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『第十四章 ペーパーハニームーン』

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『またね』の言葉を信じ、あれから草汰は毎週駅前へと通った。
もう一度由香に会える事を期待して、昼少し前から夕方過ぎまで、古い歌謡曲を歌い続けた。
夏の暑さに何度も帰ろうと思いながらも、草汰は由香が現れるのを待った。
一週二週と経つうちに、鈍っていたギターの腕もだんだんと取り戻してくる。
『目的と違うじゃないか』と苦笑した。
ひと月――三十日は決して短くはないが、七日で区切ればあっという間に過ぎていく。
路上での弾き語りも八回を数えると、草汰は夏の空に秋の気配を感じ始めてた。

今年の夏は短かった。
まだ九月も始まったばかりだというのに、夕方にもなると風が冷たい。
蝉の鳴き声も、数日前からぐっと少なくなった。
夏の始まりもそうだったが、今年は衣替えが上手くいかない。
ようやくしまったばかりの長袖が、今日は恋しかった。

(今日もこないのかな…)
5時を過ぎてそろそろ帰ろうかという時、ふと由香の顔を思い浮かべる。
そこで草汰は気がついた。
(あれ…?)
由香の顔がよく思い出せない。
古い記憶も辿ってみるが、笑顔の印象以外何も浮かばない。
髪は短かったか、長かったか――昔は短かった気がするが、この間はどうだったろう。
背は低いか高いか――少なくとも今の自分よりは低いだろう。
声は?高いか低いか。
体型は?
服装は?
(だめだ…)
どうしても思い出せず、少しだけ怖くなる。
自分は今まで由香の何を見てきたのか?
(笑顔…)
不意にもう二十年以上会っていない母親の顔が浮かんだ。
もう朧気な記憶ではあるが、草汰の母はあまり笑わない人だった。
もしかしたら自分と一緒に暮らした数年、すでに父との仲は上手くいっていなかったのかも知れない。
草汰の父は穏やかな、我が父ながら出来た人間だと思う。
離婚の原因が今更ながら気になった。
(母さん…)
由香と初めて出会った少し前、草汰は一度だけ母に会いたいと父親に言った事があった。
結局会う事は無かったのだが、確かに中学生に上がる前の一時期、草汰は母を恋しく思った時期があった。
もしかしたら、赤ん坊――綾子を抱いて微笑む由香に抱いた感情は、恋では無かったのかもと不安になる。
何だか昔の自分を否定するようだった。
(もう、今日は帰ろう…)
ギターをケースにしまおうと立ち上がる。

「あれ?もう今日は終わっちゃった?」

不意に声をかけられ、顔をあげるとそこに由香が立っていた。
白いブラウスに秋色のカーディガン、デニムのロングスカートといった服装で、
片手にスーパーの袋を提げている。
化粧気の少ない顔は、切れ長の目と短めの髪が良く似合っていた。
薄い唇は、今日も変わらぬ笑みを浮かべている。
「どうかした?」
由香の言葉にはっとする。
じろじろと見て、嫌な思いをさせなかったかと目をそらした。
「すいません。」
「え?」
「ああ…いえ…すいません。」
草汰はしまいかけだったギターを慌ててケースにしまい、もう一度腰を下ろす。
何となく立って、見下ろして話すのは違う気がした。
「えっと…創くん、よね?」
「はい。」
「ごめんね、来るって言ったのに全然来ないで。」
「いえ、僕は…大丈夫です。」
「そうよね。」
草汰の言葉をどうとったのか、由香は笑って頷いた。
そして草汰の前にしゃがんだ。
近づいた顔を、もう忘れないようにと見つめる。
「何か顔についてる?」
「ああ、そうじゃないです。すいません…」
「もう、さっきから謝ってばっかりじゃない。」
「すいません…」
『ほらまた』と言って由香はコロコロと笑った。
「もう『すいません』は禁止ね。」
「あ、はい…すいません。」
「ほら。」
「あ。」
また由香が笑う。
つられて草汰も、思わず笑顔になる。
「毎週来てた?」
「え?はい。」
「来たかったんだけどね、娘が夏休みでなかなかこっちに来れなくて。」
「娘さんは…おいくつですか?」
「高校生よ。」
時の流れを草汰は感じた。
あの時の赤ん坊は、いったいどんな少女に成長しただろう。
小さい頃はとても大人しい子だった。
母親に似て、よく笑う子だと良いなと思う。
「今年は家族旅行も無かったし、こっちに来るチャンスは結構あったんだけどね。なかなか。」
「そっか…」
「寂しかった?」
冗談めかした口調で由香が言う。
「はい。」
草汰は真顔でこたえた。
本心だった。
「ねぇ、今日はもうおしまい?」
「え?」
「あの曲、聴きたかったな。」
「あ、ああ。」
慌ててケースからギターを取り出す。
「やります。」
「ほんと?ありがとう。創くんの声好きよ。」
由香の言葉に耳まで赤くなった顔をふせて、草汰は歌い出した。
四分と経たず、曲は終わった。
「やっぱり上手。」
「そんな事、無いです。」
草汰は謙遜したが、実際、前回よりずっと上手い演奏だっただろう。
あの時は楽譜を見ながらだったが、今はもう必要無かった。
由香がいつ来ても良いように、三曲に一回はこの曲を歌っていたのだ。
「この曲、ほんと懐かしいわ。」
「ありがとうございます。」
「この曲ね、旦那と出会った頃流行ってたの。うちの旦那ね、歌下手なクセによくこの歌うたってたわ。」
そう言って由香は笑ったが、草汰は少し寂しい気持ちになった。
今もあの人の良さそうな旦那さんは、あの学校で先生をしているのだろうか。
「旦那さんは、お仕事は何をされてるんですか?」
思わず聞いてしまった。
「うちの旦那?中学校の先生をしてるの。この近くのね、光和中学校で。」
光和といえば草汰の母校である。
昔は隣の学区である北山中学校にいたと思ったが、転勤したのだろうか。
「あの…」
草汰が口を開こうとした瞬間、由香が腕時計に目を落とし立ち上がった。
「あら、こんな時間。ごめんなさいね、もう帰らなきゃ。」
「あ…そうですか。」
「そろそろご飯の仕度しなきゃ。娘も家に帰って来る頃だしね。」
「あの…」
「なぁに?」
ぼそぼそと喋る草汰に耳を寄せるように、由香が顔を近づける。
おそらくもう四十歳近いであろうに、童顔気味の顔は年の差を感じさせなかった。
「あの…また、来てくださいね。」
「うん、もちろん。今度こそ約束。」
「はい。」
笑って手を振る由香に、草汰も手を振り返す。
『また来週からも通わなきゃな』と思った。



(笑顔だけじゃない)
帰り道、草汰は由香の姿を思い浮かべた。
今度は顔も髪型も、服装だって思い出せる。
(恋では無いかも知れないけど)
頭に浮かぶ由香はやっぱり笑顔だ。
笑う声は少し低めで、だけど華やかだった。
(自分が、笑顔にしてあげられたらな)
草汰は誓う。
(会いたいとは望まない、期待もしない。でも…もし会えた時は)
胸が少し高鳴る。
(必ず、笑顔にさせよう)
愛情。
憧れ。
そんな言葉達が、浮かんでは消えていった。

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