頬に、優しくキスされる。この淫魔、ずるい。
「――――フィノ」
「なによっ!」
「私は、求めるままに、長い時間を生きてきた。でもね。あなたが一番、だぁいすき」
「……うるさい」
 どうして、そんな顔が出来るんだろう。
 どうして、こんなに悲しいの。胸が熱いの。
「だけど、そろそろお別れね」
「………え?」
 あまりにも軽く、平然と言ってのけた。気安く手を振る。
 ひらひらって、蝶々が風に舞うみたいに。どこまでも気軽に。
「世界で一番なんて言ったのは、貴女が二人目、かな?」
「……二人目?」
「あの馬鹿にも、やっぱり幸せだったみたい、とか、適当に言っといて」
「……待って!」
「あの馬鹿が側にいて、お腹をなでてくれるの。それだけで、満たされた。心の底から、悪くないと思えたわ。ずっと、この時間が続けばいいのにって。限りがあるから、そんな風に思えたのかもしれないけどね。でも、忘れないわ。きっと忘れない。私は、貴方達を忘れられない。フィノ、ルーク、愛してる。これからも、ずっと。じゃあね、バイバイ」
「待って、待ってよ――――!!」
 足下から、光が溢れだす。もう一人の私が、光に包まれて、消えていく。
「いかないでよっ! 母様のバカっ!!」
 世界が変わる。眩しくて、暖かいものにつつまれて。
 世界が変わる。冷たい闇が砕かれるように、暖かい白一色の光に覆われていく。
 世界が変わる。彼女は空へ。私は地上へ。
 落ちていく。小さな白い花びらが、いっぱいに飛んでいた。
27

三百六十円 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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