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第二章・ビキニ水着に対するスクール水着の優位性

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 さて、第一章でスクール水着の概要を確認したところで、いよいよこの第二章『ビキニ水着に対するスクール水着の優位性』において、スクール水着がいかに優れているかを証明しようと思う。
 その前に僕の考えを述べさせていただくが、僕はありとあらゆるものを評価する場合、必要なのは絶対的な評価ではなく相対的な評価だと思っている。などと書けば、少なからず反論する者も出てくるだろう。そして彼らが主張するのは、「他と競い合うことだけがすべてじゃない」「絶対的な評価の基準がなければ正確な評価など成り立たない」などというものだと思う。では彼らは間違っているのかと言うとそうではない。むしろ彼らの主張は的を得ているし、正しい意見だと思う。ならば何故、僕が相対的な評価こそが万物の評価の基準に欠かせないと主張しているのか。その答えは簡単である。人間は、あらゆるものを何かと比べたがる生き物だからである。そして同時に、何かを評価するにも他の何かと比べなければ評価することすらできない生き物だからである。
 例えば今、学校教育の現場では従来の評価形式である相対性評価は古いものとされ、絶対性評価が採用されている。要するに、クラス、あるいは学年のすべての人間を点数順に並べていくつかのグループ、ユニットに分類し、このグループは5、このグループは4、といった風に判定していく方法を相対性評価では取ってきたのに対し、絶対性評価では何点から何点までは5、何点から何点までは4、といった風に最初から基準を決めているのである。これにより、相対性評価の場合にどうしても発生する、周囲に優秀な人間があまりにも多すぎたがために他の学校ですら5になるはずの生徒が4や3になる、といった現象は発生しなくなった。もちろん、それとは逆に、あまりにもレベルの低い学校ゆえに、本来ならせいぜい並程度の実力しかない者に5が与えられるということもなくなった。これにより成績制度は公平さを増し、各々の実力をより正確に反映したものになったと言えよう。しかしここで忘れてはならないのは、その絶対性評価による『絶対的』であるはずの評価さえ、最終的には他者と比べ合い競い合うためのものであるということだ。指定校推薦の校内選考では、評定の高低が重要な判断材料となる。推薦入試においても、評定は基本的に重視される項目であり、学校によっては評定平均が一定以上でない者は受験資格すら得られない場合もある。
 このように、本来、評価とは他者と比べ合うためのものであることは疑いようがない。絶対性評価は相対性評価あってのものであり、相対性評価もまた絶対性評価の出現により磨きがかかった。つまり、まったく異なる二つの評価方法が支え合っているのだと僕は思う。
 話を戻すが、要するにスクール水着がいかに優れているかを語ろうと思っても、比較対象が存在しなければ、その素晴らしさをスクール水着愛好家以外の人間に説明し理解させるのは至難の業であるということだ。だから僕はここで、スクール水着と対極を成す水着であるビキニ水着を比較対象として挙げたいと思う。
 ビキニ水着とはわざわざ説明するまでもなく、あのブラジャーとパンツを水泳用の素材にして若干のアレンジを加えた(だけの)ものである。スクール水着愛好家の多くはビキニ水着を多かれ少なかれ蔑視しているのだが、僕もその一人である。その理由はもちろん、ビキニ水着があまりにもスクール水着と、つまり至高の芸術作品とかけ離れた着衣だからであり、今後、スクール水着愛好家とビキニ水着愛好家が歩み寄ることは(どちらかが主義主張を放棄しない限りは)まずありえないだろう。
 では、スクール水着愛好家は、ビキニ水着のどこが具体的に気に入らないのか。
 これはスクール水着とビキニ水着の構造上の違いを比較していくことで分かることである。
 前述した通り、ビキニ水着というのはブラジャーとパンツに酷似している。つまり、ビキニ水着を着ている女性は、下着姿に限りなく近いのである。それどころか、視覚の認識的には下着も同然だろう。我々スクール水着愛好家の多くは、そのような格好で堂々と肌を見せ、プールサイドや海水浴場を闊歩する女性たちが破廉恥に思えて仕方ないのである。これに関しては、「水着はファッションの一環であり不特定多数の人に見せるもの、だから下着とは違う」という反論もあるだろう。そして実際にビキニ水着を着た姿と下着姿とはやはり本質的には違うのかもしれない。しかし、よく考えてみてほしい。その形状及び露出箇所は、何から何まで下着と共通しているのだ。それに対しスクール水着は、独自のデザイン性を今も昔も保ち続けている。その長い歴史において、下着と同一視されたことなど一度もない。それでありながら、その布一枚の下は一糸纏わぬ丸裸なのである。そう考えてみると、スクール水着はビキニ水着のように恥知らずではない、健全かつ純粋な着衣であるのにも関わらず、ただ多くの肌を見せることしか能のないビキニ水着とは比べ物にならない独特のエロティシズムを持っている。布で覆い隠されたボディラインが、我々の探求心を限りなく刺激するのだ。スクール水着は我々に、想像する余地を残してくれている。想像する楽しみを与えてくれている。これこそがスクール水着愛好家がスクール水着を愛してやまない理由であり、またスクール水着が我々の中で奇跡の着衣で在り続ける所以である。さらに、いたずらに色気を強調する作用しか持たないビキニ水着とは違い、スクール水着は対象の持つ純粋性・処女性を限りなく高める。本当に純粋、あるいは処女である少女が着た場合にはその可憐さを増長させ、逆にいわゆる「お姉さま系」の女性が着た場合、第一章でも提唱した『ギャップ効果』を発揮することになり、またその女性の中に少なからず残されていた純粋性・処女性を復活させて引き出す効果ももたらす。スクール水着とは女性を、汚れ無き時代にたとえ一時的にせよ回帰させることのできる貴重な着衣なのである。ビキニ水着には無理な芸当である。
 さて、これでスクール水着がいかに優れていて、ビキニ水着を上回っているのかは分かっていただけただろうか。あなたがもしビキニ水着愛好家である場合、これだけではまだ信仰心を揺るがせるには至らないだろう。しかし、今度市民プールや海水浴場に行ったときに、僕がここまで熱弁した内容を思い出してスクール水着の少女とビキニ水着の少女とを見比べてほしい。そうすれば、きっと新たな発見があるはずである。
 では、一人でも多くのスクール水着愛好家が新たに生まれることを信じて、第二章はこれにて幕とする。
 続く第三章『萌えジャンルとしてのスクール水着』では今回のテーマをある程度継承し、サブカルチャー作品におけるスクール水着に関する検証を行う。
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