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『第十二章 彼女はいつもミルクティー』

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「ふぅ…」

氷が溶けてすっかり薄くなった二杯目のミルクティーを、持ち上げただけで口も付けずにテーブルに置き、由香は喫茶店の片隅で一人、何度目かのため息をついた。
冷房が少し効き過ぎている気がする。
この喫茶店のミルクティーは由香のお気に入りであったが、二杯目はホットにすれば良かったと後悔した。
夏の日差しがブラインド越しにも眩しい。
正午を少し過ぎた店内に客はまばらで、平日とはいえ駅近くだというのに大丈夫かしらとふと思う。
少なくとも十数年は営業しているこの喫茶店は、由香の住む家とは駅を挟んで反対側に位置する。
友達との待ち合わせなどではよく利用するが、こうして一人でお茶をするのは初めてだった。

彼女は今日、友人とここで待ち合わせをして、二人で隣町へと買い物に行く予定だった。
しかしその友人の娘が突然高熱を出してしまったそうで、『今病院にいるの』と電話があったのが十五分ほど前の事。
(綾子は昔っから丈夫だから、そういえば病院ってあんまり連れてった事ないなぁ)
ふと娘の顔が浮かぶ。
今頃は昼休みだろうか?
(今日のお弁当はちょっと手抜きだったかも)
今朝作ったお弁当の中身を思い浮かべ、少し反省した。
ちらっと腕時計に目を落とす。
さっきからまったく時間が進んでいない気がする。
「ふぅ…」
由香はまたため息をついて席を立った。



店を出ると強い日差しに一瞬くらっとなる。
頬がチリチリとする。
日傘を持ってくれば良かった。
「さてと…」
そう一人呟いてはみたが、何かプランがあるわけではない。
とはいえ、せっかく新しいブラウスを着てきたというのに、このまま帰るのもつまらない。
仕方がないので、ちょっとぶらぶらして帰ろうと思った。

(すっかり夏ね)
歩き出してみると、意外と風があって気持ち良い。
セミがうるさいくらいに鳴いている。
由香は夏という季節が好きだった。
冬服は何となくかさばっていて、あまり好きでは無い。
だからちょっと暑くても、薄着のできる夏が好きだった。

(あ、この服、綾子に似合いそう)
あてもなくウィンドウショッピングで時間をつぶす。
(あれ?この曲…)
ぼんやりと道を歩いていると、ふいに聞き覚えのある音楽が耳に飛び込んだ。
由香が若い頃に流行った曲だ。
その音はちゃんとしたスピーカーや、ましてや本人による歌で無い事は明らかであった。
きょろきょろと辺りを見渡す。
すると今まで服などを眺めていた側とは道の反対側、由香から見て右手側に何人かのストリートミュージシャン達の姿が見えた。
この辺りの路上ではありふれた光景である。
(あ、あの子ね)
懐かしいメロディーを辿ると、そこには予想外に若い男がギターを弾いていた。
座っているのでよくわからないがおそらくかなり背が高いようだ。
少しウェーブのかかった長めの髪で隠れて顔がよく見えない。
由香は彼の正面、ビルの壁にもたれかかり歌の続きを聴く事にした。
もう終わりの方だったのか、曲はすぐに終わった。
小さく拍手をしながら、由香は彼の方へ近づく。
何となく、話がしてみたいと思ったのだ。
由香が目の前でしゃがむと男が顔を上げた。
「…ありがとう、ございます」
由香に気づき、男は小さく礼を言った。
賽銭箱のように置かれたギターケースをはさんで30cm。
近くで見るとなかなか綺麗な顔をしている。
若い頃の夫に似ていると、由香は思った。
「懐かしい曲ね。」
「あ、はい…」
「私が若い頃に流行った曲よ。よく知ってるわね。」
「あの…子供の頃に…」
「ああ、子供の頃に聴いたのね。」
「…はい。」
弾まない会話に、迷惑だったかなと由香は苦笑した。
そもそも見知らぬ男に話しかけるなんてらしくない。
「頑張ってね。お邪魔してごめんなさい。」
そう言って立ち上がりかけた由香に、今度は男の方から話しかけてきた。
「あの…この曲、好きですか?」
「え?うん、好きよ。懐かしい。」
「僕も…好きです。」
「よくここで歌ってるの?」
「はい…毎週。木曜は仕事が休みなので。」
「そうなの。」
由香はもう一度しゃがみ直した。
男は恥じらうように目をそらした。
「お名前は?」
「…創(そう)です。」
「創くんね。」
「はい。」
目を合わさぬままに男――創はこたえた。
日差しのせいか、彼の白い肌は耳まで赤くなっている。
「あの…ゆ…」
「なぁに?」
男が何かを言いかけてやめた。
由香は顔を覗き込むようにその続きを促す。
「…よく、ここには来ますか?」
「あたし?あたしはあんまりこないなぁ。」
「そっか…」
何故か残念そうに、男は黙ってしまった。
「ギター上手ね。」
沈黙が嫌で由香は口を開いた。
おしゃべりなおばさんだと思われてないか、ちょっと不安になる。
「上手く、ないですよ。」
「そうなの?」
「はい。あの…」
「なぁに?」
「また、聴きに来てくれますか?」
男が初めて由香の目をまっすぐ見つめ言った。
少しドキッとしてしまい、今度は由香が目をそらす。
「あら、おばさんナンパしても仕方ないわよ?」
「い、いえっ、そんなんじゃ…」
男は可哀想なくらい慌てた。
「冗談よ。うーん、そうね、またあの曲やってくれるなら来るわ。」
「やります。」
「ほんと?」
「はい。」
男の真剣な表情に、由香は少し不安になる。
(この子…どっかで会った事あったかしら?)
記憶を探ってみるが、何故か夫の顔がちらついて思い出せなかった。
「じゃあまた来るね。毎週は無理だけど。」
「はい。」
立ち上がる由香を見つめたまま、男は頷いた。
初めて彼が笑顔を見せる。
笑うとまだ子供みたいだ。
「じゃあ、またね。」
「はい。…また。」
男は遠ざかる由香の姿をいつまでも見ていた。
由香は何だか嬉しいような不安なような不思議な気持ちで家路を急いだ。
何を戸惑っているのか、結局買い物もしないまま、由香は家へと帰宅した。



(バカみたい…)
玄関で立ったまま深呼吸をすると、少し冷静になってきた。
冷静になるとさっきまでの自分が急に恥ずかしくなる。
(さてと、お昼食べよっかな)
そういえば昼食を食べていなかったと思い出し、由香は台所へと向かった。
冷蔵庫を開けると、冷気が心地良かった。
少し日焼けしたかもしれない。
(創くんか…また、聴きに行こうかな)
あり合わせの昼食を食べながら思う。
生活に不満があるわけでは無いが、新鮮な出来事が少し嬉しかった。
(ま、機会があったらね)
カレンダーは七月。
来週から綾子は夏休みに入る。
夏はこれからが本番ねと、由香は思った。
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