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「それは、不思議でも奇跡でもないこと」作:文造 恋象

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 西高東低の典型的な冬型の気圧配置の影響で大雪に見舞われた東北地方に位置するA市一帯の天気もここ数日になってやっと落ち着きを見せ始めた。淀んだ厚い雲もすっかりと晴れ、雲一つない快晴までとはいかないがその日の朝の空模様は寒色の映える清々しい様相を呈していた。


 
 そのボブカットの少女、真琴は寒空の河川敷をまだ覚束ない足取りで自転車を押して歩いていた。赤いスクールコートに薄桃色のマフラーと手袋、黒いストッキング。防寒対策はばっちりのはずなのに、この町の厳しい寒さに真琴はまだ慣れていなかった。風も吹いていないのに顔面、耳元や鼻先は冷たさを通り越してチクチクと痛む。
そして、防寒具に包んだはずの手はかじかんでしまい、力を入れてハンドルを握る事も出来ない。真琴は元々この土地の人間ではなかったのだ。
ある事情をきっかけにして、つい先日、真琴はコンクリートジャングルひしめく都会からこの高層ビルもないような閑静な厳寒の東北の地に引っ越してきたのだ。


 
 そんな真琴の表情はどこか暗かった。度々、真琴の小さな口から吐き出される白い息はその鬱蒼とした感情を物語っていた。ほんのりと温かみを帯びた真琴の息はすぐに外界の寒気にさらされて白いもやになるのだが、またすぐに冷たい空気の中に溶け込んでたちまち見えなくなってしまう。真琴はこの町に来て初めて極寒の地ではこんなにもはっきりと息が白く吐き出される事を知った。そして、真琴は歩きながらまた大きく息を吐き出してそれが寒空に溶けていく様を見届けていた。それを何度も繰り返す。何度も何度も。そして、切に願うのだ。この胸の中に留まっている悲しみや寂しさも白い息と一緒に溶けてなくなってしまえと。
 真琴は寒さに身が凍えているから息を吐き出しているのではなく、自らの胸のつかえを取り除くためにこうして息を吐き出していたのだ。何度も何度も。それ自体は何の解決策にもならない。しかし、真琴は寒空に溶けて無くなってしまう白い息を見つめる度に、マイナスな気持ちも綺麗さっぱりと浄化されるような気がしていた。一見して無意味に思える真琴の行動は、真琴にとっては気休めではなく、しっかりとした意味を持った行いなのだった。



 そんなには遠くない過去。真琴が引っ越しをする前の話である。教室の隅の方で真琴は泣いていた。しゃがんで縮こまって、両手で顔を覆い隠して、瞳からは大きな涙の粒を流して、わかりやすいくらいの泣き声を出して。なぜなら、机の中にしまっておいた真琴の教科書やノートが見るも無残に破り捨てられそれが真琴の机の上にゴミのように置かれていたからである。そして、そんな真琴の様子を見ながら数人のグループの女の子たちがほくそ笑んでいるのだ。真琴と同じクラスの人間の誰もが、真琴が胸を抉るような悲しみに今打ちひしがれている事はわかっていた。しかし、そんな真琴に声をかける人間は一人もいなかった。それはおろか、真琴を心配して気にかける素振りすらも見せなかった。まるで、真琴が初めからこの教室には存在しなかったかのような、面持ちで普段通りの学校生活を送っていたのだ。ある者は友人とのおしゃべりに花を咲かせ、ある者は一人黙々と読書に興じていた。それでも真琴は誰かに慰めてほしい、心配してほしい、いや、気付いてくれるだけでもいい、その一心で泣き続ける事をやめなかった。しかし、そんな真琴の切実な思いとは裏腹に、真琴が泣いているという事実さえクラスメイト達には受け入れられなかった。
 最初のうちは、泣いてしまうような仕打ちが真琴に与えられていることに対して、同情するクラスメイト達もいた。同じように真琴はひどい仕打ちをされる度にその悲しみを周囲にぶちまける様にして泣いては、心あるクラスメイトに助けられ慰められていた。しかし、その仕打ちが真琴の教科書を隠すことから破ることに変わり、また上履きを隠すことから女子トイレの便器の中に投げ捨てることに変わるなど次第にその陰湿さ過激さが増すようになると、よくあるいじめの実態に倣うようにして今まで真琴に味方をしていたクラスメイト達は真琴をいじめる人間の報復を恐れる様にして「見て見ぬふり」をする存在となって真琴の傍から離れて行ってしまったのだった。
 いつしか真琴が存在する空間だけハサミで切り取られて、真琴と他のクラスメイトを分け隔てているかのようになった。真琴は他のクラスメイトと同じ教室にいながら、クラスメイトとは違う世界に追いやられていたのだ。しかし、真琴と他のクラスメイトの住む世界が分けられた後も真琴に対するいじめの手は緩められる事はなく、真琴だけになってしまった世界にわざわざいじめっ子グループたちが侵入してきて、ますます真琴の居場所を侵犯してくるのだ。まるで、真琴の世界…居場所を奪うかのように。存在自体を否定するかのように。
 真琴は抵抗する勇気も無く、ただただ泣き喚くだけだった。もはや、自分には手を差し伸べてくれる存在がいない事を真琴は十分に理解していた。しかし真琴は泣く事をやめなかった。いつしか、真琴が泣く理由は誰かに助けを求めることから、自分の存在を証明する事に変わっていた。もし泣き止んでしまえば、自分の存在が最初から無かった事になるのではないか。
そう、真琴は思ったのだ。そして、真琴はどんなにいじめられて、自分の存在することができる世界がほんの爪先立ちする程度しか残されなくなっても、泣く事をやめなかった。



 白いため息を吐く度に思い出される前の学校での出来事。真琴は、この日、転校初日であった。新しい学校までの道のりは、冬休み中に学校へ母と挨拶を行っていたので、おぼろげながらも覚えている。しかし、その足取りは重いものだった。まだ、心の中の傷がかさぶたの下で疼き、完全には治らない傷を持った心は筆舌に尽くしがたい負の感情に覆われていた。初春の爽やかな空模様と真琴の心中はあまりにも対照的だった。また、ひどい目に遭わされて泣き出してしまうのかもしれない。そして、どんなに泣いても誰も私には気付いてはくれないのかもしれない。そう、思うたびに真琴は新たな一歩を踏み出すことに躊躇いを感じてしまうのだ。このまま、学校をサボってしまおうか。
 真面目だけが取り柄の真琴はぼんやりとそう考えながらも、良心でその邪念を振り払い、今にも心が押しつぶされそうになりながら、なんとか、また一歩学校へと歩を進めた。本当は、歩きながらだと、余計な事を考えすぎてしまうので手に押した自転車で颯爽と学校へ向かえばいいのだ。しかし、先ほどから僅かに吹き始めた冷たい風がそれを躊躇わせる。気持ちとは裏腹に身体が云う事をきかないのだ。早く、この寒さにも慣れないと。真琴はそんな事を思いながら、とりあえず新しい学校生活を迎えるために身体だけでも前向きな姿勢であろうと無理をして意気込んだ。
 そんな真琴の前を胸元まで黒髪を伸ばした一人の少女が足早に走り抜けていった。息を弾ませながら走るその少女のサラサラの黒髪は朝日に浴びながら艶やかになびいている。右手に持たれたスクールバッグに取り付けられたたくさんのキーホルダーの一つである鈴が可愛げに揺れて鳴っている。そんな、少女の後ろ姿を見つめつつ、ふと真琴は左腕の腕時計に目をやった。そして、なぜあの黒髪の少女が急いでいるのかを知った。いつの間に、こんな遅刻寸前の時間になっていたのだろうか。真琴は凍えるような寒さを我慢し、意を決して自転車のサドルにまたがった。
 グングンとペダルを漕いで、自転車のスピードが上げる。風は爽やかに通り過ぎるのではなく、まるで刃のように真琴の顔面に突き刺さる。先ほど真琴を追い抜いて行った黒髪の少女を逆に真琴の自転車が追い抜いたころ、真琴に吹きかかる風は冷たいという次元を超えて痛みを真琴の顔面に伴わせた。都会ではこんな寒さを経験したことのなかった真琴は面喰って思わず目を瞑ってしまった。しかし、それがいけなかった。この日のアスファルトの路面は冷たい外気にさらされた雪融け水の影響で凍結していた。目を閉じていた真琴の自転車のタイヤは案の定凍結したアスファルトでスリップし、バランスを崩した真琴はものの見事に転倒し、凍った路面に投げ出されてしまったのだ。
 投げ出され運転手を欠いた自転車の車輪はカラカラと情けなく回り、真琴は通学カバンと共にそのそばに倒れこんでしまった。幸いにも、真琴が自転車から投げ出された時、上半身は道の脇にまだ堆積していた雪がクッション代わりとなって、硬いアスファルトから上半身を守ってくれた。問題は下半身だった。そっと真琴は右膝を見てみた。大きな衝撃を受けた右膝は大きく擦りむいていて、まるでグレープフルーツの顆粒のような赤々しい血肉が破れたストッキングから顔を覗かせていた。真琴はうずくまり、右膝に手をやった。確かな、痛みが真琴の右膝を襲っていた。真琴はすぐさま泣き出してしまいたかった。実際、真琴の目元には今にも溢れんばかりの涙の粒が溜まっていた。しかし、真琴は思うのだ。泣いたところで誰か助けてくれるのだろうか。いや、そもそも自分の存在に気がついてくれるのだろうか。前の学校で泣き続けた真琴であったが結局、誰も、助けてくれなかった。それどころか存在さえ認めてくれなかった。新しい土地に来て、またそのような目にあうのかもしれない。そんな不安が、真琴に泣く事を思い止まらせた。しかし、淡い期待も無くはなかった。今度こそ、泣けば誰かが気付いてくれるかもしれない。そして「どうしたの」と手を差し伸べてくれるかもしれない。
真琴は右膝の激痛を忘れてそんな葛藤を繰り広げていた。


 
 「おめさん、大丈夫だが?しっかりしてけれ!」
誰かが心配そうに真琴に声をかけた。ふと、真琴が声のする方を見上げると、そこにはさっきの黒髪の少女が真琴の傍にしゃがんで手を差し伸べてくれていた。その時の真琴はまだ、涙など流してはいなかったし、泣き喚いてもいなかった。それなのに、真琴の目の前には友だちでもない少女の手が差し伸べられていたのだ。
 きっとこれは当たり前の事なのだ。不思議な事でもないし、奇跡でもなんでもない。多くはいらない。一人でもいい。誰でもいい。いやそもそもそんな問題じゃない。誰かの悲しみや寂しさに手を差し伸べるという事。それは当たり前のように自然と人と人の間で取り交わされるべきことなのだ。だから、黒髪の少女は考えるまでもなく真琴に駆け寄り手を差し伸べた。ただそれだけなのだ。別に無理に泣き叫ばなくてもいいのだ。
 誰もがみんな手を差し伸べてくれるわけでない。しかし、誰も手を差し伸べないわけではないのだ。そう思った真琴は、自分は強くなれる。そんな気がしていた。そして、真琴は黒髪の少女に笑顔で応えるのであった。いつの間にか涙は消えてなくなっていた。  
 


 少女たちの後ろの方に流れる河川の川面は冬空のささやかな朝日に照らされてキラキラと輝いている。爽やかな朝を彩るその光景は、まるで、転校初日の真琴の新しいこれからの学校生活を祝福しているかのようであった。



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