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 「待ち人来ず.....か」
 朝から雨を降らせている鈍重な灰色の空を見て、男が呟いた。廃ビルの少し広めの谷間に立つ男は、落書きで汚れた壁に背をもたれた。
 ビルの壁には至る所に幌が取り付けられていたが、それらは雨を凌ぐにはあまりにも役不足な、粗末な物。男の右腕に嵌められた時計は、彼の待ち人が現れる予定だった時刻を針二周り分ほど超過している。
 待ち人と言っても恋人などという甘い間柄などではないだろう。彼の鋭い目からは油断など一切読み取れない。
 彼がタバコの箱を上着の内ポケットから取り出そうとした時、電子音が響いた。黒い携帯式の電話をジーンズパンツのポケットから取り出し、赤い通話ボタンを押す。本体上部のスピーカーを耳に付け、そして目を瞑り、顔をしかめる。
 「ルイス、俺はもう帰りたいんだが、よろしいかな?」
 彼の心の中の陰鬱な気分をその一言の中に全て込め、送話口に吐き捨てた。
 「ヤン、勤務中悪いが、ジェミニからバッドニュースが入った」
 受話口から聞こえるノイズの混じった掠れ声を聞いて、彼は眉間のシワをより一層深めた。
 「....こっちはもう二時間ほど雨の中突っ立ってるんだがね。カゼでもこじらせたら、テメーに薬代払って貰うぜ」
 びしょぬれの黒い髪を手でたくし上げる。
 「落ち着いてくれ。とりあえず端的に言うとだな、依頼主が拉致された」
 ノイズの混じる声を聞き、男は重たげなため息を吐いた。
 「....おいおい、やめてくれよ。預かり物を受け取るだけって依頼だったろう?
 誘拐犯に交渉したいんなら、治安維持組織の地域安全課にでも当たってくれ」
 垂れてきた髪をもう一度、たくし上げながらため息をつく。
 「まあまあ、落ち着けって。悪いが今回ばかりはそうも行かないんだ。なんたって誘拐犯の目的は身代金で済むようなチャチなモンじゃないからね」
 電話の相手の掠れ声は、彼の耳をさらに不快にさせていった。
 「『ダンクス』か?」
 「ご名答」
 やれやれだ、と、ヤンはベルトに括り付けられた白銀のリボルバー銃をホルスターから取り出す。
 「ダンクス、ね。あの過激派集団の今度の目的は何だ?」
 弾倉の横上部に付けられた小さなレバー引くと、銃が輪胴式弾倉の根元から折れた。ヤンは白く光る弾倉を覗く。六つの穴全てにススけた色をした弾丸が入っている。
 「依頼人はヨハン・クロイス博士だったね」
 確認事項だろうか、電話の相手はそう煽る。
 「ユーンベルク出身、フェンダー大学の生体機械工学部名誉教授、アンドロイド造成技術の権威。おまえから聞いた情報はこれだけだったな」
 銃を持つ手を素早く、少しだけ動かし、金属音を響かせて銃の中に弾倉を収めた。
 「ああ、そうだ。実は『預かり物』ってのが厄介なモノでね。特Aクラスの軍事機密らしい」
 「なんだそれ....ああ、わかったよ.....またダンクスのジジイはそいつでクーデターでも目論んでるってんだな」
 引き金に左手の人差し指を通し、滑らかに銃を回す。
 「その可能性は高い。ジェミニが監視衛星をハックして調べたんだが、博士は南地区の方に連れて行かれてるらしい。至急向かってくれ。
 詳しい居場所はわかり次第連絡する」
 銃を回す手が止まり、手の中にグリップが納まる。
 「了解だ。」
 無骨な親指が通話ボタンを再度押すと、ぶつり、とスピーカーから重たい切断音が漏れ出た。
 鈍重な色をした空は不幸な俺を嘲笑しているのだろうか、それとも哀れんで涙でも流してくれているのだろうか。激しい感情をむき出しにしたような雨は一向に止む気配を見せない。
 今日は朝早くにアイツからの不快な電話で叩き起こされた。確かに俺の情報屋としての仕事は二十四時間営業と銘打っているが、俺も安らかな睡眠の時間くらいは欲しい。放送禁止 用語でも用いて相手を罵ろうと電話に出たら、ヤツの早口が今回の仕事を説明してきやがった。
 「荷物を受け取るだけでいい。君の手取りは三百五十でどうだ」
 ヤツの気取った声はそうのたまった。三百五十ラウムといったら、高級遊郭の人気娼婦を一ヶ月ほどコマすことのできるような額だ。
 運び屋みたいなラクな仕事でそんなに手取り分があるかというのは疑問だったが、なんせここ一週間ほどの俺はタバコ代さえマトモに出せないような日が続いていたものだから、俺は 二つ返事で引き受けてしまった。それが俺の運の尽き。
 ビショ濡れになった上着を着なおし、雨宿りとしてはクソほどの役にも立たなかった廃ビル谷間の幌集団の下から出る。当初、目的の人物との待ち合わせ場所として設定されていた、再開発地域の第三十二地区の広場に向かう。そこは『廃墟広場』以外の説明のしようのない所だった。周りは不法投棄によって積み上げられたゴミの山が列を成し、街の復興を目的にした一大カジノ街の建設計画の哀れな残骸が、そこかしこにコンクリートの寂しげな灰色と鉄骨の醜い茶色を晒していた。元々は資材置き場として使われていたらしいが、再開発計画が頓挫したために資材だけ運び出されてぽっかりと空いたこのような広場があちこちにある。
 俺は氷雨に打たれながら、広場のちょうど中央、町のシンボルにしようとしたのであろう、布の掛けられたままの壊れたオブジェらしき美術品の元へ歩を進める。
たもとに停めてある黒いバイク、そいつに彫られた``BRONT-ⅡLINDSAY''の銀文字を撫ぜる。
 「悪かったな、ビショ濡れにしちまって」
 俺の悪いクセだ。疲れていたりすると無意識にモノに話しかけてしまう。疲労のサインである深いため息をついてバイクに跨る。キーを挿してエンジンをかける。グリップを捻ってタイヤを転がす。
 晴れていれば、まだ太陽は昇りきりさえしていない時刻だ。さっさと仕事を片付けて、泥のように眠ろうと決心した。

2, 1

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