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それの行方

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「滴草……」
 病室の扉の一歩外から、小林菜美は呟いた。
「こ、……小林、さん」
 思わず一歩後ずさりした春子は転ぶ様にしてベッドの上に腰掛けた。同輩の相手なのに、対等の立場で話せる気がしないのは必然か。
 会話の無い空間の中で、春子は菜美の違和感に気が付いた。顔は赤らみ、目元は潤み、よくよく見ると右手の裾を濡らした跡がある。
(まさか……)
「あの、浅川君は――」
 春子は反射的に立ち上がってそう口にした。菜美は目を細めて嫌悪感を露にしてから、苦痛そうに口を開く。
「……今、下でお医者さんに会ってきた。…………亡くなったって……」
 菜美の目はふるふると震え、口元を締める事で必死に涙を堪えているのが一目で分かった。春子の胸がずくんと痛むと同時に、菜美が後に続けた。
「――何、それ」
 瞬間、体中の血の気がさっと引ききった。が、菜美の視線はどうやら、ゴミ箱の中身ではなく右手に持った春子宛ての封筒を指しているようだ。
 春子の胸の鼓動が激しく波打つ。
「ああ、これ……。な、なんかさ、浅川君が書いててくれたんだって。手紙、私に」
 菜美が明らかに動揺しているのが見て取れた。が、春子はそれ以上は口にはしない。
 菜美はばつが悪そうに視線を逸らし、手持ち無沙汰な両手を揉み合わせたりしている。
「あ、あの……。それさ、他の人には無かったの? ……手紙は滴草さんにだけ……?」
 そう聞いてくる菜美の姿を見て、何も感じない筈が無い。それでも、もはや春子にはどうしようもないので、黙って首を縦に振る事にした。
 隠し切れずに、僅かに落ちる落胆の顔色。それを見て春子はまた自分のした事の残酷さを噛み締める事になるのだが、だからといってどうしようもない。
「そ、そうなんだ……。そっか、そっか」
 もう、この場にはいられない。春子はゴミ箱を持って立ち上がり、学校鞄を肩に掛けた。
「じゃあ……そ、そういう事で。私、ちょっとゴミ捨て頼まれてるからさ」
 それは、出来が悪いとかなんとかいうレベルの話ではない次元の嘘。一体、どういう緊急事態が起きれば見舞い人に病室のゴミ捨てを頼むというのだろうか。
 だが、今の混乱した菜美の前からゴミ箱を持ち去るにはそれで充分で、それに、それを怪しんだからといって、何かがどうなる訳でもない。まさか自分宛ての手紙がバラバラになってそのゴミ箱の中に捨てられているだなんて、菜美は夢にも思っていないのだ。
 春子は病室からゴミ箱を持ち出し、走ってその場を離れた。
 そして、一人きりになった病室で菜美は、枕の下を見てみたり棚の引き出しを開けてみたり、ある筈のない自分宛ての封筒を探し始めた。

 ○

 ――小林菜美は、昔から背が高かった。
 高校三年生時で178.9cmに達したその身長は、中学入学直後で既に170cmを越えていた。男子からすら羨まれるようなその高身長は、しかし菜美にとっては負の要因にしかならない。
 菜美は、基本的に自分の顔が嫌いだった。魅惑的な目力を持つ目元は端的に言えば目つきが鋭く、確かに『可愛さ』からは程遠い。かつ、自分の顔を嫌いになるのが先だったかニキビが出来始めるのが先だったかは定かではないが、顔中に散見されるニキビ。そうして自分の顔に自信の無い菜美は、『目立つ』という事を極端に嫌った。
 しかし言うまでもなく、クラスメイトの中でも常に頭一つ抜き出る高身長はそうした菜美の願いを阻んできた。行く先々では必ず注目を浴び、その度にまるで晒し者にでもされているかのような錯覚を起こした。『クソッ、邪魔なんだよ。でけーんだから一番後ろの席いけよ』とクラスの男子に言われたのは小学校六年生の時で、少しでも背が縮むように背中を丸めて寝る習慣を身に付けた時期の少し前の出来事である。

 そして中学校一年生の時、菜美はこの病室に来た。
 大した病気ではなく命がどうとかの話ではなかったが、菜美のベッドは健人の向かいだった。
「背、高いねー。カッコイイな」
 まだお互い若々しく、特に健人の幼さは女のように可愛らしい。そんな純真無垢な面持ちで、健人は病室に入って来たばかりの菜美に向かってそう言ったのだ。
 菜美の眉間に皺が寄り、睨み殺さんばかりの目つきで健人を睨みつけた。
「うるさい。話し掛けんな」
 菜美は怒りに任せてそう言い放ち、自分のベッドに潜り込む。
「えっ!?」
 健人は慌てふためき、毛布の下の菜美に向かって呼びかけた。
「ごっ、ごめん。身長の話は嫌だった? もしそうだったら、本当にごめんね!?」
 別に、一般的倫理観から見て何か非人道的な事を言った訳でもなかろうに。自分がいきなり怒り出してしまったにも関わらず徹頭徹尾頭を下げる健人の様子に、菜美は急に自分が恥ずかしくなってきていた。
「……別に、良いよ。何も知らなかったんだしさ。その代わりもう何も言わないでね」
 健人の表情が明るくなった。友人を作る数少ない機会の中で、自分のした事を許して貰えたというのがとてつもなく嬉しかったのだ。
「うん! でもさほら、僕は身長なんて気にしないよ?」
 それを聞いて、菜美は再び目つきを鋭くした。だから、やめろと言っているだろうがと。毛布の中から顔を出し、健人の方を見た。
「ほら。僕達、身長なんて関係ないよ」
 健人は腰から上を起こした状態で、首の上までを毛布で覆い隠していた。確かに、入院患者同士。横になって毛布で覆えば、身長なんて何の指標にすらなりやしない。
「………………」
 菜美は、自分がこの上なく恥ずかしくなると共に、それとは別件で、頬を赤らめた。
「……本当にごめんなさい」
「え? いやいや、なんで? 僕が悪かったんじゃん」
 その時の健人の間抜け面が可笑しくて、菜美は久しぶりに笑った。
 そして夏の暑い日にも関わらず、二人は肩まで毛布を被っていつまでも言葉を交わし続けた。

 ○

 菜美は、この病室で考えられる場所を隅々まで探し尽くした。
 看護婦にも尋ね、主治医にも聞いたが、誰も何も知ってはいない。
 やがて病院は閉まるというので、菜美は廊下やトイレまで、ありとあらゆる箇所を探しながら玄関口に向かった。とは言え、健人が女子トイレに隠す訳もないのでそこら辺にいた男性の方に頼んで探してもらった。
 それでも、どこにも無い。菜美は病院を出た。
 もう外は真っ暗で、雪も降っている。流石に、外には隠さないかな。
 傘も無く、菜美は街灯の無い暗がりを一人で歩いた。車通りの少ない道で、大通りの喧騒が微かに届いてくるぐらい。
 冷えた手の上に、雪でない水滴が一つ落ちる。
 声にならない嗚咽を漏らして、菜美はその場に崩れ落ちた。
「浅川君!! 私には!!?」
 空に向かって、菜美は叫んだ。
 待ってみても応えは無く、そのまま菜美はいつまでも泣き続けた。
10

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