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「春風村の霊峰」作:顎男(12月8日)

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『春風村の霊峰 作:顎男』


 人じゃなくなるから、あのお山には入ってはいけないよ。
 おっ父とおっ母に膝を揃えて座らせられて厳命された時、俊太はこくんと頷いた。
 まだ九つだったが、親の言うことはきちんと聞き入れなければならないともう分かっていたし、わがままを言って向かいの健坊がその太ったおっ母にぶん殴られてるのを見て鼻で笑うほどには成長していたのだ。
 ところがあっさり言いつけを破ってしまった。
 お隣の安が、ある日の昼にいきなり後ろから飛びついてきて耳打ちしてきた。
「今晩、あのお山に入ろうぜ。肝試しさ」
「なに言ってんだよ。そんなことしたら村のみんなにこっぴどく怒られるぞ」
「あ、こいつ、びびってやがら!」
 安が口元に手を添えた。「おおい、みんな、俊太がなァ――」
「バカよせ!」俊太は安を羽交い絞めにして口を塞いだ。
 小さな村では誰かの一言でその人に対するみんなの態度がガラリと変わってしまうことも珍しくはないのだ。
「わかった、いくよ、いくったら」
 安はにひひと笑った。
「確かに聞いたぞ。よおし、さすが春風村の俊ちゃんだ、そうこなくちゃな」
 まったくもう、と俊太は肩を落としてみせたが、なんてことはない、彼もまた遊び盛りの心をつんつん刺激され、夜がすっかり楽しみになっていたのだった。



 村が寝静まり、見張りの番の若衆さえもうつらうつらと帆を漕ぐ頃合。
 俊太はこっそり家を抜け出して、誰もいない夜の道を抜き足差し足で進んでいった。
 自分の草履が砂を弾く音がやたらと大きく聞こえる。どこかで狼が吠えていた。
 山へと続く道の入り口、弓なりに木の枝が門のように垂れ下がっているそこに安はもう待っていた。
「やあ、遅かったな。じゃあいこうか」
 さっさと歩き出してしまう安を慌てて俊太は追っかけた。
「ちょっと、安」おまえ怖くないのか、と聞こうとして、それを言っては肝試しではないと思い直し出かかった言葉を飲み込んだ。
 安はかすかに振り返ったが、また前を向いて進み始めた。
 今度はふくろうが鳴いている。
 夜の森の梢から、丸い月の黄色い光がなみなみと注がれていた。
 それを恐ろしいと俊太は思わなかった。幼い頃に見た淡く心地いい夢を思い出した。
 その記憶に連れられて、ふっと安のことも思い出した。
 昔から向こう見ずで、年上の悪童たちに挑みかかってはコテンパンにされていた。
 今は安が童たちをコテンパンにしているのだが、それでも小さな頃は年上の童たちに勝てずに泣いている安と俊太を、安の姉がよく庇ってくれたものだった。
(姉? そうだ、安には姉貴がいたな。どうして忘れていたんだろう)
 今、安の家に彼の姉はいない。初老の両親がいるだけだ。
 彼の姉はいつ、どこへいったのだったか。
 両親の、いや、村人みんなの暗い顔が頭に浮かんだ。
(――思い出した。安の姉貴は)
「どうした、俊太。さっきから黙っちゃって」
「え?」俊太は目をぱちくりさせた。「いや、なんでもない」
 そうかい、と安は言って人の頭ほどもある岩場を軽々とよじ登っていった。
 あ、待ってよ、と俊太も続く。
 どこへ向かっているのだろうか、もうだいぶ山の深くへ入ってきてしまっていた。
 月は見計らったように頭上で輝いていてくれているが、もう少し時が経てば傾いて木の裏へ沈んでしまうだろう。
 そうなった時、安はちゃんと帰れる算段をつけているのだろうか。
 とうとう山の中腹よりも少し上、小さな段になった背の低い草が生い茂った広場に出て、村を一望した時、俊太は切り出した。
「なあ、安。もう帰ろうぜ。健坊に自慢する話のタネとしちゃ上出来じゃないか」
「うん、心配するなよ。ちゃんと考えてる」
「考えてるって、おい、ちゃんと覚えておいてくれなかったのかよ、帰り道」
「それなら姉さんが知ってるよ」
「え?」
「おおい、姉さん。懐かしの俊坊が来たぜ。出迎えてやんなよ」
 安は暗がりに向かって呼びかけた。俊太は身動きもできず、蛇に睨まれた蛙よろしく縮こまっていた。
 のそり、と茂みが揺れた。
「俊太、俺もね、最初は驚いたよ」
 ちらっと人の顔が見えた。
 昔と寸分違わぬ面立ちをしたそれは、紛れもなく安の姉貴だった。おさげにしていた髪まで一緒だった。
「だいぶ前、姉貴を探して山に入って、崖から落ちてさ。といっても大した高さじゃなかったんだけど、山の動物たちを叩き起こしちまうには十分な音だったんだろうな」
 茂みから、安の姉が出てきた。四つんばいになって、歩く様はまるで猫のようだった。
(違う、本当に、毛、猫の毛が生えてる……!)
 安の姉の後ろで、いくつもの光が瞬いた。それが動物の目だと悟って、俊太はとうとう小便を漏らした。
「このお山は不思議な神様が棲んでいるだってさ。姉貴が言ってたよ。
 もっとも、もう人の言葉は喋れないけどね。気持ちだけで頭に話しかけてくれるんだ。
 姉貴が言うには、この山の神様は人と動物をまぜこぜにするのが大好きなんだって。
 ほら、俺たちも昔、泥を混ぜて人形やらお椀やらを作ったじゃないか。あれと同じさ。
 ところで俊太。
 おまえ、何になりたい?」





 春風村は、数年に一度、子どもが消えるほかは実に泰平な暮らしを末永く続けたという。
 おしまい。
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