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003_静かな呟きは夜に溶ける

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静かな呟きは夜に溶ける

 アルコールで頬を赤く染めた学生たちがそこかしこで道を塞ぎ、その横を足元の覚束ないサラリーマンたちがおどけた様子ですり抜けていく。風俗の立て看板を掲げた小男は、条例違反でしょっ引かれないよう十字架を背負ったキリストのように少しずつ前へと進み、キャバクラのボーイたちは胡散臭い満面の笑みを浮かべて、道行く男たちに極楽で利用可能な30分無料クーポンを配り続ける。
 飲み屋や風俗店がひしめき合うこの地区は、日が落ちるとともに隣り合う繁華街のエネルギーを掠め取るようにして輝き始める。ビルの明かりは夜空を隠し、立ち入る善良な市民たちを浮かれた空間へと誘い込むのだ。
 そんな喧騒も道を1本脇に入れば鳴りを潜める。小便臭い路地裏に建ち並ぶ古臭いビルには貸物件の貼り紙が目立ち、隙間を縫うように如何わしい店がぽつぽつと明かりを灯している。
 そんな寂れた裏通りをくたびれたスーツの男が歩いていた。年の頃なら40代後半、だらしなく伸びた髪をてらてらとした油で固め、皺のよった白シャツと緩めたネクタイの姿はみすぼらしいものであったものの、酒の入った様子ではない。
 男は1階と2階にファッションヘルスが居座るビルへと入っていく。ビルの奥にはエレベーターがあり、安っぽいえんじ色の扉の前にいた気の弱そうな青年が、男を見て気まずそうな顔をした。青年に一瞥をくれて、男はその奥にある階段へと向かう。点滅を続ける蛍光灯に照らされながら地下に下りると、重々しい木製の扉が男を出迎えた。

『BAR GILBERTO』

 扉に打ちつけられた金属板には店名が刻まれている。男はこれを『ギルバート』と読んで、マスターにつまらない男だと評された事を思いだした。

「成金は教養が無くて駄目ねぇ。私のすべてを捧げるこの場所に、何だって赤毛の妄想女にたぶらかされた男の名前なんてつけなきゃなんないのよ。これはね、ジルベルトって読むの。ジョアン・ジルベルト。ボサノヴァの神よ。
 まったく、金勘定ばっかりしてるから、あんたには外側だけのスッカスカ女しか寄ってこないのよ」

 マスター評するところのスッカスカ女を多数引き連れた席での発言であったから、男はたまったものではない。『2度と来るか、このオカマ野郎!』と啖呵を切り、札びらをばらまいて店を出たのは、夢のような遠い昔だ。
 男は黒い取っ手を握り、古びた扉を開いた。

「あら、懐かしい顔が来たわね」

 カウンターで紫煙を燻らせていたマスターは扉の開く音に振り返り、小じわの目立つ目尻を下げて男を迎えた。黒いサテンのシャツに包まれた身体には年相応に肉が付いていて、顔つきまでもが昔より穏やかになっている。脂肪の呪いにかかっている女と違って、男はどこまでも美しくなれると豪語していたマスターにも、等しく時は流れていた。
 男が慣れた様子でマスターの横に腰掛けると、客のいない店内にスツールの軋む音が響いた。黒いカウンターには白いパールオニオンの沈んだ透明なカクテルが置かれていて、癖のあるジンの香りが男の鼻をくすぐる。

「お久しぶり。これマティーニ?」

 マスターは煙草を持つ手を口元に寄せて笑った。

「もういい歳なのに相変わらず薄っぺらいわね。マティーニにはオリーブ。パールオニオンならギブソン。基本よ。このくらい覚えときなさい」
「いきなり手厳しいな。初めてここに来た時を思い出すよ」
「あなた、あの時は酷かったわね。頭の悪そうな女はべらせて、天狗になってるのが丸わかり。なんて下品な男が来たのかと思ったわよ」
「若かったんだって。自分は誰より優れた人間だって勘違いしてたぐらいだから」
「その割にあとで謝りに来た時は、叱られた子供みたいな顔してたじゃない」
「そりゃあ木島さんに『俺の顔を潰す気か!』って言われちゃあね。あの頃の俺には木島さんは神様みたいな人だったから」
「それでオカマ野郎にも頭下げたんだ」
「勘弁してよ。昔の話だよ」
「そうね、ずいぶんと昔の話ね」

 マスターは短くなった煙草をくすんだ光の浮かぶ銀の灰皿で揉み消してから、すっと立ち上がり、カウンターの中へ入っていった。洗練された所作は昔と変わらずに優雅で、男は時が戻ったような錯覚を覚えた。

「さてと、お仕事しなくちゃね。何にする? あの頃みたいにロブ・ロイでも作ろうか」
「いや、マンハッタンにするよ」
「あら、どういう風の吹き回しかしら? メジャー過ぎるから絶対に飲まないって言ってたくせに」
「言ったろ、あの頃は若かったんだよ。それにライとスコッチの違いが分かるほど、繊細な舌はもう持ってない」
「そんな後ろ向きな理由でマンハッタンを飲んでほしくないわね」

 マスターはスコッチ・ウイスキーを手に取り、人差し指と中指に挟んだメジャーカップへ注ぐが早いか、流れるような動作で手首を返し、氷の詰まったミキシンググラスへと流し込んだ。スウィート・ヴェルモットとアンゴスチュラ・ビターズを加え、バースプーンで素早くステアする。

「客のオーダーは無視?」
「優秀なバーテンはね、ゲストが味わうべきカクテルを出すの。ゲストの感覚がずれていたら手直しもする。あなたに必要なのはこれ」

 差し出されたカクテルは、琥珀色の底に赤いマラスキーノチェリーがたたずむロブ・ロイだった。ベースにライ・ウイスキーを使うか、スコッチ・ウイスキーを使うかの違いだけで、レシピはマンハッタンとまったく変わらない。
 男はそっとグラスを手に取り、ゆっくりと口をつけた。

「同じだ。昔と何も変わらない」
「マンハッタンだったら、そうは思わなかったでしょうね。よく味わいなさい。そこにはあなたの栄光が詰まってる」
「昔の、ね」
「あなたはいつまでたっても、いい男にならないわね。そんなことじゃ木島に追いつけないわよ」
「もう俺は無理だよ。40も半ばだぜ。とっくに木島さんの歳を越えちまった」

 男は再びロブ・ロイを口元へ運ぶ。チェリーを貫くカクテルピンがグラスの縁をすべり、男の頬に触れた。マスターは泣き言をこぼす男に背を向け、色鮮やかな酒棚にスコッチを戻すと、カウンターの奥にあるミニキッチンでつまみを作り始めた。

「今日、娘が中学の卒業式だったんだ」

 男はマスターの背中に話しかけた。

「あら、奥さんは折れてくれたの?」
「そっちは全然。相変わらず娘には会わせてもらえないままだ。だから始まる寸前に行って、体育館の隅で娘が卒業証書を受け取るところだけ見てきた」
「そう。辛いわね」

 薄明かりに浮かぶ店内には音楽もかかっていない。男は静寂を埋めるようにロブ・ロイを早いピッチで飲み進めた。琥珀の水面からチェリーが顔を見せる頃、マスターが戻ってきた。

「これはサービスしとくわ。ブルサン、好きだったでしょ」

 皿の上には、四角いクラッカーの上に様々なチーズを乗せたものが並べられていた。ゴーダ、チェダー、ゴルゴンゾーラなどに混じって、ガーリックとハーブの風味を漂わせるブルサンチーズがある。
 マスターは再び酒棚に手を伸ばすと、黒いラベルに包まれたバーボンを手に取った。

「ブルサンにJ.T.S。あなたは木島の真似をして、この組み合わせばっかりだったわね」
「最初はただの猿真似だけど、それは本当に気に入ったんだよ。高いだけの酒や食べ物はよく分からなかった」
「それもよく木島が言ってたわ。珍しかったり、無駄な時間をかけているから高いだけなんじゃないかって」

 氷を入れたロックグラスにJ.T.Sが注がれる。深い琥珀に荒削りな氷が浮き、カランと音を立てた。マスターは男にグラスを差し出すと、自分にもJ.T.Sのロックを作り、カウンターから出て男の隣に座った。

「もうお仕事はおしまい。って、近頃はお客なんて全然来ないんだけどね」
「お店、大丈夫なの?」
「あなたに心配されるとはね。オカマひとり、暮らしていけるだけの貯えぐらいあるわよ。あなたたちみたいに、すべてを賭けた勝負なんてしないわ」
「堅実がいちばんだよ。勝ち続ける事なんてできない。1度負ければ、それまでどんなに勝っていたとしても終わりなんだ」

 男は静かにグラスを傾けた。強いアルコールが胸を熱くさせた。

「もう木島が死んで16年だものね。あなたも年寄りじみたことを言う筈だわ」
「俺は木島さんみたいに生きたかった。いつでも全力で生きて、力尽きた時に死ぬ。女房に愛想尽かされて、娘にも会えず、会社もコカしたってのに俺はまだおめおめと生きている」
「その辺にしときなさい。ウチで悪いお酒はご法度よ。ほら」

 マスターはブルサンの乗ったクラッカーをつまむと、男の口元に差し出した。男は苦笑いを浮かべてそれを一口に食べる。懐かしいガーリックの風味が広がり、思い出に急かされるような思いでJ.T.Sを口に含むと、男の肩から力が抜けていった。

「明るい未来を信じられる歳じゃないけど、あなたも私もいろいろ無茶してきた分、楽しい思い出ならそれなりにあるじゃない。この店は若者が夢を語るには時間を重ね過ぎたけど、輝いていた過去を振り返るには絶好の場所よ」
「そうだね、もう、未来より過去が多い歳だ。青い気持ちはこの店とJ.T.Sに溶かすことにするよ」

 男とマスターは顔を見合わせグラスを合わせた。尽きぬ思い出話は時間を忘れさせ、J.T.Sを減らしていく。頬を染めたマスターが、不意にこんな話を始めた。

「この店にいた栞ちゃんって覚えてる?」
「ああ、髪の長い大人びた娘だろ。2、3年ぐらいいたんだっけ?」
「あのこね、木島の娘」
「えっ? 木島さんに隠し子なんていたの?」
「しかもね、私とずっと暮らしてたの」
「そんなの初耳だよ。酷いな、ぜんぜん知らなかった」
「私も詳しくは知らないんだけどね、母親が急に亡くなったって言ってたわ。もう債権者に追われてる頃だったから、火の粉がかからないようにしたかったんでしょ。いきなり子供連れてきて、しばらく面倒みてやってくれって言われてね、それが木島に会った最後だったわ」
「そんな事情なら尚更、俺にくらい教えてくれてもよかったじゃないか」
「あなたはあの頃、後始末で大変だったでしょう。債権者からもマークされてたし。そんな時に小さな子の事を相談なんてできないわよ」

 マスターはグラスに残ったJ.T.Sを飲み干した。男のグラスも欠片になった氷が底に溜まっているだけだった。

「でね、栞が去年結婚して子供も産まれたのよ。当たり前だけど、私、子供産めないし、タマも取っちゃったから産ませることも出来ないじゃない。でもね、栞が赤ちゃん連れてきてさ『おばあちゃんですよー』なんて言うのよ。さすがに泣きそうになっちゃってね。私なんて死んだらそれっきりだと思ってたけど、栞が覚えててくれてさ、その娘まで私のことを覚えててくれるって考えたら、嬉しくなっちゃったのよ」

 屈託のない笑い声を上げ、マスターはボトルを手に取った。

「あら、もうないじゃない。ああ、もうこんな時間。ね、どう? お店閉めるから飲み直さない?」
「さすがに遠慮しとくよ。久々に飲み過ぎた」
「あら残念。じゃあ、最後にふさわしいカクテルを奢ってあげるわ」

 真っ赤な顔でカウンターに戻ったマスターは、大丈夫かと心配する男を尻目に、酒棚からラムとホワイトキュラソーを取り出し、絞ったレモンと一緒に氷を入れたシェーカーへと注いだ。蓋をされたシェーカーは空中に8の字を描くようにして振られた。

「XYZ。アルファベット最後の3文字を取ったカクテルよ」

 グラスに注がれたXYZは、透明な液体の中で結晶化したホワイトキュラソーが粉雪のように舞うカクテルだった。

「おしまい、ってことか。確かに最後にふさわしいね」
「そういうところ、やっぱり駄目ね。センスが無さ過ぎる。
 XYZはね、もうこれ以上はない。今が最上っていう意味なの」
「ものは言いようだね」
「そう。言いようひとつで変わるのよ、人生なんて」

 マスターは自分のグラスを掲げた。男も自分のグラスを掲げる。
 音楽もない店内に、2つのグラスを合わせる音が響いた。
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