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小向保世編 最終片「罪の告白」

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 《五冊目 107ページ》
 ――このページには高瀬直太の携帯電話番号とメールアドレスを記したメモ用紙が一枚、ホチキスで留められている――

 今日は、書かなければいけないことが沢山あります。順を追って説明します。
 昨日決心したことは、なかなか実行する機会がありませんでした。やはり学校は、人が多いです。由花ちゃんと美月ちゃんに打ち明けるだけなら、昨夜のうちに携帯で済ませれば良かったかもしれないと思っても、もう遅いのです。
 放課後は、美月ちゃんと春物の服を見に行く約束をしていました。でも美月ちゃんには委員会の用事があるので、わたしは一人、教室で待っていたのです。そのとき突然、何かが震える音がしました。高瀬くんの机の中で、置き忘れられていた携帯電話が鳴ったのです。
 教室内には誰もいませんでした。幻覚も、そのときに限っては見えませんでした。悪いこととは思いながら、わたしは、高瀬くんの携帯を手に取りました。プロフィールを開き、番号とアドレスをメモしました。勝手に覗き見るなんて、こうして思い出すと、わたしは薄気味悪いことをしていたと思います。だけど、そのときは自分を客観視することが出来なかったのです。いつもそうです。
 高瀬くんの携帯を机に戻し、メモ用紙を眺めていたところで、教室に彼が入ってきました。忘れ物を取りに来たのです。
『なあ、小向はさ、誰か好きな人とかいないのか?』
 高瀬くんがいきなり、こんなことを聞いてきました。嫌な予感がしました。耳鳴りがしました。今まで恋愛の話になんか殆ど触れてこなかった高瀬くんが、よりにもよってわたしにこの話を振ってきたのですから。
『わたしが男の子と付き合うとか、彼氏ができるとか、あり得ないよ。高瀬くんなら知ってるでしょ? だってわたしには、お兄ちゃんがいるもの』
 わたしは半ば条件反射的にこう答えました。「お兄ちゃんがいるから」。恋愛話を避けるときの常套句です。でも高瀬くんが受け取る印象と、わたしの真意は食い違っているはずです。わたしには「お兄ちゃんがいるから」男の子と付き合うことは出来ません。
『わたしね、たまに、お兄ちゃんとは血が繋がってなければいいのになって思うの』
 お前は本当に兄貴が好きなんだなと、からかい気味に言う高瀬くんに、わたしはそう言いました。もしお兄ちゃんとわたしが本当の兄妹じゃなかったら、そのときは何の気兼ねもなく、あの人を嫌いになれるのに。そうだったら、どんなに楽だったことでしょう。
『そう言う、高瀬くんはどうなの?』
 発言の意図を知りたくて、悪い答えが返ってくるのを覚悟で訊きました。でも高瀬くんは、あんまり考えたことがないと言ってはぐらかしました。多分、本当に、そうなのでしょう。だから逆にどうして今、そういうことを考えなければならなくなったのか、嫌な予感がするのです。
 それから通りすがりの由花ちゃんが話に入ってきて、おもい飴をくれたり、スカートをめくられそうになったりしました。どうせいろんなことを打ち明けるなら二人一緒がいいと思って由花ちゃんも美月ちゃんとの約束に誘いましたが、由花ちゃんは家の手伝いがあるというので、一人で先に帰りました。
 そのときようやく、あることに気が付きました。その場には、わたしと高瀬くんの二人きりだったのです。こんなことは初めてでした。それと同時に、絶好のチャンスだと思ったのです。今を逃したらきっと、もう二度と気持ちを伝える機会は訪れないだろうと。
 だからわたしは急いで口の中の飴を噛み砕き、高瀬くんを後ろから呼び止めたのです。
(ごめんね。さっき言ったのはウソなの。本当はわたし、好きな男の子がいるの。それは高瀬くんだよ。信じてもらえないかもしれないけど、ずっと、ずっと前からわたしは、高瀬くんのことが好きだったんだよ)
 そう、言おうとしました。このときに、あと一欠片でも勇気があれば、事態と結末は変わっていたのでしょうか。それとも、全ては避けられない必然だったのでしょうか。
 わたしの口から言葉が飛び出そうとしたその瞬間、わたしには見えたのです。教室の戸に手をかけている高瀬くんの真横で、金テコを振り上げて立っているお兄ちゃんの姿が。その姿は、わたしが昔に見た悪夢で、高瀬くんを黙々と殴っていたあのシルエットと同じでした。
 そのお兄ちゃんは幻。そこには実在しない。そのことは、頭では理解しているのです。それでもわたしが真っ先に感じたことは「間に合わない」ということでした。身体を張ってでも止めると決めたはずなのに、今からでは間に合わない。わたしはその場で言葉を失いました。
 コツンと小さな音がして、我に返りました。わたしの指から力が抜けて、もう一個の飴を落としていたのです。
 お兄ちゃんの姿は見えなくなっていました。
 気を取り直して飴を拾おうとすると、今度は椅子の下から血まみれの腕が伸びてきて、わたしの手首を掴みました。塩田くんの腕です。わたしの記憶にあるままの、小学五年生の小さな手でした。目蓋をぎゅっと閉じると、それは消えました。わたしの手首にも血なんて付いていません。
(大丈夫。もう大丈夫。幻覚なんて怖くない。いないものを恐れる必要は無い。わたしは、しっかりと想いを伝えると決めたのだから)
 そんな姿勢を、この時点でも保っていられたら良かったのでしょうか。この言葉を、一度でも自分に言い聞かせられたら、もっと良い方向へ進めていられたのでしょうか。いずれにしても、全ては既に起きてしまったことなのです。
 顔を上げてもう一度高瀬くんを見たとき、またお兄ちゃんの姿がありました。わたしの足首を、塩田くんが掴んでいました。そしてわたしのすぐ後ろに、得体の知れない何者かが立っていました。いつもはわたしの三歩後ろを付いていたそれが、とうとう密着してきたのです。
 得体の知れない何者かが、細い指をわたしの首に回してきました。実在しないはずなのに、冷たい感触に撫でられるのです。あと一言でも、高瀬くんを引き止める言葉を口に出せば、その氷のような指先で喉を掻き切られる気がしました。
『なんでもない。また、明日ね』
 辛うじてわたしの口から漏れたのは、高瀬くんを見送る虚しい台詞だけでした。わたしが昨日固めた決意は、砂山より脆く崩れ散ったのです。

 それからどれくらいの時間、そこで立ち尽くしていたのか分かりません。すぐにでも叫びながら逃げ出したいのに、喉と足が動かなかったのです。お兄ちゃんは無言のまま、何を考えているのか分からない目で、わたしを見詰めていました。
『ごっめーん、ホヨ。お待たせぇ!』
 美月ちゃんがそう言って勢いよく教室の戸を開けると、お兄ちゃんと塩田くんは一瞬で消えました。
 それでも、得体の知れない何者かは、消えずにわたしの後ろを付いていました。美月ちゃんが荷物をまとめているのを待っている間も、二人で教室を出るときも、ずっとです。
『どしたのホヨ? さっきからぼーっとしちゃって』
『なんでもないよ。それより、美月ちゃん、嬉しそうだね』
 わたしたちは廊下を歩きながら、こんなことを話していました。得体の知れない何者かは、まだ付いて来ていました。
『えへへ、やっぱり分かっちゃう? 実はね、さっき直太くんに、告白しちゃったんだぁ』
 美月ちゃんはニマッと顔をほころばせて、階段を軽やかに降りました。わたしはその眩しい笑顔と言葉に、心臓を握り潰されたような衝撃を受けました。目眩がしました。耳鳴りがしました。それでもわたしは無意識のうちに階段を降りていて、得体の知れない何者かは後ろに付いたままでした。
 踊り場に立ったところで、自然とわたしの足は止まりました。
(告白? 告白って、なに? うん、分かってる。そういうことだよね? 遅かった。わたしがもたもたしているから、先を越された。手遅れになってしまった。間に合わなかった。高瀬くんがわたしにあんなことを訊いてきたのは、やっぱりそういうことだったんだ。わたしの方が、高瀬くんのことを長く知っているのに。わたしにとって好きだと思える男の子は高瀬くん一人しかいないのに。どうして、誰からも好かれる愛想のいい女が、よりにもよってわたしの好きな高瀬くんを狙うの? 告白をしただけで、返事はまだだとか言っているけど、そんなの慰めにもなりはしない。そんなことを笑いながら言われても、何の足しにもならない。だって、茅美月だよ? 彼女に言い寄られて、なびかない男の子がいるものですか。どうせ別に、わたしを慰めるつもりで言っているわけではないだろうけど。確かに、物ではなく精神的な面で、わたしが美月ちゃんから貰ったものは多いよ。美月ちゃんには感謝してもしきれない。でも、だからって、その代償がこの仕打ちだなんて、思いたくない。わたしに、高瀬くんとよく喋れるきっかけをくれた美月ちゃんが、自分の気持ちに素直でいることの大切さを教えてくれた美月ちゃんが、わたしから高瀬くんを奪うなんて、とんでもない裏切り。裏切り。許せない。許せない)
 いいえ、分かっています。これらが実に傲慢で、独りよがりで、筋違いな逆恨みであることは、充分に理解しています。美月ちゃんに悪意はありません。高瀬くんだって、わたしのものではありません。誰のものでもありません。それを奪われたと感じるだなんて、わたしは何様なのでしょうか。
 だけど、そこまで考えが至る前に、わたしの身体は動いていたのです。
『ずるいよ美月ちゃん。わたしはずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、我慢してきたのに! なんでいつも、美月ちゃんは自分勝手なの!』
 呪いの言葉を吐きました。急に視界が明るくなりました。目の前にいる人影の胸元をめがけて、両腕を突き出しました。
 悲鳴を上げる間もなく、いえ、その時間くらいはあったでしょう。でも美月ちゃんは、助けを求める声を出しませんでした。それどころか、すぐ横に手すりがあるのに、それには掴まろうともせず、わたしに向かって手を伸ばしてきたのです。美月ちゃんを突き落とした張本人であるわたしに、です。わたしを道連れにでもしようとしたのでしょうか。それとも、わたしが手を伸ばして掴んでくれると、信じて疑わなかったのでしょうか。
 このときのことはスローモーションで見えて、はっきりと憶えています。落ちていく美月ちゃんの顔が忘れられません。一瞬だけ、何が起きたのか分からないような驚いた表情を浮かべました。次の一瞬には、何かを思い出すように、目を閉じて眉をひそめました。それから頭を階段の角に打つ瞬間まで、美月ちゃんはわたしに向かって、申し訳なさそうな顔をしていました。それまでには見たことのなかった美月ちゃんの表情が、頭から離れません。
 下に落ちた美月ちゃんの頭からは、血が流れていました。彼女を抱きかかえたわたしの腕に、赤いものが付きました。わたしはそれを見てようやく、自分がしたことの重大さを知りました。いつの間にか、得体の知れない何者かの存在感は消えていました。
 でも、どうしてわたしは、本当のことが言えなかったのでしょうか。どうして先生たちに、「美月ちゃんが足を滑らせて落ちた」などと言ってしまったのでしょうか。わたしは卑怯で嘘吐きの嫌な女なのです。ずるいのは、わたし。自分勝手なのは、わたし。
 あとほんの少し、勇気があれば。自制心があれば。正直でいられれば。本当に、取り返しの付かないことになってしまいました。取り返しの付かないことをしてしまいました。
 わたしの罪が、際限無く増えていきます。こんなことになるのなら、どうして昨日の段階で思い出せなかったのでしょう。恋は罪悪なのでした。
 そして思い返すと、わたしが美月ちゃんに対してしたことは、お兄ちゃんが塩田くんに対してしたことと、同じでした。好きな相手を独占するために、他の誰かに奪われないように、その誰かを直接的に排除する。
 そうです。所詮わたしは、小向利一の妹なのです。

 《五冊目 111ページ》
 自分が傷付くことは怖くありません。恐れているのは、大事な人が傷付くことです。わたし自らの手で大事な人を傷付けたときには、もうどうすればいいのか分かりません。
 今日は朝から、身体が重くて、胸が痛くて、手足が震えて、耳鳴りと、目眩と、吐き気と、頭痛と、呼吸困難がありました。
それでも学校に行きました。いっそのこと、美月ちゃんに罵られたいと思いました。わたしのことを****な女だと、責め立ててほしかったのです。その方が、気が楽です。
 でも、わたしが教室に入ったとき、美月ちゃんはそこにはいませんでした。高瀬くんが登校する時間になっても、美月ちゃんは現れませんでした。最悪の想像が頭をよぎりました。担任の先生は、命に別状はないと言っていたけれど、それでも震えが止まりませんでした。
 授業が始まっても、内容は殆ど耳に入ってきませんでした。吐き気が抑えられなくて、何度も席を立ちました。出来ることなら、自分の中にある全ての穢れを吐き捨てたいと思いました。
 三時間目の途中のことです。また吐き気がしたのでトイレに行きました。手を洗おうとしたとき、自分の手の平に、手首に、腕に、沢山の血が付いているのが見えました。美月ちゃんの血だと直感しました、息が止まりました。水で流しても、石鹸で擦っても、こびり付いていて落とせません。皮膚ごと削り取ろうとして、爪を立てて掻きました。身体に流れる泥水を、掻き出したかったのかもしれません。
 そのときまた、後ろからの視線を感じました。わたしは振り向かず、正面の鏡に目を向けました。
 しばらくは、そこに見えているものの意味が分かりませんでした。
 鏡には、わたしの姿が二つ映っていたのです。片方はわたし。もう一方は、わたしを後ろから見詰めるわたしです。
 後ろにいるわたしは何も言わず、とても冷たい瞳をしていました。お兄ちゃんに似た、あの眼です。
 理解しました。これこそが、しばらく前から感じていた、得体の知れない何者か。あの視線の正体は、自分を客観視する自分自身だったのです。
 塩田くんのことがあってから、わたしは二度と人を好きにならないと誓いました。だけど高瀬くんと出会い、自分でそれを破ることになりました。高瀬くんを好きだと自覚した辺りから、お兄ちゃんに見張られている幻覚と妄想にとり憑かれました。
 塩田くんのことがあってから、わたしは「やすよ」になりました。だけど美月ちゃんと出会い、「やすよ」であることに後ろめたさを覚えるようになりました。もう一度「ほよ」に戻ろうと考え始めた辺りから、得体の知れない何者かの視線に付きまとわれるようになりました。
(あなたはここにいちゃいけない。「ほよ」が他人と関わったら、その相手を傷付けるのは目に見えているんだから。さあ、この平和で穏やかな世を保つために、「やすよ」であることを忘れちゃダメだよ)
 後ろにいるわたしは、きっと、こう言いたかったのだと思います。それなのに、やってしまいました。美月ちゃんを、この手で突き落としました。

 トイレで後ろのわたしを見てから、今に至るまでのことは、実は殆ど憶えていません。とうとう、記憶さえも侵されつつあるようです。
 自分がこれからも罪を重ねていくのが怖いです。そうなったとき、自分の行いを憶えていないことが怖いです。無意識のうちに他人を傷付けてしまうことが怖いです。自制が効かなくなることが怖いです。
 一秒でも長くこの世に留まっていることに、生きていることに強い罪悪感を覚えます。わたしはもう、それに耐えられそうにありません。

 今まさに、自分でもよく分からないことをしていました。ついさっきまで、わたしはどういうわけか、高瀬くんに電話をかけていました。何回も続くコール音の途中で、ふと我に返り、慌てて呼出しを切りました。
 この期に及んで、わたしは何をしているのでしょうか。一体、高瀬くんに何を話そうとしていたのでしょうか。分かりません。確かなのは、わたしが高瀬くんに電話をしたという事実。
 履歴、消さなきゃ。お兄ちゃんに高瀬くんを知られるわけにはいきませんから。
 罪人は罰を受けるべき。罪人に、甘えは許されない。分かっています。それでも高瀬くん、わたしに、最後のチャンスを下さい。もし万が一、今日中に折り返し連絡をくれたら、そのときは、全てを打ち明けます。告白をします。自分が犯してきた、罪の告白をさせてください。そしてどうか、わたしを蔑んでください。突き放してください。そうすれば、未練は無くなるから。
 わたしの甘えを断ち切ってください。

 十二時を過ぎました。
 でも、これで良かったのだと思います。高瀬くんなら、こんなわたしにさえも優しくしてくれるかもしれません。そうなったらまた甘えが、依存心が芽生えてしまいますから。
 わたしの机の上には今、おもい飴があります。この飴が本当に想いを聞き入れてくれるのだとしたら、願いを叶えてくれるのだとしたら、どうか、わたしを消してください。自殺さえも悪だと言われるこの世から、誰にも気付かれることなく、わたしの存在を消去してください。お願いします。でも、出来ることなら、最期に見る人の顔が高瀬くんでありますように。
 願い事が、二つになってしまいました。わたしは欲張りな女ですね。

 お兄ちゃん。ありがとう。ごめんなさい。
 塩田くん。ありがとう。ごめんなさい。
 由花ちゃん。ありがとう。ごめんなさい。
 高瀬くん。ありがとう。ごめんなさい。
 美月ちゃん。ありがとう。ごめんなさい。


 これを読んでいるあなた。ありがとう。ごめんなさい。






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橘圭郎 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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