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三/夏草の揺れる丘

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      (十七)


 一九八九年。
 夏。

 長期休暇を利用して、嶋原家は帰省をかねて親戚の家に遊びにきていた。
 高速道路の料金所を抜けてしばらく国道を走ると、暮東の町に入った。母方の祖母と妹家族がかたまって住んでいて、たまにしかこないけれど、いつも鮮やかな思い出を残してくれる場所だった。車窓を開けると風が吹き込み、茎也の肌をなでる。都会のものとは違う、心地よい清涼感があった。やがて景色は住宅地に変わり、その一角に人影が見えると、母が「あっ」となにかに気づいた。「よかったね茎也、おばあちゃんのお出迎えだよ」
 木造二階建ての家屋の前で停車する。祖母が運転席に回ってきた。父の礼二(れいじ)はエンジンをかけたまま窓を開け、サングラスを外してあいさつする。
「お久しぶりです。お義母さん」
「久しぶりだねえ、礼二さん。早苗(さなえ)も元気してたかい?」
「お母さんは元気そうね、こっちは変わりないわ」
「車はどこに入れればいいでしょうか?」
 礼二が言い、早苗が答えた。
「多恵の家のガレージが空いていたから、そこに入れて、ついでにあの子を呼んできて」
「わかった。じゃあふたりは先に降りてくれよ」
 茎也は降車すると、早苗に連れられて祖母にむき合った。
「ほら、茎也も大きくなったでしょ? もう四年生なの」
「おぉー、すっかり男前になったねぇ」
 祖母は茎也の頭を優しくなぞった。その手からはほんのりとお香のにおいがして、それ以上に老人特有の甘ったるいにおいがした。早苗とはまた違った包容感を覚える。
「おばあちゃん、こんにちわ」
「はい、こんにちわ。とにかく、早くお上がりよ」
 祖母は笑いながら、家の中に入っていく。茎也たちが居間に腰を落ち着けると、台所からガスコンロを扱う音が聞こえた。お茶を淹れてくれるらしかった――と。
「多恵ちゃんを連れてきたよ」礼二がやってきた。
 それと同時に、「お姉ちゃーん。積もる話しにきたよー」とサンダルを脱ぎ落として、叔母の多恵が慣れたふうに縁側から入ってくる。茎也は彼女のことが少し苦手だった。いつまでも幼い子どものように扱ってきて、スキンシップを求めてくるのだ。
 しかし、ひそかに身構えつつも、ひとつ疑問に思うことがあった――いつもなら多恵の腰にしがみつくようにしてやってきて、そこから引き剥がされると茎也のところまで忍び寄ってきては、こっちから話しかけないかぎりずっと恥ずかしそうに俯いている……そんなあの子がいない。
 親子の考えることは似通うのか、ふと早苗が言った。
「そういえば奈緒希ちゃんは? お友達と出かけてるの?」
「いんや、それがさ」多恵は困り顔でつづける。「あの子、風邪をこじらせちゃってね。軽い肺炎っていうのかな、お医者さんはじきに治るって言うけど、入院してるのよ」
「そうなの? 心配ね、奈緒希ちゃん少しからだ壊しやすいから……」
「まあ、入院するのこれがはじめてじゃないけど……不思議なのがさ、前回はすんなり入院してくれたのに、今回はけっこうイヤイヤしてたんだよね、なんでだろ?」
 ころっと思案顔になった多恵は、茎也に気がつくと「そうだ茎也くん、いつでもいいから奈緒希ちゃんのお見舞いにいってあげてよ」と肩をたたいてくる。
「うん……」茎也は生返事を返した。
(――奈緒希ちゃん、いないんだ)
 ひどくつまらなく感じた。本音をいうと寂しくもあった――けれど、そんな態度を多恵に見せれば、必ずといっていいほど弄くられることは予知めいてわかっていたので、なるべく平静を装っておくに越したことはない。
 地方新聞を広げつつ、話を小耳にはさんでいた礼二が問いかけてきた。どうでもよさそうな口調だった。「そっか、奈緒希ちゃんがいないなら茎也は暇だな。どうするんだ?」
 しばらく考えてから、茎也は青空を見上げて言った。
「外で遊んでこようかな。公園とかにいけば誰か仲間に入れてくれるかもしれないし」
「なんだい、茎也はお外で遊んでくるのかい」
 祖母が歩いてきて、よっこらせと縁側に腰かけた。すると、コンクリートの塀を悠々と渡ってくる白い姿が茎也の目に飛び込んできた。
「あ、猫」
 声を上げると、白猫は彼をガラス玉みたいな瞳に映した。首輪もなにもしていないから、きっと野良猫だろう。そのくせ毛並みは小奇麗だ。茎也が面白がってじっと目を合わせつづけていると「ばーか」と言うみたいに「にゃーご」と鳴いた。
 茎也はむっとするが、白猫はそれを無視して塀を下りたかと思えば、、祖母に近寄っていって、ひざの上に飛び乗ったのだった。
「えー、なにその猫」自分には懐かないのが面白くない。
「このあたりに棲んでる野良猫でね、あたしはユキって呼んでるんだけどねぇ」視線を猫にむけたまま祖母はつづけた。「そうそう茎也、さっきの話だけど。お外で遊んでくるときは、あそこだけは絶対に入っちゃいけないよ」
「あそこってどこ?」
「居殺山(いころしやま)」
「……?」変な名前だと思った。
「ちょっと母さん。いいかげんちゃんと覚えたら? あそこはイコロシヤマじゃなくて、イコシヤマ。夷越山だって。『ろ』が余分なのよ」母は笑いながら訂正する。
 茎也はたいした理由もなく思い当たって、祖母に訊ねた。
「もしかして、むこうに見えるやつ?」
 茎也の指さした先には、奇妙に盛り上がった山が居座っている。
「そう。あそこは駄目だよ」
「なんで駄目なの?」
「駄目ったら駄目だよ」
「ねぇ、なんで?」
 しつこく聞くと、祖母はまるでからくり人形のように手毬唄を口ずさみはじめた。

 いころしやまにはおにがでる。
 まっかなおめめのおにがでる。
 さかさになってもかえらねば。
 おっかさんのゆうげにまにあわぬ。

 ――と。
 手毬唄の余韻が溶けていったあと「……鬼って、いるわけないじゃんそんなの」と、茎也はなんだか薄気味悪く感じて、思った以上に冷たく否定してしまった。祖母は、不具合の生じた捻転機関を思わせる動きで首をキチキチと振り返えして言った。
「そうだね、いるわけがないね」
「…………」
 いるわけがないのに、なんだろうその目は。
「あんまり茎也を怖がらせないでよ、母さん」早苗が言った。
「はいはい、ごめんよ」
 そうこぼすころには、ふだんの祖母にもどっていた。お茶請けでも持ってくるかねえ、と彼女は席を外す。その拍子に白猫のユキはひょいと下りて、敷地から出ていってしまった。早苗が「母さん私も手伝うよ」と立ち上がり、多恵もそのあとを追う。礼二は元から興味がなかったらしく、テレビをつけてプロ野球のデイゲームを観戦していた。
 茎也は、さきほどの手毬唄を呟くように反復してみた。
 いころしやまにはおにがでる。
 まっかなおめめのおにがでる。
 さかさになってもかえらねば。
「おっかさんのゆうげにまにあわぬ……」
 唄ってみても、なにが起こるというわけでもなかった。茎也は背中を倒して寝そべり、思う。奈緒希ちゃんはいないし、明日からどうしようかな。目の前に広がる夏の空は冷たいほどに青く、それでいて太陽は容赦のない熱線を幾条もまき散らしていた。礼二がチャンネルを変えた先では、今年は類を見ない酷暑になるだろうと天気予報士が解説している。


 結局、翌日は天気がよかったので、茎也は出かけることにした。
「いってきまーすっ」
 とりあえず、以前奈緒希と遊んだことのある近所の公園にいこうと思った。おぼろげな記憶を頼りに辿り着くことに成功し、広場を木陰からうかがってみる。幼稚園児くらいの子が砂場で遊んでいたり、中学生らしき少年たちがサッカーに興じていた。
 見事なまでに同年代の子がいない。仲間には入りづらそうだ――しかたなく、ほかの公園でも探してみようかと思いはじめたときだった。
「あ、ユキ」
 かさかさ、と――茂みの中から白猫が飛び出してきた。茎也の視線に気づいたのか、じっと見つめ返したかと思えば、やはり「ばーか」というように「にゃーご」と鳴き、からだを反転させてアスファルトの上を歩き出す。生意気なやつ、と茎也は再びむっとした。しかしユキは角を曲がるとき、人間みたいに彼を一瞥した。
「……なんだい、どこか連れてってくれるの?」
 返答する代わりに尻尾を招くように動かす。ユキの仕草がなぜか自分を誘っているような気がして、茎也はあとをついていくことにした。
「きみは毎日こんなことしてるの? 授業も宿題もないなんていいなあ」
 ユキは、気分のままにどこまでも歩いていく。その行動範囲の広さに驚いていると、自分もそれに付き合っていることを思い出して、茎也ははっとしてあたりを見渡した。かなり外れのほうまできてしまったらしい――祖母の家からは霞みがかってしか見えなかった黒い山が、枝葉がつくる細かい輪郭の波まで確認できるまでになっていた。
(母さんは夷越山だけど、おばあちゃんは居殺山だって言ってたな……)
 あそこだけは絶対に入っちゃいけないよ、とも。
「――あっ、ユキ」
 ちょっと目を離した隙だった。ユキはあろうことか民家の裏手から山に入っていく。茎也が遅れてそこに回り込むころには、白い背中が茂みから垣間見えるだけだった。
「待ってよ……」そう呟き、立ちすくんでしまう。
 いくらなんでも、野良猫が迷い込んで無事に出てこられるような場所には思えなかった。むかつく相手だし、別に助ける義理なんてないのはわかっているけれど――「バカなのはどっちだっての」と茎也は決心して、茂みに飲み込まれていった。“居”るだけで“殺”されてしまう“山”なんて、信じるだけ無駄だと思うことにした。
 山道は静けさに翳っていた。
「おーい、ユキー? どこにいったのー?」
 気がつけば、思ったより深いところまできてしまったようだ。光は薄く、どんよりとした森の臭気がからだにまとわりついてくる。不安を払拭したくて茎也は声を放つが、むなしく木々のあいだに吸い込まれていく。こんなときにかぎって動物は無情だからいやだ。
「ユキー!」
 と、背後の草むらの中から葉擦れの音がした。
「ユキ? そこにいるの?」
 声をひそめて近づていく。
 濃緑のヴェールを開こうと、一歩踏み出して――
「うわあっ……!?」
 ――あるはずの地面が、ない。
 草むらのむこうには三、四メートルほどの高低差が存在していたのだ。なんの用意もなしに片足にほとんどの重心を移していた茎也は、無防備なままずり落ちた。
「痛つつ……」
 立ち上がろうと力を込めるが、痛みに貫かれて動きは逆再生してしまう。見てみると、ひざをこっぴどく擦りむいていた。動けない。汗がこめかみを流れ落ちていった。
 やがて――ふいに、山の中にひとりであるという事実が、とてつもない寂しさをともなって認識され、涙腺が機能しそうになった。人間社会でもなしえない、自然だけが突きつけることのできる寂しさだった。しかし蝉時雨が耳朶を撃ちつづけ、しだいに朦朧としてきた意識は輪郭を失い、漠然とした胸のざわめきだけが残った。それは、怖い夢を見て一瞬で目が覚める、その間際の感覚に似ている。その瞬間が延々とつづいているように思えた――そしてその狭間に、まぶたを閉じたまま墜落していくような気がした。
 と、からんころん……と下駄の音がした。

「そこにいるのは、誰か」

 冷水のような声が、まさに茎也の意識に浴びせられ、現実をとり戻させた。
 聞こえたほうに振りむく。
 左手の少し小高くなったところ――そこに、女の子がひとり立っていた。
(どうしてこんなところに女の子が……?)
 着物を着ていたが、ガイジンさんみたいだ、と茎也は思った――自分と歳は変わらないであろう少女の髪は、肩甲骨の下まで長く伸びた艶やかな金紗の髪だったからだ。
 そして、前髪のあいだからのぞく大きな瞳には――赤い光が灯っているように思えた。
(……って、ええっ? 目がっ)
 茎也は反射的に目をごしごしと擦って見直してみた。
 すると、そこには誰もいなかった。忽然と少女は消えていた――どうやら幻覚だったみたいだ。夢現の延長だったのかもしれない。ふつうに考えればありえない存在だ。ついにくるところまできてしまったらしい。茎也は諦念にとらわれて、まぶたを下ろした。
 だが、しばらくして。
「おい、そんなところで寝るな」
「……寝てませんよー」茎也はぼんやりと返す。
「中(あ)てられても知らないぞ」
「ほっといてくれよ。幻に心配されてもうれしくないよ」
「誰が幻だ。このジブリ頭が」
 突然、衝撃が頭上から降ってきて、茎也は飛び起きる。「いたいっ!」
 見ると、さきほどの少女が拳をつくって見下ろしてきていた。もしかして、実在しているのだろうか? 茎也は手を伸ばして、少女の腰やおしりをぺたぺたと触ってみた。
 また頭を殴られた。一回目よりも数倍高いエネルギーを弾き出した。
「なな、なにをするんだっ! い、いきなりっ」
 あとずさり、警戒心をむき出しにして言ってくる。茎也はとっさに立ち上がろうとしたが、ひざの激痛が許可しなかった。急にけが人という現実に不時着して、とはいえそのおかげか、少女の持っているものに目がいった。
「……あれ? それって救急箱?」
 さっきは持っていなかった。つまり、どこかに取りに帰っていたらしい。
 いまだに紅潮して茎也をにらんでいた少女は、しぶしぶといったふうに頷いた。
「まあな……と言いたいが、おまえはあろうことか、恩人のからだを、いやらしく……」
「ゴメン。わざとじゃなかったんだ」
「ほんとう?」
「わざとじゃないってことに……」
「できるかっ!」
「冗談だよ」
 茎也は笑って手を振った。それから改めて謝罪したのちに「まあ、でもさ」と言い、つづけた。「恩人って言ったからには、助けてくれるつもりだったんだよね?」
「うっ」少女は目をそらしてこぼす。「それがどうした……」
「いや、優しいんだなあって」
 わかりやすく耳まで真っ赤にしたかと思うと、少女は茎也に近づいてきた。「見せてみろ」と両ひざをついて、消毒液やガーゼをとり出す。治療の最中、彼女はずっと俯いて顔を露出しないようにしていた。極度の恥ずかしがりやなのか、それとも――故意に瞳を見せないようにしているのか。
 ――いころしやまにはおにがでる――まっかなおめめのおにがでる――
「…………」
 鬼。
 赤眼の鬼。
 確かに、先刻の少女の双眸は――赤く光っているように見えたけれど。
 ごくり――と茎也が冷たい唾を嚥下したころに、応急処置は終わったみたいだった。痛みはかなり薄れ、自由が戻りつつあるようだ。
「……もうここにはくるな、私のことも忘れろ」少女は顔を上げることなく、わざと低く感情を殺した声で告げ、腰を上げようとした――次の瞬間。
「待って!」
 茎也は少女の頭を両手でつかんで、自分とむき合うように引き寄せた。突然の行動に意表を突かれたのか、彼女はなすがままに少年と至近距離で顔を合わせる羽目になり、かすかに目を丸くさせる。
「動かないで」
「……っ……?」
 真剣な眼差しで茎也は少女の相貌を見すえる。
 そして、思う。
(――ウソだよ、おばあちゃん。鬼じゃない)
 茎也のイメージでは角が二本生えており、とにかく不細工で、虎の皮を大きな図体に巻いているのが鬼だ――けれど、だからこそウソだと強く信じることができた。なぜなら、この少女はすべてが茎也の知る女の子の誰よりも魅力的で――なによりその瞳はルビーみたいに真っ赤に輝いて、見惚れてしまうぐらいに綺麗だったから。
「やっ……なっ、なにをする!?」
 ようやく思考が追いつき、少女は茎也の手を振り払う。尻餅をついてにらみつける目には、様々な感情が入り交じっているように見えた。しかし、茎也は声を弾ませた。
「すごい、きみの目ってとっても綺麗っ!」
「えっ……?」
「宝石みたいだ! すごい!」
 すると、少女は恐る恐るといった動作で上目遣いに見つめてきた。
「お、おまえは、私のこの目を気持ち悪く感じないのか……?」
「そんな、全然。すっごく綺麗だよっ!」
「…………」少女は、上気させた顔を地面とむき合わせていた。だが、舌打ちしたかと思うと、ふるふるとかぶりを振って手櫛で前髪を両目に被せつつ立ち上がった。よほど見られたくないらしい。それはコンプレックスか、それとも――禁忌か。とはいえ、微妙に隠しきれていなくて、その目の内奥では困惑したように赤い光が揺らめいていた。
 彼女は突き放す言葉を吐く。
「と、とにかく! ここは私の家のシユウチだ。だから本当はおまえは入っちゃいけないんだ。フホウシンニュウという罪を知らないのか」
「知らないよそんなの」
「……わ、私だって知るか! とりあえず早く出ていけ!」
 足早に立ち去ろうとする少女。しかし、茎也はその手首をつかまえた。
「待ってよ」
 少女は、目を細めて彼を見すえる。その眼光はある種の老婆じみた冷厳さを孕んでいた。一息のうちにおとなびた少女の顔つきに思わず怯んでしまうが、気を持って見つめ返す。
「しつこいぞ。おまえにもう用はない」
「僕にはある」
「そんなこと聞いてな――」
「僕と、友だちになってよ」
「……は?」
 茎也は笑みを浮かべて言った。「僕さ、親戚のところに遊びにきてるんだよね。でも、ちょっとした事情があって親戚の子と遊べなくなっちゃったんだ。ひとりじゃ面白くないし……君もひとりだったら、一緒に遊べば楽しいよ、きっと」
「ば、ばかを言うな。私はひとりでも寂しくないっ」
「寂しいなんて言ってないじゃん」
「う……っ」
「やっぱりふたりのほうが絶対いいよ」茎也は手首を離して、次に手をとった。「ねえ、友だちになろうよ」
 少女は頬を桜色に染めて見つめていたが、しばらくすると拗ねたように視線を斜め下にそらして「わかった……しかたがないから遊んでやる」とこぼした。次いで、「勘違いするなよ? おまえのわがままに付き合ってやるんだからな……感謝しろ」と念を押してくる。
「うん、ありがとう」
 茎也は素直に言った。
 さらに少女の顔は赤くなった。耳まで熱っぽくふくらんで、完熟したトマトみたいだ。なんだかんだ言ってこの季節に長袖の着物は暑いんだろうなあ、と茎也が個人的におおいに納得していたときだった。
 にゃーご、とユキがふたりの前に姿を現した。
「あっ、無事だったんだね」
 茎也はユキが白いままであることに安心する。両手を広げると、意外とすんなり腕の中に潜り込んできた。とがった耳があごをくすぐった。
「いったいどこいってたんだよ。探したんだから」
 うなぁ、とユキは鳴いた。
「……この猫はおまえのか?」少女が好奇心旺盛な目でのぞいてくる。
「野良だけど野良じゃないって感じかな」
「ふぅん、人に馴れてるんだな」
 そう言って、小さな指を猫に伸ばそうとする――と、ユキはそれから逃れようとするかのごとく茎也の肩に爪を立ててきた。少し痛い。どうして避けるのだろう。年端もいかない女の子なのに。首をかしげながら少女を見ると、なぜか茎也よりも痛そうな表情をしていた。
「……やはり、こういう者には私のことがわかるのか」
「え? なにか言った?」
「なんでもない」少女は首を振ってから、空を見上げて言った。「それより、いいのか?」
「なにが?」
「じきに日が暮れるぞ」
 茎也は同じく空を見上げた。空は色褪せ、雲は底からやわらかな光に照らされていた。確かに、そろそろ帰らなければ四方八方から大目玉を食らってしまう。「そうだね。じゃあ今日はもう帰るよ。明日またここにくるからさ、待っててよ――」
 そこではたと言葉をとめた。名前を呼ぼうとして、知らないことに気づいたのだ。
「――そういえば、きみの名前はなんていうの?」
「……朱鷺菜。鳥類の朱鷺に菜っぱの菜」
「ふぅん。じゃあ、ときちゃんだね」
「ときちゃん?」
「そう、ときちゃん。言いやすいし、可愛いよ」
「か、かわっ……」少女の顔が、本日幾度目かの沸騰をする。
「僕は茎也。植物の茎になりの也」
「……茎也」
「うん」
「……茎也」
「うん?」
「茎也、茎也、茎也……覚えた」
「はははっ。よろしくね」
 ――そうして。
 一九八九年の夏。
 嶋原茎也と不退院朱鷺菜は、出会った。
      (十八)


 茎也が暮東の町にきてから、四日が経っていた。
 朱鷺菜と出会った日――あのあと、茎也はユキを抱いて山を下りた。祖母の家に帰ると、暗黙の門限については触れられなかったが、結局は服を汚して帰ってきたことを母にしっかり叱られた。どこでなにをしてきたのかと問いただしてくる彼女にむかって、友だちができて公園でサッカーをしていたらたまたま転んでしまった、ひざの手当てはその子のお母さんがしてくれた、と――嘘を吐いた。山に入って赤い瞳の女の子と知り合った、なんて答えてしまえば祖母の忠告を無視したことになる。怒られるのはいやだった。
 いちおうその嘘は現在も効力を発揮していて、母たちにしてみれば、茎也の友だちというとサッカー少年である。
「あら、茎也。今日も遊ぶの?」
 玄関でスニーカーを履いていると、母が後ろからやってきた。
「うん」
「仲良くしてもらってるみたいだから、親御さんにもお礼いわなきゃ」
「いいよそんなの」茎也は早口で言った。そんな行動に出られたら嘘がばれてしまう。親御さんと言われて――ふと朱鷺菜の家族はどうしているのだろうと気になったが、すぐに些細なことだと切り捨てた。自分たちは子どもだ、関係ない。「いってきますっ」
 アスファルトを蹴り出して、茎也は走る。曖昧な土地勘でも迷わない。黒い山は、移ろう景色の中でただひとつ微動だにせず、標のようにいつでも視界に入っていた。
(――早く会いたいな)
 息切れしても苦しくない。むしろ心が弾んでくる。
 時々刻々と近づく山――そこに、彼女がいる。
 ときちゃん。
 同い年の、ちょっと変わった女の子。


 茎也は自分の庭を散歩するかのごとく山を登る。しかし油断は禁物で、常に足元に注意を払いながら進まなくてはいけない。段差からの転落が教えてくれた教訓だった。
「ときちゃーん? 今日も遊ぼー?」
 来訪を告げるが返事はこない。おかしいな、と思う――いつも朱鷺菜は茎也の到着に敏感だった。山に足を踏み入れれば、数分もしないうちに姿を現す。茂みの裏や木の上から、くすくすと楽しそうに「茎也……」とささやくのだ。
 しかし、今日はなかなか出てこなかった。
(しかたないなあ)
 迎えにいくつもりでどんどん奥のほうへ足を伸ばす。途中で獣道に合流したので、そこを辿ってみる。やっとのことで斜面を上りきり、「ときちゃん迎えにきたよーっ」と声を響かせたときだった――久しぶりに青空が広がった。
「うわぁ……」
 そこは山の中腹にある平地だった。その肌寒い感じがする風景はどこか、怖い童話や昔々の御伽噺のワンシーンを思い起こさせた――古めかしい武家屋敷が建っていたからだ。
 西洋なら、そこはメルヒェンチックな一軒家で妖しげな魔女が住んでいるのだろうけど、茎也が見つめる先には、遠目だからうまく確認できないが、茶色の襤褸(ぼろ)の服を着た老人が佇んでいた。じっとこちらを見つめ返しているようである。
(……あれ?)
 ――あの人、ときちゃんと一緒で目が……。
 と。
 いきなり背後から羽交い締めにされた。
「うわああっ」そのまま茂みの中に引きずり込まれる。すごい力だ。茎也は何者かともつれ合いながら地面にからだを打ちつけた。その拍子に二本のしがらみが離れたので、両者の反転した位置関係を利用して何者かに馬乗りになる――と。
「あれ? ときちゃん?」
「……ずいぶんなことをしてくれたな、茎也」
 朱鷺菜が愛想尽かした様子で見上げていた。
「わっ、ごめん」
 しでかしたことのまずさに気がついて、茎也はあわてて飛び退いた。朱鷺菜は、乱れた着物を直しつつ立ち上がる――そしてときおり見せる年不相応な冷えた眼差しを見せた。
「こんなところでなにをしているんだ、おまえは」
「いや、きみを迎えにいこうと思って」
「ばか。そんなことしなくても私は……私が、ちゃんとおまえに会いにいく」
「じゃあ、なんで今日は遅かったの?」
「……………………厠(かわや)だ」
「……………………ごめん」
 朱鷺菜はそっぽをむいて歩き出してしまう。茎也には後ろめたい部分があるので、おとなしくついていくことしかできなかったが、それでも聞きたいことがあった。
「それはそうと、あそこのお屋敷がときちゃんの家?」
「――まあな」
「縁側にいた人は?」
「弟月(おとづき)のじじい」朱鷺菜は感情を交えずに言った。「いまだに太平洋戦争がつづいていると信じているような、気の狂った国粋主義者の老いぼれだ。胸くそ悪い。あるはずのない徴兵を何十年も待ち望んで、四六時中時代錯誤な軍服を着ているんだ。そんなあほになるなら、フィリピンでくたばってしまえばよかったものを」
「へえ。よくわかんないけど、大変な人なんだね」
「逆だ。きちがいを相手にするこっちが大変……ってなにを言わすんだ、茎也。あんなやつ私とおまえには関係ないだろう」
「や、ごめん。忘れるよ……でも、あんまりお年寄りを悪く言っちゃ駄目だよ?」
「むっ……うるさいな」
「あと、ときちゃんは女の子なんだもん。下品な言葉はやめたほうがいいよ」
「うるさいうるさい」
「聞く耳ぐらい持とうよ……」
「そんなものはないっ」むりやり話を切って、朱鷺菜は両眉をしならせて歩く。けれど悔しいことに、勝手に目は後ろをうかがってしまう。茎也は捨て犬みたいな情けない顔をしていた。なんだか悪者になったみたいな気分がいやだったので、特別に特例的に、それ以外に他意はいっさいなく、ためしに柔軟な姿勢をとってみることにする。
「……わ、私も少しおとなげ――」
「そうだっ、ずっと思ってたんだけど」
 さえぎられた。
「な」朱鷺菜はかたまった――なんてやつだ! せっかく謝ってやろうというのに! 急にあっけらかんとしくさって、これでは気にしていた私がばかみたいではないか!? ――と、思ったとおりにまくし立てられるはずもなく、ぶっきらぼうに振り返る。
「なんだ?」
 茎也がそっと手を伸ばして、金髪に触れてきた。髪のあいだを五本の指がなめらかに抜けていくと、背筋がじんわりと痺れる。「ひゃ」と思わず声が出てしまう。
(茎也……? なんか、変な感じ。でも、いやじゃない……)
 そのまま茎也の指を黙って感じていると、彼は言った。
「ときちゃん。きみの髪は、とっても綺麗だね」
「えっ?」朱鷺菜は面食らう。そんなことを言われたのは、生まれてはじめてだったから。「そうか? わ……悪い気はしないな」
「うん。きらきら輝いてて、天の川みたい」
 茎也がそう喩えると、朱鷺菜の表情に翳りがさした。
「あいつらは嘲笑うのだけどな」
「あいつらって?」
「小学校の連中だ。あの子……いや、私のことを『サカサホタル』って呼んでくるんだ。蛍は尻が光っているが、私は頭が光っているからってな。まったく、腹立たしい」
「そうなんだ……。でも、僕はときちゃんの髪が好きだよ」
「ふぇっ!?」
 素っ頓狂な声が出た――す、好きだなんて、いきなりなんてことを言うんだっ! と解釈に多大な妄想と食違いがあるのだが、そう胸中で言い返して朱鷺菜は茹だりそうになる。直感的にこの話題はまずいと感じて方向転換を図った。
「とにかく、つまらない話は置いといて、今日はおまえをいい場所に連れていってやる」
「いい場所? どこなの?」
 すると、朱鷺菜はいたずらっぽく微笑んで言った。
「天狗の腰かけ」


「うわー! すごーい!」
 茎也は声を上げ、小走りで断崖へ近づいていった。そこは暮東のパノラマが一望できる高台だった。落下防止の柵はなく、自然のままだ。
「あまり崖に近づくなよ。天狗の腰かけだと言ったろう」朱鷺菜は、茎也とは対照的に落ち着いた足取りで追いついてくる。彼は、いまさらのようにきょとんとして訊ねた。
「そうなの? ここに天狗が休憩しにくるの?」
「さあな。ただ危険だからそう言う」
 天狗の腰かけとは、子どもが岩場などの危ない場所に近づかないように昔から使われてきた文句だ。天狗さんに襲われるといけないからいってはいけませんよ、という言い回しだが、朱鷺菜は知っていた――この世には本物の『天狗の腰掛け』が存在することを。ただ、ここにはきたためしがないだけだ。
 なにせ――この山には自分たちがいるから。
 天狗さえ恐れる鬼がいるから。
 となりの少年は、知っているのだろうか……?
「……茎也、あそこの四阿(あずまや)にはいろう? おまえと座って話がしたい」
「うん、いいよ」
 ふたりは崖から退いた位置にある四阿に入り、木製の長椅子にならんで座った。
「茎也……」しばしの沈黙のあと、朱鷺菜は言った。「おまえは、はじめて会ったときに私のことを幻だと言ってくれたな」
「? うん。あ、もしかしてまだ怒ってる?」
 首を横に振ってつづけた。「いや、言いえて妙だなと思ったんだ。私はきっと、この世界の幻のようなものだからな。いないはずのものがいるのは、おかしく思わないか?」
「どういうこと?」
 朱鷺菜はそれには答えず、静かに言った。
「――私は、人に見えるか? それとも、それ以外に見えるか?」
 その問いは、どこにむければよかった。
 誰にむければ許された。
 だが――「ううん、中ぐらい」と茎也は深く考えないで答えた。
(人って日本人ってことかな。だって、ときちゃんガイジンさんみたいだし)
「中ぐらい?」
「うん、中ぐらい」微笑んで茎也はつづける。「きみの目や髪の色は黒くはなくて、僕や町の人とは違うけれど、きみの考え方や感じ方は、とても僕らに似ていると思うよ。うん、もしかしたらきみは僕ら以上に僕ららしいのかもしれないね」
 朱鷺菜は喉をつまらせた。ぎゅう、と着物のすそをつかむ。
 ――そんなこと、言わないで。私は違うのに、そんなことを。
 ――私はおまえの思っているような存在じゃないんだ。
「ねえ、ときちゃん」
 茎也に呼ばれ、彼女はゆっくりと顔を上げた。その緋色の瞳は、彼の人さし指によって裾野に広がる町並みに誘導される。
「明日は一緒に町に出かけようよ」
「えっ?」
「たまにはいいんじゃないかな。僕も、ときちゃんともっと遊びたいし」
 朱鷺菜は町を俯瞰した。それはまるで――籠の中の金糸雀が、空を見て怯えるように。
「で、でも……」口をまごつかせる。なんと答えればいいのかわからなかった。山から下りた世界――そこは、どれだけ人工の灯りに満たされていて、幾多の生命が日々を営んでいるとしても、彼女にとっては荒れ果てた地平と大差なかった。
 自分はそこにいてはいけないから。
 自分はそこにいる人たちとは違う。
 黒い眼と、赤い眼。
 茎也と、朱鷺菜。
 人と――妖魔。
「私にはむりだ……」
 すると、茎也が小さな手をとった。
「大丈夫だよ、ときちゃん。僕がなんとかするから」
「茎也、私は……」
「僕を信じてよ」
「ぅ……ん」
 どうしてこんなに弱くなってしまったんだろう? ――いつからか、茎也の笑顔を見るたびに奥底でからだを支える芯が溶けて、温かいなにかがあふれ出てくるような気がして、桜の花弁のようにか弱くなってしまう自分がいた。
「わかった。おまえがそこまで言うなら……」
「じゃあ決まりだね! 明日のお昼ごろ、迎えにいくよ!」
「あ、うん……」
(――約束、してしまった)
 この気持ちは「うれしい」と呼ぶのだろうか。
 わからない。
19, 18

  

      (十九)


 朱鷺菜の心臓はいつもより焦っているみたいだった。最近ほんのちょっとだけふくらんできた胸に手をやると、やっぱり少し早い。
「……昼ごろと言っていたのに。茎也のやつ、遅いぞ」
 そう独りごちて、頭上を見上げる。ちらちらと純白の木洩れ日が瞬いていた。昨日、茎也が帰ってからこっそり下駄占いをした効果は、確かにあったようである。
 すると、太もものあいだを風が潜り抜けていった。朱鷺菜はびくりと内またになり、舞い上がった生地を押さえる。そして、そのままの体勢で思う。
(この、スースーする感じは慣れないな……)
 彼女の服装は、今日に限ってかなり変化していた。いつもの着物ではなく、よく吟味して選んだノースリーブのワンピースだった。色は、夏の日射しに映える清楚な白。可愛げのある印象で、自分に欠けているものを補ってくれるかもしれないと思ったし、もうひとりの自分が気に入っている服ということもあって、信頼に足りるだろうと考えたすえの選択だった。少なくとも、変じゃないはずだ――などという確認に余念をなくしていると。
「だーれだっ!」
「わっ」
 いきなり視覚が遮断された。とはいえ声ですぐわかる。茎也だ。
「や、やめろ」
 そう言ったあと、朱鷺菜はまじまじと観察されていることに気づいた。
(もしかしておかしかったとか……?)
「へぇ? ときちゃん今日は可愛い服着てるね。似合ってるよ」
「べ、別に。人前に出るのだから、恥ずかしくない格好をしてきただけだ。いつまでも着たきり雀だと思うなよ」――本当はすごくうれしいのに、素直に応えられない。ふつうの女の子なら如才なく返せたりできるのだろうが、どうしてもできそうになかった。
「へへへ、今日はとっておきの秘密兵器をもってきたんだ」茎也は言い、ショルダーバッグの中をまさぐるとあるものをとり出した。「じゃーん」
「それは――」
 サングラスだった。茎也はそれを装着して笑った。
「これならきみの赤い目も全然見えないし、いやな思いもしないでしょ? 貸してあげるよ。もしよかったら、そのままあげちゃうし」
「でも、いいのか? おまえのものじゃないのだろう」
「へーきへーき。お父さんがドライブするときに、日射し除けにする安いやつだから。なくしちゃったって言っても許してくれると思うんだ」
「ふぅん」手渡され、どこか釈然としないものを感じつつも、耳周りの金髪を整えてからかけてみた。黒っぽく塗り変えられた視界の中で、茎也が親指を立てるのが見えた。
「うん、問題ないやっ」
「そ、そうか? それなら、いい」
 茎也は彼女の手をとった。「じゃあいこうか?」
「あっ、ちょ……待って」
 耳に入れずに茎也は走り出す。
 林を抜け、彼のいる世界への入口がせまってくる
 朱鷺菜は引き返したい衝動に駆られた――怖い。外が怖い。
 この山を、唯一自分がいていい場所を、抜け出そうとしている。今まで自分が気がねなく歩ける道というのは、薄暗い山道だけだった。それは、自慰めいた孤独の上塗りでしかなかったけれど、自分が生きている確かな実感がほしくて、目的地もなく輪廻に暮れる山林を徘徊していた。ぐるぐるとさまよって、空虚だけを満たしていた。
 でも、だから――茎也という少年に出会えた。
 世界に飛び出す直前、朱鷺菜は強く目をつむった。サングラスを介してもなお光がまぶたを透き、いっぱいに広がる。森の中では味わえなかった眩しさに、とり乱しそうになる。恐怖は変わらなかった――けれど、それ以上に光の感覚が気持ちよかった。
 はぐれぬように握り合った手のひらを見つめながら、彼女は思う。
(ああ――そうか)
 この男の子が、私を連れ出してくれたんだな――……。
 それは、小さな小さな逃避行だった。


 川にいった。商店街にいった。暮東の主要なスポットはすべて制覇して、さびれた公園に辿り着くころには、太陽はかなり傾いていた。南の空から重たい群雲が垂れ込めている。
 ベンチに腰を下ろした朱鷺菜は、あたりが無人なのを確認すると、サングラスを外した。さすがに慣れないものを長時間使用するのは疲れる――とはいえ、その力は絶大だった。赤い目はうまく隠されているようで、通行人は好奇の視線をむけてくるが、それ以上の反応はしなかった。ふふっ、とついほくそえむと、横から茎也が言ってきた。
「ときちゃん、なにかおもしろいことでもあった?」
「ん? なにもおもしろくないぞ」浮かれているのを悟られたくなくて返す。
「……そうなの? 僕といるの退屈?」
「ああっ、いや、そういう意味じゃなくてだな。わ、私はおまえといられればそれで……」
「それで?」
「……まあ。いちおう、た、退屈はしない」
「そっか。よかった」茎也はあははと笑った――と。
「おい、あそこになんかいるぜ?」
 突然の声に、あわてて朱鷺菜はサングラスをかけて背をむけた。一瞬だったが、公園の入口に三人の小学生が立っているのが見えた。近づいてくる気配がある。
「あれ? 川辺でもないのにホタルがいる……って思ったら逆さまだったっ」
「ほんと、虫かと思ったら人間だったんだ? ふしぎー」
 朱鷺菜はひそかに舌打ちを鳴らした――よりにもよってこんなときに、もうひとりの自分にいじわるをしてくる主犯格の三人組に見つかるなんて、間が悪すぎる。
「なんでサカサホタルがこんなところにいるんだよぉ」
 伊藤(いとう)が大きなからだを全面に押し出してくる。彼は実行犯だったが、それを陰で指図しているのが矢島(やじま)という女子だった。彼女は言った。
「さあ? また伊藤に髪の毛引っぱってもらいたいんじゃない?」
 人格が変わっていることも知らずにげらげらと笑う。すると、伊藤と矢島の金魚のふんと後ろ指をさされている杉山(すぎやま)が指摘した。「それより見てよ、伊藤くん。矢島さんも。こいつサングラスなんかしてやがるよ?」
「まじかよ」伊藤は朱鷺菜を強引に反転させる。手首を捻るなどして撃退してもよかったのだが、その後もうひとりの自分の被害が倍加することを考えると、安易な行動には至れなかった。彼はひゅうと口笛を吹いた。「おまえ、生意気なもんつけてんな」
 その後ろから、矢島が意地の悪い笑みを浮かべて指示する。
「とっちゃいなさいよ、伊藤。あんたならきっと似合うよ」
「だよな? こいつがつけてもダサいもんな?」手を伸ばしてくる。「おい、よこせ」
 朱鷺菜は反射的にあとずさった。このままでは妖魔の瞳が白日の下にさらされてしまう。だがどうすればいいのかわからなかった――そのとき。
「やめろよ」
 茎也が両者のあいだにからだを割り込ませた。そのまま朱鷺菜を背にかばいつつ下がる。
「なんだおまえ、見ねぇ顔だな」
 この時点で茎也の存在に気がついたらしい。伊藤は、彼のからだつきと色白の顔を見て恐るるに足りないと判断したのか、余裕をたっぷり声に含ませた。けれど朱鷺菜にしてみれば、その背中はどんな男子よりも頼もしく、強く見えた。
「茎也……」
「ときちゃん。もう少し下がって」
 それに反応したのは、朱鷺菜ではなく矢島だった。
「きゃははあ! ときちゃんって、なに? あんたら付き合ってんの?」
 だったら結婚しちゃえばあ? と小学四年生にしては少々おませなことを口走る矢島だったが、蛇の道は蛇――女子の道は女子といえばいいのだろうか、彼女はこの短時間で朱鷺菜の想いに気づいていて、わざと煽ってきているのかもしれなかった。
「けーっこん! けーっこん!」
 言うや否や、伊藤が手拍子に乗せてはやし立ててくる。しだいに矢島や杉山の声も重なってきて、それはいっそう調子を強めて公園内に響き渡った。
「けーっこん! けーっこん!」
 茎也は、ただ三人をにらみつけていた。握りしめた拳はかたさを増しつつあったが、それでも朱鷺菜をケンカに巻き込むのは不正解だと判断したらしい。「ときちゃん、いこう」と身をひるがえすと、彼女の手をとって公園の出入り口にむかった。
「あー! 手を握ってなんかいやがるー!」
 三人は、公園を占拠するために邪魔者を弾き出したかっただけなのだろう。執拗に追いかけてくることはなかった。茎也は無視を決め込んで歩きつづけた。「いたい」と声が聞こえたのは、公園から離れてしばらく経ったときだった。
「茎也、いたいぞ」
「あっ……ごめん」手を離す。いつのまにか、きつく握りすぎていた。
「いや、いいんだ。それより、私のほうこそ悪かった」
「なんで?」
「その……け、結婚なんて言われて」
「う、ううん? 僕は別に……」茎也は顔を赤くして答えた。「ときちゃんはどうなの?」
「ばっ、ばか! そんなこと聞くな、知らん!」
 そっぽをむいて、朱鷺菜は歩きはじめた。茎也は黙ってついていく。
 と――ぽつりと頬を水滴がかすめ落ちた。不安定な色の空を見上げる。さらにひとつ、ふたつとしだいに数えきれなくなっていき、それが夕立だと気づいたとたん、大量の雨粒が広範囲に標準を合わせて撃ち出されてきた。
「うわあ! すごい雨!」
 風のうねりに雨が引き千切られているのがわかった。
「茎也、ひとまず森に入るぞっ」
 ふたりはひたすら山へと走った。雨は冷たく、それに対抗するかのようにからだは熱を持つ。山道を上って“天狗の腰かけ”まで辿り着き、四阿に滑り込んだ。
「びしょ濡れになっちゃったね」茎也は靴を脱いで水を落とす。
「自然のことだからしかたない。すぐやむさ」
 朱鷺菜はサングラスを外し、額に張りついた髪を掻き分けて、ワンピースを絞って水をきった。顔を上げる。せっかく今日は晴天がつづくと思っていたのに、神様はいじわるだ。
 きっとその人は――望んだままでは終わらせてくれないのだろう。
 伊藤たちのことだって、今でも許しがたい邪魔の入り方だったけれど――ふいに彼女は公園での出来事を思い返してみて、頬を桜色に染めた。結婚しろと言われたことももちろんだが、そのあと茎也が言った「僕は別に……」のつづきが気になったのだ。
 彼女は遠慮がちに口を開いた。
「な、なあ茎也」
「なに? ときちゃん」
「さっきのことなんだが……」そこで一度息をためてから、意を決して言った。「わ、私は別に茎也との婚姻もやぶさかじゃないぞ。そうだな……もし、おまえが泣いてすがりついてくるんだったら、私は超がつくほど優しいからな、しかたがないから菩薩のごとくおまえを憐れんで、不承不承、大変不本意だが、自己犠牲の精神で籍を入れてやっても……いい」
 簡単なはずの科白が、どうにも長くなってしまったけれど。
「難易度高いなあ」茎也は苦笑した。
「おまえはどうなんだ? や、やっぱりいやか?」
 すると彼はまじめな顔になって、顔を外にむけた。途切れることのない雨音が耳朶を連打してくる。そのあいだを縫うようにぽつりと答えた。
「いやだって言ったら?」
 いやと言ったら、そのときは――
「おまえをころす」
 ぷっ、と噴き出す音がした。つづいて、あはははと澄んだ笑い声が放たれる。
 朱鷺菜は呆然とその弾けた姿を見つめた。
「すっごいときちゃんらしい答えだよね」目じりを指でさらいながら言う。
「なっ、私らしいとはなんだっ」
「ころすだって? 物騒な子だなあ!」
「だ、だまれだまれ! 笑いすぎだぞ。それより返事はどうなんだっ」
「そうだね」茎也は笑いを残しながら言った。「ころされないようにしたいな」
 朱鷺菜の心臓は跳ねた。彼の言葉に、血の巡りが速まらせられてしまう。
「そ……それってどういう」と、真意を確かめようとしたときだった。
 肌に温かい色が映る――夕立はやみ、黄昏時の太陽が顔をのぞかせていた。湿り気のある風が雲を追い散らしていく。濡れた世界で光は反射を繰り返し、すべてがまぶしく輝いていた。鮮烈な夕暮れだった。
「わ……きれいだね」
 無邪気に笑う茎也を見ると、訊ねるのは野暮なことだと思えた。その笑顔が見られるだけでいいなんて、悟ったようなことは言えないけれど、少女なりにそう感じた。
「すぐにやむ……そう言っただろう?」
 呟くと、朱鷺菜は天狗の腰かけにむかって歩きはじめた。幼い女の子がするみたいに、夢見るような足どりで到着したかと思えば、くるりと手を広げて一回転する。そして茎也のほうを振り返って――彼女は、小首をかしげて笑った。
「な?」
 花咲くような笑みだった。茎也はそのときはじめて、彼女の心からの笑顔を目にしたような気がした。思わず見とれてしまう――が、口元を引きしめて「ときちゃん」と呼んだ。
「なんだ?」
「あのさ」それはとても言いにくいことだったが、伝えないことがなによりも間違った行為であるのはわかっていた。「今まで言えなかったけど。僕、もうすぐ帰らなくちゃいけないんだ。この町じゃない、ずっと離れたところに」
「あ……」
 朱鷺菜の笑みが型崩れを起こす。いつかくることは理解していたが、あえて考えないようにしていた別れの日――それを意識したとたん、痛みさえともなう想いが胸の中で膨らんでいった。ワンピースのすそをつかんで、声をしぼり出す。
「そうか……そうだよな」
「うん」
「い、いつ出発するんだ? 明日か?」
「ううん。ここを出るのはあさってだよ」
「なっ、なら、明日はまだ一緒にいられるということだな!?」
 茎也は再び首を横に振った。「明日は、ちょっと無理なんだ。最初に言ったでしょ? 親戚の子が入院してるって。その子のお見舞いにいってあげなくちゃいけないよ」
 朱鷺菜の表情はみるみるしぼんでいった。
(もう、会えないのだろうか……)
 いやだ。
 茎也に会えないなんていやだ。もっと会いたい。もっと話したい。もっと触れたいのに、離れ離れになってしまうのは辛すぎる。本当ならもう一日あって、二十四時間とはいかなくとも、もっと長く彼の温もりを感じていられたはずなのに――それが親戚の子の“せい”でできなくなってしまっている。いったいどんな子なのだろう?
「……茎也」朱鷺菜は静かに言った。
「ん?」
「その子の名前――なに?」
「えっと……ナオキ、だけど」
「そ、そうかっ」彼女はほっと口元に安堵を浮かべた。ナオキ――ありきたりな男の子の名前だ。もうひとりの自分のクラス内にもいる。親戚の性別を直接的に聞くのはプライドの部分でためらわれて、妥協点で名前を聞いてみたものの、女の子だったらどうしようかと思っていた。が、心配はいらなかったみたいだ。そこまで考えて、遅ればせながら自分が嫉妬していたことに気づき、恥ずかしくなる。「ナオキ、いい名前じゃないか」
 ――だが、一方で茎也は複雑な面持ちで朱鷺菜を見つめていた。
(これは、騙したことになるのかな……)
 たぶん彼女は勘違いをしている。だから、訂正しなければいけないことなのかもしれなかったけれど、口は動かなかった。きっとこれを言ってしまえば――彼女はまた悲しそうな顔をしてしまうから。胸が苦しかった。感覚的なうしろめたさがあった。
 しかし結局、最後まで言うことはできなかった。
「奈緒希ちゃんは女の子だよ」という一言を。
      (二十)


 古い畳のにおいには慣れている。しかし、弟月の汚れの染みついた軍服から漂ってくるにおいは、いつまで経っても鼻を押さえたくなる。
 和室の中は暗かったが、彼の居場所は簡単に確認できた。ふたつの真紅の光点が浮かんでいる場所がそうだ。彼もまた、同じようにして朱鷺菜の存在を把握しているだろう。
「やめておけ」弟月は言った。「きさまは、人とは相容れない」
 朱鷺菜は答えない。ただ、細いまゆげが微動した。
「大東亜戦争の“停戦”以来、われわれも小さくなった。しかし、それはひ弱になったということではない。常に不退院の魂魄(こんぱく)には、気高き闘争を遂行する強い意志がある。……だが、きさまはひ弱だな。人間の餓鬼など、正気の沙汰とは思えん。じつに、じつにひ弱だ。ひ弱は正さなければならん」
 そこで、ようやく朱鷺菜が言葉を口にした。
「正気じゃないのはおまえのほうだろう。枯木の分際でくだらないことをぬかすな」
「聞く耳もたぬとはこのことだな」冷静に言う。「これは忠告だ。無視するか?」
「無視もなにも、相手にする価値がない」
 朱鷺菜は衣擦れの音とともに立ち上がった。襖に手をかける。しかし――「きさまはなにも知らないんだ」と弟月は小さな背中に投げかけた。
 彼女は黙って出ていくが、意に介さずにつづけて告げた。
「人間は、残酷だ」

                    ◇

 北野奈緒希の名前を出すと、受付の事務員はすぐに「二〇七号室よ」と教えてくれた。
「えっと、二〇七、二〇七……」
 リノリウムの廊下の先、目当ての部屋はすぐに見つかった。扉は開いていた。
 部屋の中をうかがってみる。四人部屋だった――と、左奥のベッド同士を区切るカーテンに光を受けて小さなシルエットが映っているのを発見して、茎也は表情を和らげた。
 彼は忍び足でベッドの手前まで近づいて、「なーおきちゃんっ」と勢いよく顔を出した。
「きゃっ」
 短い悲鳴を発して、生地の薄い桃色のパジャマを着た奈緒希は、タオルケットを胸のあたりまでからだを守るようにつかみ上げて、目を丸くして茎也を見る。体調がよくないのに驚かせて悪かったかな、とつい芽生えてしまった悪戯心を反省しつつ、彼は手を掲げた。
「やあ、久しぶり奈緒希ちゃん」
 すると、彼女はタオルケットを下ろしつつ訊ねた。「あ……く、茎也くん?」
「そうだよ? 忘れちゃった?」
「そんなわけないよっ。ただちょっと、びっくりしちゃっただけ……」
「ならよかった」笑って彼はつづけた。「本当はもっと早くこようって思ってたんだけど、いろいろあってさ。遅くなってごめんね」
「う、ううん。私こそ、ごめんなさい。せっかく茎也くんが来てくれたのに、からだおかしくなっちゃって……入院して」――そう、ここは暮東の市民病院。茎也は多恵に言われたとおりに、風邪をこじらせて入院している奈緒希の見舞いに馳せ参じたのだった。
「からだの具合はどうなの?」
 茎也は丸椅子に腰かけながら、奈緒希の様子を観察してみた。彼より早くに病室を訪ねた早苗は、やはりあまり顔色がよくないみたいだと言っていたのに、目の前の少女は頬の血色もよくてなんだか嬉しそうだった。
「あ、うん。咳ももうあんまりでないし……今からでも退院したいくらい」
「だよね。病院ってにおいが苦手なんだ。僕なんかいつも気分が悪くなっちゃう」
「うんうん……私もそうだったけど、でも、今はもう慣れちゃった。こういうの、なんていうんだっけ? 国語で、ほら」
「僕さ、国語得意だからわかるよ。住めば都って言うんだ」
「あ、きっとそれかも」ちょっと違うような気がしつつも、あいづちを打つ。
「でも、奈緒希ちゃんはここには住まないよね。退院してくれなきゃ困っちゃうよ」
「うん……そうだね。頑張るよ」
 くすくすと、奈緒希はやわらかく笑う。小鳥のさえずりみたいだと思っていると――ふと昨日の夕焼け空の中で見た、朱鷺菜の笑顔が茎也の網膜によみがえってきた。奈緒希とは似ても似つかないのはわかっているけど、胸の奥がもぞりと動いたような気がした。
「……ねえ、奈緒希ちゃん」
「なあに?」
「もしさ、もしもの話なんだけど……友だちに嘘つかれたら、きみはどう思う?」
 奈緒希は首をかしげた。瑞々しい黒髪が揺れる。
「えっと、たとえばどんな?」
「ある子と遊ぶことを断っておいて、陰でほかの子と遊ぶ……とかかな」
 彼女に聞くのは、どこか的外れであるような思いがあった。男らしくない――しかし、脳裏に残留する朱鷺菜の表情を思うと、どうしても気になってしまうのだった。
「むずかしいね」
「奈緒希ちゃんはそういう経験とかはないの?」
「どうかなあ。女の子ってね、遊ぶときはみんなでかたまるもん」奈緒希はあごに指をあてて言った。「逆にそういうときって、なにか理由があるんじゃないかな?」
 そのとおりだった。茎也が口を閉ざすと、彼女はつづけた。
「でも、やっぱり私はそういうのいやだな。だって、その子がかわいそうだもん」
「そう……だよね。悲しい思いしちゃうよね」
「裏切られたみたいに感じちゃったりして」考えを巡らせている様子で頷く。それから、少し聞きにくそうに言ってきた。「それってもしかして……茎也くんのこと、とか?」
 茎也は言葉をつまらせる。そういう展開になるのはわかっていたはずだったが、どう答えるかは用意していなかった。その様子を汲みとったのか、奈緒希は優しく言った。
「そんなわけないよね。茎也くんだもん」
「と――当然じゃん。僕は誰よりも茎也だよ」
「なにそれ」
 へんなの。彼女はまたくすくすと笑った――が、それはあきらかな変化を見せた。細い腰が折れて、無理やり空気を吐き出すような音に移ったのだった。
「こほっ、こほっ……」
「ちょっと奈緒希ちゃん大丈夫?」
「う、うん。おかしいな……大丈夫なはずなのに」言いつつも、こほっと背を曲げる。
「無理しちゃダメだよ」
「へ、平気だよ……このくらい」
「ダメったらダメ。苦しそうだもん。看護婦さん呼んでくる?」
「ううん。いらない」
「そう? じゃあ少し休んでなよ。僕はまだここにいるし、奈緒希ちゃんが落ち着くまで待ってるからさ」そう言いくるめて、奈緒希をそっとベッドに寝かしつける。タオルケットを暑くない程度に薄いからだにかけてやる。「うん、わかった……起きたらちゃんといてね」と小さく告げると、彼女はおとなしく目をつむった。そして――本当はずっといくらか辛かったのかもしれない――すぐに健やかな寝息を立てはじめた。
「……さてと」
 とはいっても、やはりひとりきりの時間は退屈なもので、トイレで用を済ませて病室に帰ってくるとそれきりやることはなくなった。しかたないので窓の外を眺めてみる。近代化に出遅れた町並みのむこうに、黒い山が見えた。
 朱鷺菜のことが、再び意識の底からせり上がってくる。
 ――ときちゃん。
(今ごろ、なにをしているのかな)


 一度茎也と出かけたからとはいっても、やはり町の真ん中を歩くのは怖かった。こまめにサングラスの位置を微調整しながら、緋色の瞳をのぞかれないようにしながら――だが、それでも朱鷺菜は意地の悪い笑みを浮かべずにはいられなかった。
「ふふふ……茎也め。びっくりするだろうな」
 そう独り言を口にすると、前方から高校生くらいの少女が歩いてきた。彼女はぎょっとして、朱鷺菜を眺めながらすれ違う。自分よりも一回り小さな子の髪が金色で、おまけにサングラスをしているのだから当然といえば当然なのだが、そんなことは歯牙にもかけないで、朱鷺菜は彼女の格好と自分の格好をこっそりと見比べてみた。
(よし、今日も変じゃない)
 朱鷺菜は人並みのおしゃれというものを心得てきていた。もっとも、もうひとりの自分を真似ているだけなのだけど。今日は、白い半袖ブラウスに紺色のプリーツスカートというとり合わせだった。また茎也は褒めてくれるだろうか――と、考えているうちに町の案内板の前まできた。
「えっと、これはこっちだな」視線を西の方角にずらして、地図と比較する。
 市民病院。
 少し遠いけど、がんばって歩こう。そう心の中で呟いて、彼女は歩みはじめた。


 日射しが、照りつけるものではなく、優しく照らし出すものになってきたころだった。窓の外をぼんやりと見ていた茎也の耳に、甘い眠たげな声が触れた。
「茎也くん……ずっと見てるね、外」
 反射的に意識が旋回する。奈緒希が薄目を開けて彼を見つめていた。言葉から察するに、かなり前には目覚めていたらしい。それならそうと言ってくれればいいのに、と茎也は微笑んで彼女に歩み寄った。消毒液のにおいに混じって、幼い香りがした。
「起きたんだ、奈緒希ちゃん。具合はどう?」
「うん、だいぶよくなったよ。あ、あと……」
「あと?」
「ちゃんといてくれて、ありがとう……」
 眠る前にね、いなくなっちゃってたらどうしようって思ってたの――奈緒希はいまだにまどろみの中にいるような声で言った。なぜだか茎也は照れくさいような気持ちになって、曖昧に頷くまでになってしまう。が、気になることがあった。
「もしかして、さっきのって見張ってたの? 僕がどこかいかないように」
「……違うけど」奈緒希はタオルケットに顔を半分うずめて言った。「なんだか見ていたくなっちゃって。久しぶりの茎也くんだから。また久しぶりになる茎也くんだから」
 どうして彼女がそんなことを言うのかはわからなかったが、不明なりにも感じるところはあった――やはり病院での生活は、十歳の心に重くのしかかってくるのかもしれない。からだが弱ると、潜在的な心細さや寂しさがつきまとうようになるのだろう。
 それを慮り、茎也は言った。「やっぱりさ……ひとりで入院って寂しいよね」
「そう、でもないよ。看護婦さんもよくしてくれるし、お母さんもきてくれるから」強がることを失敗したふうに、彼女は小さく笑んだ。「それだったら茎也くんのほうこそ。私がいなくて寂しくないの? ずっとおばあちゃん家にいるんでしょ?」
「ううん。どっちかっていうと、あんまりいないかも」
 えっ、とちょっと泣きそうな顔で奈緒希は上体を起こす。
「そうなの? だったら、なにしてるの?」
「さて、なんでしょう?」
「んっと……ひょっとして、ずっと外を見てたことと関係ある?」
「あたり」茎也は指を弾いてから、奈緒希の視線を誘導した。「ほら、あそこを見てみてよ。ずーっと東のほうだよ」
 ベッドの中から、奈緒希は身を乗り出して見る。低い屋根が連なっているだけだった。さらに奥のほうに目を凝らしてみるが、黒い山ぐらいしか目立つものはなかった。
 すると、茎也は奈緒希にむかってにやりと笑んだ。
 とっておきの珍聞でも持っているかのように。
「奈緒希ちゃん、知ってる? 居殺山には――……」


 自動ドアを抜けると、病院特有のどこか停滞した空気とともに奇異の視線がまとわりついてくるのがわかった。受付で、自分と同い年くらいの少年がやってこなかったかと聞くと、事務員は「その子なら二〇七号室にいったよ」と教えてくれた。朱鷺菜は、礼も言わずにそそくさと階段のほうへ歩いていく。はやる気持ちが、段差を上る足にも表れていた。
 今日は、親戚の見舞いにいくという茎也のもとへ押しかけるつもりだった。迷いがなかったといえばきっと嘘になるだろうけれど、自分や茎也、そしてナオキのこと――それらすべてを勘案したうえで、それでも朱鷺菜は山から下りてきた。
 ただ、茎也の顔が見たかった――もう一度、あの笑顔に触れたかった。
 それだけだった。
「二〇七号室だったな」
 廊下をサンダルを鳴らして歩く。今ごろ男の子ふたりでどんな話をしているのだろうか、と思った矢先に、奥のほうの病室から少年の声がもれてきた。聞きなれた、それでも飽きずに聞いていたいと感じる声だった。
 とくり、と胸が震える。朱鷺菜は、そのまま病室に飛び込んでいくのもなんとなく怖いような気がして、中の様子をのぞいてみることにした。
 そして。
(――え?)
 彼女は目を疑った。
 茎也はいる。こちらに背をむけて、椅子に座っている。
 もうひとりいる。入院している親戚の子がいる。
 女の子が――いる。
 朱鷺菜は、喉の奥が急速にひりついていくのを感じた。わけがわからない。ナオキという名前はふつう男の子に多いはずで、それでも確かに、女の子では絶対ないと断言はできないかもしれないけれど――言わなかった。茎也は、女の子だと教えてくれなかった。
 可愛らしい黒髪の女の子が、“茎也と同じ人間”の女の子が、なにかをしゃべる。それだけで朱鷺菜の中で赤い感情がほとばしりかける。茎也は笑顔で応えていた。その表情は自分に見せるものよりも自然で、そしてその光景は長い時間の中で描かれてきた一枚の絵画のようだった。ふたりはひとつの世界として完成されていた。
 入って――いけない。
 すると、茎也は山のほうを見て、
「奈緒希ちゃん、知ってる?」
 笑いながら言った。

「居殺山には――鬼が出るって」

「……っ!?」
 朱鷺菜は肩を跳ね上げて、からだを引っ込めた。
(居殺山の鬼を……知っている?)
 そんなはずはないと思った。暮東で生まれ育ってきたわけではない茎也に、その俗信を耳にする機会なんてほとんどない――が、「おばあちゃんに教えてもらったことない?」という彼の言葉を聞いて、朱鷺菜はからだ中から嫌な汗が染み出してくるのを感じた。確かに、古い世代の人間には口伝のかたちで知っている者もいる。
「あそこの山には鬼が棲んでるんだよ。知らなかったでしょ?」
「うん、はじめて聞いたけど……どうして茎也くんはそんな話をするの? こわいよ」
「あははははは」茎也は笑って、つづけた。「いやあ僕さ、あの山に入っちゃったんだよね。森が深いわ薄暗いわで、ホントとんでもない場所だったんだけど」
 朱鷺菜は俯いて聞いていた。壁一枚をはさんだむこう側で、聞きたくてしかたのなかった声が、聞きたくないことを紡いでいる。気がつけば、露出したひざは小刻みに笑い、呼吸は非効率なものになっていた。それでも、茎也の口からはなめらかに言葉が出てくる。
「あれだけ不気味だと、本物の鬼だって出るんじゃないかなって思ったほどだよ。それもとびきり恐ろしくて、目が真っ赤でブサイクなやつ」
 聞きたくない。聞きたくない。
 綺麗だと言ってくれたのに。可愛いと言ってくれたのに。
「……それで、そこの鬼には出会えたの?」
 奈緒希が、怖いもの見たさといったふうに訊ねると、
「んー? それはどうかなぁー」
 茎也は面白がるように言った。その響きに――朱鷺菜はゆっくりと震えるまぶたを閉じ、そのままぎゅっとつぶった。そうでもしないと、なにかがこぼれ落ちてきそうだった。
 もう、正常な音は耳に入ってこなかった。ふたりの会話は、意味不明な音の羅列としか認識できない。それでも、朱鷺菜の中に息づく想いは、勝手にその手足を動かした。再びからだを傾けて、壁から顔をのぞかせていく。
 そして。
 目の前の光景に――彼女の赤い瞳は凍てついた。


 奈緒希にいきなり抱きつかれたのは、山について話している最中だった。
 そこには鬼なんかいなくて、可愛らしい女の子がいただけだった――と真相を明かそうとした矢先だった。前触れはなく、彼女は正面から茎也に身を寄せてきた。しだいに遠ざかっていく大切ななにかを、そこに繋ぎとめようとするかのように。
「わっ。な、奈緒希ちゃん?」茎也は真意を測りそこねて聞く。
 すると、耳のすぐそばからくぐもった声が聞こえてきた。
「……茎也くん。こんどはいつきてくれるの……?」
「え?」
「茎也くん、もうすぐ帰っちゃうから。私が、弱いから……。こんどは、ちゃんとお迎えしたいから……」
「奈緒希ちゃん……」
 茎也は淡い笑みをたたえて息を吐いた。「わからないよ。半年後かもしれないし、一年後かもしれない。ひょっとしたら、もっとあとになるかもしれない」
「そんなのやだよ」駄々をこねるみたいに、さらに奈緒希はからだをすり合わせてくる。彼女の髪の一房が、茎也の頬をくすぐった。
「僕も、いやだよ。でもさ……いつかは会えるよ」
「ほんと?」
 奈緒希の肩が浮き上がる。
「ほんとだって。僕らはいとこ同士なんだから。何年後でも、絶対に会えるから。それまでに奈緒希ちゃんは元気な女の子になっておいて?」
「……うん」
「宿題だよ。わかった?」
「……わかった」
 そう呟くと、奈緒希はからだをゆっくりと引き剥がした。抱きつかれているあいだは全然わからなかったけれど、彼女の顔は真っ赤だった――と。
「……あれ?」
 奈緒希が、茎也の背後を見かけて言った。
「ん? なに、奈緒希ちゃん」
「今、そこに人影が……」
「人影?」
 茎也は振り返る。
 だが、病室の出入り口には誰の姿も見当たらなかった。
21, 20

  

      (二十一)


 病院からの帰り道は、大気が熱を失いかけていた。
 太陽が傾いたころ、看護婦が奈緒希の様子を見にきたのを機として、茎也は病院から去ることにした。看護婦は茎也を見て、なにか記憶が食い違ったような顔をしたが、すぐに笑顔をつくって見送ってくれた。
「ただいまぁ」
 祖母の家に入る。鍵はかかっていなかった。ここはいつもそうだ。
 靴を玄関に脱ぎ落として、気づく――家の中には人の気配がしなかった。静けさの中に、耳鳴りのような音が混じっている。明かりはすべて消灯されていた。
 居間に入ると、座卓の上に紙片が置いてあるのが目に入った。それは書置きの類であるらしかった。小川の流れに似た母の字で茎也への言伝が書いてある。
 内容としては――嶋原家と北野家の夫婦四人で夕飯の買い物にいってくるから、それまでひとりで留守番をしていてほしい。祖母は気分が悪くなって二階で寝ているから起こさないでやってほしい、とのことだった。
「ふぅん……暇だなあ」
 とりあえず喉が渇いてきたので、茎也は台所にいった。適当なグラスに麦茶を注いで、喉を鳴らして飲みはじめる――そのときだった。

 ガシャン、ガシャン――と、戸をたたく音がした。

「ん……?」
 茎也はグラスを置き、玄関のほうを見る。
 母たちが帰ってきたのだろうか? でも、それなら勝手に入ってくるだろう。なら、祖母と関係した人だろうか? 彼女は二階で眠ったままだけれど。
 茎也はひとまず玄関にいってみることにした。簡単な応対ぐらいなら自分でもできる。戸の曇りガラスには不安定な光が映っているだけだった。誰かはわからない。
「どちらさまですか?」
 返事はない。しかたなく鍵穴から外の様子をうかがってみた。
 視界を埋めつくすのは、赤――夕焼けの色だろうけれど、鮮やかすぎる。どちらかといえば緋色。なんとなく気味が悪かったが、居留守を使うわけにもいかないので戸を引く。
「あれ?」
 誰もいない。
 変わらぬ暮東の町並みが、黄昏の中に広がっていた。
 いったいなんだったんだろう? と戸を閉めて、首をひねりながら茎也は居間に戻った。さすがに防犯意識が働き、念のため縁側から庭を見てみるが、おかしな点はなにもない。ガラス戸から顔を離すと、そこに光が反射して屋内の像が映った。
 自分の顔と。
 その後ろに――影。
「っ……!?」
 とっさに振り返った茎也だったが、すぐに緊張を解いた。
「あれ、ときちゃん?」
 そこにいたのは、金紗の髪を持つ女の子だった。
 居間の入口に立っている。彼女は今日も着物ではなく、現代風な格好をしていた。だが、サングラスはかけておらず――それはプリーツスカートのポケットに収まっていた――その代わりというか、前髪が両目を覆うように垂れ落ちていた。
「やあ――」と茎也はあいさつをしようとして、言葉をとどめた。朱鷺菜がここにいるという事実に、けっして無視しきれない違和があることに気づいたからだ――仮に玄関の戸をたたいたのが彼女だとした場合、自分が鍵穴から見ていたもの……いや、彼女が息を殺して行っていた行為を思うと、かすかに身震いしてしまう。その後の流れを考えても、彼女は音や気配などいっさいなく中に侵入してきたことになる。まるで幽霊のように。
 それでも、黙っていてもなにもはじまらないと思い、茎也はつづけた。「どうしたの? 遊びにきてくれたのかな? よくここがわかったね」
 彼女は口を閉ざしたままだ。物言わぬ人形が置いてあるだけのように思えた。ふと下を見やると、朱鷺菜はサンダルを履いたままだった。うっすらと土で汚れ、つま先や足の甲も無理をして走ったみたいに細かく傷ついている。
「ときちゃん、足……家の中では脱がなくちゃ。そのあとで手当てしようよ」
 しかし、朱鷺菜は耳に入れずに一歩踏み出す。さすがに異変を感じる。
「本当にどうしたの? 具合が悪かったら言って……?」
 彼女の肩に手を置くと、煙に似た仕草で顔を上げた。
 その眼は、煤けていた――ルビーのようだと思っていた瞳のきらめきは失われ、眼球の丸みを帯びた底には、きれかけた常夜灯のような仄暗い光が宿っていた。
「――――」
 朱鷺菜はなにか唇を動かした。
 それは――嘘吐き、と呟いたように見えた。
 と。
 視界が歪んだのは、その次の瞬間。
 頭をつかまれたと気づいたときには、すでに地面に倒されていた。馬乗りにされる。あきらかに同い年の女の子の力じゃない。いきなりすぎて、この局面の意味がわからない。朱鷺菜の淀んだ瞳には、正常な像が結ばれているのかどうかも怪しかった。
 茎也は哀願に近い声で言った。
「ときちゃんっ。ほんとに変だよ! い、痛いよ……どうしちゃったの?」
 言葉が通じたのか、肩を押さえつけていた両手は浮く――が、こんどは茎也の首に伸びてきた。ぐちり、と鷲掴みにされる。瞬時に状況を理解した彼は、瞳に本能的な恐怖をにじませた。力づくで剥がそうとするが、爪が柔肌に食い込んでも、彼女の腕はびくともしない。茎也の喉の一番深いところから息がもれた。
「か……は、ぁ」
 朱鷺菜は腰を浮かせて、真上からより正確に全体重を茎也の首にかけていく。小さな手のひらの下で、命が軋みを上げる音がする。彼の手からは徐々に力が抜けて、枷の外れた彼女の腕はもはや彼女以外の誰にも止められなくなっていた。
 朱鷺菜は茎也を見つめる。
 顔が赤みをすぎ、逆に冷たい色を帯びてくる。
 細かな痙攣がはじまる。
 泡が唇に飛び散る。
 そう、このままいけば。
 このまま体重をかけつづければ。
 じきに――

 ――死ぬ?

「……っ!?」
 突然、朱鷺菜のからだが後方に跳ねた。
「がはっ、かは! ごは……っ」
 茎也はすんでのところで意識を保ち、喉を押さえて背中を曲げた。首が手の形に焼印を押されたみたいに熱い。はじめはひたすら酸素を求めているだけだったが、少ししてなんとか周りを見る余裕ができてくると、茎也は薄目を開け――朱鷺菜を発見した。
 彼女は尻もちをつき、瞳を見開いて唇をわななかせていた。そして、スカートの生地がめくれて下着があらわになっているにもかかわらず、表裏逆の四つん這いになりながら立ち上がると、縁側から庭に飛び出して道路へ駆けていった。
「とき、ちゃ……んっ!」
 引きとめようとするが、うまく声が出ない。
 すると、祖母が二階から下りてきた。心配げに見下ろしてくる。
「どうしたんだい、茎也。物音で目が覚めたんだけどね……なにかあったのかい?」
 茎也は咳き込みながら答える。「いやさ……ユキがそこにいたから、つかまえて中に入れたんだけど反撃されちゃって……散々暴れまわったあげくに逃げられちゃったんだ」
「そうかい……動物で遊ぼうとするから、そうなるんさね。気をつけんとあかんよ」
「うん。ごめんなさい」
 茎也は開け放たれた縁側に這っていき、そこから朱鷺菜の走り去っていったほうを見た。当然のことながら誰の姿もなく、空が赤く燃えているだけだった。


「はあっ、はあ……んく、はぁっ」
 一心不乱に、朱鷺菜は無人の道路を駆け抜けていた。方角の認識さえもあやふやで、もはや自分がどこにむかっているのか、どこにむかえばよいのかわからなかった。
 きれぎれの息の中に、悲痛なものが漂う。
 それは彼女を責め苛んだ。
 ――殺そうとした。
(私は、茎也を、殺そうとしたんだ……っ)
 気管が圧迫され、閉塞していく感触があった。やめるという選択肢はないはずだった。だけれど、彼の瞳の先にうずくまる死の影を正視した瞬間――憎しみに震えていたその手は首から離れた。いや、逃げ出した。
 怖かった。
 なによりも――茎也を失くしてしまうことが怖かった。
「あっ」
 なにかにつまづき、アスファルトに叩きつけられる。遅れて、痛み。あらわになった太ももの先を見ると、ひざの肉が見えていた。
 足を引きずって手をつくと、サングラスが転がっているのが見えた。どうやら転倒した拍子に落としてしまったらしい。茎也がくれた、生まれてはじめてのプレゼント。それを拾い上げると、無意識的に握りつぶそうと手に力が入る。
 だが――ぽた、とグラスに雫が落ちた。
「……っ」
 朱鷺菜は、サングラスをつかんだまま再び走り出した。町中ではそれを装着しなければならないことはわかっていたが、自暴自棄になっていた。
 もういい――見られてしまえばいい。誰にも肯定されない醜い目など。見られるものなら見ればいい。こんな自分の、こんな瞳を、見ればいい。鬼の眼を、見ればいい。
 そうして。
「はっ、あぁっ……うああぅ、うああっ、うああっ……」
 気がつけば――彼女は泣いていた。無様に開いた口に、とめどなく涙が伝ってくる。それを飲み込んで、息がつまって、それでも彼女は泣きながら走った。走りながら泣いた。
 だって。
 だって――はじめてのときめきだった。
 はじめて出会って、はじめて話した。はじめて触れられて、はじめて触れた。はじめて遊んで、はじめて楽しいと思った。はじめて微笑みかけられて、はじめて微笑んだ。はじめて守られて、はじめて嬉しかった。はじめて笑って、はじめて泣いた。
 そして――はじめて愛して、はじめて憎んだ。
「ああうっ、うああ……」
 本当はわかっていた。
 ぜんぶ自分の先走った勘違いだったということを。
 親戚の子の名前だけを聞いて勝手に男の子だと思い込み、女の子だったと知ってひとりで修羅を燃やし、茎也にどす黒い感情をむけ、彼を死に至らしめようとした。
 すべて、浅はかな自分の身勝手な行動だ。
 だけど。
 そうとしても――彼は、知っていた。
 この地域の古い伝承を、人あらざる者たちのことを、知っていた。そのうえで、どんな気持ちで茎也は自分に接していたのだろうか――そう思うと、胸がきつく締めつけられる。
 病室で聞いた、彼の面白がるような声が思い出された。あの笑顔は、あの言葉は、あの温かい手はすべてまやかしだったのだろうか。自分の本性を見通して、必死に触れ合おうとする自分をひそかに嘲笑っていたのだろうか。異種に対する差別的な愉悦、ただそれだけで。
 そんなのはいやだ。そんな男じゃないと信じていたい。
 でも、わからない。
 様々な感情が渦を巻いて、思考をかき混ぜる。
(私は、どうすればいいんだ、茎也――……)
 遠くのほうに、黒い山影が見えていた。朱鷺菜はそこに引き寄せられていく――飼われつづけた金糸雀が、空が自分の居場所だと信じられないのと同じように。
 晩夏を告げる蝉の鳴き声が、ひどく耳に残っていた。


 翌日。
 茎也の暮東滞在最終日。
 彼は、山の入口を見つめながら首をさすった。そこにはまだ圧迫痕が青く浮かんでいる。
 昨日――それは、これまでにないくらい説明に窮した。帰ってきた早苗に、いきなり悲鳴を上げられたので鏡で見てみると、確かにひどい鬱血具合だった。いちおう、無呼吸の限界を知ろうとした結果だと実演までして話してみたが、大人たちは疑いの目をむけるというより、どこか息子の頭に悪い虫が入り込んだんじゃないかといったふうな妙に深刻そうな顔をしていた。帰宅後、医者に連れていかれないことを祈るばかりだ。
「ときちゃーん」
 茎也は森の隅々にまで目をこらす。朱鷺菜がいるという確証はどこにもない。しかし、この数日間そうしたように、自分を飽きもせずに待ってくれているような気がしていた。
「僕、いくよ。車で何時間もかかっちゃうようなところに帰るんだ」
 声は返ってこない。
「ときちゃん。昨日のこと……僕は全然怒ってないよ。きみになにがあったのかは知らないけれど、よほどのことだったんだよね? 話したくないなら別に話さなくていいけど、心配してたっていうことは知っておいてほしいんだ。僕は、ときちゃんのことが大切だから」
 茎也はつづけた。
「……ねえ、こんどきたときも一緒に遊ぼうよ。いつになるのかわからないけどさ、きっときみに会いにいくから。もっといろんなことして、いろんなところに出かけよう。絶対楽しいよ……指切ったよ? じゃあね」
 そこまで言って、茎也はきびすを返した――と。
 背後でなにかが転がる音が聞こえた。振り返ると、きらきらと暗い星のような輝きを放つものがあったので拾う。見たことのない石だ。瑪瑙(めのう)のようでもあったし、黒曜石のようでもあった。ひょっとしたら人の黒目が一番近いかもしれない。とにかく綺麗だ。
 茎也は山林にむかって叫んだ。
「ときちゃーん、くれるのー?」
 やはり無音だけが返事をする。しかし、茎也の口元は自然と優しいかたちをつくった。
「ありがとー!」
 茎也は石をポケットにしまい込み、ふもとから走り去っていった。
 そして――彼の後ろ姿が見えなくなったあと。
 鬱蒼とした森の中に、からんころん……という下駄の音がかすかに響いた。


「そういえば、茎也。誰と遊んでたの? 全然話してくれなかったじゃない」
 車の助手席から早苗の声が聞こえた。
 茎也は外を眺めていた。暮東にむかう最中に見かけた風景が、あたかも逆再生しているみたいに遠ざかっていく。町から離れていく確かな感覚がそこにはあって、茎也は深く溜息をついた。とはいっても、母の言葉をないがしろにするわけにはいかないのだが。
「別に、ふつうの子だよ」結局、なげやりな返答になってしまう。
「ふつうってなによ。どんな子なの?」
「……女の子。森に住んでるみたい」
 茎也はしぶしぶ言う。母は「森……?」と呟いたかと思うと、助手席から身を乗り出してきた。その目には、戸惑いの色がにじんでいる。
「森ってどういうこと? 公園で会ったんじゃなかったの? それに女の子って」
 そういえばサッカー少年いうことにしてたんだった、と茎也はひそかに舌打ちした。しかし、入山を禁じてきた祖母はここにはいない。この際だから開き直ろうと思った。
「だから森だよ。一緒に遊んだんだ。楽しかった」
 その言葉に、嘘偽りはないけれど。
「……ねえ、あなたあそこにきてからなんだか変よ。大きな擦り傷つくってくるし、帰ってくるのも遅いことが多かったじゃない。その首の痣だってそう。自分の首をそんなふうになるまで絞めるなんて、ふつうじゃないわ。なにか隠してるんじゃない? 本当は、自分でやったんじゃないんじゃない?」
「ううん。自分で絞めたんだ」
 茎也は淡々と返す。早苗の苛立ちはエスカレートしているようだった。
「自分で絞めたって……おかしいわよ。それに、さっきの遊んだっていう子のことだけど、信じられないわ。もしかして、その子ってなんか不潔じゃなかった? 服がみすぼらしかったり、くさい臭いがしなかった? 浮浪者の子だったんじゃない? 森に住んでるなんてきっとそうよ。茎也ったら、気がつかないでそんな変な子と遊んでたんじゃないの? ……あ、まさかだけど、首を絞められたのって……その子、頭がおかし」
「ちがうよッ!!」
 我慢の限界だった。
 あの綺麗な少女のことを、不潔だとか、浮浪者だとか言われるのは耐えきれなかった。金紗の髪だって絹布のようだったし、女の子の甘い匂いがちゃんとした。出かけたときには可愛い服だって着てきてくれたのに、そんないわれのない中傷をされたくなかった。母に言ってほしくなかった。
「ちがう、ときちゃんはそんなんじゃないッ!!」
 いきなり叫び散らしたからか、車内がしんと静まり返った。高速道路のアスファルトをめくる走行音だけが一定のリズムで流れている。早苗は絶句しているみたいだった。茎也は泣く一歩手前の眼差しで、彼女を睨みつけていた。
 礼二が口を開いた。「まあまあ。早苗もそこまで言う必要はなかったんじゃないか? 茎也の言うとおりふつうの子だったのかもしれないし」
「でもっ」
「わかってるって。そのさ……茎也もそんなふうに怒鳴らなくてもいいと思うぞ? お母さんの気持ちもわかってやれよ、おまえが心配なんだ」頬をかいた。「しかしまあ、確かに不思議な子だな。奇妙っていうか、本音を言うと、俺としてもあんまり賛成はできない」
「なんだよ父さんまでっ」
 そう吐き捨てて、茎也は後部座席に背中を沈み込ませつつ、ポケットの中に手を入れる。朱鷺菜にもらった珍しい小石を握りしめる――彼女はきっと、忘れないでという願いをこれに込めてくれたのだと思う。石を見るたびに自分のことを思い出してほしい、と。
 忘れない、と茎也は強く思った。
 けっして忘れない。いつか絶対会いにいく。
「……ときちゃん」
 ――やがて、車は長いトンネルに入った。
 礼二がぽつりと怪訝そうに呟いたのは、その少しあとだった。
「あれ? 前の車……――」
 直後。
 轟音。世界が崩壊する音が聞こえた。
 爆音。感覚が停止する音が聞こえた。
 雑音。意識が滑落する音が聞こえた。
 その瞬間――茎也の世界は、ひとつの終わりを告げた。


 それより数時間前に。
 不退院の屋敷から、弟月が姿を消した。
 その日から――朱鷺菜は長い眠りにつくこと決めた。

                   ◇

 自室に入った朱鷺菜は、通学鞄を畳の上に捨てて、そのままおしりを下ろした。青白い月光が斜めに降り注いできている。それを顔に受けながら――愚かだ、と思う。
『ためし』と称して茎也と町を歩くことは、必然的に確定的に八年前の回想を喚起してしまうとわかっていたはずだった――そしてそのとおりに、色褪せた塗り絵にもう一度筆を入れていくかのように、風化しかけた原風景は色彩をまとっていった。
 ただ、悲しみの記憶ばかりがそうのではなく、喜びの記憶もまた等しく鮮やかで、だからこそ朱鷺菜の胸は息もできないほどに苦しみに侵されていった。それでも、よせばいいのに、あのころのふたりに手を伸ばしてしまう自分がいた――が、それはやはり愚かなことだと自覚し直した。第一、彼を「嫌い」という言葉で遠ざけているのはほかならぬ自分で、それは、あのときの涙を繰り返さないようにするためであるはずだ。
 ――自分は、もう二度と茎也と触れ合おうとしてはいけないのだ。
 でも、だから。
 もうひとりの自分が彼の身近にいる現実を、どう処理したらいいのかわからない。
「……茎也」在りし日の少年――その名を呟く。
 遠い夏に、彼は帰ってこない。
22

池戸葉若 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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