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『第九章 おかえり』

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母は、昨日アヤがいたところにほど近い、海辺の病院にいた。
どうやら海に落ちたらしく、ずぶぬれで海岸に倒れていたそうだ。
その時母は溺れたショックからか、自分が誰なのか、どうしてこんなところにいるのか、一切思い出せなかったらしい。
手がかりになるような持ち物は無かったそうだ。
昨日になってようやく記憶が戻り始め、名前が判明したため、病院の方から警察へ連絡したようである。

父と二人病室に入ると、母はベッドの上で上半身だけ起こし窓の外の海を眺めていた。
頬に大きなガーゼが当ててあるのが痛々しい。

「…」

何と声をかけたら良いのかわからず、アヤはベッドの脇に立ち尽くした。
父を見ると、父も言葉が見つからないのか母を見つめて立ち尽くしている。
母は、微動だにせず海を眺めている。

哀しい、沈黙が続いた。
時計の針の音がやけにうるさく感じる。
それに混じって、波の音も聞こえる。

ざ………ざ………

アヤは、ぼんやりと昨日の事を思い出していた。
(あの人は、まだあそこにいるのかな…それとも…)

「由香。」
その時、不意に父が母の名前を呼んだ。

「俺の事…嫌いになっちゃったか?」
そう言って、父はぼろぼろと泣きだした。
父の言葉に、今までまったく動かなかった母が、突然声をあげて泣き始めた。

「ごめんなさい…ごめんなさい…」
布団に顔を押し付けるようにして、母は謝り続ける。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
そんな母を父が抱きしめる。
「いいんだよ…いいんだ…」
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
「いいんだ…な、帰ろうな。な。」
「ごめんなさい…許して…ごめんなさい…」
「いいんだよ…いいんだ…な、由香。おかえり。おかえりな。」
「ごめんなさい…ごめんなさい…」

謝り続ける母の頭を、父は強く抱きしめたまま、ゆっくりと、優しくなでた。
いつの間にか、アヤも母に抱きついて泣いていた。

「お母さん、おかえり。おかえり。」

アヤの声に、母は小さく『ただいま』と呟いた。

風が吹いて、開いている窓から潮風が流れる。

『幸せだな』と、アヤは思った。

『幸せだな』と、何度も何度も思った。



全員が泣きやんだのは、たっぷり1時間も過ぎてからだった。
母はまだすまなさそうにうつむいていたが、母の手を取る父とアヤの表情は晴れやかだった。

どうして家を出たのか。

その先で、いったい何があったのか。

それは誰も聞こうとしなかった。
聞くのが怖かったわけでは無い。
みんな口には出さなかったが、そんな事はもうどうでも良かった。
今、このぬくもりが全てだと思った。

「おかえり。」
父がまた母に言う。
「…ただいま。」
今度はしっかりと顔をあげて、母が返事をする。
「おかえり。」
アヤも母に言う。
「ただいま。」
アヤの目を見て、母が言う。
「みんな、目、真っ赤。」
アヤが笑う。
「ああ、真っ赤だな。」
「ほんと…ほんとね。」
父も母も笑う。

「幸せだな。」

今度は口に出して、アヤは言った。
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