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33.Shadow Disappear

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 最終種目の選抜リレーを控えて走者たちが群がり始めていた。
 五人一組で五レーン。計二十五人の男子たちがえっさほっさと俊足を競うそのレースに紺野逸喜はまったく興味を示していなかった。
 最前列でジャージのポケットに手を突っ込み、何もないグラウンドに鋭い視線を注ぐその姿は女軍師のような趣きだが、その実体は友達作りに失敗した高校一年生に過ぎない。
 見学に飽きて背後でキャッチボールを始めた男子が頻繁に肩をぶつけてくるので上目遣いで睨んでやると彼らは苦笑いしながらどこかへ消えていった。
 高校に入って二ヶ月が経った。あっという間の二ヶ月だった。
 綺麗に明暗分け隔てられた二月だった。
 雨宮先輩との一月は人生で最高の一月として、生涯忘れることはないだろう。
 たったひとりで家と教室の往復運動に従事していた逸喜。
 友達作り、なんて器用な真似はできなかった。ぼーっとしていたらあっという間に置いていかれた。
 誰も助けてはくれない。転んだ亀は自分で起き上がるしかないのだ。
 ある日の帰り道、ふと横を見ると当然のようについてきている男子がいた。
 逸喜は無視した。
 沈黙を保つ少年は怪しかったし、擦り切れた学生カバンから上級生であろうことはすぐに推測がついた。
 正直に言って、怖かった。
 相手が何を考えているのか分からない、そんなやつが常に側にいるせいで激しくなった動悸が静まらなかった。
 本当にどこまでついてくるんだろう、と思い始めた頃、彼は立ち止まった。釣られて逸喜も振り返った。
 じゃあな、と。
 それだけ。
 それだけで、紺野逸喜はイチコロだったのだ。
 だから、分かる。
 体育祭に唐突に帰って来た、今向こうで友人と楽しそうに喋りながら靴紐を結び直している彼が、偽者だということくらい、一目で分かった。
 紺野逸喜は雨宮秀一の彼女だからだ。




 氷川竜二は考えていた。あの馬場天馬の自信がどこから来るのか、それがもうずっと頭から離れない。
 一月ちょっと前まで、自分と同じ透明人間だったはずの天馬。
 誰からも必要とされず、誰も必要としない。
 違うことがあるとするなら、竜二はどこまでも透明で他者と没交渉のまま生きていくことができたが、天馬はそうできなかった。
 素行不良の生徒とすれ違うたびに百パーセント絡まれては浮かべていた彼の卑屈な笑みを思い出す。
 それがなぜこうも急に激変してしまったのか分からない。
 人間はそう簡単に変われるものではないはずだ。
 今の天馬は別人のよう。
 あの一月前の日。あれからすべてが変わってしまった。
 兄が消え、天馬が変わり。鏡面のように静かで動かなかった水面に小石が投げ込まれたかのように、波紋が起こっている。
 自分は、と思った。自分も変われるのだろうか。
 あんな風に、胸を張って生きていけたら――
 ハッと気づいた時、すでにバトンが手渡されようとしていた。竜二はアンカーだ。
 それを遮二無二掴み取り、駆け出した。
 なぜ走るのか、思い出せないままに。

 五つのレーンを走るうちで、竜二は三番手で走り出し、最初のコーナーを曲がった時には、すでにトップに躍り出でいた。
 鮮やかな追い抜き様に客席の女子から歓声が上がる。
 二百メートルのトラックを駆けていく。正門が見える。
 どうやって天馬はこの状況から自分を負かすつもりなのだろう。
 恐らく、彼が賭けているのは今二番手を走っているやつ。状況から考えてそれしかない、それ以外は逆転不能だ。
 ゴールは近い。だが、竜二の気持ちはずっと同じところを堂々巡りしているようだった。



 (…………ああ)
 逸喜はだから、わかっていた。十二分にわかっていた。
 彼が自分の焦がれる人ではないことを。
 ただ、その背中が自分の前を通り過ぎる寸前、意思に反して勝手に足が踏み出していた。
 似た存在であろうと、自分の前から消えられるのは、もう我慢がならなかった。
 行かないで、と叫んだかどうか。
 気がついた時、逸喜は偽者を背後から押し倒していた。
 周りのどよめきも聴こえてこない。
 ただ、もう離したくない。それしか考えられなかった。
 偽者だなんてことは、先輩がもう戻ってこないなんてことは、痛いほどにわかっていたのに。




 突然の乱入者に困惑しつつも、転倒した二人をさっと追い抜いてゴールした走者を確かめて、天馬は携帯を閉じた。
 勝負は終わった。だが、彼が求めていたような充実はそこにはない。
 途方もない虚脱感と疲労感が身体の芯に残留したままだ。
 グラウンドに眼を向ける。乱入があったとはいえ、やり直しにはなるまい。
 日はもう地平線の向こうに吸い込まれていく寸前だ。
 見学者だって帰りたがっているし、そもそも、単なる習慣である祭りを本気で楽しもうと思っていたり、維持しようとしたりする変わり者なんてこの学校にはいない。
 今日、もし本当にこの祭りに心から没頭した人間がいるとするなら、それは自分と鴉羽ミハネだけだろう。
 そう考えると得がたい経験だったようにも思える。他者が得られなかったら真剣さ、というやつに浸れた実感はある。
 真剣さ――。
 周囲を見渡す。早いところ打ち上げを楽しみたい、と口々に言う生徒たち。
 こんな風に――と考える。普通に生きていけたら、よかったのだろうか。
 ラッキーの顔が浮かぶ。誰も傷つかず何も失わない。
 それが間違っているとは言わない。
 ただそれで切り捨てられるものの中に、自分は価値あるものがあると信じただけだ。
 特殊なのは自分なのか、それともそう思い上がっているだけなのか。
 だが受け入れられない。それだけは揺らがぬ事実なのだ。
(もし、オレが普通だというなら受け入れてみろ――)
 そう言ったところで、天馬の周囲の人間は途端に彼を責めたてる口を噤むだけだ。
 だから自分は闘わざるを得ない。いや、それも言い訳か。
 何か、地面が動いていくような気分になる。どこかへ引きずり込まれていく感覚。
 自分は狂っている。初めから狂っていたのか、それとも一月前に壊れたのか。
 眼を細めて、予期せぬハプニングに兄の演技を忘却してしまっている竜二を眺める。

(竜二、それがおまえの甘さだよ)
(本当に勝ちたいと思ったら、逸喜なんて跳ね飛ばしてゴールに向かわなくちゃいけないんだ)
(おまえは何も望みがないから、わからんだろうが、勝つってのは大変なことなんだぜ)
(ただ生きていくことだけじゃ足りないってのは、本当にキツイんだ)
(望みがあるやつは、闘わなくちゃならない――)

 視線を逸らして、校舎の窓に設置してある得点掲示板を見上げる。
 白組が、僅差で赤組を上回っていた。竜二は赤組だった。
 これから閉会式が始まる。その後、各自解散。
 我らが二年生のうち、希望者は体育館で打ち上げをするそうだ。提案者は白垣生徒会長。
 どうでもよかった。自分には関係ない。
 天馬は鉛のように重たい身体を引きずって、校舎の奥へと消えていった。
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