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高瀬直太編 第7話「奇跡?」

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  土曜日

 昨日は九時前就寝という小学生並みに健康的なことをしたおかげで、休みの日にしては早い時間に目が覚めた。その割に緊張のせいか疲れがあまり取れていないのが残念だ。直後に一階から物音が聞こえ、まだこの家に利一がいるのを思い出して少し憂鬱になる。しかし眠気は完全に吹き飛んでしまったので、起きないとこれまた気持ちが悪い。
 とりあえず、俺はパジャマの左袖をまくってみた。昨日見た傷痕は何故か見当たらない。見間違いだったか?
 階段を降りていくと台所には朝食が用意されていた。ご飯と味噌汁、主菜は鯵の開き、副菜は玉子焼きにお弁当用の冷凍ナポリタン。ちゃんとしていると言えばちゃんとしているが、簡単と言えば簡単だ。一言で表すなら、実に主夫的感覚に満ちた朝食。冷蔵庫に無かったはずの食材の姿もあったから、利一が買い込んできたものか。あの流し台も掃除してくれたらしい。痛み入る。
「おはよう。保世がなんだかお疲れみたいだったから、食事は僕が用意しておいたよ」
 俺が食卓を眺めていると、奥からやけにエプロン姿の似合う利一がひょっこり現れた。窓から差し込む朝日に照らされたその顔はファンタもびっくりの清涼感が溢れていて、昨日の梟みたいな目つきや風呂場での出来事は俺の幻覚だったのではないかとすら思える。小中学生の学級新聞だったら、利一は「お兄ちゃんにしたい男子ランキング」で間違いなく上位に入るだろう。
「さ、一緒に食べよう」
「あ、うん。おはよう。い、いただきます」
 手振りで椅子に座るよう促され、それに従う。食事に箸を付けると……意外? 特別に美味しいというわけではないのだが、二十歳男の料理にしては食える方だと思う。少なくとも俺よりは上手だ。俺には、小向家の朝の団欒を演出するだけの家庭科力は無いからな。
 俺は密かに利一を見直したが、それと、俺が利一と同じ空間で時間を過ごせるかどうかは別問題だ。せっかくの土曜休日を、ずっと利一の顔色を窺いながら過ごすのは息苦しい。食事のときには勉強ははかどっているかとか、学校の友達とは仲良くやっているのかとか、一人で寂しくないかとか、保護者然としたことをいちいち聞かれて辟易した。しかもその質問の殆どは、小向の携帯に残っていたメールの送受信履歴の内容と重複している。だから俺も適当に、小向が利一に送ったメールの中身をなぞって答えておいた。なんとも不毛なやり取りだ。
 朝食を済ませると俺は小向の部屋に上がり、クローゼットから服を見繕った。俺には女子のファッションを魅力的にコーディネートする能力が不足しているので、他人の目から見れば少し野暮ったい着こなし方になっているかもしれないが、仕方ない。……それ以前に、地味系の服が多くないか? 一昨日捜索したときは気付かなかったが、男の目から見てもかわいいと思えるのが殆ど無い。伊達メガネの件もあるし、ひょっとしたら小向のセンスは特殊なのかもしれないな。
 それとは別に……やっぱり女子の下着を間近で見たり触ったり、ましてや自分で着け外ししたりするのは照れるというか、気が引けるよな。一応部屋に姿見があるにはあるが、なるべく着替え中はそちらに目を向けないようにせねば。
 机に置いていた二つのトレードマークのうち、髪留めの方だけを身に着ける。こちらは髪の毛が邪魔にならないように束ねるという実用を兼ねているが、わざわざ伊達メガネをかける必要性がどうしても俺には理解出来ないからだ。
 身支度を済ませて階段を降り、外出しようとしたら案の定、廊下で利一に呼び止められた。
「保世、どこへ行くんだい?」
「と、図書館」
 時間潰しが可能な場所と言えば、実際そのくらいしか思い浮かばなかった。他は大抵お金が要る。小向の財布を勝手に痛めるのもわるい。図書館はかなり遠いが、歩くのもまた暇潰しの範疇だ。
「そう。行ってらっしゃい。暗くならないうちに帰るんだよ」
「うん。行ってきます」
 利一に見送りをされた。俺はあんたと一緒にいたくないから出かけるんだけどな。いくら両親不在の時期だからとはいえ、この過保護感は肌に合わない。そして同時に、実は俺が小向保世ではないということに若干の申し訳なさを感じた。


 こうして小向邸を抜け出しはしたが、普段からの読書癖を持たない俺が図書館で何時間も過ごせるわけもなかった。
「どうしたものか……」
 読みかけの料理レシピ本を膝に置いて、思索にふける。ただ時間潰しをするだけでなく、情報収集が出来れば望ましい。図書館は確かに知識の宝庫だが、小向の身辺を調べるには全く役に立たない。この自由時間を有意義に使いたいものだが……。
 手持ち無沙汰になって携帯をいじり、アドレス帳を開く。
「……そうだ。せっかく小向として動けるんだから、ここはひとつ病院にでも行ってみるか」
 俺の目に留まった名前は、茅美月。


 自分から動いて小向についての話を聞く場合、高瀬直太が相手ならろくな新情報が得られるわけはない。七後が相手なら、逆に俺の存在を看破される可能性がある。その点で茅は、まあ、根拠は無いが、どうにかなると思う。
 ……とまあ、以上のもっともらしい理由は後付けで、早いところ茅に小向の顔を見せて安心させてやりたいというのが本音だ。このままだと、小向は茅の見舞いに行っていないことになるからな。小向の評価を下げるのも忍びない。
 受付で見舞いに来た旨を伝えて、既に聞き覚えのある病室番号を知らされる。そして様子を見に行ってみると、茅は私服のゆったりとしたブラウス姿で、呑気にアイポッドで音楽を聴きながら、スナック菓子をぽりぽりと食っていた。こいつ、三日前より格段にくつろぎ度が増してやがる。……でもまあ、包帯が取れているから、それはそれでいいのか。
「あ、ホヨ! もう、会いたかったよーぅ」
 俺が病室の開いた戸をノックすると、茅はすぐさまイヤホンを取り、ベッドから降りて駆け寄ってきた。
「う、うん。美月ちゃんも、元気そう」
「にゃはは、おかげさまでね。っていうか、コンタクトに変えたの? イメチェン? 似合ってるよぉ」
 加えて抱きしめられ、頬ずりまでされた。……俺、高瀬直太が感情を顔に出すタイプだとしたら、茅はそれを動きに出すタイプなんだろう。そんなどうでもいい人物分析でもしていないと、この密着状況において冷静ではいられない。落ち着け、俺。茅の胸が肩に当たっているからって、興奮するな! いい匂いがするからって、興奮するな、俺!
「どしたのホヨ。顔赤いよぉ?」
「な、なんでも、ない」
 平静を装うのはどだい無理だったので、ひとまず茅を引き剥がす。立ち話も何なので病室のベッドに二人並んで座った。
「いつ、退院、出来るの?」
「明日、朝イチで」
 どうやら本当に大した怪我ではなかったらしい。
「予定だったら今日にでも出るはずだったんだけどね。ちょっと変なことがあって、また余計に一日食っちゃったんだ」
「変な、こと?」
「あ、別に悪いことじゃないのよ。どっちかって言うと、いい方かな」
 それなのに入院が延びたのか? 意味が分からないぞ。
「……これ見て」
 おもむろに茅は首を傾け、俺に後頭部を見せてきた。特に異常があるようには見えない。
「な、何も、無いよ?」
「そう、傷が無くなってるのよ。文字通り、きれいさっぱり」
 姿勢を元に戻した茅の表情は、嬉しさ半分、疑問半分と言ったところだ。
「今だからホヨには言えるし見せれるんだけど、実は、落ちたときの頭の傷は一生残るかもって言われてたの。それがなんと、一晩で治っちゃった!」
「えっ!」
「不っ思議だよねぇ。だからお医者さんもびっくりしちゃってさ。それで後で通院する手間が省けた代わりに、改めて入念な検査をしますって」
 茅はここでようやくけらけらと笑った。まあ、どういう理由があるにせよ、良い方向に転んだのなら万々歳だ。
「やっぱり奇跡ってのは起きるもんだよねぇ。信じる者はなんとかって、よく言ったもんだわ」
 奇跡? いきなり何を言い出すんだ?
「……ねぇホヨ。奇跡の正体、知りたい?」
 茅は意味深に口角を上げた。心当たりがあるのか? 俺は一も二もなく頷く。
 すると未来から来た猫型ロボットが秘密道具を出すときのようなノリで、茅は俺の目の前に一枚の紙切れを持ってきた。
「……これ、知ってる。み、見覚え、あるよ」
「あ、ホヨも? 由花から貰ったんだよねぇ」
 どう見てもこれは、あれだ。おもい飴の包み紙。つまり、茅はあの飴を舐めながら怪我が完治することだけを想い続けたのか? 一時間も? こいつの根性には頭が下がる。……いやいやそれ以前に、そんな魔法みたいなことがあるのか?
「で、でも、ただの飴、でしょ?」
「だけど、現に効いちゃったんだからしょうがないじゃん」
 あっけらかんと答えられた。それもそうだな。少し気が抜けたところで、俺の腹が小さく鳴った。時間的にはもう昼飯か。
「じゃあホヨ、続きはご飯食べながらにしよっか」


 軽やかな足取りの茅に案内されて、一階に向かった。病院内に設けられた食堂と言っても、決して病人食を出しているわけではないというのは意外だった。ハンバーグ定食があったり、天ぷらうどんがあったり、そんな感じだ。まあ今の俺みたいな見舞い客もよく来るだろうからな。当然か。
「あたし、別に食事制限無いしねぇ」
 そう言いながら茅はカツ丼と蕎麦のセットを頼んでいた。女同士ならではの遠慮の無さを垣間見た気がする。とりあえず俺は醤油ラーメンで済ませておくか。
「ホヨ、どしたのぉ? 今日はよく食べるね?」
「え、そ、そう、かな?」
 たった一杯で? 俺はこれでも足りないほどだが。身体は小向だから、小向でも食べようと思えばこれくらいはすんなりいけるはずだけどな。ダイエットでもしていたのか?
 それはともかくとして、俺は茅からの喋りかけに頷いたり答えたりする形で会話を弾ませていった。これは普段からの茅と小向の会話パターンとそう変わらないので楽だ。
「でさでさ、そのとき向かいの病室のおばあさんが――」
 こうして下らないことを喋っているときの茅は心底楽しそうだ。こんな茅を見ていると俺も嬉しくなるし、今日ここに来た甲斐があるというものだ。
 ここで一つ、俺が今は高瀬直太ではなく、小向保世だということを利用して確認したいことがある。あるというより、急に思い出したのだ。
「そ、そう言えば、さ」
「うん?」
「美月ちゃんは……た、高瀬くんの、どこが、す、す、好き……なの?」
 いきなりこんなことを聞くのは変だし、小向に関する情報でもないが、このくらいは好きにさせてもらおう。
 すると茅は唇に指を当てて、しばし考え込む。互いに沈黙の時間。……自分で質問しておいて恥ずかしくなってきた。心臓が強く脈打っているのが分かる。早く何か言ってくれ。
「ん~、あれぇ? あたしが直太くん狙いだって、ホヨに話したときあったっけ?」
 しまった、無いのか? 俺はどうしてこうも詰めが甘いかなあ。とにかく、挽回の言い訳をせねば。
「お、女の勘、だよ」
 場合によっては男にとって都合の悪い言葉らしいが、ここは女の特権として使わせてもらおう。使う側としては非常に便利な言葉だ。根拠が無くても真実味が出る。
「ま、それでもいっか。んっと~、そうだね。……居心地がいいから、かなぁ? ほら、直太くんって、他の男の子に比べてあんまりガツガツしてないじゃない?」
 へタレなだけだよ。
「あの、なんでもほどよく受け流して、でも大事なとこは汲み取ってくれる、みたいな? そういうのって、あたしとしては落ち着くんだ。ほら、あたしがこんな性格だから、逆にね」
 ……微妙な評価だなあ。聞いて良かったような、良くなかったような。それより茅、お前も一応自覚はあったんだな。
「私の主観的感想と周囲の客観的評価を総合するに、高瀬直太という人間は、」
「あ、由花ぁ。やっほ~」
「な、なな、なんでここに?」
 いつの間にか、七後が足音も立てずに接近していた。神出鬼没とはこのことだ。
「おじいちゃんがぎっくり腰を発症したので、付き添いに来た。……話の続きをすると、高瀬は友情に厚い男。友達を助けるために砕心し、身を削ることを厭わない」
「あ~、直太くんってそういうとこあるよね。なにせあだ名が《菩薩》だもん。そこもポイント高いかなぁ」
「現に先日も、美月の容態と保世の心労を気遣うあまり、昼食を摂るのも忘れたほど」
「あっはっは、直太くんらしいや」
 茅と七後は本来ここにいないはずの俺の話題で盛り上がった。確かに俺は友達を大事にすることを信条にしてはいたが……七後の言い方だと、褒められているのかバカにされているのか判別付かない。っていうか、その変なあだ名は実際に通用しているものだったのか? 俺は《菩薩》などと呼ばれた経験は一回もないぞ?
「ところで、ホヨには好きな人っていないのぉ?」
 俺が複雑な感情を持て余していると、逆に茅から好奇の目で訊ねられた。こうなることは想定していなかったが、この問いに対する正しい答えは既に知っている。
「わ、わたしには、お、『お兄ちゃん』が、いるから」
「そういや前に聞いたことあったっけね。そうだったそうだった。ホヨもなかなか茨の道よね」
「では私はこれで失礼する」
「あれ? 由花、もう帰っちゃうのぉ?」
 会話を遮って七後は食堂の入り口を指差した。
「タクシーで来たから、待たせてある」
「救急車で来ればよかったのにぃ」
「おじいちゃんは、病人扱いされると機嫌を悪くする」
 そのまま七後は俺たちから離れていった。来るのが急なら去るのも急だ。
「ありゃ、もうこんな時間? そういや二時には病室にいなきゃいけないんだった。あたしもそろそろ行かなきゃ」
 七後を見送った後で、茅は腕時計を確認して慌てた。結構長い間喋ったものだな。
「それじゃホヨ、また学校でねぇ。……あと、あの日、一緒に服見に行けなくてごめんね」
「ううん、気に、しないで。事故、だったんだし」
「まぁ、あたしとしたことが不覚にもねぇ……」
 いつものように軽口を叩いて笑った茅だったが、直後に表情が少し曇って押し黙った。
「ど、どうしたの?」
「……ごめんね、ホヨ」
 今度はやけに深刻そうに謝った。
「そ、そんなに、気にしないで」
「いや、そうじゃなくて……。なんかホヨに、もう一つ謝らなきゃいけないことがあったみたいなんだけど、はっきり思い出せないんだよね。……なんだったっけ?」
 そんなのがあるなら、俺が知りたい。俺は知らない。知り得ない。
「ほんと言うと、さ。階段から落ちるすぐ前のことはよく憶えてないんだ。思い出そうとすると、頭ん中がもやがかったみたいになっちゃうの。……ねぇホヨ、あのときあたしたち、どんなこと話してたっけ? 憶えてる?」
 憶えているも何も、俺が知るわけがない。
「こないだから、ずっとこんな感じなんだ。なにかホヨに言うことあるはずなんだけど、なかなか出てこなくてもやもやしてるの。お医者さんが言うには、頭を強く打つと記憶が抜けたり、ボケたりってのはよくあるらしいんだけどね」
「……しょ、ショッピングの、こととか。別に、普通、だったよ? き、気のせい、じゃないかな?」
 今はこう答えるしかなかった。これが正解であることを祈る。茅が言った「こないだ」とはきっと、俺が高瀬直太として見舞いに行ったときのことだろう。
「ん~。ホヨがそう言うんなら、きっとそうだねぇ。変なこと聞いてごめん。それじゃ、あたし行くから」
 茅は一瞬、納得したようなしていないような表情をした。その後すぐにいつもの笑みに戻って手を振ってくれた。
 ……俺の方こそ、本当は小向じゃなくてごめんな。


 再び図書館。俺は経済新聞をアイマスク代わりにして、隅の座席に身体を預けていた。
 脳みそが熱い。奇妙な事実を隠して小向になりすましているのも、今日ああして茅の見舞いに行ったのも、全ては自分で決めたことだ。俺が小向の身体に入ってしまった原因こそ不明だが、今こうして独りで悶々としているのはやはり俺自身の決断した結果だ。
 ……だが、それでも辛い。
 俺が小向として喋ったり動いたりするということは、嫌な言い方をすれば他人を騙しているということだ。小向に関わる全ての人、特に七後や利一。高瀬直太に至っては文字通り自分を騙している。そして今日、茅も騙した。皆が俺を小向として見て、俺がそれに応える度に、心が疲弊していく。
 もちろん俺も人間だから、嘘を吐いたことがないとは言わない。だが決して得意でもなければ好きでもない。どんなに俺が気を遣っていても、この口から出る言葉は小向の振りをした俺のものだ。しかも俺は小向の意思に沿った代弁者というわけではない。それでいて俺が高瀬直太として喋っているわけでもない。……何が本当で何が嘘だか、こんがらがってきた。
 よく学校の先生やテレビの偉い人は、やれ個性の尊重だとか、やれ自分らしく生きろとか言う。だから俺はずっとその訓示を鵜呑みにしてきた。だが今この状況を踏まえて考えれば、必ずしも全員が全員、自分の言いたいことを言えるとは限らない。さすがに俺みたいなのは特殊な例にしても、与えられた立場や役割に応じて言葉を選び、心の声を押し込めている奴はごまんといるはずだ。
 ……あれ? 思考の焦点がずれてきたか? そもそも俺が今考えるべきは何だったかな? ……ダメだ。頭を使い過ぎて脳みそが熱い。

 とにかく小向。お前は今、どこでどうしている?
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橘圭郎 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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