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「抱擁」作:PHM

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「抱擁」 作:PHM

「今日からここが私たちの新しい家よ」
 赤いレンガの塀に囲まれて、年季の入った一階建ての小さな洋館が素朴に佇んでいる。以前に住んでいた純和風の長屋とは百八十度変化した住まいだ。
 単純に昔から洋館に憧れていたからという理由でこの家を選んだつもりだったのだが、心のどこかで前宅での思い出を引きずらないようにという思いがあったのかもしれない。
「さあ! さっさと荷物を片しちゃいましょうか」
 ちょろちょろと辺りを興味深々に走り回っていた娘に声をかけて家の中へと入っていく。

 *

 夫と知り合ったのは十年前。
 当時、大学生だった私は近所の喫茶店でアルバイトをしていて、彼はそこの常連だった。
 いつも店の隅に席を陣取り机の上の原稿用紙と睨めっこしていた彼に、初めはただ好奇心で話しかけてみただけだった。しかし、会話を重ね彼のことを知っていくうちにいつしか心惹かれ、告白し交際、二年後に結婚に至った。
 結婚から一年後には娘が生まれ、幸せな生活を送った。人生で一番輝いていた時だったと思う。
 しかし二年前、彼は突然逝った。信号無視のトラックにはねられて即死だった。
 その時のことは余り記憶にないが、私は随分と酷い状況だったらしい。この時は絶望していた私に代わって母が家の雑事や娘の世話をしてくれていた。後に母から聞いた話だと、押し入れからアルバムを引っ張り出しては日がな一日泣きじゃくり、食事もとらずに飲めもしないアルコールを飲んでは嘔吐を繰り返していたらしい。
 母や友人の助けもあり徐々に以前の平生を取り戻していくことはできたが、夫の思い出が多く残る家に住んでいるのはやはり辛く、私は引越しを決心した。

 *

「ふう……」
 半分ほど片づけを終えて一息つく。
 辺りを見回すと娘の姿がない。片づけに飽きて遊びに出てしまったのだろう。
 やれやれと思いつつ外に出てみると、案の定娘はそこにいた。
「まったく……片付けもしないで何してるの?」
 私が声をかけると、娘はぱあっと顔を輝かせながらこちらを振り向いた。
「あのね! おえかきしてるの!」
 見ると、塀には大きな猫の絵が。
「もう……引越し早々、そんな落書きしちゃって……駄目じゃない」
「でもね! すごいんだよ! このネコかいてたらね! あったかいの! ぎゅーってされてるみたい!」
 娘が悪びれる様子
もなく依然として顔を輝かせながらそんなことを言うものだから、私もすっかり怒る気が失せてしまった。
「はいはい、わかったからお荷物片付けましょう。片づけが終わらないとおやつの時間に出来ないわよ」
 おやつ、という言葉を聞くと娘は「かたづけするー」と元気に走り寄ってきた。現金なやつめ、と吹き出してしまう。
「あのね、ぎゅーってね、パパみたいだったんだー」
「え?」
 私の元へ来た娘がそんなことを言った。 
「パパもいっしょにきたのかな?」
 微笑みながら娘が尋ねてくる。
「そうだね。パパも来たのかもね」

 私も微笑み返して家の中へと戻った。

 *

 片づけで出たゴミを出しに外に出ると、近所の方だろうか。初老の女性が二人、わが家の前で何かを話しているのが見えた。
 せっかくだから引越しの挨拶をしておこうと彼女らに近づくとチラと気になる言葉が聞こえたので、私はいけないと思いつつも塀の陰に隠れて耳をそばだてた。
 幸いにも私の姿には気付かなかったようで二人は会話を続けている。
「この家、誰か引っ越してきたんですってね」
「ええ、知ってるわ。でも私、この家あまり好きじゃないのよね。気味が悪いっていうか」
「以前に住んでいた息子さん……変死したんですってね……」
「そうそう。そこの塀にもたれて死んでたんですって」
「でも、あそこの息子さん……あまり評判よくなかったわよね」
「ええ、何でも ロリコン だったんだとか」



 了

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