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自殺サークル

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 自分の事をどう名乗るべきだろうと考え、そしてたまたま見ていたテレビに出てきた芸能人から適当に名前を借りる事にした。好きなアーティストから取ってもいいとも思ったが、逆に好きだからその名前を使いたくないな、とも思ったのであまり知らないその日本人ではない芸能人の名前はちょうどいいとも思える。
 携帯電話を弄る。ネットに接続しており、今表示している掲示板のサイトを何度か更新しながらじっと見つめていた。そうしながらたまに書き込みを行う。そうやって偶然を狙わなければ携帯電話がパソコンのレスポンスに勝つのは到底無理だからだ。
 どれくらいそうしていただろうか。
 それはとても待ちわびたような気もしたし、唐突過ぎてあっという間だった気もしたが、数分おきの書き込みを行い、ページが更新された時、それは表示された。
 ――一万円で願いをかなえるよ、いつものようにこの書き込みの次に行われた書き込みをした者にその権利を与える。
 あ、と小さく呟いた。
 きっと自分は運がいい。
 その次の書き込みは間違いなく自分のものだった。うまくいく可能性は殆どないだろうと思っていたが、どうやら偶然は自分に味方をしてくれたらしい。
 数々の罵声や愚痴などが書き込まれる中、再び彼からの書き込みが行われる。
 ――じゃあ、君に決定だ。メールアドレスを教えてくれたらこちらからメールするよ。


「……ブラッド」
 ブラッド・ピット。
 メールを送り名前を尋ねるとそう名乗った相手のメールを見て、真耶はそのハリウッド俳優の名前を思い出した。もしくはそのまま血と表現してもよかったのかもしれないが、相手が偽名を使ってくることなど珍しくもなかったし、特に気にも留めなかった。ただこういうカタカナの偽名を使うというのは大体若者に――自分もまだ若いのだが――多く、ご大層な名前ほど会ってみると大した願い事でもないと言う事が多かったので彼は若干退屈そうにメールに再び返信する。
『ブラッドさんね。とりあえず今度会おうか。君の都合のいい日でいいよ』
 そう返信をし、返事を待っている間、もう一つ持っている携帯電話に着信音が鳴り響いた。こちらの番号を知っている者はそれほど多くはなく、彼は「仕事用」と呼んでいる。もう一つ「プライベート」用の合計三台を持っているが、一番多くなるのはこの「仕事用」で、それもあまり多くはない。そして掲示板の連絡用に使っている携帯には特に名前は付けていなかった。
「ハロー」
『マヤ、いつもそうやって適当な事言ってるんじゃないよ』
「なんだよ、チェン」
 相変わらずの発音が少々おかしい日本語を使う彼にそう返すが、用件は分かっていた。彼の機嫌があまりよくないという事も。
『分かってるでしょ!? それともまた忘れていたか!? 予定日はもう過ぎてるよ!』
「あれ、おっかしいなぁ、もう頼んでるはずなんだけど。なんか事故でもあったかな?」
 そうすっとぼけるが、向こうもそれは分かっているようで逆に逆鱗に触れてしまったようで日本語ではない言葉で、激しくまくしたててきた。そんな彼をのらりくらりと交わしながらもう一つの携帯が音を立てる。
『いつでもいい。出来たら早いほうがいいけど』
 偉く淡白なメールが帰ってきた。だがどことなく図々しさを感じさせられる内容で、真耶はチェンに軽く笑い返しながら「こちらもいつでもいい」と返すと
『じゃあ、今度の日曜日の夜がいい』
 と素早く返事が返ってくる。
 それから細かな時間や場所の指定を決め、メールがもう来なくなったところでその携帯をテーブルの上に置くと彼はベッドにごろりと転がり込んだ。
『マヤ、もうマヤとの付き合いも長いけどそれでも許せない事はある』
「はいはい、分かってるよ」
 どうせお前が許せない事なんて一つだけじゃないか、と苦笑する。とはいえそれは馬鹿にするようなものではなく、なんだか幼い子供の悪戯を見つめている親のようなものだった。真耶は彼の事を友人だ、などと思った事はないがそれなりの付き合いの中で信用はしているし、単純に言えば少々フレンドリーで、安心して取引できるビジネスパートナーだという解釈をしていた。
「確認しとくから。また明日連絡するよ。どうせいつも暇なんだろ?」
『それはお互い様だよ』
「なに言ってんだよ。こっちはそれなりに忙しい」
『嘘よくない。マヤの忙しいはただ遊んでるだけ。こっちこそ毎日ちゃんと働いてる』
「ま、確かに」
 そう頷いた所で電話の向こうからもう一度催促を受け取り、あっさり「じゃあ」と通話を切られてしまった。繰り返される電子音から耳を離し、ベッドで仰向けになり天井を見上げる。真っ白な天井を何事もなくぼんやりと見ているうちに、自分は今満たされているのだろう、などと考え、しかしそれでも今手元にないものを欲しがろうとしている自分は贅沢者なのかもしれないと思う。
 ふと昔を思い出す。彼はある日までの自分と、その日からの自分を別の人間だと思っている。
 あの日まで生きていた来生真耶は、今の自分を見てどう思うだろうか。
 きっと羨ましいと思うだろう。そして今の自分は、あの日までの自分を見てきっと、屑のような人間だと思うに違いないと彼はいつも思う。
 あの日まで自分は、自分達は幸せだった。
「ねぇ、崇。好きな人とかいないの?」
「なんだよ、突然」
「最近クラスの女の子に告白されたんでしょ? 断ったのどうしてかなって」
 そう鈴に言われた時、彼は焦りを覚えた。確かについ先日同じクラスの女子に付き合ってください、と告白されたのだが、その時曖昧に断ったものの、それでも食い下がろうとする女子に対して「好きな人がいるから」と言ってしまっていたからだ。鈴はそんな彼の動揺に気がついたようだったがその理由までは理解していないようだった。
「別に、好きじゃないのに付き合ったって相手にも悪いだろ」
 どうやら告白された事は知っているようだが、その中身まで詳しく知っているようではないのでほっと安心する。彼女は納得したのかしていないのか「ふぅん」と判断のつきかねる短い返事をして彼よりも少し先を歩いていた。その背中姿がまだ「なんで?」と言っているようで、彼は参ったなと思いながら少し歩幅を広げ彼女の隣に並ぶ。
 崇はふと思う。今「お前の事が好きで、お前と付き合いたいから断った」と言えば彼女はどんな反応をするのだろう。
 ちらりとその横顔をのぞき見る。正面を向いていた彼女はしばらくしてその視線に気がつくと「どうしたの?」と首を捻ってきて、彼は「いや、別に。つかそんな事聞くからちょっと困った」と返す。
「だって幼馴染が告白されたなんて聞いたらやっぱり気になるじゃない」
 それを口にした時、ほんの少し彼女が口を尖らせたような気がした。
 崇は適当に相槌をしながら、いつもと同じ距離で並んで歩く。
 彼女とはもう十数年の付き合いになる。それまでなんどかその距離が縮まったり、広がったりを繰り返しながら、最近はしばらくこの距離感を保ち続けている。
 幼馴染としての距離。
「なぁ」
「なに?」
「お前こそさ、好きな奴いないのか?」
「なによ、いきなり」
「俺だって幼馴染のそういうの気になったりする事もある」
「内緒」
 なぁ、その距離を俺はもうちょっと、いや、多分大分縮めたいんだよ。お前分かってるのかな。俺、本当はお前俺の気持ち分かってるんじゃないかな、とか、お前も俺の事好きなんじゃないかなって思うんだ。もしそうだったらどれだけ幸せだろうか。なぁ、どうなんだろうな。
 そんな風に思いながら彼は彼女と並んで歩いていた。
 結局彼が彼女の想いを知るのは、彼女が部屋で手首を切り、遺書とは別に自分宛へと書かれていた手紙が、逝って数日後家へと届けられた時だった。
 その死者からの手紙を彼は自室で何度も読み返し、そして止まる事のない涙を流した。数日間起きては廃人のように部屋で放心状態のまま過ごし夜になれば眠りに落ち、その最中で思い出したように再び手紙を手にしてはその度に嗚咽をこぼした。
 そして、その涙が枯れ落ち、失われていた意識が蘇ってきた時、彼は、自分も死ぬ事を決めた。
(……もうすぐ会える)
 崇はそう小さく呟きながら雑踏の只中を一人で歩いていた。
 時折人波に押され、誰かの肩とぶつかりそうになるところを彼はするりと交わす。と言うよりも彼の異様な雰囲気に通行人はあまり近づこうとしないようにしているようだった。彼は引きずるような足取りで目的の場所へと向かう。
 彼の目にはなにも映っていない。耳になにも届かない。景色も、人の姿も、感情も。人声も、雑音も、鳴り響く歌も。
 ただ彼の脳裏に残っているのは、鈴と言う幼馴染の少女だけで、そしてあるのはこの世界のどこにもいない彼女がいる場所へと自分も逝こうとしている事だけだ。
(もうすぐだ、きっと、もうすぐ、鈴に会える)
 そこに行くための道筋は、もう出来上がろうとしている。
 彼は約束の場所に辿り着くと、雑踏から抜け出した。ただ目印としてはわかりやすいからと言う理由で指定されたビルにはもう相手は来ていてこちらよりも早く気がついたようで、彼女は崇へと向かって大きく手を振った。
 傍目からするとそれはデートの待ち合わせの時間に少し遅れた彼氏がやってきた事を喜んでいるような仕草にも見える。そんな風に勘違いしてしまいそうになるような明るい素振りで、神楽直子はそこに立っていた。
28, 27

  

 直子は微笑みながら「こんばんは」と声をかけたが、返ってきた返事はとても短いもので、あまり会話をする必要はなさそうだと判断すると「じゃ、行こうか」と促すと先に歩き出した。数歩離れた距離で彼がついてくる。
 二人は特に会話をする事なくただ行き先が同じだけで他人のような距離感を保っていたが、ふと崇が「どこにいくんだ?」と尋ねた。直子は無言に退屈を感じていたので話しかけられた事に内心喜びながら振り返ると、彼の隣にわざわざ並ぶ。
「喫茶店。もう少し行ったら着くところだよ、って行っても私も初めて行くんだけどね」
「喫茶店?」
「そう」
 そんなところで一体なにをするんだ? と尋ねようと思ったが黙っておく事にした。
(どうせする事なんて死ぬ事しかないんだ)
 それ以上尋ねる事はせず彼女の言うとおり程なくしてその喫茶店に辿り着いた。彼女がドアを開け店内へと入る。落ち着いた雰囲気だがインテリアや装飾品に気を使っているらしく明るい内装で、二人に気がついた店員が「いらっしゃいませ、お二人様ですか?」と笑顔を振りまいてきた。
「えっと、待ち合わせなんですけど」
「はい、お名前など分かりますか?」
 そうやり取りしている二人の姿を見ながら崇は店内の様子を伺っていた。そこそこ人気があるらしく、客の姿はそれなりに見られた。
 今の自分がこんな状態でなければこういった店にやってくるのも悪くないのかもしれないが、今はひたすらそぐわないと言う思いがまとわりつく。このような穏やかさや華やかさは今の自分とは正反対に属するもので、そこに今自分がいる事に違和感ばかり覚えてしまう。
「崇君、こっち」
「ああ」
 彼女が手招きをし、誘われるままそちらへと歩みだす。そして辿り着いた場所にある少々広めのテーブルが置かれた席に座っていた三人がこちらを省みた。その視線に観察されているようで崇は不快感を感じたが直子が「こんばんは、amiです」と声をかけると、どうやら自分達のところにやってきたのかどうかを見ていただけのようであり、三人はふと緊張を解くように穏やかな表情になった。
「はじめまして。呼び方はあみさんでいいのかな」
「あ、直子でいいです。そっち慣れないし」
「直子さんね。あ、どうぞ、座って。君も」
 そう二人を促したのは堂本と言う中年のサラリーマン風の男性だった。直子が礼を言いながら座りその隣を引き、崇に座るように示す。
 座りながらその三人を観察する。先ほどのくたびれたサラリーマン風の男がこの面子の中で中心のようだ。残りの二人は自分達よりも多少年上のようだが、それでも若い男女だった。目が合うと男のほうが「こんばんは」と声をかけてくる。落ち着いた声だったが、どことなく生気が感じられず挨拶を返すと彼は軽くだけ頷くと再び視線を逸らした。
「もう皆揃ったんですか?」
「いや、もう一人来るはずだよ、ちゃんと来ればだけどね」
 直子が堂本にそう尋ねると彼は苦笑交じりに答えた。待っている間になにか飲めばいいとメニューを渡され、直子は紅茶を頼み、崇はコーヒーを注文し、そうやって飲んでいる間喋っていたのは専ら直子と堂本で、残りの三人はこうやって五人でいるのに、まるで一人でやってきているようだったが、それを(一体なにをやっているのだろう)と苦痛に感じているのは崇だけで、その苦痛と反比例してコーヒーの量が半分を過ぎる頃になって、最後の一人はようやく現れる事になった。
 そいつは喫茶店に入ってくると、店員が近づくよりも早くこちらを認めると迷う事無くこのテーブルへとやってきた。その行動に全員がはっとして彼へと視線を向ける。そしてその姿を認めた時、堂本が「……君か」としかめ面をしながら呟いた。
「あぁ、堂本さん、久しぶり。まだ生きてたんだ」
「それは君もじゃないか」
「どうも運が悪くて」
「運が悪いのはしょうがないと思うけど、他人まで巻き込まなくてもいいんじゃないかい?」
「それは俺にはどうしようもないでしょう?」
 そこまで話したところで、他の面子がなんの話をしているのだろう、と見られている事に気がつくと彼はいったん会話を中断し、軽薄そうな笑みを浮かべながら「どうも」と言いながら空いていた椅子に座る。
「はじめまして。と言っても堂本さんとは二度目なんだけどね。桐嶋です」
 桐嶋鶫はやってきたウエイトレスに「コーヒー」と言い、彼女はかしこまりました、と伝票に書きながら内心で首をかしげる。
(オフ会ってやつかしら?)
 先ほどからの様子を見ているとどうやら全員が初対面のようであった。年も身なりもバラバラだし。なら、なぜ、あの男はすぐにその集団が自分の目当ての者達だと気がついたのだろう。知り合いがいたようだったがそれに気がついたのはそこにやってきてからだったし……。だがその思考は再び声をかけられたことですぐに奥底へと沈んでいく事になり、彼女は再び営業用の微笑を浮かべる。
 彼、桐嶋鶫は別名を持つ。
 死ねない男。
 彼は今まで十数回の自殺未遂を繰り返し、元々は一人で行っていたそれをこうやって集団で行うようになり、そうやっていく中でいつの頃からか自然と一目見ただけで、他人の中にある死への渇望を敏感に読み取ることが出来るようになっていた。
 そして、彼に関わった内の何割かは、彼に引きずられるように、死ぬ事に失敗する。
「堂本さん、前の……誰だったかな、カタカナで名乗ってた奴」
「パラノイア?」
「そう、あいつ。どうなったの? 自殺、ちゃんとしたの?」
「詳しくは知らないけど、噂ではまだ生きてるらしい」
「あぁ、そう」
 彼はそれに楽しそうに笑うと、まだお互いの自己紹介すら済んでいない面子をぐるりと見渡すと、やってきたコーヒーを持ち上げ、口元の辺りでぐるりと回しながら「じゃあ、今度は」と言いその手を止めた。
「ちゃんと、死なないとね、皆で」
 ここに集まった、皆で。
 自殺サイトの掲示板から始まり、死ぬ事を願い、集ったこのメンバーで。
 皆はどうやって死にたい?
 そう堂本が全員に尋ねた時、崇はそんな事はどうでもよく下らない事を聞くとすら思えたが、それに一番真面目に答えていたのは誰でもない直子だった。
「私、綺麗に死にたいんです」
「綺麗に? 例えば?」
「苦しそうな表情で死んじゃうようなのは嫌なんです。他の人が死んだ私を見てそんなに綺麗に死ねるなんて羨ましいって思われるような、そんな眠るような死に方がしたいんです」
「麻酔でも打とうか?」
「あ、いいですね、それ」
 鶫が笑いながら言い、直子も笑い返した。実際のところ、彼女はどんなに苦痛を感じてもいいから、安らかな姿で死にたいのだが、それは自殺と言う観点からはどうやら容易い事ではないようだった。とは言えそれは一人で行う場合であり、誰かの手を借りてなら不可能ではないようだった。
「私が眠っている間に窒息させるとか」
「それ自殺って言うか?」
「確かに殺人だね」
 堂本がそう苦笑し「君達は?」と崇を含めた三人に尋ねてきた。
「……僕は特にないです」
「私も、なんでもいいです」
「そう、えっと崇くんだったかな、君は?」
 先ほど自己紹介を済ませたが、崇はぼんやりとしていて、はっきりと全員の名前を覚えていなかった。彼の中で中年の男でしかない堂本に見つめられ、崇はその質問に「俺も、別に、なんでもいいです」とぼんやりとしたまま返事をする。
 そんなの、どうでもいいんじゃないのか?
 彼はそう言いたくてしょうがない。
 死ねば一緒じゃないか。残る奴らの事なんてどうでもいいし、どう思われたって関係ないじゃないか。どうしてそんなものに拘ろうとする。
 理解出来ない。
 それは彼にとって死は入り口でしかないからだ。彼が見ているのはその先であり、その先に辿り着いてからこそ彼が手にしたいものがあるからであり、その死、それ自体が到達点と見ている人達の思考を理解出来ないのは当然だった。
 彼らにとって死は、人生の最後であり、そして自我の最後だ。その自我が囁く。最後くらい好きに生きよう。最後くらい好きなやり方で、死のう、と。
 それきり黙りこんだ崇を誰も気にする素振りはなかった。鶫もそれは同じでこうやって集まっても個人の事などどうでもよく、自分が気にいる死に方が出来ればいいと思っていた。彼は何度自殺をしようとしても失敗してしまうのは、きっと自分にはもっと違う死に方が用意されていて、その死に方以外で死ぬ事は許されないのだ、と今は思っている。
「僕も楽な感じで死にたいんだよね。あまり苦しいのは嫌だし」
「あの、堂本さんと桐嶋さんって前に自殺、しようとしたんですか?」
「うん、まぁ、そうだね。失敗したけどね」
 直子の質問に堂本はふうと溜め息を零しながら答え、ちらりと鶫を見た。
「なんで失敗したんですか?」
 堂本が苦い顔をしたため「その時もこんなふうにどうやって死のうか話し合ってね、練炭自殺をしようって事になった」と鶫が引き継いだ。
「ちょうどその中の一人がワンボックスカーを持っていてね、その車の中で死のうって言う事になった。皆で窓ガラスの隙間をなくすためにテープを張ったりして、さぁ、準備出来た、死のうか、って言う時に地震が起きた」
「地震ですか?」
「そう。そんなに大した揺れじゃなかったけど、やっぱり皆バランスを失ってね。ぐらっと来た。その中の一人がね、ガラスにぶつかったんだ、どこが当たったのか本人に後で聞いてみた。分からなかったそうだけど、荷物を持っていたしそれがあたってしまったんだろう。ガラスが割れてしまっていたんだ。あれじゃどうやったって練炭自殺なんて出来たもんじゃない」
「へぇ、凄い偶然ですね」
「……彼の場合、本当に偶然だろうかと思いたくなるけどね」
「別に俺がそうしてる訳じゃないよ」
 そう言い返され、堂本は黙らざるを得なかった。確かに車のガラスを割ったのは彼ではないし、全くの偶然だとしか言いようがないのだが、彼にまつわる噂を聞いているとどうしても彼のせいで、周りの連中まで死に損ねているのではないだろうかと言いたくもなる。
「そんなに死に損ねてるんですか?」
「そうだね」
「最初ってどうやって死のうとしたんですか?」
「単純に部屋で手首を切った。風呂場に水をためて剃刀で手を切った。あぁ、これで死ねると思っていたら運悪くその時の彼女が尋ねてきちゃってね。当然彼女は合鍵を持っていたし部屋に入ってきて風呂で俺を見つけてしまって救急車を呼んだよ。俺もそうなってまで手を切り続ける訳にもいかないんで病院に行って手当てされて、後日彼女についていけないと振られた」
「うわぁ、なんか酷い。で、ずっとそんな感じなんですか?」
「そう」
「いっその事飛び降り自殺でもしようとか思いません?」
「いや、そんな死に方は勘弁して欲しいな。色んな死に方してきたけど、その時その時死にたいやり方があってね、それ以外ではちょっと死にたくないな」
「あぁ、やっぱりそうですよね」
(なにがそうですよね、だ)
 崇は眩暈を覚えるような会話にも、まるで世間話をするように相槌を打つ直子に心底呆れていた。
 鶫はそんな彼の様子に気がついていたが敢えて声をかける事はしなかった。残りの二人はその時の情景を思い描いたのか若干青い顔をしており、彼はそういった反応を自然なものだと思う。
 そういう事を、自分たちはこれからするのだ、と言う事を強く意識している者の反応だ。
 それに比べると崇の反応はそうではなかった。たまにこういうのがいる。自分も死にたがりのくせに、他人の死について無関心で、下らないと内心で思う者。
 そして、そういった者がどういう結末を迎えるかと言う事も、彼は大体知っている。
 それを彼は口にする事無く、話を本筋へと戻していった。そうは言っても専ら話していたのは堂本と直子で、それにたまに鶫が口を挟む程度で、残りの三人と言えば進んでいく話の中で問われ、それに頷くという程度だけだった。堂本はその様子を見て、長く話し込んでもあまり意味はなさそうだと判断する。直子はよく口を開きはするものの言っているのは、いかに綺麗に死ねるか、と言う事ばかりだし、鶫はどうもどんな方法でも特に構わないらしいようで、残りの三人に関しては聞くだけ無駄なようだった。
「じゃあ、このくらいにしておこうか」
 そう話を締めくくる事にしてぐるりと全体を見回すと、全員がふうと溜め息を一つ零した。たいして熱を持った討論をしていたわけではないのだが、それなりに精神的に磨耗していたようだった。それを彼は感じ取ると、ふと笑顔を作り「じゃあ、メールで言っておいたことなんだけど」と伝票を取ると立ち上がる。
「これからカラオケに行くよ。支払いは全部僕がするからね」
「……カラオケ?」
 崇がなにを言っているんだ、こいつは? と今にも言い出しそうな顔で呟き、堂本は「うん、そうだよ。君とは直接メールしてないけど直子さんには伝えておいたはずなんだけど」と何事もないそぶりで答える。
 直子の方を見ると、彼女はぺろりと舌を出し、ウインクをして見せた。言えばどうせ断るだろうと判断して黙っていたのだが、どうやらそれは正解だったようだ。彼の怒りと戸惑いが交じり合ったような表情にしばし見つめられたが、ここまで来てはやはり「帰ります」とは言い出せなかったようで、他の面々が立ち上がると、苦渋に満ちた表情を浮かべるもののその集団から離れるような事はなかった。
(カラオケかぁ)
 直子は支払いをしている堂本の背中を見つめながらメールの内容を思い出す。彼はカラオケが元々好きで、死ぬ前に、一緒に自殺をするこのメンバーとカラオケに行きたいのだと伝えてきた。もし嫌だったらその時は諦めるとも言っていたがこの様子だと反対する者はいなかったが、どちらかと言うと歌いたい、と言うよりはこの集団に加わるにはそうするしかないと諦めたから、と言う方が正しいように思えた。
 堂本が「もう予約しているから」と言ったカラオケ店は歩いてもそう離れた距離ではなく、店に入ると、すぐに部屋へと案内された。堂本と鶫は酒を飲みだしたが、他の四人はドリンクバーを利用する事にし、飲み物が揃ったところで乾杯をするとどうもとがリモコンを弄りだし、曲が流れ出した。直子からすると少々古いと思えたその歌だが、それなりに明るい曲調で彼は意気揚々としてそれを歌いきると、隣にいた直子に「次どうぞ」とマイクを渡した。直子は軽く笑いながら「まだ曲入れてないです」と言いながら先ほどの彼と同じようにリモコンを手に取り、最近CMでよく耳にするラブソングを入れる事にした。
 その様子を崇は憤然としながら、一体もうすぐ死ぬと言うのに、そうやって死を目前にした連中しかいないと言うのになぜ、そんなにも明るい歌なんて歌う気になるのだろう、と理解出来ずにいた。
(下らない)
 それでもこれが終われば、また数日後にこの面子が集まり、その時こそこの世から消え去ることが出来るのだと思い、今は我慢する事にする。
 隣では自分と同じように、静かに黙り込む若い男の姿がある。彼はここに来ても必要以上のことは喋らず、鎮座していたのだが、「すいません、トイレ行ってきます」と断りを入れると、この騒がしい部屋から出て行った。


「……ふう」
 騒がしい部屋から脱出するように出てきたところで、浅井渉は脱力感に包まれ溜め息を吐いた。
 言われるがままにやってきたカラオケだが、たとえ自殺と言う共通の目的があるとしても、やはり慣れない事はするものではない、と後悔を覚えた。
(別にトイレなんて行きたくもないけど)
 しばらく時間を潰そうかと廊下の壁にもたれながらぼんやりと考えていたところだったが、そうしていると廊下の角を曲がってやってきた女性がこちらをみて首を傾げた。
「どうしたの?」
「あぁ、久須美さん」
 そう声をかけてきた久須美蓮に彼は苦笑を返す。喫茶店で隣に座っていた時から自分と似たように周囲にうまく溶け込めていない様子だった彼女には、年も近い事もあり、彼は安心して話す事が出来た。
「ちょっと、カラオケとか苦手で」
「分かる、私も苦手」
「そうなの?」
「うん。けど、堂本さんが行きたいって言っていたからしょうがないかなってね」
「やっぱり、僕もそうなんだ」
 どちらからともなく、笑い合うとせっかくだからドリンクでも汲みに行こうと二人でドリンクバーまで歩く事にする。
「ちょっと、違うよね」
「なにが?」
 彼女の呟きにそう尋ねる。
「死にたかっただけだから、こんな事別にしたくもないのにね」
「そうだね」
「死ぬ前まで誰かに気を使うのってめんどくさいね」
「うん」
「私こんなふうに集まる人達って、私と一緒みたいな人達ばかりだとか期待してたのかもしれない」
「それは、僕もそうだよ。もっと静か、と言うか――変な言い方になるけど――暗いイメージを持ってた」
「そっちのほうがよかったな」
 コーナーに辿り着き、なにを飲もうかと迷いながら、ホットドリンクを見ている彼女にコップを一つ手渡す。
「どうして、皆で自殺しようなんて考えたのかしら、私」
「さぁ、なんでだろう」
「一緒のことを考えてる人なら、私の事を理解してくれるなんて思ったのかな」
 ボタンを押し、機械音が静かに鳴ってから、ココアがグラスへと注がれ始める。
「そんな訳ないって、気がつくの、ちょっと遅かったね」
「久須美さんはどうして死のうと思ったの?」
「……あのね」
 ココアが満たされ、音が止まる。
 彼女はそのコップを取り、彼のほうをちらりと見る。渉はそれに促されるようにウーロン茶のボタンを押すと、それはすぐに満たされる。
「色々あるの」
「うん」
「ちょっと長い話」
「うん」
「今から話し出すと部屋の人達がおかしく思うだろうから」
「だろうから?」
「今度、聞いてもらってもいい?」
 蓮が携帯電話を取り出し、十一桁の番号を口にする。「どこの携帯使ってるの?」と尋ねられ渉は「ソフトバンク」と言うと「同じだ」と軽く笑った。彼もポケットから携帯電話を取り出し、先ほどの番号にかけると彼女の携帯が音を立てる。それを確認すると彼女は「登録しておくね」と言いながら部屋へと戻るため再び歩き出した。渉もそれに続き隣に並んだところで、周囲に誰もいない事を確認してから、ともすれば廊下に設置されているスピーカーから流れる音楽にかき消されそうな声で蓮は囁いた。
「君にだけに出会えてたら、あの人達と会う事なんてなかったのにね」
「僕も、そう思うよ」
 だって、僕にも、君にも、こんな時くらい、いや、こんな時だからこそ、隣人を選ぶ権利くらい、持っていてもいいはずだから。
30, 29

  

「悪かったわよ」
 カラオケが終わり、解散し二人で帰る途中に直子がそう言ってきたが、崇は先ほどから変わらず憮然とした表情のまま「別に」と短い返事を返しただけだった。直子はその様子にやれやれと溜め息を零したが、ふと話しかけてみるとそれに対しての返事自体は返してくれるのでもう気にしない事にした。
 実際崇にとってどうでもよかったカラオケはこうやって終わってしまえば今になって引きずるような事ではなかったし、それよりも堂本の「じゃあ、皆の予定に合わせて結構は二週間後の日曜日だね」と言う台詞の事を思い返していた。
 あと、二週間でこの命は終わる。
 その事を彼は考える。そうやって日取りが決まっても彼の中にまだリアリティはなかった。なんとなくあと二週間で全てが終わるのだ、とも思ったが、その間自分はどうやって過ごすのだろう、と考えたがこれと言ったことは思い浮かばなかった。
 ちらりと隣に並んでいる直子を見る。
 こうやって全てが決まった事によって、崇はふとなぜ彼女は自殺をしようとしているのだろう、と今まで考えもしなかった疑問がわいた。
「なぁ」
「なに?」
「お前、どうして死にたいんだ?」
「どしたの、いきなり」
「俺が死にたい理由は話したけど、お前が死にたい理由を俺は聞いてない」
「そういえばそうだね」と言うと、直子は少し歩調を速めた。彼女から伸びる長い影の足がぐんと広がり、それが彼女をどこかに連れて行きそうに思えた。影の手が横に向かって伸び、実体を持つ手の方は空に向かって軽く広げられ、視線がそれを追うように上へと向かう。
「世界は美しいでしょうか、醜いでしょうか」
「知らない」
「多分、美しい」
 多分、そしてきっと。彼女はそう思う。
「私はなにも知らないよ。世界の仕組みとか、存在する境界線とか、人工的だったり、自然的な風景とか、雑踏は単なる集団なのか、それともやっぱり一人一人にちゃんと見入るものがあるのか、実際のところ、そういうのどうでもいいのよね」
 くるりとその場で踊るように、彼女は一回転して見せた。
「でも世界は美しいから、私も美しくなりたい。美しく生きて、美しく死にたい。醜く生きて、醜く死ぬなんてまっぴらごめんじゃない。だから、自分で自分の死に方を選んで実行できる内に死んじゃいたいの」
「じゃあ、今すぐじゃなくてもいいって事か?」
「いいよ」
 彼女はあっさりと肯定して見せた。
「でも、今出来るなら今でもいいんじゃない?」
 そう言って肩をすくめる。
 崇はなんと言っていいか分からず「お前、馬鹿だな」と言うのが精一杯で、それにすら「ま、そうかもね」と軽く受け流されるともう言える事はなく、馬鹿は、馬鹿な事を聞いた自分だ、と彼はそう思う事でしか納得を得る事は出来そうになかった。彼女は「満足した?」と問いかけるように首を傾げると、再び前を向きしっかりとした足取りで進み始める。
 それを見つめながら、崇は彼女はきっとどこか狂っているのではないだろうか、と勘繰ってしまう。今まで自分は今の自分自身を殆ど気が狂っていると思っていたのだが、そんな自分よりも彼女はおかしいのではないのだろうか。彼女の明るさは決して仮初ではないが、それは彼女の本質ではなく、彼女の根底にあるのは誰よりも深い漆黒に包まれていて、それが彼女の中のどこかでねじくれて、あのような明るい彼女を存在させているのではないのだろうか。
「崇君はとても美しいと思うよ」
「俺が?」
「鈴ちゃんのために生きて、鈴ちゃんのために死ぬんでしょう?」
「…………」
「誰かのために生き続けて、そのまま終わることが出来る命ってきっととても綺麗だと思うわ」
 それは喜ぶべき台詞なのだろうか、悲しむべき台詞なのだろうか。
 答えを確かめる術はなかった。それよりも早く彼女が「あ」と声を出し指差したためだ。そこには付近にあまり明かりがなくぽつんと取り残された蛍のように光を放っているコンビニが建っていて、直子が「ちょっと寄っていこうよ」と崇の返事を聞く前にそちらへと歩き出していた。
 断る間もなく、二人は店内へと入る。彼女はしばらく雑誌コーナーを見回し、その間崇はしばらく店内をうろうろとし、ドリンクコーナーで立ち止まると一本手に取った。
「ねぇ」
「なんだ?」
「それ買うの?」
「ああ」
「ふーん」
 近くにやってきた彼女がそう言うと、店内をきょろきょろと見回した。何事だろうと彼もその視線を追いかける。とは言え特に目ぼしいものはなく、目に映ったのはレジに立っている若い二人の店員だけだった。客は自分達以外誰もいない。
 ふと店員の一人と目が合った。その店員は視線を向けられている事に気がついたから見ただけ、と言う感じで数秒視線を合わせたもののすぐに目を逸らした。真面目そうな店員だが、なんだかふわふわとしていて掴みどころのない印象を受けた。その店員は、なんだか緩慢で酷く落ち着きがない様子のもう一人の店員に呼ばれて、そちらの方へと歩き出していく。
「ねぇ」
「なんだよ」
「万引きしてみない?」
「なんだって?」
「どうせつかまらないって。ドア出たら走って逃げようよ」
「バイト終わったら清春君とご飯食べに行く事になってるんだけどよかったら山田くんもどう?」
 春日が、そう彼を誘った事に、特に深い意味はなかったのだが、酷く狼狽するその様子に迷惑だっただろうかと思い「なにか予定があるなら無理には言わないんだけど」と付け足した。
 太郎はそれが彼の気遣いなのだと分かりつつも、動揺した様子を見せる。少なくとも彼は内心で押し殺そうとはしたのだが、誰が見てもその姿は不自然だった。
(……誘ってくれるのは嬉しいんだけれど)
 太郎は彼をちらりと見る。こちらの考えを分かっているのかいないのか、太郎にはさっぱり彼がなにを考えているのか分からない様子でただなにか言うのを待っていた。太郎は彼には仕事を丁寧に教えてもらったり、人当たりも穏やかなので好感を抱いているのだが、それはあくまで職場の同僚としての見方であり、こことは違う場所で彼と今と同じように向き合うと言う事がどんなものか想像すら出来ずにいる。
「須藤君と二人で行くんですか?」
「そうだね」
「須藤君、僕なんかが来たら嫌がりませんかね?」
 その少しずるい言い方に、さぁ、どうだろう、と春日は首をかしげた。
 春日は太郎が清春の事を少し苦手に感じていると言う事は仕事の様子などからなんとなく感じ取っていた。それでもお互いに最初の頃よりは幾分マシになったようにも見えるし――お互い性格は正反対だが――、もう少し付き合いを重ねればある程度親しくなることくらいは出来るかもしれないとも思う。ある程度と言うのは、彼らが二人でプライベートを過ごすような事はきっとこれからないだろうが、こうやって職場の集まり程度でなら会話を行えるだろうという程度だが、それでもそれを円滑な人間関係だと言える事が出来ると春日は思う。休憩中で今は裏にいる清春も、あとで太郎が来ると言う事を言えば驚きはするだろうが、殊更に嫌がると言う反応はきっとしないだろう。
「来る事に問題はないと思うけどね」
「そうですか」
「まぁ、今日が無理でも、また機会はあるかもしれない」
「……そうですね」
 彼は一体どうしたいのだろうか。
 太郎は彼と話している時、ふとそう思う事がある。
 自分もあまり自分の気持ちを素直に表現するのは上手ではない。それは自分がいつも相手の顔色を伺ったり、自分に対する自信のなさから自分の意思を貫く事が出来ないからだ。そのため、学生だった時はいつも誰かに振り回され、情けないと嘲笑を浴びせられる事も珍しい事ではなかったし、今だって言われた事に素直に頷いてばかりだ。そんな時、彼はいつも自分に「こんなのじゃない、僕が望む日常はこんなものじゃない、僕が望むのは――」と言う願望が生まれるのだが、それはいつも形になる事無く消え失せていた。唯一自分の意思に従う事が出来ていたのは高校を辞め引きこもっていた時期だが、それも望んでそうなった訳ではなかったし、不自由の中にある自由など結局彼が以前から感じている圧迫感から開放させてくれる訳もなかった。
 なら、彼はどうなのだろうか。
 彼も自分と同じように殆ど自己主張をする事がない。こうやって自分を誘っているのも彼が来て欲しい、と思っている訳でもないし、実際に来ないなら来ないでいいとあっさり突き放そうとしている。今回の事だけではなく、彼はいつも誰かの意見の中でだけ存在し、自己主張をしている姿と言うものを太郎は一度も見た事がない。だがそれは自分のように押さえつけられているからと言うのはまた違う。
 それをなんと言えばうまく表現できるのかは分からない。ただ、太郎の中で曖昧なまま表現してしまえば、彼は全てがどうでもいい、と言うふうに思っているとしか思えない。自分のように自己主張を出来ず、本当はしたいという思いとは正反対で、自己主張が出来るとしても、そうする事は彼の中でひたすら面倒くさい、勝手にやってくれ、僕はどうでもいい、そう言っているようだった。
「あの」
「うん、どうする?」
 春日が来るのか来ないのかを確認するように促す。
 だが太郎が言おうとしたのはその事ではなかった。
 辛く、ないんですか?
 圧迫感を、感じたりしないんですか?
 本当の自分を誰にも知ってもらえない事って悲しくないですか?
「春日さんは……」
 そう口を開こうとしたが、その時、唐突に鳴り響いた足音にはっとし、しかしそれがなんなのか分からず太郎はのろのろとした動作であたりを見回そうとした。そして彼がそれがなんなのかを気がついた時には春日がレジから走るように出て行こうとしているその背中と、更にその向こうでも、自動ドアへと向かって二人の男女が走っており、その手に商品が抱えられているのを目撃し、太郎ははっと(万引きだ!)と目を見開いたが、その体は呆然としたまま微動だにしなかった。
 まるでスローモーションのように三人が動いている。あまりに唐突に起こったそれは太郎の思考をぷっつりと遮ってしまい、映画を見ているようだ、と場違いな発想を彼は思い浮かべた。
 二人の姿が自動ドアへと近づく。ドアに近い場所に自分がいたため、それをよけるように走り出した春日は寸でのところで追いつけそうになかった。
「…………」
 逃げられる。
 そう太郎が諦めに近い確信を抱いた瞬間だった。
「きゃ!」
 開いた自動ドアにその身を投げ出そうとしていた少女が、派手に悲鳴と、ドン、と言う音を立て転がり、再び店内へと戻ってきた。それに気がついたもう一人の少年が慌てて止まろうとするが勢いがよすぎたため、なんとか彼女をよけたもののバランスを失いこちらも地面に手をついた。
「…………」
 太郎が以前無言のままその様子を見ていると、春日がまず少年の腕を取った。彼は万引きをしようとした二人にも怒っている様子はなく「立てる?」と言い引き起こしていた。衝撃に目を回していたらしい彼女も起き上がらせると彼は淡々と「万引きだね」と言い店長に言われている通り裏へと連れて行こうとした。
「なに、どしたの?」
 物音を聞きつけたらしく、清春が休憩室から顔を出してくる。彼は入り口のあたりで固まっている集団を見て「あれ?」と声を上げた。
「……崇じゃん」
「……清春」
「なにやってんだよ、お前」
 清春は彼を見て、無意識のうちに唾を飲み込んでいた。以前は同じ高校の生徒だったが、ある日、幼馴染を学校でレイプされ、その相手をその場で半殺しにし、しかし彼女はそのために自殺してしまい、そのまま退学してしまった男。
 当時、彼には同情的な意見が多かった。誰もが自分がもし同じ立場なら同じ行動を取るだろうと言い、もし退学が学校側の意思ならあまりに冷淡だ、と。しかしそれはほんの一時の事で、彼が現れなくなりしばらくすると皆何事もなかったかのように以前と変わらない生活へと戻っていった。
「知り合いなの?」
 春日が二人を見比べてそう清春に尋ねてくる。それに「……はい」と苦渋の表情をしながら答える。
 彼の記憶の限り、崇は万引きなどするような人間ではなかった筈だ。崇へと再び視線を向ける。
 ぞっとするような眼差しに射抜かれる。だがそれは一瞬で崇は清春から逃げるように視線を逸らした。それは怯えているようで、ひどく落ち着きがなく清春から見ても異様なほど挙動不審として見えた。
「あいたぁ」
 そんな中、自分が万引きをして捕まったという事を理解しているのか分からない様子で、直子がそう声を上げた。どうやらまだ目を回していたらしい。清春は彼女も同じ高校の生徒なのだが、面識がなくそうだとは気がついていなかった。
 彼女は派手にぶつけた尻の辺りを擦りながら、自分が出て行こうとしていた自動ドアへと視線を向ける。
 その動きに腕を掴んでいた春日も同じようにそちらに視線を向けた。
「あ」
 と直子がばつの悪そうな声を出す。店内と外のちょうど境界線上あたりに立っている彼女がぶつかったその男は、まるで今目の前で起こっている事などどうでもいいのだけど、と言うような目をして彼女の方を見ていた。
「お兄ちゃん」
「やぁ、直子」
 お兄ちゃん。
 そう呼ばれた男を太郎が見た時、誰かに似ていると思ったがすぐにはそれが誰なのかと言う事は分からなかった。しかしふとそれが今の自分に近すぎたため出てこなかったのだと気がつくと、すぐにそれは確信へと変わる。
(春日さんに……そっくりだ)
「……君の妹なのか?」
「そう――久しぶりだね。また会うとは思ってもいなかった」
「……シェルダン? ヒッチコック?」
「どちらでもいいさ」
「お兄ちゃん、まだその名前使ってたの?」
「分かりやすくてね」
 誰?
 さっぱり訳の分かっていない太郎を置き去りに、それぞれがそれぞれにバラバラに視線を送っている。太郎はふと消えてしまいたい、などと意味のない事を考えた。
 今自分がここにいるのは場違いだ。いまここには連鎖する人間関係がはっきりと存在している。そして自分だけが、そこから外れており、居場所を見つけられずにいる。
 逃げ出せるなら、逃げ出したかった。
 そしてそんな自分がどうしようもなく、惨めで、恥ずかしい存在だと、彼はそんなふうに思うのだが、どうしてそんな事を思ってしまうのかと言う事すら、分からずにいた。
32, 31

  

 見逃してやってくれないすか?
 ぽつりと清春がそう呟いた。
 春日はその憂うような表情に、本当はもっと他のなにかを言おうとしているのではないだろうかとも思えたが、少なくとも彼自身はその続きを必要とも思わなかったし、それに疑問を投げかける事も、否定をする事も意味のない事だった。
「清春君がそう言うなら、僕は別に構わないけれど」
「ありがとうございます。山田さんもこの事店長には内緒にしてもらいたいんすけど」
「あ、はい、僕も二人がそう言うなら」
「え? いいの?」
 そう、春日が掴んでいた手を離した途端直子はまるでご褒美でも貰った子供のような声を暢気にあげるのを見て、清春はこの女、許されるならぶんなぐってやりたいと怒りを覚えたが、なんとか拳をぐっと握り締めこらえる。そんな彼の様子などお構いなしと言った感じで彼女はヒッチコックへと向き直って「お兄ちゃんまだあの女と住んでるの?」と何事もないように話し出した。
「そうだね」
「お兄ちゃん、もっと普通の人と付き合った方がいいよ?」
「僕にとっては彼女も普通の人だよ。それより直子も少しは反省するべきだと思うよ」
 自分の胸ほどの位置にある彼女の頭に軽く手を置くと春日の方へと向き直り財布を取り出した。
「妹が迷惑をかけてしまったね」
 見逃す事になったし、そうでなくても迷惑だなんて思わない。
 もしかするとそういった考えもヒッチコックは理解しているのかもしれない、と春日は思いながら曖昧に首を斜めに振った。
「それで済むとは思わないけど僕が料金を払うよ」
「分かった」と言い二人が持っていたドリンクを受け取るとレジへと向かう。擦違った清春はあれきり無言でじっと崇の事を見つめていた。袋は要らないと言うヒッチコックにそのまま手渡すとこちらへとやってきた直子にそれを渡し「もう帰った方がいい」と声をかけたが彼女は「久しぶりだしちょっとお話しようよ」と彼の手を取った。
「連れがいるだろう」
「いいよ、元々帰るところだったから」
「じゃあ、彼にそう伝えておいて」
 しょうがないな、と言うようにヒッチコックが答える。春日は彼もそんな困ったような顔をするのか、と思いながらとくにかける言葉も見当たらず黙っていたのだが清春が「春日さん、次休憩ですよね」と問われ「そうだね」と答えると、それを聞きとめたヒッチコックがしばらくこちらを見つめ
「よかったら君も来ないか?」
 と言った。
「僕が?」
「そう、少し付き合ってくれると嬉しい」
「面識もろくにない兄妹と僕が話す事なんてそうないと思うけど」
「妹は君みたいな人が好きなんだ」
「妹に好かれている兄です、と言いたいのかな」
 そう返すと彼は少し呆けた顔をして、その後に笑った。
「君も、冗談を言ったりするんだね」
「面白いと思われる事はそうないけどね」
「まぁ、そうだね、仲のいい兄妹だよ。よかったらどうかな」
 その誘いに答えず直子の方へと視線を向ける。彼女は一緒に万引きをしそこなった彼に「私、ちょっとお兄ちゃんとお話して帰るからここで別れよ」と切り出しており、対して彼は依然仏頂面のまま「あぁ」と短い返事を返していた。
 その彼と目が合う。
 特になにかを思うわけでもなかった。だが、それが彼の気に触れでもしたのだろうか。歯を食いしばり憎々しげな視線を向けられる。果たして視線を逸らすべきだろうか、と考えていたがそれよりも早く彼がドアへと向き直り出て行こうとする。
「崇」
 だがそこで清春が彼を呼び止めた。びくり、と彼の足が止まる。それでもこちらに振り返る事はせず固まってしまったようにその場から微動だにしなかった。
 正確に言うと動けなかった。
 足音が近づいてくる。きっと清春のものだろう、と崇は思う。
 最悪だ。
 彼は深い脱力感を感じながらただそれがやってくるのを待つだけだった。
「おい」
「…………」
 足音が止まり、すぐ傍から声が聞こえる。
「……元気か?」
「…………」
「皆、お前の事心配してたんだぜ」
「…………」
 やめろ。
「なぁ、こんな事やめろよ。お前が辛いのは分かるけど――」
 やめろ!
「お前まで駄目になってたら鈴だって――」
「うるせぇ!」
 やめろよ!
 プツリ。
 そんな音がどこかで聞こえた気がした。それはきっと、自分にしか聞こえていない。
 それはきっと、自我の切れた音。
「お前になにが分かる!? 俺のなにが分かる!? 鈴のなにが分かる!? 分かったような事言うんじゃねえ! ふざけんな! お前らなんかに……お前らなんかに……なにが、分かる」
 次第にか細くなって言ったその声を最後まで聞き取ることは出来なかった。ただ、伸ばそうとした手を振り払われ、乱暴にドアが開かれ飛び出していった彼の目元に濡れるものが浮かんでいて、それを見た時、確かに清春は一体なにを言えばいいのか分からず、振り払われ中空でさ迷っていたその手をゆっくりと、強く握り締めて俯く事しか出来なかった。
「……バッカやろう」
 全員が静まり返る。
 まだ少しドアが揺れていた。それがやがて止まる頃、春日が「清春君、休憩少しあとにずらそうか?」と気を遣ったが「いや、大丈夫っす。すんません。休憩行って下さい」と首を振った。
「分かった。少し出てくるから。山田君、頼むね」
「あ、はい」
 そこで、太郎はようやく声をだした。
 彼はどうやら店が平静を取り戻したようで安心したが、春日があの綺麗な顔をした二人と出て行く事にした事で、清春と二人きりになる事が少々不安だったがそれを言う訳にもいかず内心で溜め息を吐いた。
(……僕は、いつも流される事しか出来ない)
 どうしてだろうか。
 結局春日たちが出て行き、二人きりになってから殆ど口を開かない清春の後姿をたまに覗きながら、その理由をなんとなく彼は理解していた。
(僕は、誰にとっても、他人だ)


「お兄ちゃんに似てますね」
「僕はそう思わないけどね」
「お兄ちゃんってマゾなんです。春日さんはエスですか? エムですか?」
 彼女はよく喋った。
 コンビニを出て近くの道路沿いに置かれたベンチに彼女を真ん中にして座り、それから延々彼女の話に相槌を打ち続けていた。
 最近知り合う女は誰も彼も遠慮とか人見知りだと言うものを知らない、と春日は未成年の隣で煙草に火をつけながら吐息を零す。その動作だけでも「春日さんって指が細くて綺麗ですね」などと言ってきて適当に「ありがとう」と返していたがやがて喋りつかれたのか、先ほどヒッチコックがお金を払ったドリンクを口に運ぶと「はぁ」と呟いて空を見上げた。
「ヒッチコック」
「なんだい?」
「僕を呼び出したのは僕に直子ちゃんの相手をさせて自分は黙っていたかったのか?」
「そういう訳じゃないけど、直子は君の事多分気に入っているんだよ。嫌いな人とは口も利かないような子だから」
「そうですよ。私春日さんみたいな人タイプなんです」
「まだろくに話してもいないのに」
「人間なんて結局第一印象が全てじゃないですか? それに私よく喋る男って好きじゃないんです」
「コンビニで一緒にいた子は恋人じゃないの?」
「違いますよ。あの子はずっと昔から好きな子がいたんです。他の女の子なんて見てもいないもん」
 その言い方がふと気になり尋ね返す。
「好きな子がいたって過去形なんだね」
「はい」
 全く否定する素振りもなくあっけらかんと答える。
「じゃあ、今はもう好きじゃなくなった?」
「今も好きですよ。けどその子はもういないんです」
「いない?」
「自殺しちゃったんです。その子。レイプされてそのショックで」
 まるで何事もないように彼女はそう言った。
 そして、その言葉に春日も、ヒッチコックも、特に驚く素振りを見せる事もなかった。
「そう」
「そうなんです、私彼のそういうところ素敵だなって思うんです。死んでもずっと愛し続けたり、愛され続けるなんてロマンティックじゃないですか?」
「確かに」
「本人は、彼女はレイプなんてされてなくて、処女のまま死んだって思い込んでたりするし、そういうのってとてもピュア」
「きっと受け入れられないんだよ」
 ヒッチコックがそう呟き、同じようにパーラメントを一本取り出し火をつけた。
「そうなの。それでね、私彼を誘ってみたの」
「誘った?」
「はい」
「なにに?」
 一体なにに?
 彼女がこちらの方を見たため、春日もそちらへと向き直った。
 そして彼女が口を開くよりも早く、きっとそこから出てくるものはろくでもないものだ、とその瞳を見て理解できた。
 その瞳には、狂気が宿っている。無邪気で、明るくて、無垢で、透明で、純粋で、そしてロマンティックもピュアもない、狂気。
「一緒に死ぬ事にしたんです。私達」
「恐ろしい事を、平然と言うんだね」
「だって春日さん、そうやって平然と聞き入れてくれるでしょ?」
 彼女の眉がくいっと動いた。それに見惚れた訳でもないのだが、口に咥えていたタバコの灰を落とし損ね、白い灰が太腿の辺りに舞い落ちた。
「例えば私達がこれから仲良くなったとしても、私が死にたいと言えば春日さんは止めもしない。そうでしょ?」
「そうだね」
「お兄ちゃんもそうだもんね」
「まあね」
 ヒッチコックはこちらを見る事もせず淡々とそう答えた。
 狂っている。
 その単語が思い浮かぶのだが、その言葉のもつ意味とは一体なんだったろうか、と頭の中で反芻する。
 そして、意味がない事に気がつく。
 それを考える事に。
「ねぇ、春日さん」
「なに?」
「私、世間的にはきっと狂ってるんですよ」
「君の中では正常だけどね」
「そうです」と彼女は嬉しそうに頷き、
「春日さんも、きっと狂ってるんですよ」
 と親しみを込めた口調で、そう告げられた。
 だけど、それになんの問題があるの?
 そんな事をこの三人が口にする訳もなく――
 そして他の誰かがこの三人に、正常だの、常識だの、倫理だの、観念だの、道徳だの、真実だの問うたところで――


 ――それに、なんの、問題があるの?
「あれで直子は人生を楽しんでいるんだよ」
「他の誰も理解は出来ないだろうけどね」
「育った家庭環境が悪かったのかもしれない。最近はもうやめたようだけど以前の直子は僕とは逆に恋人を殴る事で人生に充実を見出していた。それは彼女が嫌いな両親と同じで、彼女は二人の事をずっと憎んでいたけど、当時の彼女はやはり誰かを殴る事に快楽を感じていたのは確かだ。血は争えない、と言うのも少し違う気がするね。両親は喜ぶために僕達を殴っていた訳ではないから」
「むしろ両親は君の彼女の同類だろう」
「そうだろうね。直子の場合は、きっとそれが楽しいものだと思うきっかけがあったんだろう。ふとした時になぜあんなに自分が殴られていたのかと言うことに疑問を持ち、それを他人に試したのかもしれない。だけどそんなのは単なる二次的な事でしかない。要は直子がそれをいいと思うかどうかと言う事なんだろうね」
「そして、もう殴る事には飽きてしまい、今は自殺する事が楽しいと?」
「そうだね」
「君は妹が死んだら悲しくないのか?」
「悲しいよ。でもね、それならそれでいいんだ。彼女は彼女だよ。直子がどうやって生きて、どうやって死ぬか、それに僕がなにを思うかなんて関係がない。彼女が幸せなら、なんでもいいのさ」
 別れ間際のヒッチコックとの会話をふと思い返し、そうしてみても彼にも、そして自分自身にもなにか他に言うべき事があるのではないのだろうか、と思う事はなく、淡々とそれは事実として受け止める以外になかった。
「お、おかえりなさい」
 コンビニへと戻ってくると太郎にそう声をかけられ「ただいま」と返す。彼の様子を見て、どうやら清春はあれからも不機嫌が続いているようだと推察し声をかけてみる。幾分落ち着いたようではあったが、よく口にする軽口はやはり聞く事は出来なかった。春日も無理になにかを話す気にもならず、そのまま静かに三人は勤務時間が終わるまでを過ごし、まもなく勤務が終わろうとする頃、
「春日さん、俺今日酒飲んでいいすか?」
 と清春がぶっきらぼうに言うので「別に構いはしないけど」と了承した。太郎はどうするだろうと先ほどちゃんと返事を聞いていなかった事を思い出し尋ねると、彼は思っていたよりもあっさりと「行きます」と頷いた。
「そう。太郎君はお酒飲めるの?」
「あんまり、飲めないですけど。いや、殆ど飲まないです」
「多分居酒屋くらいになると思うけどいいかな」
「あ、はい、いいです。なんでも」
 太郎はそう答え、大げさなほどに何でも頷いた。春日はじゃあ、あとでと言い離れていき、太郎はその後姿を見ながら、彼と自分は別人で、そして別人の彼が持っていて、それを自分は持っておらず、そして彼はそれを必要としているかどうかは分からないものの、自分はそれを欲していると言う事を実感する。


 ――仕事慣れた? バイト先の人と仲良くやれてる? 頑張ってね、太郎。


 母の言葉が蘇る。母はこうやって働くようになって彼になにを求めているのだろう。
 賃金を得る事?
 自立する事?
 甘ったれた暮らしから抜け出す事?
(……僕は、今、他人と触れているんだ)
 ただ、そんな事じゃないだろうか。
 そして、彼もそれが欲しいと思う。
 だって、誰が傍にいたって、気がつけば孤立しているようなのは誰だって、嫌だから。彼はもう、それを繰り返す事が、ずっと前から、嫌だったから。


「俺だって、言いたい事いっぱいありますよ。でもさ、なに言ったらいいんすか?」
 既に出来上がっている清春は、それでも再びグラスを手に取り、ぐびぐびと随分と無茶なペースで呷った。
 春日はそんな彼に「どんな言葉でも受け取れない時期っていうのがあるんだと思うよ」と、もしかすると受け入れる状態になる前に死んでしまうという事を理解しながらに、そんな無難な言葉を返した。もし、その事を彼に知らせると彼はきっとこの瞬間にも店を飛び出していってしまいそうだったし、そうしたところできっと彼が望む方向へと事態が好転するとは思えなかった。それならば今はただ、しょうがない、と言う事にしておくのが妥当なように思われたし、そもそも、あの少年が死のうと、そしてその事で清春がなにを思おうとも、結局春日にとっては無関係だったし、どうでもいい事だった。
「今はそっとしておいてあげたほうがいいんじゃないかな」
「……けど、納得いかないんすよ。あいつが悪いわけじゃないんすよ。それ俺だけじゃなくて、皆そう思ってますよ。だから……あいつは今までどおりいてくれたらいいんすよ」
 それは彼じゃなくて、君達の願望だよ。
 ちょうどグラスが空になり、通りがかった店員にビールを注文する。隣に座っている太郎になにか飲むかと尋ねると彼は早くもウーロン茶を頼む事にしたようだった。
 注文がやってくるまでの間にと、マルボロを取り口にくわえた。白い煙があがり、その隙間から清春と視線が重なり合う。
 彼には、彼の納得がある。君の納得は彼から貰える事だろうか。一体彼がどうなってくれれば君は納得をすることが出来る? そしてその時、君は彼に納得を与える事が出来るのだろうか。君が求めているのは、君が望む世界だ。
「理由が理由だからね。そう簡単に気持ちを切り替えられないんだろう」
 彼が望む世界を君は見ようとしているだろうか。知ろうとしているだろうか。知った上で、更に君は君の世界へ誘おうとするだろうか。彼の覚悟を知ってでも、それを引き止めようとする覚悟が君にあるだろうか。
 彼に対して、それだけの覚悟が、果たして君にあるだろうか?
「春日さんが言いたい事は分かりますけど」
 乱暴に置かれたグラスがけたたましく音を立てる。春日は僕が言いたい事なんて君は何一つ聞いてないのだけれど、と淡々と胸中で呟く。そして「でも君がそう思ってあげる事は無駄じゃないと思うよ」と本心とは裏腹の言葉をいともさらりと口にする。
 それを聞きながら、やってきたウーロン茶を受け取り、太郎はとても深い溜め息を吐きたいと何度か思う。
(……嘘だよ)
 彼は、どうしてか確信も殆どないままに、それでもそう思わずにはいられなかった。コンビニで見たあの少年の事は店にやってから詳しく――それこそ以前の彼がどんな人物だったかと言う事まで――聞かされたが、どんな風に思い出しても、彼が清春になにかを望んでいるような様子など太郎には欠片も感じ取る事が出来なかったし、今春日が口にしている事も、単なる詭弁としか思えなかった。
(春日さんが言ってるのは)
 よく分かる。それは、いつも自分がしてきた事だ。
(単なる相手にとって都合がいいだけの、相槌だ)
「太郎さんはどう思います?」
「え? ……ぼ、僕?」
 唐突にそう言われ太郎は上ずった返事を返す。清春は「そう」と頷いた。
「僕は…・・・」
 ちらりと春日の方を覗き見るが、彼は気にしていないのか、目の前にある灰皿に灰を落としているだけだった。
「須藤君が、彼のためを思ってるんなら、改めてまた連絡してみたらいいと思う」
「しつこく思われませんかね?」
「……しつこくてもいいんじゃないかな。そうやって心配してくれる事はやっぱりありがたい事だと思うし」
 ともすれば周囲の雑音にかき消されそうな小さな声だったが、太郎はなんとか声を絞り出す。
 自分とあの少年の姿を重ね合わしながら、自分だったらなにを望むか。
 孤独から抜け出すために、必要なものとは一体なんなのか。
「一人だけじゃきっと解決出来ないよ。そういう時に須藤君がいるだけで違ってくると思う」
「……そうっすかね。ちょっとトイレ行ってきます」
 そう言うとふらつく足取りで立ち上がった。それを見送り、太郎は春日へと視線を移す。
 彼は話を聞いていなかった訳はないだろうがそれでも、これと言って変わりはなかった。その様子に太郎はなんとなく不安感を覚える。
「あの」
「なに?」
「僕の言った事、間違ってたでしょうか?」
「君がそう思ったんなら僕はいいと思うよ」
「でも春日さんとは違う意見だった訳だし……」
 ぼそぼそと呟き、それに春日はそれがどうしたのか、と言うようにきょとんとした表情を浮かべる。
「結局決めるのは清春君だよ。僕達の言う事が違ってもそれに問題はないし、可能性を広げる事は無意味じゃない」
 あなたの話は可能性を広げてなんて、いないでしょう?
 思わず、そう言いたくなる。
 あなたが言っているのはその場凌ぎの言葉で、ただ今が丸く収まればいいと言うだけの言葉じゃないんですか?
 僕も、ずっとそうでした。誰かのご機嫌を取るために、言いたくもない事を言ったり、自分とは正反対の考えにも波風を立てないようにと肯定をしてきた。そんな自分を、僕は大嫌いで、そしてどれだけそうやっていても、僕は僕自身を誰かに肯定してもらえる事は出来なかった。
 そして、僕はただ皆の様子を伺いおろおろする事しか出来ない人間に成り下がり、侮蔑され、いじめられるようになり、そこから逃げるように高校を辞め自室に引きこもった。
(僕は、もうずっと前から、そんな自分が嫌だったんだ)
 人間の本質はどこまで行っても変えられない? ならば僕の本質とはなんだ?
 自分を嫌悪しながら生きるような人生が本質だと言うのか?
 そうじゃないはずだ。自分の本質とは。その奥底に別物のなにかがあるはずだろう。だってそれが本質なら、なぜ、それに嫌悪する自分がいる。
 僕は、変わりたいんじゃない。
 ただ、やめたいんだ。今まで行ってきた嘘塗れの生き方を。
「太郎君は彼にどうしてもらいたいの?」
 その声は思考に耽っていた彼を現実に引き戻すに十分な冷たさと鋭さを持っていた。
「え……そりゃ、彼が後悔しないように、今出来る事をやってもらいたいです」
「今出来る事をすれば、後悔をしないで済むようになんて、なれるだろうか」
「でも、やらないよりは」
「触れないと言う事で、誰も傷つかない道が続く事もある。下手に首を突っ込んで、お互いに傷を負う事もあるようにね」
「……言いたい事は分かります」
 でも納得はしていないんだろう。
 春日はぼんやりと自分が喋り過ぎていると釘を刺す。太郎は彼が思っていたよりもずっと冷静で、言葉を正確に掬い上げる事が出来るようで、自分の言葉が空っぽであると言う事もどうやら勘付いているようだったが、だからと言ってそれをどうこうする必要などないはずだった。
(彼は僕に少し似ていて、そして正反対なのかもしれない)
 だから、ああやって冷めた声になったのだろうか。
 自分の本質に触れられ、ひっくり返されそうになった事に対して、警戒心が働いたのだろうか。
「ただいまっす」
 しかしその思考は清春が帰ってきたために遮られ、宙ぶらりのまま消失していく事になった。太郎も彼の前では必要以上に喋る事はしなかったし、清春ももう暗い話やめましょう、と打ち切ってしまった。
「あーあ。一万円の男でも探そうかな」
「一万円の男?」
「春日さん、知らないっすか? ネットでそういうのあるらしいんす。一万円をそいつに払ったらなんでも願い事聞いてくれるんですって」
「知らないね、初めて聞いたよ」
「あ、なんかそれ僕聞いた事ある」
「太郎さん、ネットよくやるって言ってましたもんね、実際見たことあるんすか?」
「見た事はないって言うより、都市伝説みたいなものだと思ってたんだけど」
「あぁ、まぁ、俺も噂だけだから、本当にいるかどうかは分からないですけどね。春日さんだったら、もしそれ本当にいたら、なに頼みます?」
「急には思い浮かばないな」
 そんな話実際にある訳ないだろう、と思いながら自分だったらと言う清春の会話に再び相槌を打つ事にし、春日は再びマルボロに火をつけた。


 帰る方向が一緒だからと太郎と二人でタクシーに乗る事にし、店の前で清春と別れた。彼は「二人に話し聞いてもらってよかったっす」と頭を下げるとふらふらと自転車を漕いでいった。
 タクシーの中で春日は殆ど喋らず、外の景色を見るでもなく、ぼんやりとしていたのだが、隣にいる太郎が話しかけてきたため、そちらへと振り向いた。
「春日さん」
「なに?」
「春日さんは、自分の事を誰かにちゃんと理解してもらいたいとか思ったりしないですか?」
「君は、分かっているんじゃないか?」
 そう尋ね返すと、彼は「そうですね」と言って俯く。
「春日さんがそんな事を思ってないのは分かります。でも、どうしてそれを平気に思っていられるんですか? 僕はずっとそれが苦痛だったんです」
「そう」
 やれやれ、と春日は溜め息を吐いた。彼の生い立ちなどまるで知りもしないが、彼のような事を考える人間は幾らでもいる。
「さっきコンビニにいた、ヒッチコックと言う男の事覚えてる?」
「え? まぁ、はい」
「彼に言われたよ。僕は少し冷たいんだそうだ。自分でもそうなんだろうと思う。そうは言ってもあのヒッチコックと言う彼も、特別優しいと言う訳じゃない。そうだね、きっと太郎君の方が僕達よりもよっぽど優しい人間なんだろう」
「そんな事ないと思いますけど」
「僕や彼は、他人に期待をしていないんだよ。君はそうじゃないだろう?」
 その言葉は間違いではなく、素直に太郎は頷いた。
「それが君と僕の違いなんだ。人は他人に期待をして、初めて心を開くことが出来るんだと思う。別にそれは甘くもないし、下心があるわけでもなく、もっとポジティブで清々しいものだ。そういう視点で他人を見られれば、きっと人は能動的になれるんだろう、それに見合う自分でありたいと思ったり、そんな相手を乗り越えようとしたりね。僕はそうじゃないんだ。他人は他人でしかなく、その一喜一憂にもあまり興味がないし、それに対して関わろうと思いもしない。ただ、川の流れのようにそれはやってくるもので、そしてそれは放っておいても自然と目の前からまた流れていくものなんだ、僕の中ではね。君のように手を伸ばそうとするのは優しさでもあるし――」
 そこで一旦言葉が止まり、太郎は続きを尋ねようとしたが、タクシーがハザードを点灯させ停車した。ドアが開けられ、先に降りる予定だった春日が財布から紙幣を取り出し太郎に渡すとその身を外へ向ける。
「あ、あの、優しさでもあって、そして、なんなんですか?」
 太郎は慌ててそういうものの、春日はタクシーの運転手が操作するよりも早くドアに手をかける。そして、一言だけ告げた。
「僕とヒッチコックには、他の人達が持っている感情のうちの一つがすっぽりと欠けているんだよ」
 バタン、とドアが閉められた。
 タクシーが動き出し、太郎は後ろを振り返り、遠ざかっていく彼の姿を見つめる。
 抜け落ちている感情。
 それは一体なんなのだろうか。それが分かれば、自分の中にあるこのもやのようなものは消え失せるのだろうか? ただ、分かったのはもしかすると自分と彼は似ているのかもしれない、と思ったが、実際はそうではなく、それどころか正反対で、どちらも他人と距離は置きながらも、自分はそれを近づけたいと思うのに対し、彼はむしろ離れていく事を好んでいるようですらあった。
 彼の姿が完全に見えなくなり、太郎は溜め息を一つ零してシートに座りなおす。
(なんだか、酷く疲れた)
 今日の自分は正しかったのだろうか。只思うのは、相槌や同調だけの会話とは違い、相反する意見をそれでも言おうとすると言う事は、それだけで疲労を覚えると言う事だった。こんな事を四六時中繰り返していると自分は酷く磨耗してしまうだろう、と彼はもう一度嘆息する。
 だけど、それでも、今はそんな今日の自分を、自分だけでも認めてあげたいと、彼は思う。
 信号でタクシーが停車した。太郎はそれをぼんやりと見ているうちに青へと変わり、右折しようとするが、対向車が直線するようで、少し前進したところで再び停止するが、少々出過ぎてしまったのか、それとも道幅に対して大きすぎるためかぐるりと大きく迂回するような進路を対向車であるシボレーアストロが取った。
 シボレーは再び車線へと車体を戻すと静かに遠ざかっていくが、太郎は特にそれを気にする事もなく、右折し再び走り出したタクシーの中でそれ以上考える事をやめ家までの時間目を閉じてしまう事にした。
34, 33

  

「くそ!」
 コンビニを飛び出し崇は唇を噛み締め夜の街から、逃げ出すように走り続けている。
「くそっ!」
 もう一度そう叫んだ。出来るなら今すぐ消えてしまいたかった。先程の光景がふと蘇り、彼は視線を足元へと落とす。
(なんで、清春がいるんだよ)
 よりによってあんなところを知り合いに見られる事になるなんて思ってもいなかった。あげく、彼の手を振り払いただ闇雲に叫び逃げ出す羽目になり、そんな自分がとても惨めで情けない。
 きっと今ここに直子がいたなら、そんな彼にこう言っただろう。
 ――いいじゃない、そんなの気にしないで。どうせもうすぐ死ぬんだよ?
(うるせぇ、それがなんだっていうんだ!?)
 彼は想像の彼女に叫び返す。お前はなにも分かっちゃいない。俺の事なんて分かっていない。お前が言っているのはお前の事しか考えてないんだ。お前は俺の事なんて考えてもいないんだ。俺とお前は違うんだ。気が狂っているお前とは――
 そうやって考えていたため、前方を確認する事を怠っていた。交差点に差し掛かったところで、人影が現れた事に気がつく事に遅れてしまう。慌てて止まろうとしたが間に合わず、どん、と音を立ててぶつかり、先程のように崇は地面に転がる事になった。
「いって」
 ぶつかった男はかなりの勢いにも関わらず、崇のように地面に転がりはしなかった。ただぶつかった箇所を撫でるように触りながらそう零すと「大丈夫か?」と地面に手をついた崇を起こそうとするように手を伸ばしてくる。崇はその手をちらりと見て、硬いコンクリートの上でぎゅっと手を握り締めた。
 煩わしかった。そうやって伸ばされる手が。その手を掴んでも、決して自分を望む場所へと連れて行ってくれるものではないと言う事が。
 無言でその手を振り払い、彼はすばやく立ち上がると男の顔を見ることもせず再び走り出した。取り残された男は振り払われて行き場のなくなり中空でぷらぷらとさ迷うその手を、そのままふらふらと泳がしながら、すぐに視界から消えていくその背中を見送り、ぼんやりと呟く。
「なんだ、あれ」
 彼――来生真耶はまさかそんな風に振り払われるとは思っておらず、なんとなく腹が立ったものの、若そうな少年だったしそんなものかもしれないと首を傾げる。
「青春ってやつかねぇ?」
 全く見当違いな言葉を呟きながら、彼は腕時計を確認する。約束の時間が近づいてきている。車をパーキングに止めたものの、もう少し近くまで行けばよかったと後悔しながら再び歩き出し、待ち合わせ場所に指定された中央公園へと向かう。バイパスから一本外れた場所に作られているその公園はそれなりの広さを持ち、きちんと遊歩道が整備され、アトラクションなども設置されていた。その中でブラッドと言う相手が指名したのは東側にある噴水広場と言われる場所だった。彼はそこに辿り着くまでにぷらぷらと歩き、景色を眺める。空は薄暗く、遊歩道の端に置かれている古いデザインのライトは景観を損なわないようにと淡い色の光を放っていて、少し離れてしまうと相手の輪郭をちゃんと掴めないようだった。そのせいなのかどうか、公園のあちらこちらに何組かのカップルがいて、ベンチに座っていたり、ブランコに乗っていたりと様々であるものの、似たように皆寄り添っていた。
 噴水広場に辿り着き、彼は噴水の傍に腰を下ろした。まだ約束の相手は来ていないようでセブンスターを取り出し、煙を吐き出した。二本目を足元に捨て、三本目に手をつけようとした頃で電話が鳴り、彼は苦笑する。約束の時間を少し過ぎている。どうも今回の相手は全体的にルーズだ。
「はい」
『もう来てる?』
「来てるよ。噴水の傍に座ってる。今いるのは俺だけだから間違って誰かに声をかける事もないね」
『そう、もう着くから』
 そう言って通話が切れて、結局三本目を吸い終えた頃に、ブラッドはやってきた。
「こんばんは」
 真耶がそう言うと、ブラッドは「うん」とだけ言うと彼の隣に少し距離を置いて腰を下ろす。
 真耶はそれとなく相手の事を観察するが、特に目立つところはなく、以前出会った雫のように切羽詰った様子もなければ、覚悟を決めたと言うような居直る雰囲気も持ち合わせていなかった。
「なんか、聞きたい事とかある?」
 そう言うとブラッドが「え?」とこちらを見てしばらく考えたようだったが返ってきたのは「別にない」と言うそっけないもので、真耶はあまり興味のなさそうなその様子に早々と用件を切り出す事にした。
「じゃあ、本題に入ろうか。一万円で君の願いを叶えるよ。君の願い事はなにかな?」
「殺してほしい人がいるんだけど」
 それは、あまりにさらりとしていて、本当にその言葉の意味が分かっているのかどうかすら判断つきかねるものだった。
「いいよ」
 そしてそれを聞いた真耶も、その言葉の重みなどどうでもいいと言うように、つまらなそうに返事をする。
「誰を殺してほしいんだ?」
「高井藤吾って男なんだけど」
「ふーん。分かった」
 とは言っても、その男が何者かもなにも分かっていないのだが、彼にとってそれは些細な事でしかなかった。
 四本目のセブンスターに手を伸ばす。これを吸い終わるまでに、残りの会話は終わるだろうと彼はゆっくりと煙を吐き出しながら幾つか質問する。ブラッドはそれに淡々と答え、もういいだろうか、と言うように視線で訪ねてくる。
「じゃ、最後に一つだけ」
「なに?」
「これは全員に聞いてるんだけどさ。今回の君の願い事に一万円の価値はあるだろうか? 君は俺に人を殺してくれ、と言った。俺はそれからそいつを殺すよ。けど君も、その時その男を殺した一端を担う事になる。法律的に言うと刑法第六十一条殺人教唆として君は殺人と同等の罪を背負う事になる」
 すらすらとそう告げるのだがブラッドはいまいちぴんと来ていないようだった。真耶もまぁ、そんな事どうでもいいかと、タバコを足元に放り、それを足の裏でもみ消しながら軽く笑った。
「まぁ、要するに、君は一万円で人を殺す訳だけど、その後君の心になんか面倒くさいものがまとわりつく事もあるかもしれない。それを背負ってこれから生きていかなくてはならないかもしれない。それに一万円の価値はあるだろうか? そんなものを抱える事に、君が一万円を払う意義があるだろうか?」
「よく分からないけど」
 分からないのかよ、考えろよ、少しは、と内心で突っ込む。
「でも一万円で人を殺してくれるなら、安いと思う」
 それが了承だった。真耶はゆっくりと立ち上がる。ブラッドはまだ座ったままこちらを見ていたが、彼は首を軽く回しそちらを見やって「じゃあ、結果が出たら連絡するよ」と言うとそのまま歩き出した。
(なんだかなぁ)
 彼はやってきた道をのらりくらりと戻りながらぼんやりとそう考える。今回はかなりの外れだ、と彼は溜め息を吐く。彼にとってブラッドの願いなど、どうでもいい事だった。既に彼は過去に何人かの命を奪った事がある。そしてその似たような願いと比べても、今回は最低だ、と言わざるを得なかった。
 あのやる気のない、ぼんやりとした様子からは、心の奥に潜む鬼気迫る感情など垣間見る事など到底叶わぬ事だった。
 それがつまらない。
 殺したいのなら、どうしようもなく殺したいのなら、その感情を見せろ。そのどす黒い胸の内を晒せ。
 それとも、そいつを殺す事などどうでもいいのか。ただ、ふと思いつきでそう決めたのか。
 真耶はそうかもしれないとも思う。生死など、命など、大したものではない。人は静かに死ぬ事が出来るし、のた打ち回りながら生きていかなければならない事もある。ましてや他人の命に、重みを感じる事などなかったとして、それがなんだと言うのか。
 そう思いながら、真耶は(それなら)と思う。
 俺が見たいのは、要するにそんな命にも無関心な奴が取り乱してしまう様を、誰かに縋り付く様を、ファスナーを硬く締めたようなその心が開かれる時を見たいんだよ。
 だがそれはおそらく無理だろう、とパーキングまで戻ってきてシボレーアストロに乗り込むと彼はアクセルを踏み込む。運転しながら「仕事用」の電話を取り出す。
「ちょっと調べてもらいたいんだけど。調べてもらいたい奴がいるんだ。名前は高井藤吾」
 名前を言い、それから彼女から聞いた男の情報を伝え終わると電話を切り、それを助手席に放り投げる。ふと以前そこではしゃいでいた少年の事を思い出す。彼はなんと言っていただろうか。
 ――兄ちゃんは僕のヒーローだよ。
 その言葉をなんどか反芻し、彼は舌打ちをして、
「ヒーローなんかなれねーよ」
 と吐き出すようにそう言った。
 狭い道で右折しようとするタクシーが止まっている。スピードを弛める事無く乱暴にハンドルを切り、それを交わすと更にアクセルを踏むその足に力を込める。
 ヒーローになんかなれない。
 どうやったらそんなものになれるのか。
 その事を、とっくの昔に、気がついてしまった。
 自分はなんなのだろうか?
 悪だろうか?
 もしそうだとしたら、いつか自分の目の前に、悪を倒そうとヒーローが現れることがあるのだろうか?
 もし、そうなったとしたら、自分は全力でそいつの事を殺すだろう。
 ヒーローは悪に勝たなければならない。なら悪に勝てないそいつはヒーローじゃない。
 きっと、認められない。
 自分が憧れ続けるヒーローを他の誰かがやっているという事など。
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