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小さな彼女は最終兵器

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 六.小さな彼女は最終兵器

「おはよう男ども!」
「キンジさん、おにい、おはよう」
 橙也と金治の二人が台所に降りると、そこにはフライパンを振る紗弥と、レタスを切る雛の姿があった。
「おはよう」
「おう、おはよう雛ちゃん。サヤ、お前料理なんて出来んの?」
「あんたには食わせてやんない」
 そう言ってべー、と舌を出すと、紗弥はフライパンに向き直った。
「サヤさん、嘘ですよー」
「雛、僕たちは何か手伝うことない?」
「んー、じゃあ、そっちのテーブル拭いといて」
「オッケー」
 布巾を手に取って隣のリビングに向かう。ついでにリモコンに手を伸ばしてテレビをつけた。
 昨夜は結局、柳とは別の使用人と思しき男性が橙也たちを家まで送ってくれた。自転車も、どうやら後で届けてくれるとのことである。
「お、昨日のニュースじゃん」
 そう言って入ってきた金治の言葉にテレビを見ると、昨晩の事件のことが報道されていた。
『―である、大善寺まおさんを誘拐しようとしたとして、二名の男が逮捕されました』
「あ、金治!」
「こいつ、あんときの…!」
 二人の容疑者のうちの片方を見て、橙也たちは声を上げた。そこに出ていた名前こそ異なるものの、見間違えようがない。
「リュウジ…」
「偽名だったんだな」
 橙也がつかみかかった方の男がそうだったのだろう。声に聞き覚えがあったというのも納得できる。
『―容疑者確保に協力したとして、株式会社YORYの副社長である、依井宗貴氏に、警察から感謝状が贈られることとなりました。依井氏は、これまでにも―』
「これも、ポイント稼ぎのつもりかね」
 金治がそう吐き捨てた先の宗貴の写真は、実に好感の持てる笑顔だった。
 橙也たちの名前は出ない。そのように柳に頼んでいたためである。
「ふんだ、胡散臭い顔」
 オムレツと野菜サラダの乗った皿を持って、紗弥と雛が入ってきた。
「えー、かっこいいじゃん依井さん」
「ヒナっち、男を顔で選んじゃダメよ。特にこういう胡散臭い笑顔で笑うやつ」
 がん、と音を立てて皿を置く紗弥を見て、雛は「なんで怒ってるの?」と言いたげな視線を橙也に向けながら、テーブルにつく。
 けれど、彼はテレビから流れるキャスターの言葉に驚いて、画面の方に釘付けになってしまっていた。
『なお、ダイゼンジコーポレーション社長である大善寺剛三郎氏から、この件に関してのコメントは、いまのところ寄せられておりません。それでは、次のニュースです』
「おにい?」
 そう言って覗きこむ雛には応えず、橙也は金治の名を呟いた。
「ねぇ、金治…」
「どうした?」
 橙也のどこかおかしな様子に、紗弥も彼の顔を覗き込む。
「大善寺さんの家ってさ、ダイゼンジコーポレーションなの…?」
 全員が口をつぐんだ。
 金治と紗弥は何をいまさら、といった意味で。雛は二人が口をつぐんだので、である。
 テレビをつけていなければ、さぞかし静かな空間だっただろう。
 五秒ほど間があって、金治が最初に口を開いた。
「あのさ橙也。もしかしてとは思うけど、これも知らなかったとか言うんじゃないだろうな…?」
 そう言った友人に向かってゆっくりと振り返り、橙也は小さく、頷いた。
「トーヤ、あんた…」
「「大物だよ…」」
 ダイゼンジコーポレーション。世界シェア九割を誇るソフトウェア会社である。
 一代、わずか二〇年弱でこの会社を築き上げた男の名は、大善寺剛三郎。
 その名を知らない人物は、恐らく日本にはいないだろう。そう、機械音痴の橙也と言えど、例外ではない。
 世界富豪ランキング五年連続ナンバーワン、総資産額六兆円と言われる男と、一対一で向き合ったことを思い返し、ごくごく一般家庭に生まれた高校生は、小さなリビングで叫び声を上げた。
「うそおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!」
 ただ一人、事情を知らない妹だけが、兄とその友人を交互に眺めながら、オムレツを口に運ぶのだった。
「うん、おいしっ」

「あっはっはっはっはっはっはっはっはっは!」
「そ、そんなに笑うことないじゃないか!」
 橙也の目の前、空中に浮いたままお腹を抱えて笑っているのは、彼についたアユガイである。
「だーって、今の今まで知らないでプレイしてたってことっすよね?」
 ひーひー言いながら、今度は空中にうつ伏せの姿勢になって地面を叩くジェスチャーをするアユガイに、橙也はとうとう背中を向けた。
「橙也のアユガイも大爆笑らしいぞ」
「そりゃそうでしょ」
 そう言ってにやにや笑うのは金治と紗弥である。
「ホントにびっくりしたんだからっ!」
 珍しく友人への怒りを露わにして、橙也は二人に向かって叫んだ。
「いやいや、にしてもお前の大物っぷりには参ったよ。お父様にケンカ売っちまうんだからな」
 「お父様」を強調しながらそう言って、またひくひく、と笑い出した金治を睨みつけながら、けれど橙也は昨晩のことを思い出していた。
 ひどく、失礼なことを言ってしまったにも関わらず、自分のことを「いい男」だと言ってくれた剛三郎と、柳。
 そして、自分に対してだけ、「頑張って」という言葉をかけてくれていたらしいまお。
 橙也はまた、わずかに顔を赤らめた。
 すとん、と肩に何かが落ちた感触がして、橙也はそちらに視線を落とす。
「でも、やっぱりトウヤ先パイはカッコいいっすよ」
 アユガイが彼を見上げていた。
「わたしがいなくてもそうやって、ビシっ!と言いたいこと、言えたじゃないっすか」
 そう言った彼女の見せる笑顔が可愛らしくて、橙也は目を泳がせた。
「さてと、そろそろ時間だよん」
 そう言った紗弥に、橙也と金治は視線を向けた。
 彼らが今いるのは、昨日ゲームを抜け出した、あの魔王の部屋。
 けれど、そこに主は不在である。
 正確には、彼らがいるのはチュートリアルフィールド。
 もう間もなく午後九時。全ユーザーがメインフィールドに移行する時間である。
 誰からともなく頷いて、三人は昨日、まおが消えた場所に視線を向けた。
 数秒後、目の前の空間がわずかに歪み、そこにまおの姿が現れた。
「メインフィールドに移行したっす!」
 いや、正確にはまおが現れたのと、彼らがメインフィールドに移行したのが同時だったということか。
 とにかく、彼らは再び、大魔王に相対することとなった。
「昨日は邪魔が入ったけど、今日こそ、思う存分にやり合えそうね」
 そう言って、あの大魔王としての笑みを浮かべるまおに、橙也は剣を握りしめて叫んだ。
「大善寺さん、今日は僕たちが、勝ちます!」
 金治と紗弥もわずかに微笑んで、各々構える。
「いらっしゃい」
 その言葉を合図に、三人が走りだそうとした、そのときだった。
 ずんっ!と巨大な音が背後に響き、橙也たちは振り返った。
 あの巨大な鉄の扉が左右に大きく開き、その中央に男が立っていた。
「…てめぇ、何しにきやがった」
 憎々しげにそう告げたのは金治である。
 その問いに、男は俯けた顔を上げる。
「大魔王を、討伐に」
 依井宗貴が笑顔を浮かべて立っていた。
 けれどそれは、昨日彼が見せた笑顔でも、今朝のテレビで見たあの笑顔でもない。
 それはひどく、歪んだ笑みだった。
「悪いけどムネタカ、わたしは彼らと決着をつけたいの。それまで待っていてもらえる?」
 聞くものを凍りつかせるような言葉。
 振り返って、橙也は見た。
 今まおの顔に浮かんでいるのは、あの喜悦の笑みでもなければ、現実の彼女が見せる無表情でもない。
 邪魔者は排除する、冷徹な魔王の顔。
 けれど、宗貴はこれに反応するでもなく、中空に視線をさまよわせて、何事かを呟いた。
「まったく、まお嬢を悪漢の手から救い出したことに対する褒章が、たかだかこの城に入るためのアイテムとは…。笑えない」
「ちょっとあんた、ぶつぶつぶつぶつ気持ち悪いのよ!ケンカなら後であたしが買ってやるから、さっさと出てって!」
「ああ、それは都合がいい。僕も君たちのことは少々―」
 そう言って宗貴が向けた視線に、橙也は強烈な悪寒を覚えて、一歩飛びのいた。
「―鬱陶しく思っていたところだっ!」
 大きく広げたマントから、数十の火球が一斉に飛び出した。
 空間が、一面オレンジに照らされる。
「うわっ…!」
 左右にステップ。なんとか三発ほどをかわした橙也だったが、頭上に輝きが近づくのを感じて、そちらに視線を移した。
「先パイ!上っ!!」
 ほとんど目の前といった距離。
(やられるっ…!)
 そう思ったときだった。
 橙也の頭上に、小さな影がするり、と割り込んだ。
 直後、展開された紫の魔術陣にぶつかって、火球はごぉん、と音をたてて霧散した。
 頭上を跳んだ影が、橙也の前にすとん、と着地する。
 長い黒髪が、遅れて彼女の背中を覆った。
「大善寺さん!」
「トウヤ、これ以上面倒掛けるようなら、次は保証しないわよ」
「はいっ!」
 彼女の背中越しに、宗貴を睨みつける。
「魔王と共同戦線か、おもしれーじゃん」
「あたし一人で十分なんですけど?」
 金治と紗弥も、そう言って宗貴に向かって構えを直した。
 四対一。けれどこれにも、宗貴はその余裕の笑みを崩さなかった。
「君たちはともかく、さすがにまお嬢も相手にするとなると、いささか分が悪い」
 そう呟くと、宗貴はマントから出した右腕を、真っ直ぐにまおに向かって突き出した。
「だから、少しいじらせてもらうよ!」
 なにか来る!
 そう感じて身をこわばらせた橙也だったが、けれどその掌からは何かが放たれるような様子もない。
 ただその指先を、しきりに動かすのみである。
「なんのつもり…?」
 そう言って一歩踏み出したまおに向かって、宗貴は、大きく口を開けて笑った。
「完成だああああぁぁぁっっ!!」
 それは喜悦、いや狂喜の笑みか。空間をつんざくような不快な笑い声を上げながら、最後に宗貴は右手の小指をわずかに折り曲げた。
 それは、何かを押しこむような…。
 次の瞬間だった。橙也の目の前にいたまおの姿が、霞みがかかったようにわずかに歪んだ。
 けれどそれは本当に一瞬。橙也が声を上げるよりも早く、変化はすでにまおの身に起こっていた。
「大善寺さん?」
 最初に変化に気付いたのは、まおの腕。一瞬前まで紫の布地に覆われていたはずの腕は、今や何もまとわぬ状態で、彼女の白い肌を露わにしていた。
「まお!」
「なに、どゆこと!」
 まおも自らの異変に気がついたらしい。身体を見回した。
「どうして…」
「どうもこうも、そういうことだよ」
 突き出した腕をマントに隠し、再び宗貴はその顔を歪ませる。
「これは、ひょっとして…」
 声を上げたアユガイに、橙也は視線を送る。
「どうなってるの…!?」
「やっぱり…、まお先パイのデータが改竄(かいざん)されてるっす。レベル1。装備制限に引っ掛かったんっすよ!ううん、それだけじゃないっす…。システム関連のプログラムも全部消去されてるっす!」
 まおの姿は、橙也がこの世界に初めて立ったときとまったく同じ、極めて薄手の、最低限の装備に変化していた。
「あなた…」
 その呟きは、魔王としての彼女の声ではなかった。
 現実の、大善寺まおとしての声。
 システム関連のプログラムが消去されたということは、ヒロイックボイスエフェクトも解除されたということか。
「意外に、ダイゼンジのセキュリティも大したことはない。ちょっとした(・・・・・・)隙(・)を狙ってやれば、この通りだ」
 そう言った宗貴に、橙也は昨日、彼がゲーム内で別れる時に一瞬見せた、あの冷たい笑みを思い出した。
「まさか…」
 この呟きに対する変わらぬ笑みを、彼は肯定と受け取った。
「金治、紗弥。大善寺さんをさらおうとしたのは、こいつだ…」
「なに!?」
 紗弥が背後で息を飲む。まおは小さく、背後の橙也に視線を向けた。
「根拠のない言いがかりは止めてもらいたいな。まお嬢を誘拐しようとしたのは、あの(・・)二人(・・)、だろう?」
 橙也は飛び出していた。
「このやろおおおおおおおおおおっっ!」
 振り上げた剣を、宗貴に向かって思いっきり振り下ろした。
 かきぃぃぃん!と高い音が眼前で響く。その手ごたえに違和感を感じて、橙也は目を見開いた。
 その距離三〇センチ。まさに目と鼻の先といったところに、宗貴の顔があった。
けれど、橙也の剣は彼に届いてはいない。何か目に見えない壁に遮られ、その剣筋は止まっていた。
「…邪魔だよ」
目の前に突き出された宗貴の掌が赤い光を帯びたかと思うと、次の瞬間、数発の火球が飛び出した。
「くっ…!」
 奇跡的に数瞬早く飛び退いていたことで、致命傷は避けられたものの、けれどバランスを崩した橙也の身体に、そのうちの一発が強烈に突き刺さった。
「ぐ、あっっ…!」
「橙也っ!」
 橙也の身体が大きく宙を舞う。強烈に地面に叩きつけられるかと思ったとき、体の下にクッションのようなものが一瞬現れて、その身体をわずかに弾ませた。
 けれど二度目にはその感覚はなく、橙也は今度こそ硬い石の床に尻もちをついていた。
「痛っ!」
「トーヤ、大丈夫!?」
「今のは、サヤが…?」
 けれど紗弥はこれには答えずに、隣に立つまおに視線を向けた。
 まおの右手の指先に、わずかに薄紫の光が残っているのに橙也は気がついた。けれどその光は間もなく消えてなくなる。
「大善寺さん…?」
「衝撃吸収魔法。でも、二秒だけ」
 少ない言葉だったが、それだけで橙也には理解できた。
 宗貴はわずかに聞こえる程度の大きさで、ため息をついた。
「まったく、面倒だ。さっさと終わらせてしまおうか…」
 そう言って一歩踏み出す。
「まお嬢を倒せば、このゲームはクリア。そうでしたね?」
「ふざけんなよ…。こんなのルール違反だろうが!!」
 金治の激昂に、宗貴が薄笑みを返した。
「ルール違反ねぇ。先ほどまでの彼女の方が、よっぽどルール違反じゃないのかな?」
「自分がよわっちぃの棚に上げて、偉そうなこと言ってんじゃないわよっ!」
 そう言って前に出ようとする紗弥と金治を、まおは両手で制した。
「まお?」「大善寺さん?」
「瀬良くん、武島さん、大丈夫」
「大丈夫って、お前な!」
 橙也も立ちあがって彼女の隣についた。
「大善寺さん!」
 橙也を見上げる、まおの視線。
「柚代くん、大丈夫だから」
 そう言って、まおは近づく宗貴に視線を戻した。
「覚悟を決めてくれたのならうれしいですね。それでは―」
 広げた右掌が赤く輝く。
「―これで、ゲームクリアーだっ!!」
 一つ、極大の火球が掌から生まれた。
 空間ごと食いちぎらんとするような獰猛な唸りを上げて、それはまっすぐにまおに向かって飛びかかる。
「まお!」
「大善寺さん…!」
「大善寺さんっ!!」
 けれどそれは、まおに届くことはなかった。
 ぶぉぉぉおおおおん!と、強烈な嵐のような音を立てて、火球がねじ曲がった。
 まおの眼前一メートル。それは彼女に触れることなく、勢いを止めて空間に固定される。
 次第に、それが縮んでいくのが分かった。
 徐々に、けれど確実に。
 まるで見えない両の掌によって押しつぶされるかのように、じりじり、とその姿が小さくなっていく。
 部屋一面を照らしつくしたオレンジは、やがてもとから何もなかったかのように消え去って、そこは元通りの空間に姿を戻した。
「い、今のは…?」
「こういうことを予期して、この部屋にはプロテクトが張ってある」
 まおはそう呟いた。
「あなたのことは倒せないかもしれないけれど、ここにいる限り、あなたもわたしを倒すことはできない。諦めて」
 宗貴は、軽く舌打ちをして、その顔に苛立ちを浮かべた。
「そういうことだそうだ。諦めて帰れ」
「では、そうしましょう…」
 金治の言葉にそう言って、宗貴は振り返り、扉に向かって歩を進めた。
「大善寺さん…!」
 橙也がまおに笑みを向けた、そのときだった。
「なーんて、ねぇ!」
 背中を向けたままの宗貴に視線を送ると、彼は大きく両腕を左右に広げ、先ほどと同じようにその指を激しく動かしだした。
「何してんのよっ!さっさと帰れ、―自主規制―!」
「まさか…」
 まおの呟きに、宗貴は首だけで背後を振り返った。
「ご名答」
 右手の小指と、左手の親指が何かを叩くようなアクションを起こす。
 次の瞬間、彼の足もとを中心にして、円形に床の色が変化していくのが分かった。
「なんだっ!?」
 いや、それは床だけではなかった。
 周囲を覆っていた空間が、すべて消え去っていく。
 次第にその変化は橙也たちの足元にもおとずれた。
 冷たい石の色ではなく、温かみのある茶色。
 周囲の光量が増したことに気がついて、橙也は目を細め、その先にあるものを注視した。
「ここは…」
 視線の先にあったのは、太陽。
 次第に目が光に慣れてくる。
 辺りはいつの間にか、見なれた空間へと変わっていた。
「うそ…!」
「ここは、あの広場か…?」
「アユガイっ!」
 左の肩に声だけで問いかける。
「空間歪曲…。ダメっす、完全にあいつに掌握されてるっすよ!」
 いつもの広場、ほぼ中央にいきなり現れた五人に、自然、周囲からの視線が集まる。
「邪魔だなぁ。あらかじめ、消去しておくんだったよ」
「…やめて」
 わずかに目を見開いて、まおがそう言ったときにはすでに遅かった。
 再び大きく翻った宗貴のマントから、無数の火球が飛び出して、町中に降り注いだのだ。
 悲鳴を上げて逃げ惑う人々を、橙也は見た。
 炎に焼かれて、目の前で姿を消す人もいる。
「ひどい…」
「トーヤ!」
 紗弥の声に頭上を仰ぐ。橙也の直上にも、火球が迫っていた。
 どんっ、と強い衝撃に押されて、橙也は倒れた。
 上に覆いかぶさっていたのは紗弥である。ほんの少し前まで立っていた場所に火球が落ち、一瞬大きな火柱を立てて消えた。
「ったく、しっかりしてよ」
「ありがとう、紗弥」
 立ち上がって辺りを見回すと、一面にもうもう、と黒い煙が立ち込めていた。
 周囲にユーザーキャラクターの姿はない。
 動くものが視界の端に見え、そちらではまおを抱きかかえた金治が起き上がるところだった。
「ここならまお嬢のプロテクトも使えないと思うが、君たちは少々手強い…。さて、どうしようか」
「てめぇが消えろよっ!」
 立ち上がった金治が走りだした。
 けれど、振り下ろした剣はやはり宗貴の眼前で受け止められる。
「キンジっ、どいてっ!」
 金治の頭を飛び越えて、紗弥は宗貴の直上に向かって跳び上がった。
 強烈なかかと落とし。
 しかし、それもやはり宗貴には届かない。頭上ではじかれ、地面に降りた。
「ほんっと、汚ぇ野郎だぜ…!」
「なんとでも。…ああ―」
 そう言って、宗貴はまたあの歪んだ笑みを浮かべた。
「―そうか、どうせ君たちは僕に手出しできないんだ。先に、まお嬢を倒させてもらうことにするかな」
 わざとらしくそう告げて、宗貴は歩きだした。
 左右から攻撃をする金治と紗弥。けれど、それは一つとして彼にダメージを与えることは出来ない。
 橙也は、背後のまおをかばうようにして剣を構えた。
 宗貴が近づく。
「そこを、どいてくれないか?」
 三メートル。
「アユガイ、ゲームから抜け出すことは?」
「試したっす、でも、コントロールがほとんど取られちゃってるんっすよ!」
「残念、ログアウトの権限もすべてこちらで握っている。君たちを倒した後で、ボイスログと、メモリーの改竄もさせてもらわないといけないからね」
 自分の発言をすべて消し去るつもり、ということか。
 二メートル。
「大善寺さん、逃げて下さい!」
「でも…」
「ここは、何とかしますから」
「何とか、ね。どうするつもりかなぁ?」
 一メートル。
 橙也は宗貴に向かって走り出した。
「うああああああああああっっ!!」
 目の前に収束する、赤い光。
 けれどそれは、弾けることはなかった。
「ぐ、ぐあああああああああああっっっ!!」
 橙也は足を止めた。
「なんだ…」
「どうなってんの…?」
 左右を囲む金治と紗弥も立ち止まり、中央の宗貴を眺める。
「ぬ、ぬああああああっ、そんな、ばかなぁあぁぁぁあああぁぁあああっ!!」
 尋常ではない様子で、胸を押さえて苦しみ出した宗貴に、三人が同時に足を踏み出しかけた、そのときだった。
「先パイっ…!これ、まずいっすよ!」
「え?」
「早く!早く離れるっす!」
 アユガイの必死の形相に、踏み出しかけた足を止めて、橙也は後退した。
 金治と紗弥も同様だったのであろう、ほぼ同じタイミングで一歩足を下げた、そのときだった。
「があああぁぁぁぁああああぁぁぁぁあぁぁぁぁぁあああああああああっっっっっ!!」
 宗貴のマントをめくり上げるようにして、内側から何か、太い紐のようなものが姿を現した。
 それはものすごい勢いを伴って、橙也たちの眼前を通り過ぎる。
 びゅおんっ!という音が示すとおり、もしも当たっていたらただではすまなかったはずである。
「アユガイ、これは!?」
「もっと、とにかく、もっと離れてくださいっす!!」
 もう一歩、足を後退させた橙也だったが、次の瞬間には後ろを振り返って、全力で走りだした。
「大善寺さんっ!」
 そこにいたまおの手を強引につかんで、さらに走る。
 三〇メートルほど走ったところでようやく振り返ると、先ほどまでいた場所には、なにか巨大な塔のようなものが立ち上がっていた。
 いや、それはよく見れば塔ではなかった。
 無数の紐状のものが絡み合い、うごめいて、それは形成されていた。
 紐だと思った物も、よく見れば様々な太さがある。細いものはそれこそ、ここからでは見えないくらい。太いものでは二〇センチほどだろうか。
 一様に灰色のそれは、機械のコードを彷彿とさせた。
 ところどころ先端からは、金属部のような輝きが露出している。それらは陽の光を受けて、ときどき強く、ぎら、と輝いた。
 それら様々な太さのコードが木の根のように絡み合い、高さ一〇メートル、太さ三メートルにもなる、無機の大樹を形成しているのだった。
 そして、その頂上にある姿は―
「依井…」
 依井宗貴は、数十、数百といったコードに身体を持ち上げられ、その姿をさらしていた。
 けれど、彼の緑のマントはすでにほとんど見えず、無数の細いコードがその身体に巻き付いている。
 表面に出ているのは、胸から上。それより下は、すでにコードに覆われていた。
「でたらめに改竄されたデータのせいで、バグが生じたんっすよ。もう、本人の意思なんて無関係っす…」
 アユガイのこの説明を、何らかの不具合が生じたものと橙也は解釈した。
 そのとき、一本の太いコードが急速に伸びて、空中を泳ぐように橙也たちの方に向かってきた。
「大善寺さんっ、危ないっ!」
 まおを抱きかかえるようにして、横っ跳びにそれをかわす。
 背後に巨大な何かが思い切り叩きつけられたようなものすごい音がして、振り返ると、たった今立っていた場所は、大きく抉られていた。
「大善寺さん、大丈夫ですか!」
 顔の下、ほんの数センチのところにまおの顔があり、橙也は慌てて起き上がった。
「うわっ!すいません」
「いい、ありがとう…」
 今のは橙也たちを意図的に狙おうとしたものではないらしい。見上げると、今度はゆっくりと、コードは本体へと戻っていく。
「あんなの、どうすれば…」
「トウヤ先パイっ!」
 アユガイが叫んだのを聞いて、橙也は肩に目を向けた。
「なんとかなるかもしれないっす!」
「ホントに?」
「でも、わたし一人じゃ無理っす」
「どういうこと?」
「カネハル先パイと、サヤ先パイを探してくださいっす!とにかく、一刻を争う事態っすよっ!」
 そのアユガイの様子に、橙也は強く頷いた。
「大善寺さん、何とかなるかもしれないんですが、そのためには二人と合流しないといけないみたいなんです!」
「分かった」
 そう言って、まおは小さく頷いた。
 けれど、ちょうど広場を中心に三方向に分かれてしまった金治と紗弥である。どうやって合流すればいいのかと考えていると、それを読み取ったように、まおが呟いた。
「ボイスウインドウ」
「あ、そうか!」
 互いに声を上げていれば、二〇メートル以内に入ったときには発言が記録されるはずである。
「じゃあ、行きましょう」
そう言って橙也が引っ張った手を、まおは逆に引いて立ち止まった。
「大善寺さん?」
「二人別々に探した方が早い」
「え、でも…」
 まおの言うことはもっともだった。けれど、今の彼女は無敵の大魔王ではない。
「大丈夫」
 そう言って見上げる目を三秒ほど見返して、橙也は頷いた。
「無理、しないでくださいね」
「柚代くんも」
 そう言って、二人は左右に別れた。
 細い裏道を抜けて、隣の通りへ出る。
「金治ーっ!」
 幸い、彼の姿はすぐに発見することが出来た。
「橙也っ!」
「金治っ!」
 五〇メートルほど先にいた彼と、橙也は合流した。
「まおは?」
「サヤを探しに行ってくれてる」
「そうか。アユガイから、聞いてるか?」
「うん、三人いないとダメだって」
「よしっ、そんじゃ、次はサルだな」
 そう言って今度は橙也が今来た道を戻る。
 二人が一度、大樹を見上げたときだった。
「あいつ、倒れる!?」
 金治が叫んだ。
 確かに大樹は、無数の枝のようにも見えるコードを振りまわしながら、わずかに傾いているようだった。
 けれど、傾きはそこで止まり、再びその身体を縦に起こす。
「動いた…」
 わずかではあったが、確かに少し前まで立っていた位置とは、ずれが生じていた。
 先ほどの通りに出る。
「なんだよ、ありゃ…」
 遮るものなく、上から下までを眺めることの出来る位置に移動すると、根元部分に多数のコードが集まっているのが確認できた。その一本一本が、タコの足のようになって、ずり、と地面を這っているのである。
 初めこそゆっくりだったその移動スピードは、次第に早さを増し、橙也たちの方向へと近づいていた。
「まずいな、おい…」
 その距離、およそ二〇メートル
「一度、大善寺さんの行った方に―」
 そう言いかけたときだった。
 視界の左下、ボイスウインドウに、《サヤ:いやぁぁあああああっ!》と表示された。
「金治、ボイスウインドウ!」
「先パイっ、あそこっす!」
 アユガイはそう叫んで、大樹の方向に指をさした。
 橙也たちから見て右方向、足を一〇センチほどの太さのコードに巻き付けられて、逆さづりになっている紗弥の姿があった。
「サヤっ!」
「まずいな…」
「金治、どうしよう!」
「助けないわけには、行かないだろうよっ!」
 そう言って、金治は迫りくる大樹に向かって駆け出した。
 橙也も剣を抜いてその後を追う。
「うおっっと!」
 頭上をかすめる太いコードをかわしながら、二人はなんとか紗弥が吊られている真下へとたどり着いた。
「サヤ、大丈夫か!」
 五メートル程の高さに吊られた彼女を見上げて金治が叫ぶ。
「大丈夫じゃないわよーっ!」
「そんだけ元気なら大丈夫だろ、ちょっと待ってろ」
 そう言って、金治は近くを這っていたコードのうちの一本に、思いっきり剣を突き立てた。
 どこから発せられているのか、ぐぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおっ…、という低い、うなるような音が目の前から上がる。
 それと同時に、一斉に多数のコードが暴れ出した。
「うわっ!」
 頭上を、足元を、猛スピードで跳ねまわるコードをなんとかかわしながら、橙也は距離を取った。
「金治、これじゃ逆に近づけない!」
「きゃあああああああああああっ!」
 頭上を見上げると、紗弥を絡めたコードも、暴れまわっていた。
「キンジぃぃぃぃぃぃぃっ!気持ち悪いぃぃぃ…」
「吐くなよっ!絶っっっ対、吐くなよっ!」
 そう言って、金治も一度橙也の位置まで戻り、距離を取る。
「くっそ、どうする…」
 金治がそう呟いたときだった。二人の頭上を、影が躍った。
「なんだ!?」
 地を這う影を追って見上げると、跳んでいたのはまおだった。
 けれど、それは明らかに人間の力を越えた跳躍である。
「あ!」
 橙也は彼女の足の裏に、紫の魔術陣が広がるのを見た。
 まおはそのまま、紗弥の足を抱きかかえるようにして、彼女につかまった。
「だ、大善寺さん…」
「……」
 まおは紗弥に向かって何事か呟いたようだった。
 ボイスウインドウに視線を落とすと、《マオ:待ってて》とあった。
 再び見上げると、まおの右手が紫の軌跡を描くのが見えた。
 次の瞬間、小さな雷が、紗弥の足に巻きついたコードを直撃した。
 再び先ほどのうなるような音を立てて暴れまわるコードの大樹。
 紗弥の足に巻きついていたそれも、力を緩めた。
「きゃああああああああああああああああああああっっっっっ!!」
 結果、二人は落下した。
「受け止めろってことねっ!」
 金治が二人の落下地点に向かって走り出す。
「オーライオーライ!」
「金治!危ないっ!!」
 けれど、そう簡単にはいかせてくれなかった。
 危機に気付いた金治が頭を下げる。その頭上をものすごい勢いでコードが通り過ぎた。
「あぶねっ…!」
「サヤっ!大善寺さんっ!」
「なに!」
 金治が見上げた先には、紗弥とまおが浮かんでいた。落下する二人を、それぞれまた別のコードが巻き取って縛り上げたのである。
小さく「きゃっ」と声が上がり、まおが苦悶の表情を浮かべるのが見えた。
「大善寺さんっ!」
「まおっ!」
 一本のコードが、彼女の身体に器用に何重にも巻き付いていた、その結果、胸も強く締め付けられ、大きく開いた首もとから、彼女の豊かな谷間が露わになる。
「うおっ!」
「ちょっと、金治っ、そんな場合じゃないだろ!」
 そう言う橙也だが、助けようと彼女を見れば見るほど、自然、どうしても目に入ってしまう。
 だって、男の子なんだもん。
「トウヤ先パイ…」
「ちが、違うって!」
「痛いってのぉ!」
 もう一つ、そんな声が上がって、二人はそちらを振り仰いだ。
 同じくコードでぐるぐる巻きにされた紗弥が、身をよじっていた。
 まおと同じような巻かれ方にも関わらず、こちらはなんとも貧相なものである。
 そんな紗弥に、金治はエールを送った。
「サヤ、ファイトっ!」
「ちょっと!あたしにも『うおっ!』って言いなさいよ『うおっ!』って!!」
 そんな紗弥をひとまず無視して、橙也は金治に叫んだ。
「まずいよ金治、僕たちだけじゃ…!」
「しょうがねぇ、奥の手を使うぞ」
「奥の手?」
 問いかけた橙也に、金治はにやり、と笑みを浮かべて、紗弥を振り仰いだ。
「おい、胸無しサルっっっ!!」
 紗弥の目が、ぎらり、と輝いた。
「金治、それまずいよ!」
「だから、一度撤退だっ!」
 そう言って、大樹から離れるように走り出す金治を追って、橙也は走った。
 次の瞬間、後ろから何かを引きちぎるような、ぶちぶちぶちぃっ!という音。
 また大樹がうなりを上げるのが分かった。
「キィィィィンジィィィィッ!!」
 振り返ると、ものすごいスピードで紗弥が向かってくるのが見えた。
「サヤ、落ち着け!」
 金治は振り返ると、腰に下げた袋から何かを取り出し、紗弥に向かって投げつけた。
 草、だろうか。それは一直線に紗弥に向かい、真っ直ぐに彼女の口内へ飛び込んだ。
 マンガみたいだ、と橙也は思った。
 次第に紗弥はスピードを緩め、きょろきょろ、と辺りを見回した。
「あれ、あたしどうしたの?」
「おー、サヤ、無事で良かった」
「金治、あれ、何?」
 問いかけると、金治は声を発さずに、口の動きで「あとで」と言った。ボイスウインドウに残るから、ということだろう。
「さてと、あとはまおだな…」
「え、大善寺さんまだあそこに?」
 そう言って、紗弥は背後の大樹を振り返る。
 なおも大樹は、徐々に近づいてきていた。そのちょうど前面中央、高さ五メートルほどのところに、まおがいた。
「大善寺さん…」
 頭上を飛んでいたアユガイが声をかけてきた。
「三人揃ったところで先に、あれを止める方法を説明するっす」
 橙也はそちらを見上げる。金治と紗弥も、各々の頭上に視線を向けていた。
「だから一度、あいつから離れて欲しいっす…!」
 一刻を争うということか。
 三人が同時に頷いた。
 通りを逆方向に走り出す。橙也は一度、背後を振り返った。
「大善寺さんっ!すぐに助けますからっ!!」
 小さく、まおの口が動いたような気がして、ボイスウインドウに視線を落とした。
 《マオ:柚代くん、待ってる》
 そう書かれていた。
 大樹から一〇〇メートル以上の距離を取り、橙也たちは建物の陰に身を隠した。
「時間が無いんで手短に説明させてもらうっすよ」
 三人がそれぞれの眼前に視線を向ける。
「今、ゲットアスレイブの世界は正常なコントロールが出来ていない状態っす。そこに、なんとかほんの少しだけ、割り込みをかけてもらうことが出来たんっす。
 これからわたしたちの力を使って、バグを排除するためのカギみたいなものを、限定的にこの世界に割り込ませるっす。先パイたちには、それを使ってあいつを倒して欲しいんっすよ」
 全員が同じタイミングでうなずいた。
「それじゃ、さっそくいくっすよ。準備オッケーっすね?」
 最後の問いかけは、金治と紗弥に向かって、いや、彼らのアユガイに対して言ったものらしかった。
 次の瞬間、アユガイの身体が輝きだした。
「あ、アユガイ…?」
 ほぼ同時に、金治と紗弥の前にも光が現れた。
 その中心にいるのは、どちらも橙也のものと全く同じ、女子高生の姿をしたアユガイだった。
「なに、あんたらもこの子だったわけ?」
「…どんだけ仲良しだよ、俺たちは」
 次第に三つの光は、一か所、橙也たちの囲んだ中央に集まっていく。
 やがて、それは一つの光になった。
「トウヤ先パイ。カネハル先パイ。サヤ先パイ。短い間だったけど、アユガイは楽しかったっす」
「おいおい、これっきりみたいな言い方すんなよ」
 金治のこれに、光になったアユガイは、一拍置いて返事を返した。
「この機能は本当は、もっと沢山のアユガイがいて初めて使用可能なものなんっす。でも、今この世界に残ってるのは、わたしたちだけっすから…」
 全員が、息を飲んだ。
「ちょっと、消えちゃうってこと…!」
 無言。
 すでに人の形で無くなってしまった彼女は、頷いたのかどうかすら分からない。
「あ、アユガイ、そんな、いきなりすぎるよ!」
「……絶対に、あいつをやっつけてくださいっすよ!」
「アユガイっ!」
 橙也が光に触れようとしたときだった。再び光が三つに分かれ、その中央に、光の文字が浮き上がった。
 Anti‐Unallowed programs‐GAte‐Information
「対未認可プログラム用ゲート・情報管理統制システム、『A(ア)‐U(ユ)‐GA(ガ)‐I(イ)』、起動します」
 続いてそう響いた音声は、確かにアユガイの声ではあったが、彼女の、あの感情のこもった声ではなかった。
 この世界を初めて訪れたときに彼らを出迎えた、あの無機質な声。
 そして、変化は起こった。
 目の前の三つの光が、円を描いて回り始めたのだ。
 初めはゆっくりと。
 次第にスピードを上げて。
 やがてそれは、円の軌跡となった。
 円は次第に高度を下げた。橙也たちの目の高さにあったものが、ゆっくりと下へ降りていく。
 その中央に、何か棒状のものが形成されていくのが分かった。
 円が下降していくにつれ、それは徐々に長さを増していく。
 橙也たちの足元まで達すると、再び光は回転のスピードを緩め、三つのそれに戻ったが、次の瞬間音もなく、姿を消した。
 残ったのは、これも光り輝く棒である。
 地面に刺さっているわけではない。わずかに浮いていた。
「剣、か…?」
金治の言うとおり、それは剣であるらしかった。光をまとっているせいでぼんやりとしか輪郭は分からないが、鍔(つば)があるのが確認できた。
「どうする…?」
 紗弥の声に続いて、ずずずずずず、という音が近くに響く。
 地面もそれに合わせて、微かに振動していた。
「迷ってる時間はないな」
 そう言って柄を握ろうとした金治よりも先に、橙也は剣を手に取った。
「お前…」
 左の腕で目に溜まった雫を拭い、橙也は金治に視線を向けた。
 三秒、視線をかわして、金治は笑った。
「行ってこい。失敗したら承知しねーぞ!」
「うん!」

 橙也は石造りの螺旋階段を走っていた。
 外の日差しは中には届かない。ひんやりとした空間である。
 外からはずずずずずずず…、という音が断続的に響いてくる。
 次第に大樹が近づいてきているのだということが分かった。
 上を見上げて、橙也は一度足を止めた。
 ものすごく高い吹き抜けである。
 頂上から差し込む光へは、まだまだ遠い。
 汗が額を伝い、目に入った。
「くっ、そ…」
 彼を叱咤激励してくれる者は、そこにはいない。
 ここはゲームの世界。
 けれど、アユガイはもう、いないのである。
 橙也はもう一度、左腕で目を擦った。
 そして、上着を脱ぎ捨て、その下に着込んだ鎖の鎧も重力に任せて地面に落とす。
 着るときは楽だけど、脱ぐときは面倒だね。という言葉を思いついたが、口にはしなかった。返ってくるのは無言だと、分かっているから。
 もう一度、橙也は光の差し込む頂上へ向かって走り出した。

「ま、弱点はどう考えても」
「依井よね」
「問題はどうやってあんな高いとこまで登るかってことだな…」
 頭を抱える二人を前にして、橙也は思いだした。
「あ!」
「どうした?」
 初めてこの世界に入ったときに目にした、鐘つき台。
 ちょうど彼らの隠れる建物の陰から見えたそれを、橙也は指差した。
「なるほどね。ってことは俺たちは」
「あいつを誘導すればいいわけだ」
 そう言って二人は、にやり、と笑った。

「はぁ、はぁ、はぁ…」
 ようやく頂上にたどり着いて、橙也は大きく呼吸をした。
 ゆっくりはしていられない。開いた部分に駆け寄ると、下を眺めた。
 高さは一二メートルほどだろうか。他に高い建築物のない町並みが一望できた。
 その中に、明らかな異物が一つ。
 一〇メートル程の大きさのそれは、こちらに向かってゆっくりと、確実に、歩を進めている。
 足もとに二つの人影が動いているのが見えた。
「金治、サヤ…!」
 こちらから見て、大樹の正面中央、多数のコードにうずもれるように、人の顔があった。
「大善寺さん…!」
 そして、頂上にはすべての元凶、今やその意思を失い、ただ核としてのみそこに在る男。
「依井…!」
 橙也は両手で輝く剣を握りしめた。その光は未だ衰えることなく、むしろ彼の意志にしたがって、輝きを増しているようにすら見えた。
 残り一〇メートル。
 けれどそこで、大樹はぴた、と動きを止めた。
「…なんで!」
 下で戦う二人も異変を感じたらしい、しきりに攻撃を繰り返すが、大樹はじたばたとコードを振り回すだけで、一向に歩みを再開する気配がない。
 逆に、反対方向へと進もうとしているように、橙也には見えた。
(まさか…!)
 橙也は手に視線を落とした。
 輝きを増した剣。
 あの大樹が、これに何か本能的な怖れを抱いているのだとしたら…。
 その読みは、どうやら外れてはいないらしかった。
 あの低い音を伴って、大樹は次第に後退を始めた。
(このままじゃ、大善寺さんが…、アユガイがせっかく作ってくれたこの剣が…!)
 助けると約束した。絶対にあいつを倒すと約束した。
 二つの約束が、守られないまま消えてしまう。
 目を閉じかけた、そのときだった。
「……ヤっ!」
 そんな声が聞こえて、橙也は下を見下ろした。
「……でっ!」
 叫んでいるらしいのは、紗弥。
 橙也はボイスウインドウに視線を移した。
 《サヤ:トーヤっ!跳んでっ!》
 橙也の脳裏に、閃いたものがあった。
 もう一度、両手で強く剣を握りしめる。
 背中が巨大な鐘に触れる位置まで下がり、思いっきり助走をつけて、橙也は鐘つき台から跳んだ。
 横向きの勢いは、重力に引かれてすぐに下向きへと変わる。
 けれど、橙也は冷静だった。ぎゅっ、と剣を握りしめて、彼女が来るのを待った。
「度胸あんじゃん!」
 真下からそんな声が聞こえて、橙也は視線を落とした。
 十数メートルの高さを跳んだ紗弥である。足元には、紫に光る魔術陣。
「身体丸めてっ!」
 言われた通り、橙也は腕で足を抱え込む。
 お尻に紗弥の足が触れるのが分かった。
「いっっっっっっっっっっっっってこいっ!!」
 跳躍力強化の魔術を足にまとった、紗弥の左のオーバーヘッドキック。
 橙也の身体は一発の巨大な弾丸となって、空を駆けた。
 身体を伸ばし、風の抵抗を減らす。
 みるみるうちに、宗貴の姿が近づいてくる。彼は今や首まで無数のコードに覆われて、顔が露出しているのみだった。
「橙也ぁっ、いけぇっっ!!」
 金治の声。
「………」
 ボイスウインドウには、《マオ:柚代くん…!》
「先パイっ!やっっっちまえーっす!」
 そんな声が聞こえた気がして、橙也は左肩ではなく、握りしめた剣に視線を向けた。
 今、彼女の声が聞こえるとしたら、それはきっと…。
 視線を、宗貴へ。
 彼の近くから伸びた一本の太いコードが、橙也めがけてものすごい勢いで走る。
 橙也はそれを、寸前まで引きつけてから、体をねじって回避した。
 風を切る激しい音が、目の前をかすめる。
 残り、三メートル。
 白目をむいた宗貴に照準を合わせて、両手でしっかりと握った剣を、真っ直ぐに突き出した。
「うわあああああああああああああああぁぁぁぁぁっっっっっっっ!!」
 ごおおおおぉぉぉん!と、本来であれば時を知らせるための鐘が、一度だけ、背後で大きく鳴り響いた。
 橙也の突き出した剣は、コードに覆われた宗貴の身体の中心に、深く突き刺さっていた。
10, 9

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