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虚空フェアウェル

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 そのメールが来た時、嫌な予感を崇は覚えたが、かと言ってどうすることも出来ず「分かった」としか返信する事しか出来なかった。
 ――堂本さんから連絡来たの。前集まった喫茶店にまた集まるんだって。
 自室でベッドに寝転がったまま折りたたみ式の携帯電話を放り投げ、無言のまま天井を見つめる。
 浅井渉と久須美蓮と言う、あの時自分と同じテーブルに腰掛けていた二人の事を思い出そうとする。それでも思い出せるのはおぼろげな印象ばかりで、一体二人がどんな顔をしていたのかすらよく思い出す事が出来なかった。一体喫茶店で彼らはなにを話したのか、カラオケ店でなにか歌っただろうか。そもそもなぜあの二人は、自分達と共に死ぬ事をやめ二人だけで死ぬ事を選んだのか。
 考えても納得できるようなものは何一つ浮かんでくる事はなかった。
(……別に、どうでもいいのかもしれない)
 そう思い込もうとした。そもそも二人が自殺したと言う事もいまいちピンと来ていなかった。共に過ごした時間も極々僅かでその二人が今はもうこの世にいないと言う事を、ニュースなどで何度か見せられても、その時は衝撃を覚えたのだが、やがてそれは(あぁ、そうなんだ)と言うぼんやりとしたものへと移り変わっていった。
 テレビに視線をやる。どうやら事故で酔っ払いの男性が死亡したらしい。高井藤吾と言う名前に当然聞き覚えはないが、この街でまた誰かが死んだのかと思い、画面に映っているだらしなく髭を生やした生前のその写真を崇はまじまじと見つめていた。
 毎日、誰かが死んでいる。
 死にたいと願い、もしくは逆に生きたいと願っても、死は訪れる。その速度もゆっくりだったり、唐突であったりとバラバラではあるが、その存在は常に誰かのところへやってきて音もなく消え去っていく。あの二人ももう世間ではとっくに過去の事として忘れ去られ、また新しい死を見つめては何事もない顔をして通り過ぎる。
 その中の一人に自分も加わろうとしているのだ。日々の中に平然と存在している終わりの存在に自分がなり、きっと他人達はその名前を覚える事も、知る事すらなく流れていくのだ。
 その中に時折永遠に忘れられない名前を残しながら。数万の死を聞き流しながら、たった一つの死に心を揺らし、濡らしながら。
 ――崇は誰か好きな人いないの?
 微笑んだ鈴が、そう尋ねてくる。
 ――お前の事が大好きだよ、ずっと昔から、今も変わらず、ずっと好きだよ。
 ドアの向こう側から母親が名前を呼んでいる。崇はそれに聞こえない振りをして――本当に聞こえていないと思う訳もないのだが――無言でいると、やがて遠ざかっていく足音が聞こえてきた。両親は、鈴が自殺した日から塞ぐようになった彼にあまり強くなにか言ってくる事はなかった。両親も、自分の娘のように可愛がっていたし、その彼女があのような形で自殺してしまった事で崇が今のような姿になってしまっても仕方ないと思うのかもしれない。
 いつか、また元通りの日常が戻ってくると思っているのかもしれない。
(……そんな日は、来ない)
 彼女の死を、他の数万の死と同じものとして忘れてしまう事など出来ない。
 仰向けになっていた崇は腕を使い視界を塞いだ。暗闇がやってきて、テレビの音もおぼろげな中で思考以外の感覚が切り離されていく。
 自分が死んだら、誰が自分の事を覚えていてくれるだろう。
 そんな事を考えていたら、いつまでも死ねない。
 死のう。
 他の何万人の人達と同じように。
 悲しみながら、悔やみながら、憎みながら、怒りながら、妬みながら、諦めながら、多少の焦がれと、多少の申し訳なさを抱いて、死のう。


「ちょっと出掛けてくる」
「どこ行くの? 今日バイト休みでしょ?」
「靴買いに行ってくる。穴開いちゃったから」
「そうなの? お金足りる?」
「うん、バイト代入ったばかりだから」
 そう言うと、太郎の母親は無意識のうちに目尻を下げていたが、なるべくさりげない様子を装おうとするが、太郎からも分かるほど声の様子が明るくなっていた。
「そっか、そうよね、ごめんごめん」
「なんで謝るの?」
「余計なお世話焼いちゃったわね」
「そんな事ないよ。ありがと。行ってくるね」
「はい、行ってらっしゃい」
 その言葉に見送られて家を出た太郎は、ガチャンとドアが閉まる音を聞きながら軽くそのドアを見つめた。
 退院してからの母はまるで何事もなかったように過ごしていて、太郎がバイトを始めた頃からはそれ以前よりも明るさが増したような気がする。
 そう思う太郎だが、そのような感想を抱いているのは彼だけではなく、母親も彼に対して似たような感想を抱いている事に彼は全く気がついていなかった。
(やっぱり、働き出してよかったと思ってるんだろうな)
 自転車に乗り、近くのショッピングモールに向かう途中に考える。自分自身も以前ほど圧迫感や背中に圧し掛かるような重みを感じる事も少なくなってきている。最近は家族で食卓を囲む事も増えてきていた。父親とは今でもうまい会話の糸口を見つける事に四苦八苦しているものの「バイト慣れたか?」と話しかけられ「うん」と答え、仕事の内容がどんなものかと言う事を教えたりもする。
 以前の自分とは少しずつでも変わってきているような気がする。
 ふと見上げると、青い空が広がっている。
 あぁ、空ってこんなに綺麗だったのか。いつその事を忘れてしまったのだろう。その事を覚えていれば、きっと俯いて足元のコンクリートばかり見つめる事をバカらしいと思えたのに。
 ショッピングモールにたどり着き、ABCマートにやってきて棚に幾つも並べられている靴を眺めていると、営業スマイルを浮かべた店員が「いいのがあったら言ってくださいね、試着も出来ますから」と言ってくる。特にこだわりもなく、程々の値段のものが買えればいいと思っているだけなので「あ、いいです、いいです」と謝るようにそう言うと店員は相変わらず微笑みながら「色々見ていってくださいね」と言い離れていった。
 ほっと一息吐いて再び棚を見回す。あまりに大量にあるので一体どれを買えばいいのかさっぱり分からなかったが「SALE」と言うポップが張られている一角に少々乱雑に置かれていたスニーカーを手に取ってみた。履いてみるとサイズもちょうどいいようでしっくりとくる。値段も手ごろだったのでこれにしようと思いふと近くにあった姿見で見てみて、その色使いが明らかに今履いているズボンと不釣合いだという事に気がついた。
(……いや、別にどうでもいいような気もするんだけどね)
 確かにどうでもいい。ファッションなんてどうせ自己満足でそれで、楽しみを感じられる人だけがそれを感じようとすればいい。
 そう思いもするが、ふと以前清春に言われた言葉を思い出していた。
 ――太郎さん、ダメっすよ。そのズボンはダメっす。ださすぎっすよ。別に高くなくてもいいからもうちょっとオシャレなの履きましょうよ。
 その時「いや、僕そういうのあんまり気にしないから」と言ったはずだ。
 ――なに言ってんすか!? そんな事言ってちゃダメっすよ。つかとりあえず一回買ってみてくださいって。太郎さん、なんでもやらずに済ますのはよくないっすよ、やってみてダメだったら、その時にやめたらいいんすよ。とにかく、そのズボンはやばいっす。
(……須藤君は強引なんだよなぁ)
 そう思いながら、だけどもし自分がそうしたなら、彼はどんな反応をするだろうか。
(…………)
 太郎は靴を脱ぎ、店員に声をかけた。
「これ、ください」
「はい、ありがとうございます」
 店員に「こちらへどうぞ」と言われレジへと向かい、袋を受け取り店を出るとしばらくフロアをうろうろとし、柱に案内板があるのを見かけるとそちらへと近寄り、太郎は服屋を探してみる事にした。
 まるで恋焦がれている相手になんとかして気を引こうとしているようだ、と少々自虐的な考えが浮かぶが、もし反応が鈍くても、自分が気に入ったものを見つけられればいいや、と思う事にし当てをつけて歩き出す。
 そうして歩いている途中で雑貨屋を見かける。外側から中を覗いてみる。あまり自分には似つかわしくなく、どちらかと言うと女性受けしそうな内装で置いてあるものも可愛らしい小物が多かったが、ある棚にマグカップが置かれており、ふと先日母親が割ってしまったと言っていた事を思い出した。
(……うへぇ、なんか入りにくいなぁ)
 そう思い、もう一度きょろきょろと見てみるが、そうしている自分こそ傍から見ると不審人物のようだという事に気がつき――マグカップなんてどこでも買えるのに――思わず衝動的に店内に足を踏み入れてしまった。
「いらっしゃいませ」
 女性の店員が笑いながらこちらを見ている。きっと先程の自分を見ていたのだろう。太郎は恥ずかしくなって、彼女から逃げるようにマグカップが置かれている棚へと移動した。店員は目で追いはしたものの、近づいてくるなと言う願いが通じたのかレジから動かずほっと溜め息を吐く。
 さて、と気を取り直し、様々な色形をしたマグカップ達を見つめる。
 母親の好みそうなマグカップと言われてもすぐに思いつく訳もなく、果たして飲むと言うことに対して適しているのか分からないぐにゃぐにゃとしたデザインのものを除外するにしてもどれがいいだろうと、来たり戻ったりを繰り返しながら、結局シンプルなデザインの白い物を選ぶ事にした。
(……母さんになにか買ってあげるなんて初めてかもしれないな)
 一体どんな反応をするだろう。
 喜んでくれたなら、きっとその時、自分も喜べるような気がする。そう考えていると「こんにちは」と声をかけられて、ぎょっとして振り向いた。
 そこにいつの間にいたのか春日がすぐ傍にやってきていた。彼は慌てて振り向いた太郎に悪い事をしたとでも言うように「あぁ、ごめん」と言う。
「い、いえ、ちょっと急だったからビックリして」
「こっちもビックリしたよ」
「すいません」
「謝る事じゃないけど、買い物? そのマグカップ」
「あ、そうです。元々靴を買いに来たんですけど」
「あぁ、そう言えば穴が開いたって言ってたね」
 それに頷き、春日さんも買い物ですか? と尋ねた。自分と違って彼はこういう店でも違和感を覚えさせられる事はなかったが、それなりに彼の性格を知っている太郎からすると、やはり彼がこんな店で買い物をする姿と言うのはあまり似合うとは思えなかった。なので、いや、と彼が首を横に振るとあぁ、やっぱりとも思えた。
「待ち合わせ、と言うか、友達がここで働いててね、バイトが終わったら遊びに行く約束してたんだ」
 そう言って春日がレジに視線を向けた。すると先程からレジにいた女性がこちらを見て軽く微笑んだ。太郎は思わずお辞儀を返す。以前コンビニに面接に行った時に会った事があるのだが、あの時は緊張していてよく見てなかったので太郎にとってはこれが初対面のようなものだった。
 綺麗な人だな、と素直に感想を浮かべる。栗色の髪が似合う透き通るような白い肌をしていて、太郎から見ると少々化粧が濃いと思えたが、けばけばしい印象はなくその白さがより映えるようなもので、ただこれも過剰とは言えないものの睫毛の量が多く、長いのだけがやけに気にかかった。
「おいーっす、早いじゃん」
 彼女は営業用ではない挨拶を彼に向けてすると、彼は腕時計を見て「もうすぐ終わるんだろう?」と問いかけ彼女は「あと十分」と微笑む。
「春日さん」
「え?」
「あの人、春日さんの恋人ですか?」
「違うよ」
「そうなんですか?」
「友達だね」
 友達か。
 その単語にふと嫉妬が混じる。
(友達かぁ、いいなぁ、俺も友達とかほしいな)
 春日の知り合いらしいと言うことで多少砕けた態度の彼女にマグカップを渡す。彼女は「プレゼントですか? 良かったらラッピングしますよ」と言ってくれたが母親相手にそこまでする必要はないだろうと断りをいれ、店を出て行こうとしながら春日にこれからズボンを買いに行くことを伝えた。
「須藤君にださいって言われちゃって」
「清春君は服が好きだからね」
「よく分からないんですけど、ちょっと見てきます」
「うん、じゃあまた」
 再び歩き出す。
 なんだか不思議な感覚だった。
 もしかすると。
 自分は今満たされようとしているのかもしれない。
 以前ほど、周囲に絶望を感じさせられる事はなくなってきていた。友人がいないと言う事も相変わらずではあるが、それもなんだかどうにかなるんじゃないだろうか、その内に、と言う気すらしている。
 変わろうとしている。そんな自分が今ここにいる。
 今はまだその途中で、はっきりとした形のようなものは出来上がっていないけれど、それはこの先で出会う事が出来るのかもしれない。
 あの日、母が言った言葉。
 いつか。
 それは、今は、昨日になり一昨日であり、過去へとなっていこうとしている。
「あの子面接来てた子だ」
 奈菜が思い出せた事を嬉しそうに言い、そう言えば彼が面接にやってきた時彼女がいた事を思い出した。
「よく覚えてたね」
「どこかで見た気がすると思ってたのよね、最初前に来たお客さんだと思ったんだけど」
「だけど?」
「前に来た事がある割には、店に入るの躊躇してるからおかしいなと思った。あ、時間だ、着替えてくるからちょっと待ってて」
 レジの奥にあるドアへと奈菜が入り、自分以外誰もいなくなると、春日は近くの棚に並んでいる小物を適当にとっては戻すという事を繰り返し、その内男の店員がドアから出てきて、その後ろに着替え終わったらしい奈菜もおり「じゃ、お疲れ様です」と頭を下げるとこちらへとやってきた。
「お待たせ、いこ」
「うん」
 店を出てしばらく歩いたところで彼女が手を取ってきた。春日を引っ張るようにしながら「お腹減っちゃった。なんか食べていこうよ」と言い上のフロアにあるレストランへと有無を言わせず進んでいく。
「映画を見るんじゃなかった?」
「別に食べてからでも映画は見れるじゃない。お腹が空いた、なんて思いながら見てたら内容が頭に入らないかもしれないでしょ?」
「相変わらず、我が侭だな」
 彼女はあはは、と笑う。
「その我が侭を嫌な顔せず聞いてくれる君が好きだよ」
 確かにそれに断る理由はない。
 レストランにやってきてウエイターに案内され席に着く。数年前から押し寄せる禁煙化の波に乗ったらしく、喫煙席が置かれておらず、春日は取り出しかけた煙草を渋々戻す羽目になった。その内煙草を吸っているところを白い目で見られる時代が来るかもしれない。それだけなら問題はないが、吸える場所がどんどん限定されていくのは辛い事ではある。
 ウエイターに注文を済ませ、メニューを戻したところで彼女に向き直った。
「どういう風の吹き回し?」
「なにが?」
「急にデートしようだなんて」
「誘ったのは昨日だけど、じゃあ、春日君にとって急じゃないデートの誘い方ってどんなの?」
「そういう意味じゃないよ」
 ごーめーんーなさい。
 テーブルに頬杖をつきながら、もう片方の手でグラスの縁をなぞりながらそう言った。
「たまにはこうやって外で遊んでみるのもいいかなって思っただけ」
「僕と?」
「そ、君と。まるで恋人同士みたいに」
 彼女と知り合ってそれなりに経つが、今までこのように出掛けた事は記憶になかった。せいぜいが近所のコンビニに共に煙草を買いに行く程度で、そう言われれば化粧は普段とあまり変わらなくても着ているものはいつもより気を遣っているように見受けた。
「そう言えば君のジャージ以外の姿を見るのは、君が初めて僕の家に泊まった日以来かもしれない」
「うそ。私もうちょっとオシャレしてたつもりなんだけど」
「少なくとも、君がどこかに出掛ける時に擦違ったりする時を除いて、僕と会っている時は殆どジャージだね」
 その言葉に彼女は記憶を呼び覚まそうとするように目を閉じた。そうして何度か反芻を繰り返して彼女は諦めたようだった。
「そう言われたらそうかも」
 そうして、人差し指を伸ばしてテーブルを軽く叩いた。
「だって、隣の家に行くためだけに着替えるのも変じゃない? どうせ春日君ちでやる事なんて二人でお酒飲むだけだし、その後にはそのジャージだって脱がせちゃうんだから、バカバカしいじゃない」
「そういう事はこんなところで言う事じゃない」
「ま、だからたまにはこうやって出掛けるのもありだと思わない? 私のスカート姿見るの久しぶりでしょ。好きなだけ見ていいよ。でも私映画とか結構集中して見たいタイプだから、ちょっかい出してきたら怒るからね」
 到底ありえもしない事を彼女は言い、春日は「そうしないように気をつけるよ」と軽く肩をすくめた。
 料理が運ばれてきて彼の前に置かれたスパゲティカルボナーラが湯気と共に濃厚な匂いを鼻腔に届かせ、奈菜は「それ、ちょっと食べてみていい?」とあまり行儀がいいとは言えない素振りで、フォークをこちらへと向けた。


 死ねない男。
 そう呼ばれている桐嶋鶫は時折一人で映画を見る。
 派手なアクション物や、極端な恋愛物は見ない。そういったものは健全ではあるが、日々に鬱屈している者が見ればいいと思っている。彼が好むのはただぼんやりと眺めるだけで、いつの間にか時間が経っているような静かな映画で、これを見て喜ぶのは老人か、人生に夢を求めているお気楽者だけだろうと彼は思い、自分はきっと後者にあてはまるのだろう。
 少し早く来てしまったためか館内はまばらに観客がいるだけだった。彼はスクリーンから離れ、あまり好まれそうもない席を選んで座る。近くに人がいるとどうしてもうっとうしく感じてしまう。
 受付の横にあった売店で買ってきたポップコーンを食べながら、手前にある入り口の辺りを彼はなんとなく見つめていた。
 時間が近づいてきて、そこからポツポツと人影が見られる。
 見ているのは、その中に自分に似た存在がいるかどうかだった。
 彼が集団自殺に参加するようになって、なんど失敗してきたかをもう覚えてはいないし、何人の顔を見てきたかも覚えてはいない。ただ、その事を繰り返すようになって様々な人達を見る事によって、彼は死を望む人間がどんな表情をしており、どのような空気を纏わせているのか、と言う事を本能的に理解出来るようになっていた。
 死相、とは少し違う。
 彼が見ているのは、意識だ。
 言うなればそれは死に対しての渇望である。
 その意識を大なり小なり持っている人間にある特徴を彼は見分けている。もっとも日常生活においてそれを感じる事は極稀でこんなふうに他愛もない日常の中で見受けられる事はあまりない。現に入り口からやってくる者達にそう興味を感じる事と言うのは今までもあまりなかった。
 だが、いつも映画が始まるまでそうやってぼんやり眺めているだけの彼にこの日は些細ではあるが変化があった。
(……カップルだろうか?)
 そこから入ってきたのは若い男女だった。男の方はすらりとした体系でこれと言った特徴は見当たらない。女の方は暗いこの室内の中でもはっとするような白い肌を持っていた。二人は手を繋ぎ、小声ではあるものの楽しそうになにか会話しており、こちらからは聞き取れないものの、一見しただけでは仲のいい恋人同士のようにも見える。
 鶫は彼らが席に座り、後頭部だけしか見えなくなってもしばらくその二人をじっと見つめていた。
(……生きる事にも、死ぬ事にも、興味がないカップルか)
 面白い、と思うと同時に、初めて自殺をしようとした時の恋人を思い出していた。
 もし、あの時の恋人が今見ているあの女だったら、あの女は一体どんな反応をしていただろうか。
 きっと、救急車を呼ぶような事はしなかっただろう。
 もしかすると、一緒に死んでくれたかもしれない。
 もしくは、死にかけている自分を最期まで看取り、何事もなかったように明日を迎えるのかもしれない。
 贅沢な女だ、と思う。そして同時に好感を抱く。
 生きる事を彼女は存分に楽しんでいるようだった。そしてその上で、死んでしまっても別に構わないというような顔をしている。まるで川の流れに意地を張って逆らい続けているくせに、やる気をなくしてしまえば、流されてしまえばいいのだ、と確信を抱いているようだった。
 映画が始まった。
 あまり台詞がなく、BGMもないその映画は静かで、退屈を通り越して我慢を強要しているようですらあった。何人かは余りに期待外れだったのか途中で立ち上がり出て行ってしまった。
 ふと時間の流れを忘れる頃に、先程のカップルに視線をやると、女が男の肩に頭を乗せようとしていた。男はそれを嫌がるでもなく、甘えようとする彼女を抱き寄せようとする事もせずに、ただ静かにスクリーンに視線を向けている。
 鶫は、彼に尋ねられるものなら尋ねてみたかった。
(自分の生死にも、他人の生死にも、興味がない人生ってどんなものだ?)
 今まで、彼のようなタイプは見た事がなかった。隣にいる女と似ているようで、実はそこから更にかけ離れているようだった。
 その男は言うなれば空っぽで、生だの死だのと言う観念そのものが欠けており、人間として存在する以上避けて通れないはずの事柄から――あくまで自然に――いつの間にか距離を置いてしまっていた。
 それはすなわち、生きる事の喜びや感動を、死ぬ事の恐怖や苦しみを全て失ってしまっている、と鶫には思える。
(……ただ、生まれてしまった、と言うように)
 きっと、あの男の事を誰かが定義する事は不可能だろう、そう思う。
 はっきり言ってしまうと、あの男には生きている価値がなかった。誰もが生きていく中で求めるものを彼は平然とした顔で擦違っていくのだろう。川の流れの中でもがいている人間達を見つめる事も、手を差し伸べる事もなく、彼はその身を水面につけることすらなく、誰もいない川岸を歩き、そしてそこに近づく事も、そこから離れる事もせず、ただ今いる場所を淡々と歩き続けている。
 たった一人で。
 静かなまま、一体なにを伝えたいのか分かりもしない映画が終わりスタッフロールが流れ始めた。それが終わるのを待たずして観客が立ち上がっていき、その中にその二人も加わろうとする。
 鶫はその中でじっと座ったまま、二人が出て行くのを見終わり、館内が明るくなると、ふぅ、と天井のライトを見つめながら息を零した。
 そして、思う。
(……だが一番理解出来ないのは、そんな奴だと分かっているくせに、充分幸せそうな顔をしている、あの女の方だ)
 誰もいなくなる頃、彼は立ち上がりドアへと向かう。
(なにも存在していないその虚空で、それでも彼女はなにを得ている?)


 つまらなかったね、あの映画。無理に感動押し付けすぎだよ。
 押し付けるくらいじゃないと、逆に物足りないと言って文句を言う人が大多数だからしょうがないんだろう。
 映画館から出てきた人波から距離を置いたところで、二人はそんな感想を口にした。文句を言う割にはそれなりに楽しんだようで、彼女はスカートの裾を翻しながら再び手を繋いできた。
「じゃあ、これからどうする?」
 腕時計を見て時間を確認しようとすると、奈菜がその手を遮ろうとしてきた。
「なに?」
「九時だよ。どうせ、もう帰る? とか言う気でしょ」
「そう思うんなら最初から聞かなければいい」
「分かってないなぁ、春日君は」
 彼女はやれやれと言うように首を横に振る。
「女の子がこれからどうする? って言ったらなにかしようよ、って言っているのと同じだよ」
「だったら初めからそう言えばいい」
「そういう事言えない慎ましい女の子なの、私」
「あぁ、そう。じゃあ、なにかしたい事ある?」
 その冷たい返事に彼女は頬を膨らませながら、それでも呆れたように笑うと、彼の腕にその身を寄せてきた。
 服越しに僅かに感じる事が出来る体温は暖かいのか冷たいのかよく分からず、ただその感触は心地よかった。
「今日車で来たんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ、ドライブしようよ。マックでドライブスルーして、TSUTAYAでCDでも借りて、私はお酒を飲んで、春日君は煙草吸って、目的地は海とかいいけど、多分行ってもつまんないから適当でいいや。あんまり渋滞してない道でいこ。で、私が酔っ払っちゃったら一緒にラブホテル行こうよ。可愛らしい部屋選んでね、今日は私デートのためにオシャレしてきたんだからさ。どうせ明日は暇だから泊まってもいいし、服着たままセックスしよっか。いつもより興奮するかもしれない――って春日君はそんな事ないか」
「一つ聞いていい?」
 べらべらとまくし立てている彼女を制するほどの強さはなかったが、彼女はその口を閉じてくれた。
「なぁに?」
「そんなに楽しかった? 今日」
「なに、いきなり」
「君がとても楽しそうだから」
 奈菜は春日の顔をじっと見つめる。彼はいつもぼんやりとした顔をしていると思う。特別だらしないと思う事はないのだが、その寝起きのような眼差しはどこか冷めていて、実は彼女はその目で見られると身体のどこかが貫かれるような感覚に時に襲われ、好きだったのだが、それを隠して彼女はわざと大げさに溜め息を吐く事を選んだ。
「春日君ってバカだよね」
「それは否定しないけど」
「楽しいよ」
 あっけらかんとそう言う。
「春日君と二人でいるの楽しいよ。それに今日はいつもと違ってこうやって二人で出掛けて一緒にご飯食べて、映画見て、これからドライブだし。些細な幸せ感じるよね」
「そういうものかな」
「そういうものよ」
 だって、と彼女は言い、
「生きてるってそういう事でしょ?」
 と続けた。
 奈菜が「じゃ、いこ」と言い腕を引っ張る。
(幸せ、か)
 それになんと言っていいのか、彼はよく分からない。
 鶫なら、なんと言っただろうか。生を満喫しているのだ、彼女は、と言うかもしれない。
 だが二人にとって、春日にとって、そんな言葉は無意味だ。
 あらゆる出来事に生と死を持ち出す事など、そのどちらかに取り付かれた者の発想でしかない。今、ここにあるのは、いつもと違う日常を送り、それに新鮮さや、多少の違和感や、それでも変わらない距離感を共有しているだけの事でしかない。
 ただ、今この瞬間に彼女が幸せを感じているのなら、それはいい事なのだろう。
 彼はそんな事を思い、ずっと引っ張られている腕に少し力を込め、彼女の隣に並んだ。
43, 42

  

 ショッピングモールから出てタクシーを拾った鶫は堂本が指定した喫茶店の名前を口にした。
 週末のせいか、渋滞にはまり約束の時間にまた遅れそうだったが、彼のルーズさを堂本も理解しているだろうと勝手に判断する。
「ちょっと脇道入りましょうか」
 気のよさそうな運転手がこちらを見て目を細めながら言った。
 その彼と目を合わせる。
 幸せそうな、不幸な人間。生きる理由はあっても、それにしがみつきたいほどの欲求はない。
 亡羊と生きている。
「そうですね」
 鶫も笑いながら頷いた。その笑みを向けたのは自分にで、誰にでも人間観察めいた事をしている自分が滑稽なように思えたからだ。
 じゃあ、ちょっと狭いんですけどね、と言いながらハンドルを切った。それきり会話は行われず沈黙が続く。
 真実は無言の中にのみ存在している。
 言葉の殆どは、なにかを誤魔化すために存在していると鶫は思う。それは誰かであり、自分でもある。世界には必要のない言葉が生まれすぎていて、それは雑音となり集団に紛れる事によってなんとかそれに含まれている毒素や悪意を覆い隠す事に成功している。それがもし崩れれば、それらは誰かを欺き、我が身を庇う事の殆どにしか使われていない事に気がつくだろう。
 だから、沈黙は心地良い。
 無言こそが、本質を現す。
 タクシーの運転手として拍手を送りたくなるほどデリケートで神経質な運転をする彼に、きっと今日一日誰も乗る事がなければ良いのに、なんて思っているでしょう? とタクシーを降りながら頭の中だけで尋ねた。
(生きるためには、そんな事は許されないから絶えている自分の事立派だと言ってあげたいけど、イラついてもいるんでしょう?)
 相変わらず彼は笑顔で、お釣りを受け取ると、彼は目の前にある喫茶店のドアに手をかけた。


「もう知っていると思うけど、あの二人が自殺した」
 溜め息混じりに堂本は言い、隣の席で鶫は「参ったね」と同情するように言いながらコーヒーに角砂糖を落とした。
 なにが気に入らなかったのか、堂本はそんな彼に視線をちらりと向けるが、なにかを言いかけて思いとどまった。
 ――これも、君のせいじゃないのか?
 そう言いたかったのかもしれない、と鶫は想像する。どうして、いつも自分にこういった予測不可能なミステイクが起きてしまうのだろうと自分でも甚だ疑問で、出来るならば誰かにそれを教えてもらいたいとすら思う。
 しかし、出来るのは堂本と同じように、口を閉じる事だけだ。まさか本当に自分に呪いのようなそんな力などある訳もなく、今まで起こった全ての出来事は偶然でしかなく、自分の存在が起因だと言える確証などどこにもなかった。
「でもほら、あの二人は自殺に失敗したんじゃなくてちゃんと成功した訳だし」
 くるくるとカップの中で回していたスプーンの動きがその言葉で止まり、鶫はそう言った直子に「そうだね」と苦笑した。
 テーブルを挟んで座っている二人――直子と崇がいつからかこちらを見ていた。崇は、以前のように常に半眼で睨みつけるような眼差しだが、今日はそれに加えて、ほんの少し戸惑いが混じっているようだった。一方で直子の方は以前と変わらず、この状況を楽しんでいるようで、鶫はあまり性格がいいとはいえない子だな、と頭を掻いた。
「そうですよね」
 彼女はテーブルに身を乗り出す。
「だから、別に問題ないんじゃないんですか?」
「そういう問題じゃないよ!」
 冷水を浴びせるような、怒張含みに堂本が叫び、直子はその唐突さに目を見開き、思わずその身を引いた。周りの客達も何事だろうと思ったらしく、こちらを見てきて、堂本もそれに気がつくと、取り成すように大げさに咳払いをした。
 肩をすくめて鶫はコーヒーカップを持ち上げた。
「まぁ、堂本さんが言おうとしている事は分かるよ」
「……えっと、私なにか悪い事言いました?」
 直子が聞こえていないわけがないのに、それでも小声で聞いてくる。
「こういう時は、全員が同じ方向を見ていないと嫌なもんなのさ」
「はぁ……?」
 よく分からないと言う顔をしている。きっと彼女も堂本と同じ方向を見てなどいないのだろう。
 落ち着いたらしい堂本が、仕切りなおすように首を軽く振り、再び口を開いた。
「二人は、川に架かる高架から飛び降りたんだそうだ。深夜で交通量も多くなかっただろうし、二人の事を気にする人もいなかっただろうね。飛び降りる瞬間を誰も見ていないそうだし――全く車が走っていないわけもなかったろうが、歩道など見向きもしなかったのだろう――、浅井君の自転車が飛び降りたであろう場所に残されていたそうだ。遺書もお互いの家から発見されている」
 共通点のない二人がどうやって出会い、どうして共に死ぬ事にしたのか、と直後のニュースで取り上げられていた。スーツにネクタイを硬く締めた中年の男が最近は携帯電話のネットでも心中相手を簡単に探す事が出来る、と憂うように説明し、そして「命を軽いものと捉えすぎなんですよ。簡単に死のうと思い、簡単に相手を探す事が出来る。それに知りもしない相手となんの抵抗も感じず出会うと言うのも本当は危険なんですよ。これは自殺だけにとどまらず――」
 要は、どうして現代人はこんなにも命を粗末にして、危機感に対して警戒が希薄なのだろうと、なにが言いたいのかよく分からない結論で締めくくっていた。
 誰か、だって命に重みを見出す事が出来ないのだから、と言ってあげればいい。それを聞いた時、彼はどう答えるのだろうか。命の尊さを、生きる事の喜びを、誰かと繋がる事の素晴らしさをごもっともに並べ連ねるだろうか。
 愛も、友情も、明日消え失せるかもしれないものなのに?
 おそらく、誰も彼にそんな事は言わない。そう尋ねるような奴は、彼とそんな事を話し合う事は無意味だと理解している。
「きっと前回会った時から個人で連絡を取り合っていたんだろう。多分、そうしている内に約束の日を待つ事が出来なくなったのかもしれない。それで、二人で先に死のうという事にしたのかもしれない」
「まぁ、その可能性もあるね」
 よく喋る男だ。
 そうやって喋る事で、自分の中のわだかまりをかき消そうとしているようですらあった。
 なにかを、否定しようとしているようだった。
 その名の通り黒いパッケージのマルボロブラックメンソールを鶫は取り出し口に咥える。
(死人に口なしって訳だ)
 ぼんやりとロッジ風の店内の高い天井を見ながら煙を吐き出す。
 あんた、死に至る道先案内人にでもなりたかったのか? 自分の思い描いている道筋とずれ始めた事に苛立ちを覚えているのか? きっとあの二人は最初からあんたの事なんて見てもいなかったし、むしろ好ましくない存在として捉えていただろうよ。あの二人はここにやってきた事を後悔していたんだよ。俺も含めた今残っている連中なんかと一緒に死ぬ事なんて真っ平ごめんだと思ったに違いない。最初っからだ。そうしている内にそうなったなんて、あんたの、自分自身に対する慰めでしかない。そして、あの二人は自分達で道筋を作り直し、幸せそうに死んだんだろうよ。
「その話はもういいんじゃないか? 問題は残っている俺達の事だろう」
 そう言うと、堂本はまだなにか言いたそうだったが、確かに意味がなさそうだと思ったようで「そうだね」と頷いた。
「とにかく、僕達と言うか、残った人達は勝手な行動は慎んでほしいんだ。せっかくこうやって集まった訳だし――」
 そう言いかけたところで直子が持っていたバッグから音楽が流れ始めた。一昔前に流行った女性アーティストの歌で、今は当時に比べると勢いが落ちているが、一定のファン層には根強い支持を得ているその歌は携帯電話の着信音だった。直子は「あ、ごめんなさい」と言いバッグから取り出し、ディスプレイを見て、
「ちょっと、電話いいですか?」
 ともう半分腰を上げており、鶫が「いいよ」と先に言うと彼女は嬉しそうに入り口の方へと移動していった。三人がその後姿を見送り、堂本は軽く舌打ちをした。崇も一向に話が進まない事に苛々しているようだった。
 自分では抑えているつもりのようだが、元々静かな店内の中で彼女の声はこちら側まで時折届いてきた。明るい声で「うん、うん」と頷き「えー、どうかなぁ」と微かに甘さが混ざるその声を聞きながら、ふと映画館で見たカップルの事を思い出した。あの二人は今頃どうしているのだろうか。
 そうやって一人で思案にふけっていると、直子がどうやら電源をまだ切っていない様子のままこちらへとやってきた。
「どうしたの?」
「あの、約束の日って来週でしたよね?」
「そうだけど、どうかした?」
 堂本には話しかけにくいのか、こちらへと近づいてきたので鶫が尋ねると、彼女は困った、と言うような顔をした。
「来週デートに行かないかって誘われちゃって」
「デート?」
「はい、最近仲良くなった子なんですけど」
「前日にしてもらうとか」」
「ちょっと、その日しか無理みたいなんですよね」
「……参ったね」
 ねぇ、堂本さん、なんならこちらの予定を遅らせようか?
 そう尋ねようと振り向こうとした時だった。
「なにふざけた事言ってるんだ!」
 だん、とテーブルに堂本がその両手を振り下ろした。先程よりも抑えが利かなくなったようで、その怒声は店中に響き渡ったが、もう彼はそれを気にしていないようでがたん、と椅子を蹴飛ばすように立ち上がると直子へと詰め寄った。
「デート? デートだって!? 馬鹿な事を言ってるんじゃない! いいか? 僕達はそんな下らない事に付き合うことなんてしてられないんだ! 僕達がこれからなにをしようか分かっているのか、お前は!? 僕がどんな覚悟で――死のう、と思っているのかお前、分かってるのか!?」
「おい、やめろよ」
 彼女の肩を掴もうとしたが、その前に鶫が二人の間に入り込み、堂本を押し返した。貧相な体型をしている彼はそれだけで軽くよろめき、腰を突きかけたがなんとか踏みとどまった。
「なんなんだよ、なんなんだよ、お前ら……ふざけてんのか? 俺がお前らの事どれだけ考えてやってると思ってるんだ!? それをお前らの我侭でぐちゃぐちゃにするのか!?」
 わなわなと彼の体が震えていた。呼吸が荒くなり、十本の指先がぐにゃぐにゃとそれぞれ意思を持っているかのように無規則に蠢き、眼球が落ち着きなくぎょろぎょろと動き回っていた。
「別にデートくらいさせてやればいいんだ。数日命が延びる程度気にしなければよかったんだ」
 だが、もう、手遅れだ。
 誰も、もう彼が見ていたものを見ようとはしていなかった。無様な醜態を晒している男に向けられている視線にはもはや嫌悪感しか残されておらず、すぐ背後から「……気持ち悪い」と言う直子の呟きが聞こえた。
「そんな目で見るな!!」
 彼はなおも叫ぶ。
「お前ら、クソだ! お前らも自分の事しか考えていない偽善者のクズだ! 俺がどれだけ我慢してやっているかお前らは分かってないんだ!? クソ、クソ!! バカ共が! 俺がいなくなってからお前らは後悔するんだよ!! 俺の言う事聞いておけばよかったってな!」
「言いたい事終わりか? それで? 気は済んだか?」
 煙草を灰皿に押し付けた。赤い灰が灰皿の中で四方に散らばり、鶫はやれやれと肩をすくめ、直子に座るように促した。
「時と場合を考えた方がいい。あんた、今度はいい年して警察に説教食らったって理由でまた笑われるぞ」
「……っ」
 その一言で、堂本は黙り込んだ。そしてしばらく立ち尽くし、店中の、自分に向けられている視線の一つ一つ全てにまるで呪おうとでもするように睨み返した後「ちくしょう!」と叫び、椅子に置かれてあったジャケットを取り上げた。
「さよなら、堂本さん」
 鶫が軽く手を挙げた。
 堂本はそれに気がついていなかったのか、気がついた上で無視したのか、無言のまま去ろうとした。
(……また今回もお流れになったか)
 まぁ、この面子では無理もないか。そう思った時だった。
「ちょっと待てよ!」
 今まで殆ど喋らずにいた崇が、そう叫んでいた。


(ふざけんな……ふざけんな……ふざけんな)
 何度もその言葉が頭の中に浮かんでは消えた。
「お前、死ぬんだろうが。俺を死なせてくれるんだろうが。それを今更やめるだと?」
 自分がなにを言っているのか、どうしたいのかも分からない。
 分かるのは、自分の中で膨れ上がっていた風船が派手に音を立てて破裂したと言う事だけだった。
 鶫と直子が静止するよりも早く、崇は堂本へと走りより、その胸倉を掴みあげていた。
「ふざけんな!」
 その剣幕にたじろいだ堂本が情けない声を出した。
「死ねばいいんだよ! 俺もお前も死ねばいいんだ! それでいいんだろうが!? そんだけの事だろうが! それがなんだ!? こんな下らない事であっさりやめちまうのかよ! お前、何様のつもりだ!? ムカつくんだよ! 生意気言ってんじゃねえ! 死ねよ! 約束通りに死んじまえよ!!」
「……う、う、うう……うるさいんだよ!」
「うるせえ! お前がうるせえ! 俺はこんなの認めねえぞ!」
 視界の端で鶫がうんざりしたと言うように深く溜め息を吐いていた。彼は立ち上がるとレジに向かい、支払いを済ませ、店員に詫びをいれ、こちらへとやってくると二人の肩を強引に掴み引き離した。
「いい加減にしろよ。どれだけ店に迷惑かけるんだ。もう出るぞ。お終いだ」
「なにがお終いだよ!」
 崇は掴まれていた手を強引に振り払った。だが直後に頬に平手打ちをされ床に転がされる。
「今回の、自殺はもう無理って事だ」
「……ふざけんな」
「ふざけていない。お前は気に入らないかもしれないが、到底この状況で一緒に仲良く死のうなんて無理な話だ。お前がどうしても死にたいならまた新しい誰かを探すんだな。もしくは――」
 そう言いかけて、彼は言葉を止めた。そして彼を起こそうと手を伸ばしている間に、堂本は我先にと店から飛び出していった。鶫もそうしている彼を引き止める事もせず、崇を起こすと「さぁ、出るぞ」と声をかけたが、彼は再びその手を振り払っていた。
「まだ、懲りないのか」
「……うるせぇ、俺に触るんじゃねぇ」
「分かった、分かった。好きにしろ」
 鶫はもうなにを言っても無駄だと思ったのか、背を向けると直子に「行こう」と声をかけ、荷物を手に取った。直子はそんな彼に返事をしながら、ちらりとこちらを見る。
 この女、殺してやろうか。
 そもそもお前が電話になんか出なければ、最初から約束を守りデートなんてものを断っていれば、鶫に相談などせず約束の日お前一人来ないでいれば――そうしていれば、こんな事にはならなかった。
「……お前」
「……なに?」
「……お前……」
 言葉に、ならない。
「……なにが、楽しいんだよ、お前。なんで、そんな事するんだよ……死にたいんじゃないのかよ。だったら、だったら、なんで迷う必要があったんだよ」
 気が付くと、もう二人の姿はなく、喫茶店からも飛び出していた。
 そうやって走りながら、涙が零れた。頬を流れるよりも先に後ろへと流されていくその液体はいつまでも止まらず流れ続けていた。
 なぁ、なぁ、鈴。
 なに、どうしたの?
 彼女が、笑っている。
 そこにあと少しで触れる事が出来たのに。その傍に行く事が出来る筈だったのに。
 俺、笑えないよ。お前に笑いかける事が出来ないよ、今のままじゃ。
 俺の中にいるお前じゃなくて、お前のところに行かないと。そこで、お前と会わないと。
 俺は、笑えないよ。


「俺は、別によかったんだけどね」
「でもやっぱり私のせいですよね」
「まぁ、あの二人にとってはそうだろうね」
「あっちゃあ」
 直子は大げさに額をぺしっとはたいた。あれから取り残された鶫と近くのファーストフード店に寄る事にし、彼女は炭酸の抜けきったコーラをストローで吸っていた。
「まぁ、元々浅井君と久須美さんの二人が自殺してしまった時点で今回は無理そうだとは思ってたんだけどね」
 そういう彼に直子はきょとんとした顔をした。
「そうなんですか?」
 てっきり、四人で来週の事について話し合うと思っていたのだが彼の中ではそうではなかったらしい。
 直子は改めて正面に座っている鶫を見つめた。
 無造作な長髪に隠されているが端正な顔つきをしていて、落ち着いた様子だが、それよりはどこか輪より少し離れて静観を決め込んでいるというような素振りである。
「堂本さんは――まぁ、本人がそう言っていただけだけど――元々ストレスが溜まりやすい環境にいるらしくてね。いつもないがしろにされていると感じていたらしい。以前集団自殺に失敗した時皆を集めたのは堂本さんじゃなかったんだけど、多分その時に共感のようなものを抱いたんだろうね。それを今度は自分が生み出したいと思ったのかもしれない。まぁ、死ぬ事を利用して生み出される繋がりに意味があるのかは俺には理解出来ないけどね」
「寂しかったんですかね」
「そうだね。原因はそれが一番あるかもしれないね。彼は――死のうとしていた事は確かだけど――なにより他人と繋がりが欲しかったのかもしれない。だからあの自殺した二人にも腹を立てていたんだろう。きっとあの二人は俺達を除いて二人で繋がる事を選んだんだろう。以前会った時もどことなく余所余所しかったし。堂本さんはそれが悔しかったんじゃないかな。自分を中心に繋がるはずが、さっさと見切りをつけられ、自分の手の届かない場所で繋がりが生まれていた事に」
 そう言い、鶫がこちらを見つめた。
 そして、苦笑を零す。
「その上、残ったメンバーはバラバラ。一人は死にたくても死ねない奴で、もう一人の男は心ここにあらず。そして女に至っては、予定に難癖をつけだし、その理由がデートと来たもんだ」
「……なんか殆ど私が原因な気がするんですけど」
「いや、どっちみち遅かれ早かれ彼は今回の事をなかった事にしたと思うよ。彼が望んでいたのはあくまで彼に共感をして親しみを覚えた上で一緒に死ぬ事だったから」
 直子はそれを聞いて、安心していいのか、馬鹿にすればいいのか曖昧なまま「はぁ」と零した。
 面倒くさい奴と絡んでいたんだなと嘆息する。
 結局、目的が一緒の連中が集まっても価値観だとか考え方と言うものは全くバラバラで、それは生死に関する事以外でも殆ど変わりがなく、彼女にとってそれを目的のために相手に合わせると言うことはこの上ない苦痛にしかならない。
「死ぬ前まで人間関係に気を遣わなくても」
「しょうがないさ。彼の場合は人間関係に飢えていたから。君が死ぬ前に楽しめるだけ楽しんでおこうと言うのと一緒だよ」
「そう言われると言い返しようがないんですけど」
「俺は君みたいな考え方嫌いじゃないんだけどね。どうせ死ぬならやり残しとかない方がいいに決まってるし。相手は彼氏?」
「うーん……友達、です」
「まぁ、どちらにせよその友達と遊びに行けばいいさ。君は別にその時やっぱり死ねばよかった、なんて思わないだろうし、機械なんていくらでもある」
「あの、鶫さん聞いていいですか?」
「ん?」
 直子はそう言うとぐいと身を乗り出した。
「鶫さんの、死にたいタイミングはいつなんですか?」
「俺?」
 こくり、と頷く。
「死に方にこだわりあるんですよね? でも鶫さん、自分の意見とか一切言わなかったじゃないですか。流される形みたいになってたのに、文句とかなかったんですか?」
 それに触れようとしたのは、彼女の中にある狂ったなにかがそうさせたのだろうか。いつでも彼女の意識は無意識に優先される。その無意識は今、あの集団の中で誰よりも死に近づいているようで、そうすればするほど死そのものが遠ざかろうとしている彼に向けられようとしていた。
 鶫はその無意識に気が付いているのか、特に変化する様子を見せないまま「君が言ったとおりだよ」と煙草を取り出した。
「私なにか言いました?」
「流される形みたい」
 怠惰。いつもそんな言葉が付きまとっているようだった。
 その時も、それを思わせる動作で彼は足を組み替えた。
「君や、他の人はきっと自分で死ぬタイミングを作り出すんだろう。俺も昔はそうしようとしていたよ。けどいつからかな、ずっと自殺未遂を繰り返しているうちに、ふとずっと死ねずにいるが、こうやって自殺めいた事を繰り返せばいつか死ねるんだろう、と思うようになった。とんでもない本末転倒だと思うけれど。きっと延々と失敗を繰り返し、いつか成功する日が来るんだろう。その時が俺のタイミングなんだろう、と今はそう思ってる」
「なんか運任せとか、神頼みみたい」
「うん、そういうの楽しそうだなと思う事にしたんだよ。俺が死んだら神様が俺を殺したくなったんだろうね、きっと」
 そろそろ行きます? と彼女が尋ねると彼も頷いた。二人で並んで店から出て行き先を告げると「じゃあ」と彼が手を挙げようとしたが、そこでふと
「そういえば、君と一緒にいた男の子どうするの?」
 と問われ、直子は渋い顔をして唸るような声を出した。
「あー、もう多分、私の事相手にしてくれないんじゃないかなぁ、とか思ってます」
「ありえそうだね、それ」
 彼がお気楽そうに笑うのでつい彼女も「なんですか、もう」と笑い、彼を軽く叩いたりしてしまう。
 どう考えても、再び崇が自分の呼びかけに答えるとは思えなかった。今日の事で彼は自分にきっとこれ以上ない失望と怒りを覚えているはずで、そんな自分に近づいてくる訳など到底ある訳もない。
 どうするのだろう。
 もしかすると、もうわずらわしい事はやめて一人で死ぬ事を選ぶかもしれない。そんなふうに思っていると鶫が携帯電話を取り出した。
「よかったら、彼の番号教えてもらえないかな」
「崇君のですか?」
「そう」
 しばらく考えて、彼女は教える事にした。一体彼が崇になにを伝えようとしているのかは見当も付かなかったが、自分よりは彼のほうが崇の気持ちを汲み取れるような気がしたし、なにより彼女自身、彼に対して殆ど興味がなくなってきていた。
 死んだ幼馴染を愛し続けて死を望む男の姿を眺める事に、もう満足していて、それ以上楽しめる要素を彼の中から見つけられる事はもうなさそうだったし、それならもう彼と行動を共にする事は彼女にとってなんの意味もない事で、きっとつぐみの存在があろうとなかろうと、これから彼に会う事があるとは元から直子は考えてもいない事だった。
「いいですよ」
 番号を読み上げると彼はメモリに登録をしたものの、すぐにそれをしまってしまった。どうやらすぐにかけようと言うわけではないらしい。そしてそれが済むと彼は「じゃあ」と軽く手を挙げ、別れを惜しむ様子もなく雑踏の中へとその姿を紛れさせ、彼女の視界から消えていった。
(どうするんだろ?)
 直子も彼を見送る事はせず、そこから歩き出し、途中でその事を考えた。
 もしかすると、彼に二人で一緒に死なないか、と言う話でも持ちかけようという気かもしれない。もしそうなら崇も無碍に断る事はしないだろう。もっとも、死ねない男に誘われてうまくいくかどうかは怪しいが。
(よかったね、崇君)
 胸中でそう呟き、彼女はそこに彼への別れを含ませた。
 そして、同時に彼の幻想と言う名の少女にも。
 高井藤吾が死んだ事を知ったのは真耶からの電話だった。
 それからニュースなどでもその名前を見かけ、どうやら本当に死んだようだ、とブラッドは思ったが、そこに特別な感情が芽生えてくる、と言う事はなく、自分がそう願ったにも関わらず、なんだか彼が死んだのが酷く他人事としか思えなかった。テレビに映る彼の正面を写した写真が表示された時も、それは見慣れているようで、懐かしくもあるし、同時に、そういえばこんな顔していた、と乾いた感想が浮かんでくるばかりで、死んだという事に、一体どう思えばいいのだろうかとよく分からないままだった。
 もうこの世のどこにもいないらしい。
 だが、一体それになんの意味があるのだろうか。
 少なくとも自分になんらかの変化が起こる事はなかった。
 一つ命が消えて、その事でどこかに影響があったかどうかと言う事すら分からない。
(……なんか、あっけないな)
 命なんてそんなものでしかないのか。
 そんなふうに思いながら「なぁ」と呼ばれ、ブラッドはその声の方へと振り向いた。


「聞いてる?」
「え? ごめん、全然聞いてなかった。なに?」
 車窓から流れていく景色を眺めていた奈菜がそう言ってハンドルを握っている春日の方へと視線を向けた。彼はふぅ、と小さく溜め息を零すと短くなったマルボロを灰皿に押し付けていた。
「もう日付が変わろうとしてるけど、まだ行きたい所ある?」
「もうそんな時間なんだ」
 呆けた声を出す。車はショッピングモールがあった市街地から離れ、中央分離帯が敷かれた広い国道を早くもなく、遅すぎもしない速度を維持していて、等間隔に設置されている街灯の光に照らし出された道を延々と走るうちに時間の感覚を失ってしまっていたようだ。
「春日君といると時間が経つの早いから嫌になっちゃう」
 そう言いながらシートをリクライニングさせた。四角い長方形のサンルーフから見える暗い空と、まるで流れ星のように現れては消えていく無数の星を見上げながら、小さく笑いを零した。
「なにか考えてた?」
「なんで?」
「呼んでも返事をしなかったから」
「うーん、考えてたような気もするし、そうでもないような感じ」
「そう」
 相変わらず彼は彼女がどんな曖昧な表現や態度を見せても、それに追求をする事もせず、乾いた返事をするだけだった。なので彼女もいつものように、勝手にその続きを口にする。
「人生の三分の一は寝てるって言うじゃない? 四分の一でもいいけど」
「そうだね」
「残り、三分の二の内のその一はどうでもいい事に使ってる気がするのよね」
「今のドライブの事?」
「ううん。それは最後の三分の一の方かな」
 残りの三分の一に、名前をつけるならどう言うべきなのかは彼女もよく分からなかった。ただ、人生の半分以上は自分の望まないもの達に包まれた生を送るのが常らしい、と彼女は思うし、思いがけない喜びや、些細な幸せと言うものに大小だのと価値をつけてしまい線引きをしていると、殆どの人生はすかすかになってしまうのだろう。
「私、今どうでもいい事を考えてた」
 ポツリと言い、寝たままハイライトを口にくわえた。
 スピーカーから彼女が選んだアーティストのインストが流れ出し、最初は静かなピアノから始まりボーカルの歌がAメロを歌い終える頃にひずんだエレキギターをかき鳴らし始めた。そんなふうにだんだんと乱暴になっていくような構成の曲を彼女は好むが、時折そういうものをあざとい作りだと思ったりもする。
「どうでもよくない事しか考えないとしたら、人間は皆もっと早死にするだろうね」
「考えるのに疲れちゃって?」
「それもあるし、きっと考えるべき事がすぐになくなって生きる意味がない事に気が付くから」
「あっはは。確かにそうかも」
 彼の言葉が面白くて、素直に笑い声を上げた。そうしながら彼の姿をシート越しに見ると、ほんの少し開かれた窓から入り込んでくる風に彼の髪が揺れていた。
 君は長生きしそうだねぇ。
 だって、君にとっては全てが無駄なんだもの。その無駄に面倒くさそうな顔もせず、苦とも思わず幾らでもお付き合い出来るんだもんね。ねぇ、君にとって生きる意味を円グラフにしたら、多分一色だけで他の要素なんてないんだろうね。
 なんて言えばいいかな、それ。
 おざなり。怠惰。惰性。適当。空虚。流されるまま。自由。雁字搦め。悲しい。
 他人はきっとそんなふうに思っちゃうよ。でも君はそんな事想像もしないよね。
「ねぇねぇ、春日くぅん」
「なに?」
 ごろりと横に寝返りをうち、彼のほうに向き直る。スカートがねじれて太ももがあらわになるが、二人ともそんな事気にもせず、彼女は彼の袖をくいくいと引っ張りながら、甘ったるい声を出した。
 死に至る病。
 そんな言葉を聞いた事があるかなぁ?
 きっと君じゃない誰かが、君のような生活を送ろうとすると、それに遅かれ早かれとりつかれてしまうと思うよ。だって、苦しいから。寂しいから。泣きたくなるし、けど泣いても誰も聞いてくれないから。
 でも、君は平然と生きてるし、他の生き方を望みもしない。
 そして、明日死んだって別にいい。
 悲しむのは、君が死んで悲しむのは君以外の誰かなんだね。いつか忘れられる悲しみだけが一時溢れて、君はずっと平静としているんだね。
「そろそろ、ホテル行こう?」
「あぁ、やっぱり行くんだ」
「うん」
 だって、私ね。
 そういう君を見てるだけで濡れるんだもん。
 君がそうやって前だけを見て、私の事を見ていなくても、私はそんな君を見てるだけで、太腿の辺りがもぞもぞして体中脱力しちゃって目がとろんとしてくるから。
「今日はやっぱり泊まっていこ」
 ようやくその身を起こした彼女は、悪戯をするように彼の髪にふれ、その指で弄んだ。彼が少し迷惑そうな顔をするものの、なにも言わないのでしばらくそうしながら、今運転席に座っている彼の上に跨りそのまま事故死するような事があれば、きっと世間は彼が死ぬ事になった理由を永遠に勘違いし続け、自分だけが彼の最期の理由を知る事も出来るのだと、全くどうでもいい事を、また考えていた。


「なぁ、怜」
「なに?」
「お前、悩みとかないの?」
「なんで?」
「いや、なんとなくそう思って」
 その日も、松本の車でラブホテルから家へと送ってもらっていたのだが、ふとそう問われ、怜は「別にないよ」とそっけない返事を返した。そもそも彼がそういうふうに言ってくる時、その内容はいつも彼自身の中に問題がある時で、誰かに聞いてもらいたがっていると言うのが殆どなので、怜は「なんかあった?」といつものように素知らぬ顔をして尋ねてあげる事にした。
「え? いや、別にそういう訳じゃないんだけど」
(嘘ばっか)
「そっかぁ、そうだよな、怜ってそんな落ち込んだり考え込むタイプじゃないもんな」
 確かにそうだが、なんだかバカにされているような気もする。
 どうやら、すぐにはその問題を言いそうにはなかった。彼は見栄っ張りなところがあるので、そう簡単に浮気相手の自分に悩みを打ち明けるのはみっともない、なんて思い込んだりしているのだろう。
 で、なに?
 そう言ってしまおうか。いや、やっぱりやめておこう。彼はそんなふうに突き放されたような言い方を酷く嫌う。彼にとって自分は年下の、気が強いところはあるけど、自分からすればちょっと間の抜けた女の子で可愛らしいと言うイメージを重ね合わせたがっていて、そんなふうに見下ろされるような言い方をするのは自分側であると思っているところがある。彼女もわざわざ面倒な事にする気もなかったので「うん、そうかも」と彼が望むような返事をした。
(あー、もうなんかいい加減うんざりしてきたなぁ、こいつ)
 内心でそうぼやく。
 面倒くさくない関係が欲しい。その上で自分に優しくしてほしい。
 そういう理想を持っている彼女にとって、今彼はそこから外れていこうとしていた。いや、元々外れていたのかもしれない。これでも自分も妥協をしているつもりで、妻子持ちゆえにある距離感はそれなりにちょうどよかった。それでも、こうやってうじうじするような男はやはり付き合いが長くなってくるといい加減うんざりしてくる。
「いや、あのさぁ……」
 ほら、やっぱり言うんじゃん。
 いつもより切り出すタイミングが遅く、あと数分もすると家へと辿り着く頃に彼は口を開いた。
「嫁が気付いたかもしれないんだ」
「マジ?」
「いや、ちょっと疑うくらいだよ。ただ、ちょっと前ほどは会わないほうがいいかもしれない」
「……そう」
 ちょうどいい。私もあんたに飽き飽きしていたところだし。これを機会に距離を置いて、そのまま別れてしまうのもありだ。そう思いながら、果たして彼の妻は本当に今頃になって気が付いたのだろうか、と首を傾げた。彼が言うには仕事が忙しくて遅くなったと言い訳をしているようだ。確かに今のところ、仕事帰りにデートなどをしてもある程度の時間になると帰るようにしていたし、彼が休みの日に会うのは月に一回ほどのペースだが、それでも今までに怪しむ事はなかったのだろうか。
(まぁ、私には関係ないか)
 今までも浮気相手としての恋愛をしてきた事はある。その時だって例えばれても自分に被害が回ってくるような事なんてなかった。例え妻帯者だろうと、高校生の自分に対して出来る事など、せいぜいが侮蔑する程度で、そんなものは彼女にとって痛くも痒くもない。
 ちらりと横目で彼を見ると、どうも神経質になっているのか、正面を見ながら苛立たしそうに髪を掻き毟っていた。
(いいじゃん、別にそんなの大した問題じゃないって)
 どうせばれて痴話喧嘩する事になっても、いつか収まるところに収まるのだ。それがたとえ離婚と言う結末を迎えたとしても、その内その痛みも忘れていくはずだ。例えば、今みたいに妻とは違う誰かを助手席に乗せたりしながら。
(それが嫌だったら、はじめから浮気なんかしなかったらいい)
「ごめんな。でもお前は心配しなくていいからさ。ちょっとしたらあいつも勘違いだと思うと思うし」
「うん、分かった」
 そう頷いたところで、車が停止した。まるでこの話をあまりしていたくないためにタイミングを見計らったかのようだったが、彼女も別にそんなにしていたいと思うような話でもないので「じゃあね」と言いさっさと車から降り、ガラス越しに彼に向かって手を振ると、彼はいつもより少し弱々しい微笑を浮かべて見せた。
 静かに車が遠ざかっていく。
 ふと、怜はいつもは見送る事などしないその車を、角が曲がり見えなくなるまで見続けていた。
(もう、あの車に乗るのも最後かも)
 それは軽い感傷のようなもので、それ以外の意味など到底なかった。
 もし、彼女に未来を予知するような感受性と言うものがあったならば、もう少し違う見方を持つ事も出来たのかもしれない。
 だが、単なる女子高生でしかない彼女にそんなものが備わっている訳もなく、やれやれと言うようにあくびを零しながら踵を返すと玄関を開けた。
「ただいまぁ」
「あら、おかえり」
「うん」
 ちょうど風呂上りらしい廊下を歩いていた母親が、帰ってきた娘を見ると微笑を浮かべた。その頬笑みの中に、ほんの少し疲れが滲んでいる事に怜は気が付いた。
「ママ、大丈夫? なんか顔色悪いよ?」
「うーん、ちょっと最近ドタバタしてたから」
 最近用事が立て込み忙しいらしいと言う事は怜も聞いてはいた。そんなに忙しいなら用事の一つか二つキャンセルすれば? と以前言うと、そうもいかないの、と厳しい顔でたしなめられたため、それ以来はなにも言わないようにしているが、やはり心配ではある。
「早く寝なさいよ」
 怜が母親の口調を真似してそう言ってみると、彼女はきょとんとし、腰に手を当てながらやれやれと言うように苦笑を零した。
「はーい」
 どうやら自分の口癖を真似しているらしい。怜は靴を脱ぎ「私ももう寝るね」と言い、軽く手を振りながら自室へと向かった。
 部屋に戻り、ベッドに寝転がる。
 そのまま服を脱ぎ器用に寝巻きに着替えると、電気を消して布団にくるまった。
(…………)
 目を閉じたまま、ゆっくりと思考を進める。まるで深い海からゆっくりと上昇してくるのを待つように。
(……別れたら、また一人ぼっちかな。でも職場で顔を合わせるし、けど別れた後に会うのもヤだな。やめようかな、バイト)
 静かなのは嫌い。一人ぼっちを強く感じてしまうから。
(……誰でもいいから、傍にいてくれないかな)
 今までのように。
 決して今までがそれで幸せだったという事ではないけれど。
(…………)
 だってそれ以外を知らない。
(…………)
 その日も、彼の事を思い出していた。
 自分の知らない明日を知っている彼の事を。
 あぁ、これが恋なのかな、と最近彼女は思う。
 ふと胸の奥が疼いた。まるで失恋をしたようだと切なさを覚える。実際はたった一日だけの逢瀬だったのに。
(……春日君)
 幸せになりたいよ。
 そう願っても、きっと叶わないから、そんな願いはしようとも思わなかった。
 だけど彼なら、自分を幸せにしてくれる。
 そんな事を、思った。
45, 44

  

 ――ちょっと最近元気ないかな、うん。


 その書き込みを見たのは1週間程前だったと記憶している。
 それきり恵子はインしていないようだった。少なくとも自分がインしている間は。
(なんか……まるで私が悪い事したみたい)
 茜はぽつりと小さく声に出してしまっていた。とは言えそれを聞く者はいない。出来るならそれを拒否してくれる誰かがいてくれればと思うが彼女と恵子の繋がりを知っているものは他のチャット仲間にもいないので、相談を持ちかけても返ってくるのは「向こうが忙しいんじゃない? 茜ちゃんが気にする事じゃないと思うよ?」と素っ気無いものばかりだった。
 でも、恵子さんなにかで悩んでたんだよ? 私でよかったら相談に乗ってあげたいんだ。
 ――うーん。でもさ、やっぱ所詮チャットだからねぇ。皆それぞれの生活あるし、そこまで深く関わる事は難しいんじゃない?
(……そんな事ない)
 再びそう呟いた。
 だが彼女がキーボードをなぞり、ディスプレイに表示されたのは「そうかなぁ、寂しいけどそんなものかもしれないね」と言う相手を肯定するもので、彼女はもうこいつとは話しても無駄で出来るなら回線を遮断してしまいたいと思うが、今そのチャットルームにいるのは自分と相手の二人だけで、そうしてしまうと一人になってしまうため、そうする事が出来ずにいた。
 相手は「まぁ、会ってみたりしたらもっと色んな話も出来るようになると思うけど」と、悟ったような事を言いながら、同時に女子高生である茜を口説こうとでもしているようだった。
 相手は二十代の社会人、と言う事らしいが、彼女がインしている時は殆どいるので、どこまで信じたものか怪しいもので、そもそも彼と話していても楽しいと思えた事など殆どないので、茜からすれば迷惑極まりない話だった。
 落ちてしまおうか。そう思う。
 だが、落ちたところでなにもない。最近は面白いと思うようなサイトも見当たらないので、例えこんな相手でも切ってしまうと自分は孤独になってしまう。
 暗澹たる思いに暮れかけ「けど俺でよかったらなんでも言ってよ、なんでも聞いてあげるからさ」と表示される画面を見て、じゃあ、さっきの質問に私が納得できる言葉をよこせよ、とキーボードに乱暴に指を走らせかけたところで、恵子がインしてきた。
「あ」
 先程よりも声が大きくなる。
 ――ごめん、ちょっと落ちるね。
 ――え? どうしたの?
 そういう彼の疑問に答える間もなく、彼女はそのルームから出ると、恵子にメッセージを送った。
(……原因が私じゃないとして)
 返事が返ってくるまでに、彼女は思考を絶え間なく巡らせる。大して長くないはずなのに、彼女にはまるで時が止まっているようですらあり、もし返事が来なかったらどうしようと不安な気持ちが溢れそうになる。
(それでも、私と話そうと言う気がなくなってしまうというのなら、その原因は私にあるんだろう)
 掌がじわりと汗ばむ。着ているシャツの袖でそれを拭いながら、無意識に力がこもり手首の辺りを握り締めていた。
(なら、私が変わらなきゃならない。恵子さんが私と話したくなるような私に)
 茜は脅迫するようにそう言い聞かせた。
 彼女にとって自分が有益な存在であらねばならない。以前のように愚痴を聞いてもらってばかりで、他愛もない会話ばかりをする関係を今終えなければならない。
 だが、どうやって?
 ――こんばんは。
 その書き込みが表示された。そうやって反応が返ってきたことに彼女はほっとする。
 ――こんばんは。久しぶり!
 ――あぁ、そうね、最近インしてなかったから。
 ――忙しかった? 私は毎日暇だけど恵子さんは家事とかあるから大変だよね。
 そこでやや返事が滞った。あれ? と思いまさか彼女の気に食わない事を言ってしまったのだろうか、と動悸が早くなる。もしそこでもしかすると家族関係になにか問題があるのだろうか、と考えられる余裕があったならまだマシだったが、今の彼女にはもし「落ちる」と言われたらどうしよう、と言う心配が上回っていたため、それを思う事は出来なかった。
 ――まぁ、そうね。ちょっと色々あって。
 ようやく返ってきた返事は淡白なもので、それでも彼女は音として発する言葉ではなく、文字と言う媒体を通して彼女と接している事に感謝すらしていた。もし、今自分が彼女と対峙していたら常に上擦って掠れた音で「そ、そうなんだ」と言っていたに違いなかった。
 ――そうなんだ、じゃあ、今くらいはゆっくりしよ?
 もうその話はやめておくべきだ。
 脳がそう告げていた。だが彼女は一体恵子に対してなにを言えばいいのか分からなかった。
 いつものように、自分の愚痴を聞いてもらうのは彼女に苦痛を感じさせてしまうかもしれない。だが他の話となると、彼女の中から恵子へと聞かせたくなるようなものなど何一つとして出てこなかった。
 茜にとって日常は、この狭い箱の中でのみ生まれる。だがそこから彼女に世間話として聞かせたくなるようなものが転がっている事はなかった、そして、彼女が普段から切り離している外界と呼ぶべき世界の事を、茜は殆ど知らない。
(……な、なにか話さないと。なんでもいい、彼女が喜んでくれる事、そうでなくても明るくなるような事。私が励ましてあげられる事を言えたなら――)
 激しく巡る思考は今にも沸騰しそうで、無意識の内に呼吸が荒くなっていた。
 今、そんな滑稽な彼女の姿を、しかし誰が笑う事が出来るだろう。彼女は今この瞬間、確かに人間と対峙していた。そして他人のために我が身を捧げようとまで思っている。それは、他の誰とも変わらない感情が彼女にあることを証明している。ただ、それでも笑うのなら、きっとその理由は、果たしてなにを言えばいいのか分からない彼女の姿にこそ向けられる。ただし、殆どの人間が、彼女と大して差などないと言う事も、確かだ。
 キーボードに手を伸ばした。
 ――あ、そうだ。私、恵子さんに聞いてもらいたい事があったんだ。
 ――え? なにかあった?
 ――うん、あのね。
 今の彼女を、誰も責める事は出来ない。
 誰かを思う事を、責める事は出来ない。
 例え、彼女が全て仮初めで、出鱈目で、狂言めいた事を口にしても。
 ――私さ、告白されちゃった! 同じ学校の同級生なんだけどね、びっくりでしょ?
 ――うそ!? そうなの? それはびっくり。で、どうしたの?
 ――一応返事はまた今度って事にしてるんだけど。
 ――茜ちゃんはその子の事好きなの?
 そんな奴いないんだけど。自嘲的に笑いが零れた。
 ――うん、私も前からその子の事好きだったんだ。
 ねぇ、恵子さん、私も幸せなの、今。眩いくらいに。それをあなたにも分けてあげたい。
 私が嬉しそうな様子を見て、恵子さんにも喜んで欲しい
 そして、その喜びを落ちた後もその心の少しでも残していてくれたなら、私の嘘にも意味があるはずだ。
 ――両思いって事?
 ――そう。私も告白された時は驚いちゃったんだけど、今はすごい嬉しいんだよー。
 ――そうなんだ、よかったね。
 責める事は、出来ない。
 まやかしのような嘘と言う手法を使った事を責める事は出来ても。その思いを責める事は出来ない。
 ――うん、なんかね、あー、幸せってこういうものなのかな、って――


 ――もう落ちる。


 ただ、嗤えばいい。
 どうする事も出来なかった彼女の姿を、遠巻きに見ながら馬鹿にするように嗤えばいい。
「え?」と音を漏らした時、既に誰もいない場所で哀れにも取り残された滑稽な姿を。
 例え、その嘘が本当でも、その幸せを受け取ってもらう事など到底叶う訳もなかった彼女を。
 ――私さ、告白されちゃった! 同じ学校の同級生なんだけどね、びっくりでしょ?
 ――うそ!? そうなの? それはびっくり。で、どうしたの?
 ――一応返事はまた今度って事にしてるんだけど。
 ――茜ちゃんはその子の事好きなの?
 ――うん、私も前からその子の事好きだったんだ。
 ――両思いって事?
 ――そう。私も告白された時は驚いちゃったんだけど、今はすごい嬉しいんだよー。
 ――そうなんだ、よかったね。
 ――うん、なんかね、あー、幸せってこういうものなのかな、って――
 なにを言っているんだ、お前。
 歯軋りが聞こえ、それを自分のものだと理解するのに幾ばくかの時間を要した。無意識で行われていたそれに気が付いた時、彼女は酷く狼狽した。どうやら、女子高生の恋愛とやらに異常に苛立ってしまったらしい。
 いや、そうではない。イラついているのは女子高生と言う括りではなく、この茜と言う女にだ。
 お前、そうじゃないだろう。
 恵子は、叩くようにキーボードを打ちつけるとパソコンの電源を落としてしまった。それでも興奮はまだ続き、テーブルを指先で何度も弾き、そのトン、トン、と言う音が幾つも重なる。
 お前みたいな部屋に引きこもってばかりのなんの取り柄もないバカな女が男から告白されただって? 冗談じゃない、お前はそうやってずっと一人でどこの誰とも知れない相手に媚を売って、なんとか繋がりを得ているような人生がお似合いだったんだ。それが恋愛だって? 両思いだって? 幸せだって? ふざけるな。
 部屋から出てリビングに向かう。水分を求めて開けた冷蔵庫はがらんとしていて、最近は冷凍食品などで済ます事が多くなっていた食生活を実感する。最近その事で、和寿と喧嘩してしまったが、そもそも和寿がその冷凍食品を口にする事は殆どなく、いつもどこかで外食を済ましてきては、冷蔵庫に入れてあった食材を翌日に捨てると言う繰り返しだった。彼が怒っているのは息子にそんなものばかりを食べさせている事にだが、そこで彼女は「一緒に食べない人が偉そうになにを言ってるのよ!」と叫ぶと、彼は逡巡したあと、噛み殺すように「健康の事とかあるだろうが」と言った。決して「悪かった。これからは三人で食べるようにしよう」とは言わなかった。そして逃げ出すように「仕事行くわ」と姿を消した。
 ふざけるな、と殴られた方がマシだ、そうして自分も彼に向かって今手にしているポットを投げつけて、床に落ちて粉々になって散らばりびしょびしょになったそこで醜い乱闘を繰り広げるのだ。そこでもう全て吐き出してしまいたい。この鬱屈していく精神を。どうしようもない倦怠感と脱力感に包まれている事を。あなたの不道徳にずっと耐え忍んでいる事を。それでも、またやり直したいと思っている事。三人で、また幸せな暮らしを営んでいく事。
 しかし彼はここから足早に出て行く。最早対峙する事すら拒否していると言うように。
(……あんな奴がどうして幸せになんかなれる!?)
 お前は、情けない人間なんだ。
 みすぼらしくて、一人ではなにも出来なくて、いつも誰かに不幸を嘆いて、そこから抜け出す手立てを見つけられず、見つける事もせず、惰性で生きているだけで、なんの価値もない。それがお前の人生なんだ。
 お前の存在に価値が生まれるのは、その情けなさに、気紛れに、同情をしてやろうと思う時のみ生まれるのだ。
 お前のような無意味な存在は見下ろされるために存在しているのだ。それ以外の価値などないのだ。その姿を見て嘲笑うために存在しているのだ。
 それが、幸せだって? バカな事を言ってるんじゃない。幸せになんてお前がなれる訳がない。お前が幸せになるなんて許されない。
 お前は不幸なんだ。死ぬまで一人で、寂しく生きるべきなんだ。それがお似合いなんだ。
 だって、お前は頑張ってないじゃないか。なにもしてないじゃないか。私と違って、ただだらしなく生きているだけじゃないか。私がどれだけ頑張っているかお前は知りもしないし、どうして私が頑張っているかなんてお前は分かりもしないだろう。幸せになりたいからだ。幸せになるためにがんばっているんだ。幸せなんて、そんな簡単に訪れるものではないんだ。それでも私はそうなろうとして、頑張ってきたんだ。
 それなのに、幸せだって?
 私が今不幸なのに、幸せだって?
 じゃあ、私はなんなんだ。なにをしても報われない今の私は、お前よりも不幸で、みすぼらしいというのか。
(……私がやっている事は全部無駄だって言うのか!?)
 だん、とグラスをテーブルに叩きつけたその音にはっとして、裕也が眠っている部屋の方に視線をやった。ドアは閉じられていたが、そこからその音で目を覚ましてしまう気配は感じられず、ほっとしながら時計を見る。間もなく日付が変わろうとしていた。そろそろ和寿が帰ってくるはずだった。以前より帰宅が遅くなり、仕事が忙しくなってきた、と言う言い訳も聞こえなくなり、この頃に帰るのがもう当然のようになってきている。
(……狂っている)
 世の中は狂っている。
 その場に立ち尽くし天井を見上げた。明かりのつけられていない薄暗い部屋の中で、目元がじわりと滲んだ。
 次第に涙が溢れ出した。それと同時に全てが決壊していこうとしている。
 心が死ぬ。精神が果てる。魂が消え失せる。虚空に飲み込まれ、堕ちていく。
 がちゃ、と玄関が開く音が聞こえた。静かなその音はそれでもここまではっきりと聞こえ、忍ぶような足取りがやがてリビングへとやってくると、その音の持ち主である和寿は、暗闇の中で立ち尽くしていた恵子を見て「うお」と驚いた声をあげた。
「なんだよ、いたのかよ。電気もつけないで、もう寝てたと思ったよ」
「……うん、ごめん」
「別にいいけど」
「ねぇ、和寿」
 幸せも、不幸も、あなたで決まるのだ。分かってる?
 もう、私の幸不幸の基準は私の中になく、私達家族と言う基準の中にのみ生まれるという事を、分かってくれてる?
 あなたで、私が幸せか不幸せか決まる。
 私は今、不幸だ。
「なに?」
 もうこれを最期にしよう。もう私は疲れてしまった。
 もう自分の手にその基準を戻してもいい頃だ。
 それでも、最期に一度だけ、チャンスをあげよう。あなたに。そして私に。
 愛しているから。
「浮気とか、してないよね?」
 自分に背を向けて上着を脱ごうとしていた和寿の動きがピタリと止まる。
 ねぇ、こっち見てよ。見てくれたら、私、それだけで少し許せそうな気がするんだ。
 テーブルに置いてあったグラスをシンクへと持っていき、蛇口を開けた。スポンジでそれを軽く洗い食器乾燥機にしまう。
「はぁ? なに言ってんだよ。そんなのする訳ないだろ」
 掛けられているタオルで手を拭く。
「仕事が忙しいんだよ。下らない事言ってないで、早く寝ろよ」
「そう」
 シンクの棚を開け、手を伸ばす。
 和寿の方を見ると、上着を脱ぐのに苦心しているようだった。動揺しているのかもしれない。
 昔から、動揺すると手元が危なっかしくなる人だった。
 その背中に静かに近づいていく。
「あぁ、くそ」
 ファスナーが噛んでいるようだった。それをなんとかしようとしていて、そちらにばかり意識が向けられていて彼女がすぐ後ろにやってきているのに気がつけずにいる。
 昔だったら「もう、なにしてるの」と笑いながら「いや、ちょっとうまくいかねーんだよ」と零しながらこちらに振り向く彼に手を伸ばしていただろう。
 その頃。もう、帰れない。
「ごめんなさい」
 そうとしか言葉が出てこなかった。そしてそう言うと同時に、身体ごと彼の背中へと寄り添うようにもたれかかった。
 さようなら。
 さようなら。あなたに。そして、私の中の、虚空。
 そして、ずぶり、と言う音が鳴った。
「え……」
 彼の背中から、体内へと、先ほど取り出された冷たい包丁の感触が侵入していた。その冷たさは身体の半分ほどを貫いたところで進みを止めると、ゆっくりと進入してきた時と違い、乱暴に引き抜かれた。
「……な、なにが? なんで?」
 ひやりとした感触は一瞬だけで、体内が急激に熱さを増していく。
 動転していく意識の中で、それでも刺されたのだと言う事をなんとか理解し、目の前のソファに手を伸ばした。だが目測を誤ったようでよろめいた体は無様に床へと転がる羽目になる。
「ひぃっ、ひぃ」
 情けない嗚咽を零しながら、和寿はその身をばたつかせた。
 逃げなくては。そう思うのだが、体が動かない。痛み以上に動揺しきっていて、脳が命令をうまく処理出来ずにいる。
「……ごめんね」
 その声が聞こえ、和寿ははっと振り返った。
 振り上げられている包丁が鈍い光を放っていた。
「やめろ、やめろ、なぁ、おい、やめてくれ」
 その懇願は聞き入れられる事無く、ひゅ、と空気を裂く音を立てた。
 鈍い感触を再び覚え、そして次第にその痛みが消え、それ以外の感覚もなにも感じなくなる。
 包丁が放つ光以外に、この暗い部屋で光るものがあった事に、彼は気付かない。
 もう、なにも見えない。
 自分の妻が最期にどんな表情でいたのかも、知らない。
 自分の妻を最後にちゃんと見たのはいつだったか、その時どんな表情をしていたか、覚えていない。
 自分の妻がどうして自分を殺す事にしたのか、浮気が原因だろうか、正しい理由はもう分からない。
 自分の妻をどうして自分は愛さないようになったのだろうか、彼女が原因だろうか。正しい理由は、最初から、分からない。
 そんな事、考えてもいない。
 ただ、目の前の女が憎くて、恐ろしくて、それでも許されるなら足の裏でも舐める。
 そんな事を考えながら、松本和寿はこの世からその命を失った。



「…………」
 静かにドアを開けた。
 薄暗いその部屋の床には友達から借りてきたらしいマンガやゲームやおもちゃが所狭しと散らばっていたが、暗さにもうすっかりなれたその目のおかげで、ゆっくりとだが足の踏み場を探しながら、彼女は音を立てずに進む事が出来た。
 そうしながらベッドへと辿り着き、彼女は自分の膝あたりの高さしかないベッドですぅ、すぅ、と静かに寝息を立てている息子の寝顔を立ったままで見下ろした。
「……ごめんね、裕也」
 そう、小さく呟き恵子はベッドに腰を下ろした。微かな振動に違和感を覚えたのか、裕也が「ううん」と仰向けに寝返りを打つ。
 石鹸で洗った手はまだ少し湿り気を帯びていた。その指先が彼の頭を撫でようとしてそちらへと伸びたが、寸でのところで止まる。
 彼の頭からほんの僅かな位置で浮かんだその手は、よく見なければ分からない程度に震えていた。まるでその距離を埋めてしまう事が罪深いとでも言うようですらあり、しばらくそこに佇んでいたが、彼女の溜め息と共にそれはゆっくりと離れた。
「お母さん、もう疲れちゃった」
 ギシ。
 身体の向きを変えるのと同時にそう、ベッドが軋む音がして、なんだかその音が酷く馴染んだもののように思えた。そう、まるで日常的にその音を今までは聞いてきていたようにすら感じて、彼女は、きっとそれは自分の心だったのだと言う事に気が付くと、自虐的な笑いを零した。
「…………」
 はぁ、と吐き捨てるように彼女は吐息を零した。
 その指先を、再び動かす。
 女から見てもまだ細いその首元に、十本の指が絡みついた。
 静かに、ゆっくりと力を加えようとする。
「…………」
 柔らかな弾力が、それでも抵抗をしようとする。
 更に力を加えようと、両手を伸ばし体重を掛けるようにその身を乗り出した。
 やがて完全に器官が塞がれた。
 あと僅か数分、その間だけ、そうしていれば、もう全てが終わる。
「…………」
 あと、もう少し。
「…………」
 かはっ、と苦しさに耐えかねて吐き出されたその乾いた音に、はっとして、恵子はそちらへと視線をよこした。
「…………あ」
 その時になって、恵子は初めて息子の顔をみた。
「…………」
 その表情は苦痛に歪んでいた。そしてその苦しみを生んでいるのは、自分のこの両の手で、それなのに、そんな表情を見続けることが、そんな表情を浮かべているという事が彼女の胸を強く締め付けた。
「……う、う」
 ぶるぶる、とその体が震える。
 血を分けたその小さな存在を、その存在が、まるで彼女の震えを包み込むように暖かさを増した。
「うぅ、ううぅ、ううっ」
 母親だった事を思い出す。守るべき存在が居た事を思い出す。
 守っていてくれた事を、思い出す。
 愛した事を、愛してくれた事を、思い出す。
「ううぅ! うあぁ……ううっ!」
 指先から、ゆっくりと力が抜けていく。
 零れた涙が、息子の頬へと落ちて静かに滑り落ちていく。
 殺せない。
 他の誰を殺しても、この子だけは殺せない。
 やがて落ち着きを取り戻した呼吸が聞こえてきた。
 ギシ。
 彼女はシーツをぎゅっと握り締めていた。
 軋んだその音がベッドのものなのかどうか、よく分からなかった。
「…………」
 そして、今度こそ息子の頭に手を伸ばし、何度か撫でると立ち上がって、再びゆっくりと、部屋から出た。
「…………」
 きっかけは、自分でも驚くほど些細なものだったのだろう。
 嫉妬だ。最終的にこの心を粉々にしてしまったのは、どうしようもない嫉妬だ。
 ――幸せ。
 矮小な自分が、自分を慰めようとして、あの少女を求めてしまった。だが、返ってきたのはそんな、自分を取り残して、彼方へと行ってしまうかのような言葉で、打ちのめされてしまった。
 もう、自分には得られないものを、得ようとしていた彼女に嫉妬をしたのだ。
 もし、あの時パソコンの電源を付ける事をしなければ、彼女と話す事を拒んでいれば、こんな事にはならなかったのだろうか。
 だが、もうそれを考えてもどうにもならない。
 彼女は、決断を下してしまったのだから。
 そして、今、また新たな決断を下さなくてはならないのだから。
 よろよろとした足取りで、彼女は自室へと戻ると、携帯電話を持ち上げ、通話ボタンを押した。
 気が遠くなるような何度目かのコールのあと「はい?」と若干寝ぼけた返事が返ってきた。
「……母さん? 私、恵子」
「あら、恵子? どうしたの、こんな遅い時間に?」
「うん、あのね、私……」
 そこまで言ったところで、涙が溢れてきた。今まで堪えてきたそれが母親の声を聞いて、安心したのだろうか、とめどなく溢れ、携帯電話を口に当てたまま、彼女は嗚咽を繰り返した。
「恵子?」
「あのね、かぁさん、ごめんなさい……私、私」
 母さん、私は人を殺してしまった。夫を殺してしまった。裕也の父親を殺してしまった。
 私は人殺しになってしまった。
 ねぇ、母さん……
「どうしたの? いいよ、ゆっくりでいいから、なんでも言いなさい。ちゃんと聞いてあげるから」
 ……それでも、母さん、私を愛してくれますか?
 私の事を、娘だと呼んでくれますか?
 あなたからもらったこの血と絆を、信じてもいいですか?
「ほら、泣かないで。大丈夫よ。私に出来る事ならなんでもしてあげるから」
「……うん、うん」
 あのね、母さん、こんな私だけどね。
 愛してる。
 こんな私でも、まだ、愛している人がいる。
「あのね……私ね」
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