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006_糞虫

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糞虫

 そもそも僕らに自由なんてない。上の立場の者が本気を出してきたら、それがどんなに理不尽な内容であったとしても黙って従うしかないのだ。理論的なバックボーンや組織だった反抗の術を持たない僕らは、人事権を持つ役職者が近くにいないことをチェックした上で、会社の戦略性の無さを声高に語り合う。それが僕らに与えられている自由らしきもののすべてなのである。

  *  *  *

 三月中旬、僕の所属する『情報戦略ソリューション課』の面々は、黙々と荷造りを進めていた。明日には三年間を過ごした本社を離れ、電車とバスを乗り継いでニ時間かかる支社への勤務先変更が決まっている。年度替りを目前にした時期での引っ越しは、単純かつ幼稚極まりない理由から発生したものだった。
 僕の勤務する会社はシステム部門がニ系統に分断されている。それは開発と運用を分けるような合理性から生まれたものではなく、会社設立当初にシステム関連で権力を握っていた人物がニ人いて、互いに相容れなかったというだけの話だ。
 ニ人は社内での発言力を高めるため、争うように必要のない業務を打ち出しては直轄の新設部署を作っていたそうだ。その都度、桁外れに高価な機器が導入されたり、必要以上の人員が確保されたりもした。三十路を過ぎて大したスキルも無い僕が中途で入社できたのもどうやらその流れがあったかららしい。
 そんな背景から生み出された系列の違う部署同士の連携は最悪だった。データにはあちこち重複が発生しているし、全体でサーバが何台稼働しているのかすら誰も把握できていない。月に二百万の引き落としの内容が分からず担当者が必死に調べてみたら、セットアップもされていない社内グループウェアソフトのライセンス料だったこともある。該当のソフトは、何十本とあるWindowsセットアップCDと一緒に倉庫へ押し込まれていたというオチまでついていた。
 僕は隣の部署である『情報業務統轄課』に目を向けた。四十人弱の課員たちは例外なく疲労しきった様子でモニタに向かっている。月初に大規模なサーバ移行作業が行われたのだが、洒落にならない不具合が出て対応に追われているのだ。
 僕らが彼らの業務を手伝うことは出来ない。技術的にはおそらく僕でも対応可能なレベルなのだろうが、こちらには必要な情報――作業用端末のログインパスワードすら――が何も伝わってこないのだ。同じ本社内にありながら、違う系列のシステム部門とは会話すら憚られる雰囲気が蔓延している。何しろ両部門の間には、工事現場にあるような黄色と黒の太いロープが境界線として張り巡らされているほどなのだから。
 この行為をバカバカしく感じない人は少ないと思う。けれど、元凶であるお偉いさんたちにしてみれば、このロープはイスラエルとパレスチナの国境線ほどに意味があるのだろう。ここまでしなければならない程に悪化した人間関係を僕は持っていない。成熟した大人であれば、時にはここまでしてでも戦う必要があるのだろうか。だとしたら僕は永遠に大人にはなれそうもない。
 ボス同士のネガティブでプリミティブな感情は直下の部下に増幅されて伝わり、管理職を担えるほどに優秀、もしくはイエスマンな人材はこれを最優先事項として対応する。そして生活のかかった僕たち下っ端は、バカバカしいと思いつつも上司の本気度に押し切られてこれを容認してしまう。そこまでして歯向かうほどのことではない、と。
 荷物の梱包をほぼ終えた僕は、手を洗って缶コーヒーでも飲みながら一服しようと喫煙所に向かった。『情報業務統轄課』の前を通ると、モニタの上部から課員たちの頭だけが覗いているのが目に入る。まるでメガネ率の高い晒し首が並んでいるようで、僕らは根本的に頑張る部分を間違えているのではないかと感じた。

  *  *  *

 自販機で缶コーヒーを買い、誰もいない喫煙所のパイプ椅子に座る。火をつけた煙草からニコチン入りの煙を肺に吸い込むと、いつものように激しく咳き込んでしまった。最近、煙草の本数が自分でも呆れるほどに増えている。のどに痰が絡んで声が出せないこともしばしばで、禁煙を思わないこともないのだけれど、いまだ実行には至っていない。
 僕は発ガンのリスクを高めることと引き換えに思考に身を委ねる貴重な時間を手に入れる。それなのに頭に浮かべてしまうのは、ここ最近の社内状況の変化というつまらないことばかりだ。
 ほんのひと月ほど前まで、仕事の大半はトラブル対応であるという生産性のない毎日だった。こんな日々はこれからも延々と続いていくのだろうとうんざりしていたのだけれど、世界的な不景気は僕らにとっても他人ごとではなかったようで、我が社の売り上げは下降の一途を辿り、尻に火がついているとようやく認識した経営陣は、重い腰を上げて経営改革に取り掛かり始めたのだ。
 予想はしていたものの、トップの掲げた経営改革とは効率性を高める類のものではなく、コスト削減という言葉を金科玉条として崇めるという代物だった。金食い虫であるシステム部門は早い段階でコスト削減対象として俎上に上がり、社長とあまり仲のよろしくない僕らのボスは、その管轄する部署ごと露骨に要職から外されてしまったのである。
 僕などはまだ学生だったぐらいの昔から延々と続けられていたであろう権力闘争は、世界情勢というぼんやりしたものとちょっとその気になった社長の介入によってあっけなく片がついてしまった。僕はボスを数回程度しか見かけたことがなく、恰幅がよい割に歩くのが速くて、早口で声が大きい人だという印象ぐらいしかない。多少の威厳はあっても基本的には普通のおっさんでしかなかった。
 そんなおっさんの考えたことがたくさんの社員の人生に影響を与え、おっさんの敗北が僕らを僻地の支社へと追いやってしまう。そして新しい年度の始まりと共におっさんはこの会社から去っていき、その行動が僕らになんの影響も及ぼさないというあるべき状態に戻るのだ。
 僕はヤニで茶色く汚れた壁に吊るされた味気ないカレンダーをぼんやりと眺めていた。安っぽくて薄汚れたこの喫煙所は、僕にとっていちばん思い入れのある場所だ。けれどこの喫煙所を使うのも、おそらくこれが最後になるだろう。その事実に気付き、僕は今回のことで初めて喪失感を感じた。
 結局、僕を含めた殆どの社員たちは、会社の行く末だの、お偉いさん達の派閥争いなどに興味はない。もっと言ってしまえば、僕ら自身の職場環境にすら能動的に関わろうとしないのだ。あの晒し首のような『情報業務統轄課』の面々に対して、僕はただのひとつも名前を当てはめることができない。業務上で必要最小限の連絡はメールで取り合っている。だから統轄課の~さんという存在は知っている。
 でもそれは、識別記号としての存在を知っているに過ぎないから、中の人が入れ替わったとしても気付かないし支障もない。それは相手側から見た僕も同様だし、きっと僕らのボスだったおっさんも同様なのだ。
 もし、僕が小学生のように毎朝大きな声で「おはようございます!」と隣の課に挨拶していたらどうなっていただろうか。きっと最初はみんな奇異の目で僕を見るだろう。でも躊躇いがちに挨拶を返してくれる人もいたかもしれない。そこから課の垣根が少しでも低くなったかもしれないし、正面切って文句を言ってくる人が現れたかもしれない。動いていれば何かしらの変化は生まれた筈なのだ。もしかしたら挨拶禁止のお達しがでるという冗談みたいな事態だって有り得たかもしれない。
 けれど僕は何も動かなかった。動かないということは、他人から見れば何も考えていないのと同じだ。きっと晒し首たちも個々ではいろいろ考えているのだろう。けれどそれが表に出て、お互いに伝わることはない。
 僕はここ一週間ほど出勤していない同僚のことを思いだした。彼は僕よりもずいぶん若く、事あるごとにこの会社はおかしい、僕がこの会社を変えると息巻いていた。人の状況をまるで考えずに理想論だけを主張して、面倒な仕事がやってくると、こんな仕事は意味がないと突っぱねるような奴なので、僕は意識的に彼を無視して仕事も回さないようにしていた。
 企画書を何度か出しているのを見かけたけど、上司からは適当にあしらわれているようだった。手応えが欲しかったのか、僕にも見てほしいと言ってきたことがある。ネットのコピペを並べただけの何がしたいのかさっぱり分からない内容だったので、面白そうだから後で読んでおくよと言ってほったらかしておいた。真面目に指摘などしようものなら、滔々と独りよがりな演説を聞かされることが明白だったからだ。その後、何度か確認されたが、その度にまだ読めていないと繰り返していたら僕には話しかけてこなくなり、ほっとしたことを覚えている。
 この半年ほどで彼は髪がめっきり薄くなり、話しかけるとこちらに目は向けるのだが、言葉が返ってこないようになった。ああ、これはそろそろだなと思っていたら、案の定、彼はちょくちょく欠勤を繰り返すようになり、先週末からは連絡も取れなくなったそうだ。
 似たような状況を何度も見てきて思うのは、売上を伸ばしたり効率性を上げることは、僕ら下っ端にとって重要ではないということだ。上から指示されたことに対して、効率が悪いとか無駄が多いなどの余計なことを考えずに黙々と処理していればよい。でないとこちらが壊れてしまう。
 それが嫌ならベンチャー系の会社に行くか独立すればいい。実力か若さのどちらかを持っていれば成功する可能性は高いと思う。もし三十路を過ぎて何も結果が出せないのなら、それは間違いなく実力がないのだ。
 実力の無い者に残された生き残る道、それは考えるのをやめることだ。自分に何かができるなどと思わず、バカと思われることに慣れ、上司に怒られることに慣れ、最低限の仕事をこなし、普段は人当たりをよくして、雑用などは進んで行い、同僚や後輩から文句を言われたら恥も外聞も無く逆ギレするのだ。そうすればそれなりの仕事だけが回ってくるようになり、周りも腫れ物に触るような慎重さで扱ってくれる。自分よりも遥かに実力のある者たちが潰れていくのを傍目に、僕はのうのうと生き残ることができるのだ。
 同僚たちは今回の件に関してプライドが傷ついたと話す者が多かった。会社は個人の能力を一切考慮せずに十把一絡げでクソ虫扱いしていると憤る者もいた。その感覚は正しいと思う。仕事に対して真摯に向き合い実力も兼ね備えた彼と、保身のみを考えた僕の評価が同じなのだ。内心、憤懣やるかたない思いもあるだろう。
 ただ彼は、その論旨が遠まわしに僕をクソ虫だと結論付けている点に気付いていない。もしもそれを分かった上で言っているのなら、彼はそのうち僕の上司にでもなることだろう。
 僕は水の入ったバケツへフィルターだけになった三本目の煙草を投げ入れた。ジュッ、と音を立てて水面に浮かんだ吸殻に、ニコチンの溶けた水が染み込んでヤニの色に染まっていく。僕は喉にごろごろした何かが貼り付いている気がして仕方がなかった。
 喫煙所を出る時、僕はもう一度この薄汚れた部屋の隅々を眺め回した。嫌味な程に大きな音を立てて稼働する換気扇。素っ気なく並べられたパイプ椅子。灰皿用の真っ赤な蓋付きバケツ。記憶はすぐに薄れていくのだろうけど、少しでもこの場所を脳裏に焼き付けておきたかった。三年間ここに勤めて、執着を感じられたのはこの喫煙所だけだったから。

  *  *  *

 新しい社屋での勤務はそれなりに快適ではあった。通勤時間が倍増したのは厳しいが、僻地であるがゆえに電車の混み具合は思ったほどでもなく、席に座って小説を読むぐらいの余裕がある。本社では掃除のおばちゃんがやってくれたゴミ捨てとトイレ掃除も、当然こちらではみんなが持ち回りでやらなければならない。三十代半ばで便所掃除か……などと鼻もちならないことを考えていたが、一度やってしまえばそれほど苦にもならない。むしろプライドが傷つくなどと考えていたことの方を恥ずかしく思った。
 そんな訳で今週が掃除当番の僕は、小用の便器をブラシで磨いているところだ。掃除をすると心も磨かれるなどというのは子どもに掃除をさせる際の常套句としか思っていなかったが、悔しいことに真面目に取り組むと確かにすっきりするのだ。僕はこれまで真面目に掃除をしたこともなかったんだなと可笑しくなった。
 奇麗になった便器を見て僕は満足感を得る。既に年度は変わっていたが、組織の改編が間に合わなかったらしく僕らの部署はそのまま残っていた。しかし業務は悉く取り上げられているので、出来ることと言えばいずれ引き継ぎを行うであろうデータの一覧を作ることぐらいしかない。悲しいことに僕らが何もしなくても業務が滞ることは無く、むしろ指揮系統が整理されたことで効率性は上がっているようだ。今まで僕らが神経をすり減らして取り組んできた業務は、便器を磨くよりも意味の無いことだったと実感させられるのはさすがに遣る瀬無かった。
 そう遠くない未来にこの部署は解体されるだろうし、その時この会社に自分の居場所があるのかは甚だ心もとない。だが、もう采は投げられているのだから、今更じたばたしても仕方がないのだろう。この年齢で特殊な技能や経験もないのだから選択肢はもう残っていない。人手が欲しいのにあまり応募がなく離職率が高い業種――介護関連、長距離ドライバー、家電量販店、外食産業……いずれも体力と根性が必要な業種だ。そこで十年頑張った自分をイメージすることはできなかった。犯罪者になっていたり、刑務所に入っているイメージの方が余程しっくりくる。
 僕は想像のスイッチを切った。これ以上考え込むと危険だというポイントは自分の中に出来ている。二十歳の頃のようにどこまでも自分を突き詰めていく気力と体力はもうない。若い頃だって結構危険な行為ではあったのだ。

 まあ、やってみればたぶん何とかなる。その時はその時だ。いまやれることをやれる範囲でやればいい。

 僕は安全地帯に戻るためのマジカルワードを思い浮かべた。実際、これは真理で当たり前のことだ。そして、いま僕にできるのは便器を磨くことなのだ。
 僕はブラシに染み込んだ水をよく切り、青いプラスチックのバケツの中へ素早く移動させた。小用便器を磨き終えた僕は、個室の掃除に取り掛かる。この社屋には個室がひとつしか無く、しかもその便器は和式だった。恥ずかしながら僕は和式便所を使うことができない。いちばん最後に和式便所を使ったのは九年ほど前で、その頃は体重が今よりも十五キロは少なかった。最近は和式便所を使わざるを得ない状況に陥ることも無く、実際に試したことはないのだけれど、もうあの体勢を取ることは難しいと思っている。
 しかしこれからはそうも言っていられないだろう。まだ会社で便意を催したことはないが、そうなった場合に選択肢はないのだ。

(いま練習しておこうか……?)

 僕は僕のものではないこびりついた便をこすりながら、ひとり鼓動を早めていた。結局、散々迷った挙句に練習はしなかった。こびりついていた便は奇麗に落とすことができた。

  *  *  *

 その日は不意にやってきた。組織解体ではない。便意だ。
 昼食を食べた後ぐらいから膨満感はあった。定時である六時にあがる時には、はっきりした便意があったけれど、和式便所にチャレンジする心の準備ができていなかったし、家に帰るまでぐらいはもつだろうと考えていた。
 僕は最寄りのバス停まで歩いていく。会社からは五分ほどの場所にあり、そこから駅までが十五分程かかる。時刻表によるともうバスが来てもいい頃なのだが、この時間帯では予定通りにやってくる方が珍しい。僕は鞄から小説を取りだし、薄暗い中で活字を追い始めた。だいぶ日も長くなり六時頃ならまだ明るさが残っている。ただ、世界中が温暖化対策を頑張り過ぎたせいか四月に入っても肌寒い日が続いていた。バス停に立ちつくす僕の足元に冷たい感覚がじわじわと広がっていく。
 そして突然、僕の腹に突き上げるような感覚が襲いかかってきた。思わず背を丸め、腹に手をあてがう。僕は身体中の筋肉を緊張させ、腹に全神経を集中させた。
 グルルルルル……と腹が図々しい音を鳴らす。僕は変な体勢のままピクリとも動くことができない。額には汗が滲み出してきた。まるで心臓が腹に移動したかのように、血液が痛みを伴う腹部に集まってくるのが分かる。
 腸に変化が訪れた。激しい便意だ。僕は肛門括約筋を全力で締める。尻まわりの肉まで腸に吸い込んでしまう程の勢いは、腹の内部に混乱を引き起こした。一点に集中しかけていた痛みは拡散し制御不能に陥る。僕は身体を捻じり、痛みが治まるポイントを探す。気を抜けば大惨事を引き起こしかねない程のビッグウェーブが僕の腹で渦を巻いていた。
 僕は鞄と小説を地面に落とし、バス停の鉄柱部分を右手で握りしめた。バス停が曲がってしまうぐらいの勢いで僕は鉄柱を握っていた。額に滲む汗はその粘度を増していく。荒れ狂う腹は、それでもその痛みの波を収めつつあった。
 鉄柱から手を離せるまでに痛みは落ち着いたが、腹の中の異物は圧倒的な存在感を僕に示している。僕は腹の中に溜まったガスを少しでも放出できないかと肛門の緊張を少しずつ弛めていくが、その行動は僕に余裕などないと強く実感させただけだ。
 僕は鞄を拾い小説をしまった。考えている時間はない。僕は速やかに次の行動を決める必要があった。

 会社に戻り便所に駆け込む。時間的には最も短く確実だ。だが和式だ。その上、同僚にばれてしまい恥ずかしい。
 バスを待ち、駅ビルの便所に行く。洋式がある可能性がある。だが便所の場所を知らない。洋式があるかも不確定だ。
 駅方面に歩き、途中の店・コンビニで便所を借りる。最も不確定だが駅ビルまでいくよりは早い可能性が高い。バスから見た記憶では、それなりに店はあった筈だ。

 どうする? 僕は駅方面に歩く選択肢を取った。未確定要素が高い方が何とかなる気がしたからだ。僕はロボットのように歩き出す。上下の振動は厳禁だ。水平を保つように、かつ最速のスピードで。
 爆発時刻の分からない爆弾を抱えているようなものだ。そして数分以内に爆発するのは間違いない。僕は薄暗い道を進んでいく。すれ違う楽しげな女子高生たちが憎い。
 僕の甘い見通しに反して便所を借りられるような店は見当たらなかった。個人宅や古臭いアパートが続き、前方に視線を向けてみても、それらしき灯りすら見えなかった。
 僕の目には涙が浮かんでいた。それでも僕は歩き続ける。止まることはできない。後戻りもできない。僕に残された道は、進むか爆死するかのどちらかだ。
 歯を食いしばり、無心になることだけを考える。だが、とうとうその時が来た。便意だ。それもバス停と同じかそれ以上の激しいもの。再び僕の身体は緊張で締め付けられる。息は荒くなって手の指先が冷たく震え出す。
 もう店じゃなくてもどこかの家に飛び込もうかと思い立つ。事情を話せば便所を貸してくれるかもしれない。けれどそれは可能性の低すぎる賭けだ。ここまで切羽詰まっていれば、断られた瞬間に僕は赤の他人の家の門前で糞を漏らすことになるだろう。
 僕の頭の中は便器のことばかりだった。小学生の頃、やはり帰り道で便意に襲われ、家を目前にして漏らしてしまったことがある。我慢して、我慢して、我慢して、ふっと諦めが頭を掠めた瞬間に力が抜けて出てしまったのだ。
 あれから二十年以上、漏らしたことはなかった。でも今回は駄目かもしれない。僕は漏らした後を思い浮かべた。電車にも乗れない。友人もいない。家族もいない。どうやって帰ろう? どうすればいいんだろう?
 突如、僕の左側に空間が広がった。駐車場だ。その向こう、歩道から奥まったところに喫茶店が建っている。個人経営の小さな喫茶店。僕は最初からこの店が目的であったかのように入口へと歩いていく。
 扉を開けた僕を迎えたのは50代と思われるおばさんだった。客は一人も入っていない。おそらくは常連が集う店なのだろう。おばさんは僕を訝しげに見ていたが、そんなことを気にしている余裕はない。
 僕は入口近くの席に鞄を置く。注文を取りに来たおばさんにホットコーヒーを注文し、便所の場所を尋ねる。教えられた便所は店の片隅にあって僕は嫌な予感がした。
 便所の扉を開いた時の絶望的な気分が伝わるだろうか? そこにはおもちゃのように小さな和式便器がちょこんと備え付けられていた。しかしもう贅沢は言っていられない。やるしかないのだ。突然の本番ではあるけれど、九年ぶりに和式便所で用を足すしかないのだ。
 僕は財布を尻ポケットから取り出して胸ポケットに入れた。ズボンとパンツを下ろし、身体の大きな僕は前の方に陣取って、金隠しを抱え込むようにしゃがみこむ。足は開き気味にして尻が便器からあまり離れないようにセットする。これで問題ない筈だ。

 ――あとは、

  *  *  *

 僕は朗らかな気分で手を洗っていた。鏡の中の自分がにこにこしている。
 特に問題もなく事は終わった。やはりあの体勢は厳しかったが、身体を前方に傾ければ数分は耐えていられる。進んで使用したくはないが、今後、切羽詰まった時には問題無く会社の便所を利用することができそうだった。
 長い用足しを終えて席に戻ると、まだコーヒーが来ていなかった。僕が冷たくなったおしぼりで手を拭いていると、おばさんがコーヒーを持ってきてくれた。おばさんは僕が便所から出てくるまで、コーヒーを入れるのを待っていてくれたらしい。その気遣いが丸裸になっている僕の心に沁みた。
 僕は温かなコーヒーを飲みながら小説を読み始めた。急ぐでもなく、長居するわけでもない時間、僕は幸せの余韻を噛みしめながら、至福の時を過ごした。
 値段など見る余裕はなかったが、コーヒーの値段は三百円だった。安すぎると思った。三千円だったとしても僕は喜んで払ったことだろう。
 店を出るとあたりはすっかり暗くなっていて肌寒さは増していた。僕はそのまま駅に向かって歩き出した。道沿いに桜が並んでいる場所があって、花びらの散る中を僕は潜りぬけた。桜はとてもきれいだった。僕はなんだかとてもいい気分だった。
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