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 肉うどんはとても美味い。その旨みに対する気持ちは、新興宗教の教祖、神に拝礼する信者のように膨らんだものだと言ってもいい。それほど肉うどんが好きだ。
 まず肉うどんにとってその要となるのは紛れもなく、その肉にある。豚肉を使わねばならない。豚肉の茹でたときの旨みは牛を超越する、牛はあってはならないというのは一種自分にとって戒律のようなものだ、厳守せねばならない。豚以外を使用するのは肉うどんに対する冒涜なのである。あの豚肉の、豚の一つ一つのミクロ細胞が舌の味蕾にたまらない旨みを体感させるのは健気である。以上のことからして、肉うどんの肉は豚肉でなければならない。より美味い肉うどんは、豚肉でしか成し得ないという。
 私は第三コンビナート廃棄処理工場で腐物と廃棄物にまみれて働く、一介のしがない労働者である。内容は廃棄物の分別業務を主に行っている。夏はうだる暑さの中、汗と金属錆、腐物と害虫(蚤や蠅やダニ)にまみれて働いている。冬はつんざく冷たさの中、吹きすさぶ灰色の雪と廃液、水銀などにまみれて頑張っている。全ては生活のため、毎日楽しみにしている肉うどんのためである。
 人としてうだつの挙がらない惨めな自分には、唯一の娯楽と言えば食べること、肉うどんしかなかったのである。なぜそれだけなのかと述べると、もともと女受けのしなかった風采と性質に更に悪臭が入り混じった自分には女が先ず欠け、低劣な知能と不器用な人間性からは出世や金銭的成功が消え、すこぶる自信の欠如と猫背と吃音症からは対人面や遊びが失せたからである。私にとって与えられる恩恵、それは悪臭を纏い汚物を纏った犠牲の結果得られる僅かな賃金によるもの、食事しかなくなってしまったのである。
 だから豚を神の化身として扱おうという運動が勃発したときには、眩暈がしてテレビに齧りついて運命を呪ったものだ。第32天界期とされる2010年1月、八百万の神の一人が神界より地に降り立った。神はメディアを媒介し、人々に徳の宝典を説いたあと、よりによって豚に乗って神界に帰ってしまったのである。ことはそこから始まった、神が豚にのって帰ったのだから豚は神の化身である、殺してはならないと一部の人間が騒ぎ立て炎上してしまったのである。騒動は過激さを増し、豚肉専門店焼き討ちなどがなされ、警察隊との衝突、死傷者を出す騒ぎにまで発展した。結果、豚肉を売る店はなくなってしまったのである。レトルトからも豚肉を使用するものは影をひそめて消えていった。どこに行ってももう豚肉は入手不可能である。
 私は神を呪った。神は美しい徳を説きながら、人々をお救いにはならなかったのみならず、私の生きがいまでを奪い去ったのだ。もし神が人々を救済するのであれば、なぜ私はこんな汚いところで、ゴミの様に、無価値な存在のように、汚物にまみれ、人々から異臭がすると疎まれながら、細々と生きねばならない。奇麗事は誰だって言える、詐欺師だって言える、悪徳政治家だって平然と語っている、神の行ったことはまるでそれではないか。何も施行さえせず、ただ巧弁を垂れただけの、偽善にさえならぬ偽善ではないか。とんだおせっかい。ふざけた話である。
 ただ私は神の存在を認めただけで、内心では泣きたいような気持ちになってしまったのも、事実といえば事実である。人間の本能に刻まれた神への敬拝心、その敬拝心は植えつけられた虚妄であるというように考えざる得なかった現実。それがすべて正しかったのだと実感できたから。神に慕う気持ちが虚妄ではなかったと確信することができたから。だからなんとも言えず、泣きたくなってしまったのである。
 けれど私には神の存在を認めても、何も変わることがなく、さらに唯一の生きる活力である娯楽、肉うどんを剥奪されてしまったのである。この情けなさ。きっと誰にも神にも分からぬ情緒であろう。
 豚肉が息絶えてからおよそ一ヵ月後の10月、終秋に関わらず寒風が吹き荒れる日、私はその日もまた廃棄ゴミにまみれて労働に勤しんでいた。その日の一週間前、先輩仲間の藤井さんが仕事を辞して浮浪者になった。二日前に公園で浮浪者仲間とテントを張っている藤井さんの様子をちらと見に行ったのだが、丁度折り悪く、学生とおぼしき少年少女の集団に暴行を受け、ゴミだ、ゴミだ、なんの価値もない人間だと罵り嘲り笑われて、ひいひい泣いて助けを求めているのが目に映った。そう、我々には逃げ道などどこにも用意さえされていなかったのである。だからこの寒風も、指先の痛みにも、耐えねばならないのである。そう、どんなに辛くても耐えねばならないのである。人生とは、神が用意した拷問なのである。悪事を働けば、更に地獄に行くのである。二十獄門なのだ。
 私は生きる喜び、肉うどんのことを思い出すたび、そういう感情が湧き上がって来るのを止めることができない。油にまみれた鉄塊を持ち上げ腰がきりきり痛むたび、逃げ道がない逃げ道がないと連呼して歯を食いしばるしかなかった。この痛みも、一杯の温かい肉うどんさえあれば・・・。
 私の不条理に対する気持ちは次第次第、日に日に膨れていった。そしてある日、私は決心するに至った。もう、地獄におとされてもいいんだと、そう決心した。どうしても肉うどんが、豚肉の入った肉うどんが食べたいから、ペット用の子豚を購入して、捌いて肉うどんにしてしまおう。豚肉入りの肉うどんを作ろう。ペット用の子豚を殺そう。
 私は安賃金から捻出したお金を、ペットショップに持っていった。そして子豚を購った。ショップの店長は今日生まれたばかりだといったので、他はないのかと尋ねると、頭を下げてそれだけしかないと謝った。私は子豚を抱えてアパートに帰った。
 子豚を殺す為の算段は整えられている。ロープで豚を逆さ吊りにして頚動脈を切り、タライにて血抜きをする。その後ホームセンターを捜し歩いて見つけたこの大釜で豚を煮込んで皮を剥き、内臓を抜き取る手はずである。肉は部分ごとに保存できるよう、冷蔵庫の中のものは必要最低限捨てて広くとってある。あとは行動に移すだけだ。
 私はそう意気込むと豚の後足をロープでくくろうと押さえ込んだ。子豚はびっくりして泣き喚いた。私は下唇を噛んで更に強く押さえつけた。
 その時私の脳裏には、学生に虐げられ泣き喚く藤井さんの姿が髣髴と浮かんできた。助けを求める価値のないクズ、藤井さんの姿が目に浮かんで手が震えた。私のような藤井さんと同等の価値のないクズが、この子豚という先程まで値段のついていた存在を、殺して食ってしまっていいものであろうものか。価値のないマイナス定価に等しい値段の人間が、子豚と言うプラス定価のついた存在を、犠牲にしてしまってもよいのだろうか。脳裏にはそういった疑問が渦巻いてはがれない。
 その疑問と情念が募れば募るほど食欲は失せ、肉うどんが空しいもののように思われた。
 私は子豚を押さえつける手を開放した。もう、どうしようもないのだ。もう、どうだってよいのだ。私は価値のないクズだった、それだけだ。子豚は孤独に暮らす母にでも送るとしよう、きっと喜ぶことだろう。当年、実家には帰ってさえいないし、誰もすがるよすがもない、しがない独居老人なのだから。
 母は実際、私の帰郷とプレゼントを喜んでくれた。これでよかったのだ。私のような人間には肉うどんを食べる資格はないのだ。肉うどんのような高級のものを、低級な私が食べることは始めからおかしなことだったのだ。不釣合いだった、似つかわしくなかった、私には腐りかけた素うどんこそ相応しい。
 賀正が訪れ去り、春の息吹が芽生え始めた4月、神がまた地に降り立ちメディアを通して説法をした。今回の説法は貧富均衡に対するものだったが、神は博識でエリートなので私の知力では理解できず、内容は全く覚えてはいないが、最後に豚肉は食べてもよいものだと付け加えたその言葉だけはしっかりと胸に刻みつけられた。果たして豚肉は市場に並べられることにあいなったのである。
 しかし私は、神が私を見ていてくれたなどという自意識過剰なことを思ったわけではないし、思いたくもない。結局、神が豚肉を食べていいといったところで、もう私には豚肉を食べる気持ちは萎えてしまっていたのだから。もう、私は肉うどんを今後一切たべることはないだろう。
 今日も私は労働に勤しんでいる。そろそろ害虫が衣服にしがみつく時節だ。悪臭があちこちに立ち込め、黒煙さえ立っている。金属片を一輪車に積み込む、腰が痛む。本日の賃金は日給にして1万円もない。
 神様、神様なんていねぇよ。
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