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【Scene1】Before tragedy of Nira

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【大山-1-】


 妊娠が発覚したとき、両親は飛び跳ねるように喜んだそうだ。
長年不妊に苦しみ、治療を続けてきた彼らにとって僕はまさに
天からの授かりものに思えたのだろう。
両親は子供に和志と名付けて、僕大山和志は生まれたわけだ。
絵に書いたような幸せが訪れるだろうと誰もが思っていた頃、
検診で僕の嗅覚が先天的にほとんどないことが分かり、
両親は泣き崩れた。完璧な子供を望むというのはどの親にもありがちだし、
まして不妊治療を受けている夫婦にはなおさら強いその思いは
どこかで僕の将来を否定していたのかもしれない。
両親は障害を受け入れたくなかったようだが、
当の僕自身はそれが普通なのだと小さい頃から思っており、
最小限の気遣いを怠らないことによって他の子供と変わらない生活を送ってきた。
両親もその姿を見て段々と元気を取り戻していった。

 
 時は経ち、僕は二十六歳になった。国立の大学を卒業したおかげか、地元の中堅企業に就職することもでき、楽しく生活をしている。
不安なんてものはないに等しいが、あるとすれば―
「和志、私たちもそろそろいい歳だから早く孫の顔が見たいわ」
耳が腐るほど聞かされるその言葉。両親には申し訳ないが、
しばらく孫は見せれそうにない。僕はこれまで女性と付き合ったことすらないからだ。
嗅覚がないというコンプレックスによって僕は女性に対し奥手になってしまい、
友達程度の関係は築けても、二十六歳のいまになるまでこの有様だ。
どうしたらいいんだろう、と手詰まりになってしまった頃の会社の飲み会で転機が訪れる。


「かんぱーい」ガチャガチャとビールのジヨッキがぶつかる音がする。礼儀として僕も一杯目はビールを飲むが、あの独特の苦みが喉を通る感じが苦手で、なかなか減ってくれない。
皆が立って乾杯をし合っているうちに上司に一通り挨拶を済ませると、
何の面白みもないが、酒癖の悪い奴の被害も及ばない端の席に座って周りを見渡す。
百人は入るかというこの居酒屋の半分を埋めつくす僕らの騒音は公害レベルだ。
まだ席に着いていない奴らは体育会系よろしく一気飲みを繰り返している。
それを見て、入社時の苦い記憶が思い出される。


 ―新入社員だということで真ん中の席に配置された僕。
やたらと上司がビールを注ぎに来て、おまけに蘊蓄をたれていった。
適当に相槌をうっていると、気のない返事が上司の逆鱗に触れたのか、
課長が僕の方ににじり寄ってきて説教をした。
確かに僕が悪いなと真面目に聞いていると脈絡もなく、
課長は僕の顔目がけて盛大に嘔吐した。周りの社員たちがその処理をやってくれ、
僕にいくつものおしぼりをくれて「災難だったね」と口々に言った。
災難? 確かにそうだが、それはゲロを浴びたこと自体ではなく、
スーツをクリーニングに出しても匂いがとれるか判断できないから、
入社に際して新調したスーツを捨てなければならなくなったことだ。
ほのかにでもゲロの匂いがするスーツを気ながら仕事なんてとてもできないだろう。
…そうして僕は飲み会では末席に座るようになったのだ。


「どうした? いつも以上に元気ないみたいだな」
一杯目のビールを飲み干したころに山本が声をかけてくる。
山本は酒が弱いため、よく末席の方に逃げてくる。
同期入社ということもあり、すぐに僕らは仲良くなった。
今では社内では随一の気のおけない友人である。
僕は悩みを洗いざらい話す。山本は真剣な顔で僕の話を聞いてくれて、
しばらく考えたあとにこう言った。
「なぁ、俺の後輩で良ければ紹介しようか? コンプレックスだなんだ、
って考えているより実際に女性を前にして考えた方がいいだろ? 
一種のショック療法ってやつか」
意外な申し出に僕は飛び付くことにした。
「頼む。僕自身もこのままじゃいけない、変わらなきゃいけないと思う。だから―」
僕の静かな決意表明は課長の怒号のような声にかき消される。
「おい、山本ぉ! こっち来て酒飲め」
やれやれ、という表情をしながら課長の元に急ぐ。
僕は新しいお酒を頼んで、同じく隅に座っていた窓際族の社員さんの相手をした。
子供さんは今お幾つでしたっけ、とか当たり障りない内容だ。
彼の子供は高校三年生で、大学は行きたいと言っているが私立文系志望のため、
とてもじゃないが今クビにされるわけにはいかない、と彼は涙ながらに語っていた。
かなり涼しそうな頭をもった窓際さんだって結婚し、家庭を持ち、家族について悩んでいる。
俺だって、俺だってきっと。
その後、熱弁する窓際さんの話を聞いていると、何故か何回もありがとうと言われ、
同じ回数熱い握手を交わした。
ちょうどそのころ飲み会は終わり、ふと山本を見ると、
各上司から集中砲火された様で完璧に酔い潰れていて、
さっきの約束は大丈夫なのかと不安になった。


 二次会は適当な理由を付けてパスした。
酔い潰れているのに体に鞭打つような自虐的な宴は遠慮したかったからだが、
一人になりたかったからというのも否めない。
同僚に別れを告げ、地下鉄に乗り込む。距離の割に高いと悪名高いこの地下鉄は、
それでも混み合っており、圧迫感を感じながら、僕は山本に提示された可能性を信じた。
もしくは、この車内で電車男みたいな奇跡が起きないかと無責任な期待を抱いてもいたが。
【木崎-1-】


 もう限界です。誰か迅速かつ鮮やかに助けてください。
考えられますか? 八年ですよ、八年。そんなにも長い間私は苦痛を我慢しているんです。
それでも事態は良くなるどころか、悪化し始めるし…
って、聞いてます? もしもーし?

 
 相手は無言のまま電話を切った。空しくツーツーツーと耳元で鳴る。
私のストレス解消法の一つ、「適当な電話番号にかけて現状を愚痴る」
というのもなかなかうまくいかない様だ。見知らぬ番号でも、宅配便や
仕事先などの人の番号ということもあるからだろう、
電話自体は多くの人が取ってくれるのだが、私の一方的な愚痴を一分と聞いてくれた人はいない。
私は誰かに分かってもらいだけなの、その願いすらも叶えられないって、
ひどすぎない? 私はどうしてこうなったかを目を閉じてしみじみと振り返る。

 
 当時の私は三十路を迎え、「婚活」というやつに燃えていた。
その頃私は某印刷会社で事務処理の仕事をしていたが、
三十路に至るまで適当な人と付き合っては別れ、付きあっては別れを繰り返していた。
二十五を超えたころからは付き合う人に結婚を求めて、迫ったこともあったが、
それを彼は、彼らは「重い」の一言で片づけていって、気がつくと三十だったのだ。
自分の力ではどうしようもない、と私は腹をくくり、
婚活として結婚相談所に高いお金を払って登録した。
相談所はすぐに私に案を提示してくれた。
…年収一千万、市内の高級マンションに住んでいてイケメン、
という絵にかいたような王子様を紹介してくれたのだ。
当然私はその出会いに喜び、実際にお見合い形式で会うことになる。
そうか、このときに気づけばよかったのだ。彼が最低な男なのだと。
いや、彼自身ではなく彼を取り巻く環境も含めてだが。
 
 高級料亭でセッティングされたお見合いにやってきたそのイケメンは、私には釣り合わない
存在であるように見えた。整った容姿、ブランド品を格好良く散りばめるセンス、会話していてわかる
そのインテリジェンス。
どれをとっても、そこそこの外見で、高くも安くもない服を着まわして、頭もそんなに良くない
三十路女にはもったいなかった。
「―それでは、若いお二人だけで…」
と仲人達が消えても、私は委縮しっぱなしだった。存在しているだけで恥ずかしかったのだ。
慣れない正座で足が痛くなっていることなんて気にならないくらいに、自己嫌悪に陥っていた頃に
彼が話しかけてくれた。
「ね、そんなに緊張しないでよ。楽しく話そうよ」
そんなことで急に楽になったら苦労はしない。私は思い切って自分の思っていることを打ち明けた。
万が一この縁談がうまくいっても、この精神的苦痛が無くならない限りは楽しくは暮らせないから。
「私ね、年齢も結構いっているし、美人じゃないし、あなたとは釣り合わないと思うの。
だから、私じゃなくてもっと他の―」
あの人のことを見れなくて、目線を泳がせながらしゃべっていた私は一瞬何が起きたのか分からなかった。
数秒してから、彼に手を握られていることを感知する。
彼はテーブルの上に身を乗り出して私の顔と数センチの距離に顔を近づけ、話し始めた。
「僕のところにも結構縁談がきたりする。…でも、全部断っていたんだ。それは、その人に魅力を感じられなかったから。
あなたとの話も最初は断ろうと思ったけど、写真を見て、あなたしかいないと思ったんだ。
僕はあなたがいい。いきなり結婚してくれとは言わない。でも、もしよかったら僕とお付き合いしてくれませんか?」
ロトシックスが当たるくらいの奇跡だろうか? そりゃあ、当時の私は嬉しかった。
当然その誘いをOKしたし、現実にそれからお付き合いして、結婚までしたんだ。
そして私は水沢藍から、木崎藍になった。

 
 新婚初夜、他の夫婦でやるであろうあの行為を心のどこかで私は期待していた。
「君を大事にしたいから」とかいって付き合っている間は私の乳房さえ見てくれもしなかった。
だからこそ、夫婦になってからは、と一層期待を募らせていたのだ。
私はまだかまだかとマンションで夫の帰りを待った。
夫をびっくりさせようと私は慣れないコスプレに身を包み、
ドアの前で待っていると
鍵を開ける音がした。あの人だ、と思ってインターフォンを覗くと、やはりあの人の顔。
満面の笑みを浮かべながらドアを開け、
「おかえりなさい」
と言うと、あの人は苦笑いをした。苦笑いの理由はその数秒後に分かった。
「なんだい、良彦の結婚相手は三十も超えているのにこんな恥ずかしい格好をしているのかい」
おそらく五十すぎであろう、オバちゃんがあの人の後ろにいて、
私をまるで汚らわしいものを見るかのように見ていた。
呆然とする私の肩を夫は優しく叩き、
「これ、俺のお袋。どうしても同居したいっていうから、連れてきちゃった。な、いいだろ?」
私に選択権はなく、受け入れてしまったわけだが、
その時はセックスを挫かれたことにいら立っていて、姑にまではあまり気が回らなかった。
彼女がどんな人間で、どれだけ私の人生にとって邪魔なのかということも分からなかったのだ。


 姑の嫁いびりは翌朝から開始された。私の作る料理に
「こんなまずい飯を良彦に食わせるのか? 恥を知れ!」
といちゃもんをつけて、朝食はおろか、朝五時に起きて作ってあげた弁当まで
ゴミ箱に投げ捨てたのだ。呆然としていると、
「良彦ちゃーん、これで何かおいしいものでも食べなさいね」
と一万円札まで夫に渡していた。
私が助けを請うように夫の方を見ると、夫はその視線を完全に無視し、
「ありがと~、ママ」
と私には聞かせたことのない甘い声で言った。
そう、彼は極度のマザコンだったのだ。例を挙げればきりがないが、
やはりこの出来事が一番心に突き刺さっている。

 結婚相手がマザコンなんてありえない、離婚する、という人もいるかもしれないが、それは無理だった。
当時の状態で私が世間に放り出されたら、三十歳、無職、バツイチ…絶望的じゃないか。
ともあれ、このマザコン夫といびりに耐える決意をした私だが、
いつの日か精神が崩壊するのではないか、というくらい追い詰められてしまっていた。
誰にも相談できないし、どうしたらいいのか考えていると、
「子供」を作ればいい、という単純な結論に至った。子供には姑もやさしくするだろうし、
子供の世話、という生きがいができれば私ももっと楽になるはず。そう、その筈だった。
私はその夜夫と外食すると言って、姑を家に残し二人で出掛けた。
「な、なんだよ強引だな。今日も母さんも一緒にごはん食べればいいじゃないか。
今更二人で食べにくる必要なんかないだろう? 僕たちは結婚しているんだから」
渋る夫の手を引いて向かった先は、レストランでもなく料亭でもなく、ラブホテル。
「おい、ここってごはん食べる所じゃないだろ?」
夫はかなりオドオドとしながら私に言う。
「そうよ。ラブホテルよ。今から私達はセックスするの。ねぇ、私子供が欲しいの。姑さんがいたんじゃ
家の中ではできないじゃない。そのおかげで結婚してから三ヶ月も経つのにまだ私達していないのよ?」
すごい剣幕で言った私に怯えながらあの人は言った―
「してない、じゃない。できないんだ」
えっ? と言ったのか顔で示したのか分からないが、私はとにかくそういうリアクションを取ったはずだ。
「僕は…不能者なんだ。インポテンツなんだよ」
さらっと言ってのけた彼に唖然としていると、
「ママに連絡しなきゃ、携帯携帯っと…」
そうあの人は言って私の手を振り払い携帯を探し始めた。

そう、私の夫は極度のマザコンで、かつインポで、姑も性格が悪いというどうしようもない奴だったのだ。
3, 2

  

【大山-2-】


 翌朝は二日酔いになることもなくさわやかな目覚めを迎えることができた。
携帯を開けて時間を確認すると、朝七時五分だった。
土曜日で非番の日だったので二度寝をすることもできたが、
あまりに目覚めが爽やかだったからベッドから起きることに決めた。
顔を洗って、なんとなくテレビをつける。いつもは目覚ましテレビがやっている時間だが、
土曜ということもあって他の報道番組が流れている。
番組では、特に報道すべき事件はないようで、「実録・裏サイトの闇」という
委託殺人だとか、危ないビジネスの温床となっているサイトについての問題を
知的ぶったコメンテーターが熱弁していた。
「子供に携帯を持たせなければいいんです。そもそも私たちの時代には携帯電話なんてなくて、
外でサッカーばかりしていた。その頃に戻ればいいじゃないですか」
黒で縁取った眼鏡に、整えられた眉毛。
でも、言っていることはそこらへんのサラリーマンと大差ない。
嫌気がさして、朝食でも作ろうとキッチンへ向かう。
冷蔵庫を開けると、卵と牛乳があったので、オムレツを作ることにした。
大学は自宅から通っていたため、社会人になってから始めた一人暮らしだが、
今では簡単な料理なら作れるようになった。
このオムレツも、それなりの形と味はできているはずだ。
冷凍していたごはんをチンして、どんぶりによそう。
そして、作ったオムレツをその上にドン、と置き、ケチャップをかける。
一人暮らしの男の豪快な、いや手抜きごはんといったところか。
そのどんぶりを居間に持っていって先ほどのテレビを見ると、
高校生で億単位の金を稼ぐプロゴルファーの不調を伝えていた。
…彼みたいな人生を送ることができれば、幸せと言えるのだろうか?
ルックスや才能に恵まれた、神から微笑みかけられた人々。
その点で言えば、僕は神に見放されているのだろうか。
見放された人はどうしたらいい? あがいたら神の気持ちも変わるのだろうか?
なんだか嫌気がさして、テレビを消す。食べ終わったどんぶりをキッチンに持っていくと
携帯のメール着信音が鳴った。


 朝早いのに、なんなんだろう。どんぶりを流しにほったらかして、
携帯を確認してみると山本だった。
―きのうはお疲れ。まったく上司っていうのは最悪だよな。俺今日出勤の日だって言うのに
思いっきり二日酔いだよ。取引先にビール臭いのばれないかな。
と、そうだそうだ。昨日言っていた俺の後輩、紹介するよ。
恵子ちゃんっていうんだけど、今はおおぞら銀行のウチの会社の近くで銀行員してる人だよ。
俺の三つ下だから、二十三歳だな、確か。あっちには今日の午後位には言っておくよ。
彼女にお前のアドレスを教えるから、たぶんメール来ると思う。
来なけりゃ、ドンマイだなwww
おっと、こんな時間だ。じゃあな、健闘を祈る。


 覚えていてくれたのか。ってか二十三歳か。二十三歳と言えば、スザンヌとか北川景子と
同じ歳だ。仮に僕がその子と付き合うことができたとしたら…
話は合うのだろうか? 嫌われてしまわないだろうか? 彼女を楽しませることはできるのか?
違う、「できるのか」じゃない、やるしかないんだ。
一度大きく深呼吸をしてから、目を閉じて、もう一度深呼吸をする。
変わる、変わるんだ。

 
 ユニクロで買ったジーンズ、インナー、パーカーを着て僕は颯爽と家を出た。
着替えている時に姿見に映った自分はなにかどんよりとしていた。
会社でスーツを身にまとっている時こそ、それなりに見えるが、
映っていた僕はユニクロさえ着こなせていなくて、センスのかけらも感じられなかった。
センスなんて一朝一夕で身につくものじゃない。だとしたら、他人のセンスを利用すればいい。
休日でもやっている銀行のATMで百万円を下ろし、開店直後のブランド専門店街に足を踏み入れる。
「いらっしゃいませー」
僕でも知っているような有名ブランドの名を汚さないような、清楚な店員さんが言う。
開店直後だから僕以外の客はいない。…言うとしたらいましかない。
置く手だった僕が言うなら、少なくとも他人の目は少ない方がやりやすい。
僕は入店するなり、いきなりカウンターに向かうが、いざ言おうとすると
いつもの悪い癖が出て言えない。
「どうかされましたか?」
と洗練された笑顔で店員さんは聞いてくれる。
それでも僕が何も言えずにいると、彼女の顔に陰りが見え始める。
言えよ、俺。言うんだ、俺。
「あの、上から下まで、いろいろ服を揃えたいので、どういうのがいいか選んでもらえませんか?」
蚊の鳴くような声でしか言えなかったが、店員のお姉さんには聞こえたようで、
また洗練された笑顔で、「はい、じゃああっちのコーナーに行ってみましょうか」
と言ってくれた。
その後僕はメジャーで体のサイズを測られたあと、お姉さんが提示するものを次々と「買います」と言った。
お姉さんはそれらを次々と腕に抱えていくが、いくつも抱えるとその華奢な体には手に余るようで、
もう一人の店員の人にヘルプを頼んでいた。
僕はその二人の腕いっぱいの服を選んだあと、レジで会計を済ませた。
「八十六万九千円になります」
いくらあのブランドの店でもいきなりこの額のお金を使う人は少ないのだろう、
お姉さんは少し引き笑いをしながら、「お支払方法はいかがなさいますか?」
と付け足した。
「キャッシュで」と僕が行って、札束を出してそこから十二枚を数えて抜き取り、
レジに優しく置くと、お姉さんは丁寧に一枚一枚数えていった。
数え終わると、お姉さんは「千円のお返しです」と言うとともに、
少し好奇の目線を僕に送った。
「あの、大変失礼だとは思うんですが、なんでこんな買い方されるんです?」
申し訳そうな言葉と裏腹に、視線にはなにか痛いものすら感じる。
まぁ、普通に考えればおかしい買い方だろうからな。
「なんていうか、イメチェンです。これまでの僕を払拭したかったんです。
ただ会社と家の往復で、女の子と遊ぶチャンスもなくて、お金を使いたくても
使えなくて…っていうのが嫌になったんです。ははっ、変なこと言ってますよね?
でも、僕にもチャンスが来たんです。今回ばかりは、逃したくないんです」
女性と話し慣れていないものだから、変なところで声が大きくなったり、
抑揚がおかしくなってしまう。
きっとひかれてしまうだろう、と思ったが、お姉さんは微笑んで、
「そうでしたか。全然変だとは思いませんよ。あなたの新しい門出をご多幸をお祈りします。
あと、これはお節介かもしれませんが、イメチェンという意味でもし、美容院もお探しでしたら、
私の知り合いが経営している美容院を紹介しましょうか? なかなか高いですが、
多くの有名人が利用するくらい実力は確かです」
と優しく言った。
僕がお願いします、と言うと
お姉さんは携帯電話を取り出して電話をし始めた。
「―はい。はい。それで、そのお客様なのですが、こちらからご紹介させていただきたいのですが。
…えぇ! そうですか! では、聞いてみます」
通話中の携帯を耳から放し、お姉さんは僕の方に向き直る。
「今日の午前の予定がキャンセルされて、今なら入れるらしいです。もしよかったら、どうですか?」
あまりにうまくいきすぎていて、少し怖いくらいだったが、僕は喜んで頷いた。
お姉さんはその後相手に丁寧に挨拶をすると、
自分の名刺の裏にその店の地図を描き始めた。
「この店に行って、三浦に紹介されたって言えば通じますから。
それと、もしまた服を選ぶときは是非またこのお店をご利用くださいね」
お姉さんから名刺を受取ると、巨大な紙袋に入れられた服たちを
店の入り口まで運んでくれる。
僕は礼を言って、地図の店に急いだ。
そう、ちょっとでも早く変わりたい。

 店は、意外にも裏通りの目立たないところにあった。
外観は落ち着いていて、七十年代のイギリスを彷彿させた。
店に入って、「三浦さんの紹介なんですが」と言うと、
オダギリジョーのような髪型をした男性が、
何も言わず、僕を案内してくれた。
普通ならここで、「どのような髪形にしますか?」
と聞いてくるところだろうが、この人は何も言わずに僕に前掛けをして、
髪を切り始める。
戸惑う僕を尻目に、作業は進む。少し長めで野暮ったい髪形は一瞬で崩れ去り、
控え目だが存在感のある前髪が構成されていった。
―実力は確かです。
あのお姉さんの言葉を信じよう。僕は静かに目を閉じた。
そして、まだ見ぬ恵子ちゃんをなんとなく想像しながら次はどうしようか考えていた頃、
ダンディな声がする。オダギリさんの声らしい。
「できたよ」
目を開けると、そこにはまるで別人の僕がいた。
爽やかにまとまった短髪。これならどんな服を着ても着こなせそうな気がする。
前掛けを取り払われ、会計をするころ、次の客だろう人が入店してくる。
その人は会計中の僕を見るなり、小さく笑い始めた。
そして、わざと僕に聞こえる声で言った。
「は、この店も堕ちたもんだな。こんなダサい服を着ている奴も客として扱っているんだから。
はぁ、違う美容院見つけようかな」
オダギリさんにもそれは聞こえたようで、オダギリさんのお札を数える手が止まる。
そしてダンディな声で静かに、しかし意志をもった声で言う。
「そう思うなら帰ってもらって結構です。あなたは有名なタレントだかなんだか知らないが、
あなたには彼を馬鹿にする権利はない。彼は確かにダサいが、今変わろうとしている。
それを揶揄するというなら、私は激怒せざるを得ません」
静かな言葉に、客は黙り腐ってしまった。そして足早に店を出ていく。
僕は驚愕し、感動した。おそらくは先ほどのお姉さんが僕のことを言ったのだろうが、
初めて会った人にまで、肯定されているというこの状況に、だ。
両親にすら否定されることから始まった僕にとって、この上なく嬉しいことだった。
会計を済ませ、店を出るときに
オダギリさんはまた静かに言う。
「頑張れよ。キミが変わろうとする限り、私は何があっても、陰ながらだが応援するよ」
笑みを浮かべ僕は礼を言いった。
なんだか行けそうな気がする―。
店を出て大通りへと戻ると、携帯のメール着信音がした。
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里山きのこ 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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