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「彼女は死なない」

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 料理の際に砂糖と塩を間違えるような気安さで、彼女は風邪薬と青酸カリを間違えて服用してしまった。「ごめんね、いっつもこんなんで」と彼女は反省しながら布団に潜り動かなくなった。

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 ぐっすり眠り、風邪が治って元気いっぱいになった彼女は「海に死にに行かない?」と僕を誘った。

 というわけで海に到着。まだ泳ぐには早い季節なのに彼女はずぶずぶと海に入っていく。浜辺に迷い込んできたネズミイルカと出会い、戯れ始めた。死にたがっていたことなど忘れたかのように満面の笑みを浮かべてイルカの上で逆立ちなどしている。「帰ろう」と言っても「まだー」と聞かない。

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 どうして僕が彼女のように面倒臭い人と付き合っているのかと、よく聞かれるので書いておこう。学生時代、バイト帰りの夜道で、電柱から落ちてきた彼女を受け止めた。彼女は頻繁に死にたがったが、何をやっても死ねなかった。いつも運や偶然が作用して彼女を生かしていた。

 僕はそこに惹かれた。

 彼女の肌は透き通るように白く、長い髪も細い瞳も色素が薄い。雨の日には彼女の体の向こう側に雨が透けて見える気がする時もある。だけど死にたがる時の彼女は妙にくっきりとして見え、生き生きとしている。

 僕は中学生の頃、母と死別した。もっと幼く、母の記憶もおぼろげな頃の別れだったなら、母の記憶に悩まされずに済んだかもしれない。思い出の中の母はいつも笑顔を絶やさず、明るく、周囲の人にも好かれ、死なんてものとは無縁の人に思えた。

 しかし母は笑顔の下に多くの悩みを抱えていた。親族の借金問題、父の浮気、息子の不良化(僕のことだ)、人の良さにつけ込む周囲の人々の無思慮な頼み事の数々、など。全て後で知ったことだが(僕のこと以外)。母はそれらを笑顔で受け止めて流しきれるほど、心も体も強い人ではなかった。

 病巣が発見された時には既に手遅れで。

 もう寝よう。

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 今日の彼女はベランダから飛び降りようとした瞬間、たまたま上の階の住人が干していたパラシュートが落ちてきて、かっちり彼女に装着されてしまい、優雅に風に乗って下まで降りることが出来てしまった。以前は強風の日に傘一本で着陸を成功させていた。

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 キノコ狩りに行くと彼女はいつも毒々しいキノコばかり選んで採る。しかし結果どれも見かけによらず毒はなく、非常に美味であり、楽しいキノコパーティー開催となる。途中、熊が乱入してきたが、彼が食べたキノコだけ毒入りだったらしく、泡を吹いて倒れてしまった。

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 母と似ていないところに安心しているのかもしれない。

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 県境で戦争が始まったので、彼女は志願して兵隊になってしまった。

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 前線から逐一メールが届く。「銃弾は私以外の人にばかり当たります」「私が受け止めた手榴弾はどれも不発で」「戦場の女神扱いされるようになりました」などなど。楽しそうで何よりだ。

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 死にたがる人が隣にいない日常は退屈過ぎて、自分が生きている感覚もない。

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「隊長に告白されちゃった」というメールを最後に連絡が途絶えた。

 彼女の命の心配はしていない。

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 戦争は終わったが彼女は帰ってこない。今度の戦争での死者は百二十六名。彼女の死亡通知は届いていない。

 彼女が残していった食材や薬品の類を扱いきれなくて途方に暮れている。少し熱っぽいのだが風邪薬はどれだろう。

 風邪薬を飲んだら少し気分が悪くなってきた。おや、玄関のドアの鍵が

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 目が覚めると彼女の笑顔が目の前にあった。「青酸カリだったらやばかったよー」と嬉しそうに言う。僕が風邪薬と間違って呑んだのはカタカナの羅列されたややこしい名前の薬で、倒れた後、数時間も放置されていれば命はなかったそうだ。

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 病室であるにも関わらず彼女は服を脱いで僕に肌を晒した。いくつかの弾痕が脇腹や太ももに刻まれていた。「戦争は甘くないね」と彼女は笑った。「私の悪運を使い切っちゃった」そういえば戦争は僕らの側が負けて、県境が少し移動した。

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 彼女に告白した隊長は彼女を庇って爆死したという。どうせ不発だろうとたかをくくっていた彼女を嘲笑うように、手榴弾はあっさりと隊長に致命傷を与えたそうだ。「生きろ」と彼は一言彼女に言い残して戦死者名簿に名前を刻まれた。

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 退院後、二人で戻った家のベランダから、彼女が飛び降りを試みることはなく、毒薬の類も全て廃棄された。毒キノコではない野菜も、腐りかけるとすぐに捨ててしまう。不器用に料理をする際、彼女はあっさりと包丁で指を傷つけてしまう。

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「そういえば何であんなに死にたがってたの?」と今さら聞いてみた。「だってもう五千年も生きてるから」と彼女は冗談めかして言う。「もう仲間達はみんな寿命が尽きて、私だけが寂しく生き長らえていて」だそうだ。「僕がいるじゃないか」と言おうとしたが、やめた。

 やっぱり言った。「僕がいるじゃま」噛んだ。「僕がいるじゃないか」うん、と彼女は頷く。「でも、私より先に死んでしまうもの」

「何千年は無理だろうけど、あと百年くらいは頑張るよ」それから僕らは二人で布団に潜り込んだ。

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 彼女の話は荒唐無稽でご都合主義だけれど、信じても信じなくても彼女は彼女でしかないのだからどちらでもよかった。そして悪運から見放された彼女は、死んでいった一族のものたちと同様、もうすぐ寿命が尽きるのだと嬉しそうに話した。「もうすぐって?」「あと百年くらい」

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 彼女は最近本格的に料理にこり始めた。それだけでなく、いつまでも生きていられそうな時にはあまり興味を持てなかったという、自分磨きなんかにも熱心に取り組んでいる。

 読書にも挑戦するのだといって、トルストイ『アンナ・カレーニナ』を読んでいる。上巻を読み終えた後、中巻があるのを知らずに下巻に挑んでいる。

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 健康にも気を遣うようになった。「二人であと百年生きるんだから」と彼女は張り切っている。料理の味付けも薄味になったおかげで、砂糖と塩を間違えても被害は少なくて済んでいる。

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 まだ生きていく力加減がうまくわかっていない彼女に「無理はしなくていいから」「定期的に健康診断には行ってね」と声をかける。不思議そうな顔をする彼女に、今日は僕の母のことを話そうと思う。


(了)

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