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38.天空博打

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 どれほど走ったろうか。
 いつの間にか追っ手の影はなくなり、天馬とカガミは手を繋いだまま土手を歩いていた。
 交わされる言葉はない。手を引く天馬が黙っているため、カガミもなんとなく合わせている。
 ぽつ……と雨が降り始めた。学校からここまで、人っ子ひとり見かけなかったのは、皆、賢く天気予報に従ったかららしかった。
 空を見上げて天馬は舌を鳴らすと、自分の上着を脱いでカガミの頭に放った。
「わっ」
「被っとけ。ちょっとはマシだろ」
「でも、それじゃ天馬が」
「バカだから平気だよ」頭をごしごし掻いて水滴を払いのける。
「風邪は引かない主義なんだ」
「何言ってるんですか。主義主張の問題じゃありません」
 カガミは天馬の手を引いて歩を速めた。
「おい、どこいくんだよ」と天馬がつんのめりながら抗議する。
「あの橋の下で休みましょう。雨が止むまで」
 土手を下り、ようやっと橋の下に辿り着いた時にはすっかり二人ともびしょぬれになっていた。
 天馬が破裂音みたいなくしゃみをして身体を震わせる。鼻水をずずっとすすり上げた。
「くそ、ついてない。アンラッキーだ」
「寒いですか。何か飲み物を買ってきましょうか」
 雨の幕へ出ようとするカガミの首ねっこを掴んで天馬は引き戻した。
「いいよ、おまえが冷えるだろ。ここにいろ。それに」
 話もあるから、と言って天馬は落書きだらけの壁に背を預けて座り込んだ。カガミもそれに倣った。
 雨の音がどことなく、優しげに聴こえた。



 怖かったんだ、と呟いた天馬の目は暗く、雨雲に覆われているよう。
「転校してきてからのおまえは、本当に楽しそうでさ、この世にこんなに素晴らしいものがあるのかと思ったよ。
 だから、それだけは守りたかった。この世の誰が不幸になってもいい、ただおまえだけは苦しまないでほしかった。
 オレは愛され方が分からない。愛し方も分からない。近所迷惑の独立国家だ。
 そんなやつがおまえの側にいたら、きっとよくないことが起こると思った。雲間が言っていたように」
「天馬は考えすぎなんです」立てた両膝の間に、顔を乗せてカガミは答えた。
「そういうことは深く考えちゃいけないって鼎が言ってました」
「あいつらしいや。でもオレは、自分がよければ相手はどうなってもいい、自分に合わせてくれない相手が悪い、そんな風に考えてるやつらを五万と見てきた。だからどうしても、そんな無責任にはなりたくなかった」
 そんなの友達じゃないんだ、と天馬はか細い声で言った。
 暗闇を手で漕ぐような手探りの会話は、二人の目を合わさせなかった。
 淀んだ川の流れが、どどど、と見えない何かを運んでくる。
「あなたのこと、最初、嫌いでした」
「――――」
「何もしないくせにおどおどしてて、ダメで、かっこ悪くて」
「おまえに言われると、思ってた以上にグサグサ来るな」
「でも、あなたは」カガミは顔を上げた。
「諦めなかった」
「諦めたら死ぬだけだったからな、あの時は」
「シマが羨ましかった」
 凛とした少女の後ろ姿を思い出し、カガミは唇を軟く噛んだ。
「あなたのことを最後まで、殺されそうになっても信じ続けていて。
 この人には、絶対に勝てないって思った。あんな風に振舞えない。私は、弱虫だから」
「おまえは弱くなんかねえよ」
「私は……」
「ついて来てくれたろ、ここまで。それだけでいいよ」
「私はもう、目を逸らして、本当に見ていたいものから逃げたくないんです」
「わかってる」
「自分は独立国だなんて、寂しいことを言わないでください」
 そんな、寂しいこと、とカガミは繰り替えし、また俯いてしまった。
 天馬には彼女のその姿を見るのが、身を裂かれるように辛かった。
 悲しませたくなかった。笑っていてほしかった。
 なのにどうして、自分は普通に生まれてこなかったのだろう。
 平凡でいい。恵まれていなくていい。
 ただ愛すること、愛されることを、人並みに感受し、応答できる人間だったなら。
 もっと器用だったら。もっと強ければ。もっと――。
「あなたが」
 カガミの声を聞くたびに、胸の奥に残った傷が塞がっていくような気がした。
 暖かい何かが、裂傷を覆っていく。
 どんな時も、そうだった。
「誰とも同盟を組まない独立国だというのなら」
 そうだ、と天馬は深く顔を歪めて、心の中で答えた。
 自分はもう後戻りできない。
 この心の歪みは、それ自体が天馬であると言えるほど心の根幹を占める存在になっていた。
 たとえカガミのためであろうと、自分を捨てることだけはできない。それは死と同じだ。
 死んでいるやつに何が守れるというのだ。
 見上げてくるカガミの澄んだ目を、天馬はどこか呆然とした、夢を見るような顔で見返した。
 彼女は天馬にとって、手の届かない夢だった。叶わないからこそ、夢だったのだ。
 いい夢だったのだ。
「私が、あなたの国民になります」
 そうして、カガミという淡い夢は、醒めることを選んだ。
 まどろむよりも大切なことがあるのだと。
「どこにも亡命しない、あなただけの国民に、私がなります」
「――カガミ、それは」
「どうしてもです。不幸になってもいいです」
「オレはきっとおまえを失望させるよ」
「じゃあ」
 いきなり伸びてきたカガミの手が、天馬の胸倉を掴んで引き寄せた。
 その粗暴な動きに天馬は思わず目を白黒させた。喉が絞まった。
「どうして、私を連れ出してきたりしたんですか?
 なんとなく、ここまで引っ張ってきたんですか?」
 その声は震えていた。寒いからでないことは確実だった。
 カガミは答えを求めていた。天馬の中にも答えはあった。
 ただ天馬にはその重みが、人よりもよく分かっていた。暖かさの代償をよく知っていた。
「私を傷つけたくないなんて今更すぎます。私は一杯あなたに傷つけられました。
 ――そして、同じくらいたくさんあなたを傷つけたと思います」
「――かもな」
「聞かせてください、あなたの考え方を」
「――――。
 そういう風に、傷つけ、傷つけあうのが普通なんだ。綺麗綺麗に生きようなんてのが間違ってんだよ」
「わかってるじゃないですか。私がわかったんです、天馬にわからないわけないじゃないですか」
「わかってるけど、辛いもんは、辛いんだよッ!」
 ジャージを掴んだカガミの手ごと、彼女の身体を抱き寄せた。
 湿った彼女の身体は熱かった。天馬の薄い胸板に、彼女の鼓動が伝わってきた。
 橋の上を、水しぶきを上げて車が何台も通っていった。
「オレはずっと辛かった……。何をしていても、どこにも自分の居場所も価値もないような気がした。
 ただそこにいるだけで息が詰まった。どこかから自分を責める目が見ている気がした。
 オレは人から愛されない。オレは誰も愛さない。
 許されないし、許さない。それがオレの在り方だ」
「天馬……」
「オレだって、幸せになりたくないわけじゃない……。
 でも、おまえを犠牲にしてまで幸せになるくらいなら、オレは野垂れて死んでやる」
「おかしいです、天馬」
「え?」
「そんな綺麗な言葉、あなたには似合わない。言ってほしくない。
 あなたはもっと、わがままだったじゃないですか。
 無愛想で、意地悪で、人の言うことをちっとも聞いてくれなくて。でも、それが天馬じゃないですか。
 私はそんなあなたが、好きになったんです」
 口を塞ぐ前に、その言葉は紡がれてしまった。
 天馬はぎゅっと目を瞑った。その奥がカッと熱を帯びた。
 嬉しかった。それと同じくらい、苦しかった。心臓が痺れた。
「どうします? 私、こんなにあなたが好きになってたみたいです。自分でも、驚いてます。
 このまま、離されたら、私、悲しいです」
「オレだって悲しかったよ――」ああ、もうだめだ、と覚悟した。
「門屋も、白垣も、大嫌いだ。おまえの横にいるだけでぶちのめしたくなった。
 でもオレが苦しんだ分おまえが幸せならってあの時は、思ったんだよ」
 カガミは天馬の肩に顎を預けた。
 その耳元で、風に掻き消されてしまいそうな小さな声を囁きかける。
「私の幸せは、私が決めます。心配してくれて、ありがとう。
 でも私は信じてほしいんです……あなたに」
 天馬は鼻をすすった。涙をこらえた。
「会ってから、もう何度も私はあなたを信じきれませんでした。
 だから私に最後のチャンスをください。一生のお願いです。
 最後まで、信じてもいいですか、天馬」
「オレはおまえを守る国なんだろ」
 しっかりと、その肩を掴んで答えた。彼女の思いに。まっすぐな気持ちに。
 何よりも価値があると思ったものに、答えてやりたいと思った。
「何もない国だけど」
「私、私」すがりついてきたカガミの髪を、天馬は恐る恐る撫でた。
「人を殺しました。たくさん殺して生きてきました。そんな私でも、好きでいてくれますか?」
「好きだよ」何も躊躇わずに言えた。
 軽々しく言ってはいけない言葉を、自分はちゃんと、覚悟を持って告げられたのか、痛烈に誰かに確かめたくなった。
「それは一生、おまえの中から消えない傷なんだろう。
 だけど、この世界中がおまえを責め苛んだとしても、オレだけはおまえを許すよ。
 ずっとおまえだけをえこひいきしてやる。
 おまえのことが好きだから」
「――――」
「オレが連れてってやるよ……誰もおまえを追いかけて来れないくらい、高いところに」
 これは勝負だ、と天馬はカガミに誓った。
 やっと見つけた――天馬だけの賭け。
「オレの何もかもを賭けて、おまえを幸せにできるかどうか、一丁張ってやろうじゃないか」
 カガミは一端、身体を離して、袖で目頭を拭った。
「格好よく、決めたところで申し訳ないのですが」
「なんだよ」
「私、もう幸せです」


 うっすらと、カガミは笑った。

 天馬にだけ伝わるように、かすかに。


















 身を寄せ合う二人の側に、空から火のない煙草が、舞い落ちた。

 それは苦難の生への餞別、別たれた道への哀惜。
 新しい夢の誕生への祝福だった。

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