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『第十章 初恋』

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彼がこの街に住んでいたのは高校に上がる前までの事だから、今から十三年は昔の話になる。
子供の頃の彼は人見知りがはげしく、決して友達が多い方では無かった。
だから放課後や休日は家にひとりでいる事が多く、
四才から始めたピアノを弾いては部屋で歌をうたっていた。

彼には母親がいない。
彼が幼稚園に上がった頃、両親は離婚した。
ショックでなかったと言えば嘘になるが、一ヶ月もするとなれた。
経済的な理由から親権は父親が持ったという事だが、本当のところはわからない。
父は離婚してすぐに職を替えた。
以前は残業や出張でめったにいなかったが、
今の仕事になってからは必ず夕食の時間には帰ってくるようになった。
離婚の悲しみよりも父が家にいる喜びのほうが大きかったかもしれない。

その一家が彼の家の隣に越してきたのは、彼が十二才の時の事だ。
ある日、彼がひとり留守番をしているとインターホンがなった。
足音を立てないようにそっと玄関へ向かい、のぞき穴から外を見る。
それが彼の常だったし、父親の教えだった。
外には赤ん坊を抱いた若い女性と、その女性より大分年上に見える背の高い男性が立っていた。
「はい、どちら様ですか?」
ドアを開けずに彼は声をかけた。
「あの、隣に越してきたものですが。」
男性がドアに顔を近づけて言う。
彼はチェーンを掛けたままドアを開けた。
「こんにちは。」
隙間から顔を出した彼に女性が声を掛ける。
心から幸せそうな笑顔だ。
自分よりはずっと年上だが、可愛い人だな、と彼は思った。
「あ、はい…」
彼は目をそらしてこたえる。
「隣に越してきた磐田と申します。」
「どうも…」
「あの…お家の方は?」
「いません…」
「そうですか…えっと…」
男性が何かを探すようにきょろきょろとする。
「もう、足元!」
女性がちょっと怒ったように男性を睨んだ。
「あ、そっか。」
男性は照れたように笑うと、足元の紙袋を持ち上げ、彼に向かって差し出した。
「つまらないものですが、ご挨拶に。」
「あ…どうも…」
隙間から手を出して、駅前にあるお菓子屋の店名が印刷された紙袋を受け取る。
「…」
一瞬の気まずい沈黙。
その沈黙を破ったのは女性だった。
「君、お名前は?」
「え…あ、あの…」
ふいの質問に何故かドキドキする。
「夏野…草汰、です。」
「草汰くんね。あたしは磐田由香。で、この子は綾子。これからよろしくね。」
「おいおい、僕は紹介してくれないのか?」
「あなたはいいのよ。」
そう言って女性――由香は悪戯っぽく笑った。
その腕にだかれた赤ん坊はすやすやと寝息をたてている。
「それじゃあまたね。」
「ご家族によろしく。」
「あ…あ、はい、よろしく…」
いつの間にかぼうっとしていた彼は、慌てて頭を下げた。
ドアを閉めて鍵をかける。
それからまたしばらく玄関でぼうっとしていた。
(由香さんと…綾子…アヤちゃんか…)
彼女の笑顔がやたらと印象に残った。

「今日、お隣さんが挨拶にきたよ。」
その日の夜、父親との食事の席で彼は思い出したように昼間の話をした。
母がいなくなってから、食事の係りは父になった。
あまり上手とは言えないが、彼は父の作る料理がけっこう好きだった。
「お隣さん?ああ、昨日越してきた人か。どんな人だった?」
父が箸の動きを止めずに聞く。
「背の高いおじさんと…お姉さん。あとあかちゃんがいたよ。」
「お姉さん?年の離れたきょうだいか?」
「ううん…おじさんとお姉さんは夫婦だよ。…たぶん。」
彼は少し自信を無くした。
そして何となく、間違ってる方がいいなと思った。
「年の離れた夫婦か。」
「たぶん…そんな感じだったよ。」
「磐田さん、だっけ?」
「うん、そう。」
「父さんも週末には挨拶に行くかな。」
「行くの?」
「お前も一緒に行くぞ。」
「え、僕も?」
「お前にはいつも一人で留守番させちゃってるからな、何かあった時にお世話になるかも知れん。」
「…迷惑だよ。あかちゃんもいるし。」
「お兄ちゃんになってやればいいさ。」
「…」
『お兄ちゃん』という言葉の響きに、彼の胸は少しときめいた。
一人っ子で、いつも留守番ばかりしている彼には、兄弟に対する憧れが無意識にあった。
「とにかく、週末には一緒に挨拶に行こうな。」



ピンポーン

「すみませーん、隣に住んでいる夏野と申しますがー。」
その週末、果たして彼と父は磐田家の前にいた。
彼はちょっと恥ずかしそうにもじもじとしている。
「はーい。」
インターホンを鳴らすとすぐに家の中から声が聞こえ、
それと一緒にパタパタという軽い足元が近づいてきた。
「はい。」
ドアを開けて顔を出したのは由香だった。
荷物を片付けていたのか、エプロンにマスクといった格好だ。
「どうもお忙しいところすみません。隣に住んでいる夏野と申します。」
父が頭を下げたので、彼も慌てて頭を下げる。
「まぁ、こんな格好ですみません。磐田と申します。」
「息子から聞きました。先日は私が不在で、すみませんでした。」
「いえいえ、平日でしたから、私たちも時間を考えませんで…この時期は学校が…夫が春休みなものでつい…」
ああ、やっぱり夫婦だったんだなと彼は思った。
そしてがっかりしている自分を少し不思議に思った。
「ご主人は先生か何かで?」
「ええ…春から北山中学校の方で。」
「北山ですか。残念、隣の学区ですね。」
「残念?」
「ええ、こいつ春から中学生でして。そこの、光和中学の。」
「それは残念ですね。うちの夫、なかなか評判の良い先生なんですよ。」
そう言って由香はコロコロと笑った。
可愛いな、と彼はまた思った。
「由香、お客さん?」
奥からあかちゃんを抱いて男性――由香の旦那さんが顔を出した。
「あ、うちの夫です。」
由香が照れくさそうに紹介する。
どうもと頭を下げる父に合わせて彼も頭を下げた。
「隣の夏野です。」
「磐田です。草汰くんは、こないだ会ったね。」
「あ、はい…」
突然名前で呼ばれて彼はビクッとなる。
この人――磐田先生は職業柄か、一度ぼそぼそと挨拶しただけの彼の名前をしっかりと覚えていた。
「草汰くん、春から光和中学なんですって。」
「そっか、光和かぁ。僕が担任したかったなぁ。」
そう言ってはははと笑った。
由香もつられて笑う。
あかちゃんはそんな2人を不思議そうに見ている。
「あのぅ…初対面で何ですが…」
父が気まずそうに頭をかきながら話題をかえる。
「うちは、父子家庭でして。それで子供ひとりで留守番している事が多いもので、
良かったら時々気にかけてもらえたら思うのですが…」
父の言葉に、もう子供じゃないのにと彼は思った。
しかし口には出さず、ちらっと由香の方を見た。
「まぁ、そういう事でしたら喜んで。ねぇ?」
「ああ、アヤもお兄ちゃんができて嬉しいだろう。なぁアヤ?」
そう言って旦那さんはあかちゃんにキスをしようとした。
あかちゃんはその顔をぺしぺしと叩く。
「すみません。ありがとうございます。」
父がまた頭を下げる。
こちらこそ、と由香が笑う。
よく、笑う人だ。
そしてそれが似合っている。
「では、今後ともよろしくお願いします。」
「こちらこそ。」



「良さそうな夫婦だったな。」
家に帰ると、父は彼にそう言った。
「しかしずいぶん若い奥さんだったなぁ。お前の言ってたのもわかるよ。」
これは後で知った事だが、この時由香は二十四才で旦那さんとは十才以上年が離れているそうだ。
「お前も妹が出来て良かったじゃないか。アヤちゃんだっけ?」
「…うん。」
「あちらも越してきたばかりでまだ知り合いもいないだろうしな。」
「…うん。」
父の話に彼は上の空だった。
由香の笑顔が頭から離れない。
これは彼にとって初めての出来事だった。
初恋。
そんな言葉が、頭に浮かんだ。

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