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ラブ・レター

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 夢を見た。両手を大きく振り回し、父と共に歩いている夢を。
 おそらく、十数年前くらいの僕と父だったと思う。歩いている道は父が務めている会社から家への帰り道。僕はよく父の仕事の帰りを待って、それから一緒に帰っていた。
 小さい頃は父にべったりだった。それこそ父がいなければ、何も出来ないくらいに。どうでもいいことでよく泣いて、父を困らせたものだった。
 高校くらいから、だんだんと意識は変わりはじめた。これ以上父に迷惑をかけてはならないと。
 だから、受験勉強もバイトも必死でやった。お金の心配をかけさせない為に、国立にも入ったし、身の回りのことは自分で稼いだお金で賄ってきた。
 なのに。
 なのに、こうして厄災は僕の身に降り掛かった。
 もう寄りかかって生きていたくなかったのに。心配させたくなかったのに。自分のことは自分でしていきたかったのに。
 夢の中の僕は笑っていた。父も笑っていた。
 今の僕は笑えない。今の父は悲しんでいる。
 どこまで親不孝者なんだろうか。僕は。

 最悪な気分で目が覚めた。目の端では「朝ですよー」と看護婦さんが部屋のカーテンを元気よく開けている。窓から降り注ぐ朝の光が目に突き刺さる。おかげで頭と気分が少しばかり冴えてきた。
「どうしたんですか? 気分、悪いですか?」
 僕の顔色を見て、看護婦さんが心配そうな声で話しかけてくれる。なんでもないですよ、と答えてベッドから降りる。看護婦さんは「我慢出来ないようなら、ナースコールで呼んで下さいね」とだけ言って、部屋から出ていった。洗面所で顔を洗ってサッパリしよう。
 廊下に出ると、朝なのかあまり人気は多くなかった。忙しく動いているのは看護婦さんたちだけである。この人たち何時からここにいて、何時までここにいるんだろう。……ああ宿直とかいるんだっけ。あれ、でも確かドラマで見たのは医者が宿直だったような……。あ、でも看護婦さんも急患が来たとき手伝ってたな。
 と、どうでもいいことを考えているうちにトイレに着いた。いやはや、今までよく事故らなかったな……って事故ったんだっけ。痴呆か、僕は。
 水道から流れ出る冷水で顔を洗う。ほど良い冷たさが皮膚に刺激を与え、脳が覚醒していく。
 顔を拭いて鏡を見ると、若干死んだ目をした男の顔が映っていた。どこかで見たことあるなと思ったら、ああなるほど。
 あの女と同じ目であるということに、すぐに気がついた。

 部屋に帰って、美味いとはお世辞にも言えない朝食を摂ってから、することが無いということに驚いた。本当に何もすることがない。
 左腕の訓練(調教とも言う)でもしようかと思ったけれど、手紙も書いて渡してしまった。だからあの時のようなモチベーションはもう持ち合わせていない。なあなあになって、適当にするくらいならしないほうがマシだと思う。
「んー。困ったな」
 思考か言葉か。それすらもわからないくらい小さな声で呟く。一応あることはある。でもそれはしたくない。なら、することは無くなってしまう。どうしよう。
 どうしようもねえ。僕は病院内を昼食の時間まで歩き回ることにした。前回みたく、時間に遅れないようにちゃんと時計も持って。

 僕が入院している病院はそれなりに大きい。おそらく市の中では一番の規模だと思う。
 廊下の窓から外を眺めると、下には大きな駐車場が見えた。かなりの数の車を停めておける広さである。そこから考えても、ここにたくさんの人が来るということがうかがえる。
 人は安心感を得るために、他の人が利用している所に行く習性がある。だからここもそうやって大きくなっていったのだろうか。まるで病院が人で、人が食物だという不謹慎な想像をしてしまった。しかしあながち間違いでもないなあと、自分の考えに少し納得してしまう。
 しかし人が来なければ人は来ない。卵が先か鶏が先かみたいな話か。だんだんどうでもよくなってきた。
 しかしこうして歩いてみると、病院内にはたくさんの人がいるということに気付かされる。脚を引きずっている人や腕を吊り下げている人。車椅子に乗ってる人もいれば、どこが病気なんだろうかと思ってしまうくらい健康そうな人もいる。
 でもそれだけたくさん人がいても、腕が無いなんて人はどこにも見当たらなかった。
 こうしてぼんやりと立っていると、自分だけが浮いている気がしてならない。僕だけが別の生物になってしまったかのような、そんな隔たりを覚える。
 彼女が聞くと、「自意識過剰ね」と笑い飛ばしそうだけれど。
 でもまあ、確かにその通りなのだと思う。これはただの肥大した自意識の表れだ。優越感ならぬ、劣越感でも僕は感じているのだろう。全く、自分でも呆れる話だ。
 
 歩いている内に、昨日彼女と話した中庭に出た。そういえばあの時初めて、女性の髪の毛に触れたんだっけ。その時の触感が僕の手につぶさに蘇る。一度も触ったことが無いのに、あれはいい髪だったなあと思えてくるから不思議である。不思議なのはぼくの頭の中だろうか。不思議ちゃんもいいところだ。
 この同じ空の下、その彼女は一体どうしてるんだろうか、なんてそんなことは考えない。
 だって、今僕の隣に立ってるし。
「チャオ」頭の悪そうな挨拶が飛んできた。
「おはようございます」
「あら、もうそろそろお昼よ。頭の中はまだ眠りこけているのかしら。脊髄の反射だけで筋肉を動かしていたなんて、驚天動地ね」
 なんか知らんがやたらテンションが高い。本当に昨日ここで仏頂面してた女か? 二重人格とやらなのだろうか。
「十二時にならなければ、まだ朝なんだよ。トラディショナルな感覚に従って生きてるので」
「それのどこがトラディショナルなのか甚だ疑問だけど、まあスルーしてあげるわ」
「どうも」
 こいつはここで「何してるんだろうとかって思ってたでしょう」
「人の思考に勝手に入り込むんじゃねえ!」そういうことして良いのはサイコなメトラーみたいな人だけなんだよ! 
「あなたみたいな人でも声を荒らげたりするのねえ」
「何でちょっと驚いた風なんだよ。そこまで感情は腐ってない」
「自分に嘘をつくのはどうかと思うんだけど」
「ついてねえ! お前は僕をどういう人間だと思ってんだよ!」
「お前呼ばわりしないでくれる?」
「突っ込むところはそこじゃない!」

 それからずっとギャーギャーと喚いていた。こんなに声を出したのは久しぶりかもしれない。彼女はずっと平坦な声で話していたけれど。
 よく考えてみると興奮していたのは僕だけだった。
 少し荒いだ息を整えるために深呼吸をする。……ふう、落ち着いた。
「やっぱり性格悪いな、君は」
 その言葉を聞いた彼女はクスクスと笑いながら、皮肉を返してくる。相変わらずいやらしい笑い方だ。
 でも、嫌いじゃない。
「あなたはその性格に憧れたんじゃないの?」
 ぐ、と喉が詰まる。そう言い返されてしまっては、僕としては何も言えない。正論はおしなべて正しい。それは認めよう。しかし、納得は出来ないけれど。納得と認めるは違うのだ。
 何も言えない僕を見て、彼女はまたクスクスと笑う。
 そして懐から何かを取り出した。……紙? あ。
「ほら、書いてきたわよ」
「え、早、マジですか」
「ここに現物があるのにマジって何よ」
「あ、ああ、ですよね。……えーと、読んでも良いでしょうか」
「構わないわよ」
 僕はその言葉を聞き、紙を開いた。片手なのが、とてももどかしい。
 開けた手紙の中には一枚の紙が入っていた。二つ折りに畳まれた紙。ここに彼女の何たるか、と言ったら少し大袈裟ではあるけれど、彼女の生き方について書いてあるはずだ。
 正直緊張はしている。もしもここに書かれていることが僕に出来ないことならば、それはどうしようもなくなってしまう。
 だがもし、僕の手の届く範囲ならば、それは素晴らしい救いの手となる。と思う。そんな気がする。
 考えていても仕方がないので、一気に紙を開くことにした。ええい、ままよ!
「………………」
 そこには、みみずが暴れまわって、そして最期には生き絶えてしまったような文字があった。
 簡単に言うと、とても汚い文字が漢字で合わせて三文字書かれているだけだった。
「………………頑張れ…………」
 顔を上げると、何故か得意気な彼女の顔があった。ちょっとぶん殴りたくなったのは内緒だ。
 しかし、これはどういうことなのだろうか。
 『頑張れ』の三文字。確かに僕は頑張るしかないのかもしれないのだけれど、それが何かってのを聞きたいがために彼女に手紙を出したのだ。
 必死に文字を練習したりしたのはその為だ。それがこの結果では少し、いやかなり、いや完全に不満が残る。なんとなくニュアンスで感じ取ってほしい。
「あの……」
「ん? 何かしら?」
「これは一体……」
「読んで字の如くよ。それとも読めないかしら?」
「いや……読めることは読めるけれども、これはどういう意味なんですか?」
「だからそのままよ。頑張りなさい」
「僕はその何を頑張るか、聞きたかったんだけど」
「そんなの知らないわよ。自分で考えなさいな」
 ああ……と頭を抱えたくなった。こいつに頼ったのがそもそもの間違いだったのだろうか。人を見る目というのはやはり、僕には無いのだろうか。
 それにしても本当に酷い。頑張れ? そんなこと言われなくたって分かっている。
 だんだんイライラしてきた。僕は少し短気なのかもしれない。それともこういった人種に今まで会ってこなかったから、耐性が無いのだろうか。見たことはあるけれど、実際に触れ合ったことは無い。意図的に避けてきたからだ。見ているだけでも、『ああ、こいつは周りに無自覚に無意識に無頓着に被害を及ぼしているな』と分かるからだ。おそらくその判断は正しかったのだろう。今こうして僕は実際に被害を受けている。自分で頼っておいて被害というのも、かなり自己中心的ではあるが、僕はそういう人間だから仕方がない。
 しかし、だ。今まで触れてこなかったけれども、彼女が書いた字はおそろしく汚い。僕が練習し始めくらいのレベルに近い。もしかしたら、それ以下かもしれない。
 自分自身で言っていた通り、僕よりも先に失っているのに、何故なのだろうか。というか、あれほど僕に『字が汚い。字が汚い』言ってきたのに、自分はこのレベルかよと少し憤りを感じたりするくらいだ。以前、みかんを上手く剥いていたのは錯覚だったのだろうか。やはり、聞いてみることにする。
「ねえ、何でこんなに文字が汚いの?」
 口下手なのでストレートに出てしまった。人によっては怒っても良いレベルかも知れない。
「え? そりゃ練習しなかったからよ」
 当然だった。当然の答えが返ってきた。
 しかし僕が聞きたいのはそういうことではない。その理由だ。
「そりゃわかるよ。見たら分かる。どうして練習しなかったのって聞いてるんだ」
「それは抗ったからよ」
「は?」
 あまりの唐突な返事に僕はつい、言葉を失ってしまった。本当に何を言っているのか分からない。またどっかのバベルの塔で神が怒ったのかもしれないと勘繰ったくらいだ。
「抗ったって、何に」
「そりゃ色んなものよ。腕を失って、必要になること。それらを私は必要としてこなかった」
「どうして」
「どうしてって、そうしたら腕を失っているということを認めるってことになるじゃないの」
「そりゃ……そうなのかもしれないけれど」
 理屈は分かるが、さすがに論理が飛躍してはいないだろうか。洗練された言葉による例えは浮かんではこないけれど、そんな気がする。
 しかし彼女の迫力と、自信満々さに気圧されて納得しかけてしまう。これが彼女の強みなんだろうと思う。
「まあ、毎日毎日することはどうしても慣れてしまうけどね。それでも私は今まで通りの生活を続けてきた」
 ああ蜜柑を上手く剥いていたのはそのせいか。どんだけ蜜柑好きなんだ、こいつ。
「学校とかで、何も言われなかったの?」
「言われないわよ。腕、無いんだから」
 それに今は学校なんて行ってないしね。そう付け加えて、彼女はほんの少しだけ微笑んだ。とても悲しげで、胸が締め付けられるような笑顔。僕はそんな彼女の顔を見ていられなかった。
 いくら強そうに見える彼女でも、当然のように傷ついたりしてきたんだろうと思う。今までしてきた『普通』の行動が途端に難しくなる。これは人の心をへし折るには、役不足なくらいのものだ。
 そういえば以前からかった奴を泣かしたとか何とか言ってたっけ。その時は何も感じなかったけれど、からかわれたことについては、やはりどうしようもなく彼女の心を引き裂いたのかもしれないと、今なら思えた。
 それが事実であるから、尚更だ。
 そしてそんな悲しげな彼女を見て、僕は不覚にもこう思ってしまった。
 一緒に生きて、守ってあげたいと。
 ……………………え?
「……え?」
「ん?」
「え?」
「何を言っているの?」
「分かんない」
「私もあなたが分からないわ」
「僕もだ」
「もう一度聞くわ。何を言っているの?」
「何だろう」
「頭おかしくなったのかしら」
「かもしれない」
「どうしようもないわね」
「同感だ」
「自分のことでしょ」
「全くだ」
 はあ、と彼女が溜め息をつく。僕はその傍で混乱していた。
 守りたい? 一緒に生きたい? 僕は何を考えてるんだ?
 こんなにも周りに迷惑や被害を及ぼす人種と、一緒に生きたいと僕は今思ったのか?
 自分のことながら、全くもって理解できない。本当に彼女の言うとおり僕は頭がおかしくなってしまったのだろうか。
 人生でこんなに混乱したことは無いだろうってくらいに、混乱している。大学受験で受験票を忘れた時だってこんなにも取り乱したりはしなかった。解決策を知っていたからっていうのもあるかもしれないけれど。
 でもこれは違う。解決策なんて無い。僕は確かに思ってしまったからだ。
 共に生きたいと。そして守ってあげたいと。そう思ってしまった。
 彼女の幽冥な微笑を見てしまったのが運の尽きだったのかもしれない。 
 僕は、どうしたら、良い。
「うう……」
「何よ、さっきから。気持ち悪いわね」
 なんて彼女の罵倒さえも、耳に入ってこない。
 落ち着け。とにかく落ち着くんだ、僕。昔から考えることだけは得意だったんだ。今はそれを活用するべき場なんだ。頑張れ僕。負けるな僕。ああ、やっぱり混乱してる。
 ええと、どうして僕は彼女に対してそう思ったのか。まずそれを考えてみよう。
 おそらくそれは、僕と彼女が同じ境遇だから。というかそれしかない。あ、あとあの笑顔を見てしまったから。それだけ。
 はい終了。Q.E.D。
「マジかよ……」
「もう帰っていいかしら」
 僕が彼女に出した手紙は、思いもよらないラブレターになって返ってきた。
 受け手と伝え手があやふやにせよ。
 全く、人生はおよそ不都合で出来ている。
 そして僕は、自分に嘘をつきたくない性分だ。
 目を瞑り、息を吐く。浄化出来なかった思いとともに、重く重く、押し出す。
 一塊の決意を、覚悟を置き去りにして、胸の中に打ち付ける。
 そしてその小さな意識を、口を通して大気を震わせる。
「……あー、一緒に生きる?」
「治療不可かしら」
 口下手だって言ってんだろ。
 
 
 
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